コトコト、コトコトとガスコンロの上にのせられた鍋の音だけが部屋に響く。
…気まずい。
目の前で長い黒髪を揺らしているこの女の子があのいけ好かない家庭教師の妹であることが分かってから暫くこの雰囲気のまま。
私は何を言っていいかわからなくなっちゃって黙ってるんだけど…。この子、らいはちゃんが何も言わないのは私に気をつかってくれているのだろうか。
何を言えばいいんだろう、普通ならここでらいはちゃんの兄、あの家庭教師の話題を出すべきなんだろうけど、私全く関わってこなかった、いや、私が拒絶してたから何も話せるようなことがない。
あいつに関する記憶と言えば、授業に参加させようとしてきたあいつに私が色々言っちゃた事や、家庭教師だとわかる前に五月に近づくなと釘を刺したこと、それと、それと、それと…。
全部本人の妹に言えたような話じゃあない。
本当ならここは「お兄さんにはいつもお世話になっていて~」みたいな無難なことを言って、それでなんとか話を繋げていけばいいのだろう。それで何とかなるはずだ。
…でも、出来ない。なんでだろ、出来ないや。
それは意識しての事ではなかった。ただ、それは自分勝手な意地をはって、拒絶して、酷いことも何度も言ったはずなのに諦めずに自分に向き合おうとしてくる風太郎の姿勢が二乃の心を少なからず動かしていたということの証拠なのだろう。
ただ、それも今日で終わりなのだろう。五月から、四葉から、…皆から向けられた視線を思い出し体が震える。あの怒りに満ちた目、自分が悪いんだと、そのことを叩きつけられた様なあの衝撃。
…気づかされたんだ。私は、いつの間にか自分の事しか考えてなかった。皆があいつの周りで楽しそうに笑っているあの光景を見れば、あいつがいたほうがいいなんてこと直ぐに分かったはずなのに。
嫌われちゃったかな。多分、ううん、絶対そうだよね。こんな自分勝手な子なんてみんな嫌だよね。
…あいつももう、私の事なんて嫌になったよね。
もう、皆と笑えないのかな。あの楽しそうな輪の中に、まるでママがいた頃みたいに皆が笑ってる輪の中に私はいないのかな。
思考はどんどん悪い方向に転がっていく。坂道を転がり落ちる球みたいに加速して、時間がたてばたつほど嫌な想像が浮かんでくる。
もう、私なんて“いないほうがいい”んじゃないか────
パンッと乾いた音が部屋に響き渡り、ついでに思考の海に溺れそうになっていた二乃をすくい上げた。
その音に驚いて、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げると、腕まくりをして手を叩いた後だからか両の手のひらを合わせたらいはちゃんがこちらを見つめていた。
「二乃さんっ!」
「な、なに!?」
ガバッという効果音がぴったりな程の勢いで立ち上がって自分を呼んだらいはちゃんの勢いについつられてしまった。
きっと今の私は何が何やら、みたいな顔をしていることだろう。
そんな私を見てらいはちゃんはふっと表情をゆるめた。
「…なにがあったかは聞きません。どうせお兄ちゃんがなにかやっちゃたんでしょう。
とにかく今は!ご飯を食べましょう!あったかいご飯を!それで今日は泊まっていってください!」
「え、あ、あの…。」
「今日はカレーですよ!はいっ、そこに置いちゃってください!」
「あの、お父さんの許可とかは…。」
「だいじょーぶですよそんなの!」
そんなわけない、そして自分みたいなのがそんなにお世話になるわけにはいかない、とそう言おうとしたとき、扉の開く音とともにらいはちゃんの父親が帰ってきた。
「たでーまー、らいはー、もういいかー?」
「あ、お父さん!二乃さん泊ってもいいよね?」
「おー、いいぞー!」
「えっ?ちょ、ちょっと待ってください!」
「あ、お父さんスプーン出して!」
「おう、分かった。」
「あの……。」
「美味しい?二乃さん?」
…美味しい。なんだろう、作ってるところを見ても、食べてみても特別な味付けなんてしてないし、別に高級な食材を買ってるわけでもなかった。でも、美味しい。
暖かいんだ、まるで、まるで───
ママがつくったカレーみたいだ。
『お母さん、おかわり!』
『…五月、そんなに欲しいなら私のあげる。』
『三玖、ダメだよそれくらい全部食べなよ!』
『そうよ!…五月も食べすぎじゃない?』
『…む、いつもこっそりピーマン残してる四葉に言われたくない。』
『うぇぇ?なんでばれたの?』
『三玖、四葉も。残さないで食べなさい。…それと一花、野菜を二乃の皿に移そうとするのをやめなさい、ばれてますよ。』
『え?えへへ…、って痛い!いたいいたい!』
ぽたっ、と雫が床に落ちた。
「…あれ?」
「に、二乃さん!?どうしたんですか?」
「ううん、なんでもっ、ぐすっ、ないわよ…。」
笑ってごまかそうとしたけど、上手くできただろうか。いや、出来てなかっただろう。そんなことは心配そうにこちらをのぞき込んでくる顔をみればわかる。
懐かしくて、恋しくて、胸が締め付けられるような気がした。どうして私はあんなことをしちゃったんだろう。
気に入らなかったからだろうか。なら何で気に入らなかったのだろう?
妹たちに近づいてくる嫌な奴だと思っていたからだろうか。いや、そんなことは最初の方にそうでないことはわかってた。
…なら何で?
──認めたくなかったから。ママがいたときみたいにあいつを中心にして皆が笑ってる、そんなところを見たくなかったから。
そこは、ママの場所なんだから。
“なにも知らないくせに、なにもなくしたことなんてないくせに!分かったような顔してこないでよっ!”
少し前に自分があの家庭教師にぶつけた言葉がよみがえってくる。そうだ、私はママ以外があそこにいるのが嫌だったんだ。
いつでも優しくて、何でも知ってて、凄く綺麗なママは私の憧れだった。目標だった、…大好きな、人だった。
そんなママを亡くした私の、私たちの事なんてあいつに分かりっこない、そう思ったんから。私みたいに懐かしむことしかできない訳じゃない、そんな奴に踏み込んできてほしくない。
そうだ、これは嫉妬だ。私は一人で勝手に嫉妬して、意地を張って、拒絶して。…馬鹿みたい、それで皆に嫌われてしまった。ふ、と自嘲気味の笑みが漏れる。
でも、でもあいつには、…貧乏だけど、こんなに可愛い妹がいて、私たちには居なかったお父さんまでいて、お母さんも──
そこまで考えて思考が止まった。そういえば、ずっとこの家のお母さんだけ見当たらない。
「…らいはちゃん、お母さんって、今日はいないの?」
そう聞くと、らいはちゃんは一瞬目をしばたたかせて、次に困ったように笑った。
「二乃さん、私のお母さんは──」
もういないんです。
一瞬何を言われたのか分からなかった。だってそんなこと考えもしなかったから。「お兄ちゃんが小さいときに亡くなって」と続けるらいはちゃんにもうやめて、と叫びたくなる。
だって、だってそれじゃあ。私が言ったことは、全部、ぜんぶ。
「あ、あぁ……。」
あいつもなくしてた、同じだった。分かってたんだろう、私たちの状況も、どんな気持ちなのかも、あいつは分かっていたんだろう。あいつのおかげで皆楽しそうに笑うようになって、それなのに私は拒絶して、嫌なこともたくさん言って、あまつさえ不幸自慢みたいな、ことを。
もういない人の事をまるでいるように、そのことであんなふうに言われたらどう思う?
耐えられない、耐えられるわけが、ない。
「あやまら、なくちゃ。」
自分が立っていた地面が急になくなったような、そんな感覚におそわれる。私の言ったことはどれだけあいつを傷つけただろう。私はどれだけ、心無い言葉を吐いていたのだろう。
とにかく謝らなければいけない、その思いに体を突き動かされ、立ち上がって扉の方に向かおうとしたが、それはならなかった。がっしりとその手を掴まれて阻止されたからだ。
「二乃さんっ、落ち着いて!どこに行くっ、つもりですか!」
「あやまらなきゃっ、私、わたし酷いことを、たくさん──」
「二乃ちゃん」
冷静さを失って無我夢中で動こうとする私を止めたのは、どこか聞き覚えがある低くて優しい声だった。
「落ち着きな、そういうのは明日にすりゃあいい。何があったのかも話したいなら話せばいいし、嫌なら黙ってりゃいい。
とにかく今日は夕飯食べて、思いっきり寝とけ。」
その言葉とともにぐしゃぐしゃと頭を乱暴に撫でられた。そのせいで髪がぐちゃぐちゃになってしまう。普通なら怒っているところだが、今はその荒っぽさが少しありがたかった。
…話さなければいけない。きっとこの人たちも私を嫌いになるだろう。でも、この人たちの家族に酷いことをしてしまったんだから。
「きいて、くれますか。」
涙を拭い、二人に向かって膝を正した。
「なるほどなぁ…。」
「………。」
全部話した。私が言ってしまったことや、取ってしまった態度も全部。
「皆からも嫌われてしまいました。本当に私は、わたしはっ!」
きっと嫌われてしまっただろう、軽蔑されただろう。そうなっても仕方ないんだ。だってそれだけの事をしたんだから。でも、そうなったら、なってしまったら。
──私はどこに行けばいいんだろう?
「二乃さん。」
さっきから黙ってしまっていたらいはちゃんが口を開いた。なにを言われるのだろう、そう考えると身がすくむ。自然と顔が下を向いてしまう。
「反省してるんでしょ?謝りたいんでしょ?」
「…うん。」
「ならいいよ!きっとお兄ちゃんも五月さんたちも二乃さんのこと嫌いになったりしてないし!」
「そんなはずっ。」
嫌われてないはずがない、らいはちゃんはいいと言ってくれた。…きっととても優しいのだろう。そして、その兄のあいつもきっとおなじくらい優しかったんだ。…でも、私はその優しさを踏みにじり続けたんだから。
「あ~、二乃ちゃん?勘違いしてるみたいだから言うが、絶対嫌われてないぞ?」
その言い方は、否定しようとしてもできない程確信に満ちていて、いい返すことが出来なかった私は首を傾げた。なにか、そう言い切れる理由があるのだろうか。
「嫌いなやつを汗だくになって必死に探したりはしないよな、あいつ運動は出来ないのに随分走り回ったみたいだぞ?」
「……え?」
探してた?私の事を?
「ショートカットの子も一緒だったぞ、随分心配してるみたいだった。
…ほら、嫌われてなんてねぇだろ?」
一花まで、私を、心配して探してくれてた?あんなこと言っちゃたのに、酷いこともしたのにっ!
…あいつも、皆も、私を嫌いになんてなってないの?
「よかっ、た。」
「ん?」
「よかったよぉっ、ぐすっ。」
「…はは、良かったなぁ。」
本当は怖かったんだ、謝るときに、またあの視線を向けられると思うと本当に怖かった。「お前なんか嫌いだ」という感情を皆から、あいつからぶつけられるかと思うと足がすくんでしまってた。
安心した、全身から力が抜けた。きっとらしくない程泣いてしまっているだろう。
…皆も、あいつも私の事を嫌いになってない。本当に、本当に良かった。そうだったら良いと思っていても、あるはずがないと切り捨てていたから。
でも、だからといって私のしてしまったことがなくなるわけではない。
…ちゃんと謝ろう、今までの事を全部。
そしたらあの授業に入れてくれるかな?
…また、皆と笑えるかな?
「…なあ。」
「なにー?」
背中にのせてから、別に走る必要がなくなっても降りなくなってしまった一花に声をかける。なにー?じゃねえよ自分で歩け。
「いつも料理は二乃がやってるんだろ?夕飯どうすんだ?」
「あ…、どうしよ?」
「はぁ、やっぱりか。材料買って帰るぞ、そうだな…、カレーでもつくってやる。」
「え?フータロー君料理出来るの?」
「カレーしかできないけどな、だからスーパーよってくか。」
「はーい!」
「あとお前は早く降りろっ!」
「いやーだっ!」
「やだじゃない!」
遅くなってしまい、申し訳ないです。とりあえずやっとまとまった時間が取れたので今まで書き溜めていたものを一気に上げたいと思います。とりあえず現時点で23話まで出来ているのでそこまでは。