もしも歳が離れていたら   作:夕暮れの家

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2話

その少女──中野五月にとって、勉強ができる、ということはそれだけで憧れの対象になるほど、大きなことであった。

 

それは、彼女の母親が教師だったことが強く影響しているだろう。

 

彼女にとって母親は、大好きな存在であり、憧れであり

 

──そして、もう手の届かない所に行ってしまった自分の理想である。

 

今から1年と少し前、いつも通りに姉妹達と学校から帰り、「ただいま」と言った彼女の目に飛び込んできたのは、

 

「お帰りなさい」と暖かく出迎えてくれる声ではなく

 

 

──床に倒れた最愛の母親の姿だった。

 

「お母さん、お母さんっ!

 目を開けてよぉ!」

 

「一花、早く救急車呼んで!」

 

「う、うん!」

 

「お母さん…、嘘だよね?」

 

「お母さんっ!私、まだ何も返せてないよ

 役に立てて無いよ!行かないでよぉ!」

 

その後、救急車に運ばれて行った先の病院で、医師の奮闘もむなしく、亡くなってしまった。

 

五月はあの時の事を、一年以上たった今でもまだ鮮明に思い出す。

あの、母親が亡くなる直前に少しだけ意識を取り戻し放った言葉を。

 

「ごめんなさい…、私はまだあなた達に教

 なければいけないことが沢山あるのに。

 

 でも、もう一緒には居れないようだから

 

 ごめんね、

 一花、二乃、三玖、四葉…、五月。

 あなた達は────」

 

 

幸せになってね

 

声は聞こえなかった、でも姉妹で誰一人それを理解しないものはいなかった。何故か、聞こえないはずなのに、聞こえたのだ。

 

──それが母親の最期の言葉となる。

 

その後のことは良く覚えていない、気づいたら次の日の朝で、周りには4人の姉達が寝ていた。

その時はまだ寝惚けていて、現状を整理できていなかったのだろう。何故こんなに早く目を覚ましたのだろうと寝起きの頭を振りながら居間に母親の姿を探しに行って──

 

母親の代わりに待っていた空っぽの部屋に、現実を突きつけられた。

あぁ、もうあの声で

 

「おはよう」も

 

「行ってらっしゃい」も

 

「お帰りなさい」も

 

「お休み」も

 

…「ありがとう」も

 

聞くことはできないんだと、思い知らされた。

 

「うぅ…、あぁぁぁ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 

 おがあさぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 

 

またあの声で自分の名前を呼んで欲しかった

 

もっと褒めて欲しかった。

 

もっと色んなことを教えて欲しかった。

 

そのどれもがもう叶わない。まだまだ母親にべったりだった五月にとってはそんな現実はあまりにも重すぎた。

 

 

 

 

 

泣きつかれてふらふらと寝室に戻った五月の目に入ってきた光景は、いつもの姉達のの寝相の悪さが遺憾なく発揮された光景ではなく、何処か寂しそうな表情をして、互いに寄り添って眠る4人の少女の姿だった。

 

それを見た五月の胸に生まれたのは、

一つの決意。

 

“私が…、私が皆を守らなきゃ。

私がお母さんになるんだ。”

 

それは、姉妹の中で一番母親が好きで、いつも一緒にいた五月だからこそ、出来たことな

のかもしれない。

 

それから五月は常に“母親”を意識した立ち振舞いをするようになった。

 

話し方も変えた、誰に対しても、それこそ姉妹に対してですら、敬語で話すようになった。

 

そして何より、勉強に打ち込むようになった。それは母親の最期の言葉を聞いてのことだ。

 

“お母さんが教えられなかったこと全部、私が頭が良くなって皆に教えるんだ。”

 

しかし、五月の成績は伸び悩む。それは生来の不器用さが邪魔した結果であり、今まであまり勉強などしてこなかったつけでもあった。

 

彼女達がそれまでいた学校は普通の小学校であり、そこまで勉強を必要としてなかった、ということもあった。

 

テストもたまには有るものの、難しいものではない。授業を聞いていれば、半分くらいは取れるような簡単なものだったのだ。

 

しかし、それは今の父に引き取られて転校した先では通用しなかった。

授業が難しかったのだ、単純に。

 

それは五月がついていけるようなレベルでは決してなく、それは彼女の姉達も同様であった。

定期的にあるテストも難しく、それで点数をとれない彼女達は周囲から馬鹿にされた。

 

いや、正確に言えば口に出して言われているわけではないのだ。別に苛められるわけでもなく、友達として喋らないわけでもない。

それでも分かるのだ、周りの目は確かに自分達を馬鹿にしている、と。

 

それに対する姉妹の反応はそれぞれだった。

 

自分は馬鹿だからと言って笑って諦める者

 

勉強よりも交友関係を、姉妹を大事にしようとする者

 

どうせ自分なんかといじける者

 

母親を失った悲しみから立ち直れず、未だに塞ぎこんでいる者

 

結局諦めずに勉強を続けたのは、五月だけだった。小学2年生の途中から、何を思ったのか勉強に熱心に取り組んでいた四葉でさえも、塞ぎこんでしまい部屋から出てこない。

 

 

そんな状況でも、五月は折れなかった。折れるわけにはいかなかったのだ、何故なら自分は“母親”なのだから。

 

分からないところは積極的に教師に質問に行った。それこそ理解できるまで、何度も、何度も聞いたこともある。

 

…そうしているうちに、段々と教師が自分を避けているように感じることが増えた。

 

質問に行っても大抵何か他のことをやっている。聞けたとしても、理解が遅いとあからさまに呆れたような顔をされ、時にはため息すらつかれることもあった。

 

そして聞いてしまったのだ、職員室にその日の分からなかったところを質問しに行ったとき、教師同士の会話が部屋の中から聞こえてきた。

 

「あの中野…五月だったかな?

 あの子、いつも簡単な所ばかり聞きに来

 て、正直もうそろそろ迷惑なんだよね。」

 

「そうですよね、それに理解が遅いから何

 回も同じ説明をしないといけないじゃな

 いじゃないですか。

 凄い時間とるんですよね、あれ。」

 

「それに結局テストでは出来てないしな。

 やっぱり元がダメならいくらやっても

 ダメなんだよな。」

 

「違いないですね、はははは!」

 

五月は無言でノックしかけた手を下ろし、教室に戻った。

悔しかった、悲しかった、そして何よりそれだけ言われても何も言い返せない自分が…

情けなかった。

 

「お母さん…私はどうすれば良いですか?」

 

お母さんの代わりになると誓ったのに…、私は何もできていません。

先生にすらあんなことを言われてしまいました。

…私には、無理なのでしょうか?

っ!いいえ、こんなことを考えてはダメです。

先生が無理なら、先輩に教えてもらいましょう。幸いこの学校は小中高一貫です、頭の良い人も沢山いるでしょう。

そうです、それがいいです!

 

そう思いつき、行動に移した五月だったが…返ってきたのは、教師以上に辛辣な言葉の数々だった。

 

「あなた、こんな問題も解けないの?

 それなら見込みなんて無いわ、さっさと

 学校辞めたらどうかしら?」

 

 

 

「理解が遅すぎるわね、これでは何かの

 奇跡で中等部に進めたとしてもすぐに躓

 くわよ、早く辞めた方が身のためね。」

 

 

 

「あはははは!こんなに馬鹿な人初めて

 見たわ。ねぇ、どうすればそんなに頭

 悪くできるの?」

 

 

頼む人頼む人皆に馬鹿にされ、見下され、嘲られ…

無理に奮い立たせていた五月の心はもう、吹けば折れてしまうほどに弱りきっていた。

 

それこそ、後一度でも同じような言葉を掛けられていたら、折れてしまっていただろう。

 

中等部ではもう無理だと悟り、向かった高等部。食堂で職員に成績優秀者は誰か分かるか、と聞いて指差されたのは、一人で食事をしている背の高い男子だった。

 

“女の人じゃないんだ…”

 

最初に思ったのはそれだった。

五月にとって男性との会話は、転校前の学校で少し話したことがあるくらいで、年上に至ってはほとんど経験が無いのだ。

 

“少し…怖いですね”

 

その男子が目付きの悪い方だったのも原因しただろう。少し尻込みしてしまったが、どうにか勇気を出して声をかけた。

 

「あ、あのっ!」

 

─────────────

 

最初は気づかなかったのか無視されてしまったが、もう一度声をかけると気づけてくれた。

慌てて色々変なことを口走ってしまったような気もするが、今までの人のように自分を馬鹿にするでもなく何も言わずに、静かに自分の話を聞いてくれた。

 

だからだろうか、言うつもりの無いことまで言ってしまったのは

 

「だからっ、あなたに、あなたにも断られたらっ、もうっ!」

 

零れ出てしまった本音だった、助けて欲しいという悲鳴だった。この人に見捨てられたら、もうダメだと心の何処かで分かっていたのかもしれない。

 

「…分かった、教えてやるよ。」

 

その言葉が聞こえてきたとき、一瞬その意味が分からなかった。だが、ちゃんと理解出来ると、嬉しさが溢れてきた。

きっと端から見ると可笑しいくらいに笑っていたのではないだろうか。

 

…思えば、心から笑ったのは母が亡くなってから初めてのことだった。

 

 

その後、名前を教えてもらい、今日から教えてもらう約束をして彼とは別れた。

 

“上杉君…上杉君ですか”

 

喜んでいる自分をみて、彼は微かに笑っていた気がする。

 

…呆れられてしまったでしょうか?

 

もし彼にまで見捨てられたら、そう思うと何故だかひどく悲しくなる。

でも、彼なら大丈夫と、そんな気がするのだ。

「それでは、宜しくお願いします。」

 

「ああ、宜しく。」

 

放課後、俺は約束通りに図書室に来ていた。

目の前には自分の勉強道具を広げ、張り切っている五月がいる。

…やる気出してるとこ悪いんだがそれはしまってもらわなきゃな。

 

「教える前に、どれぐらいの学力か知りたいから、このテストをやってもらうぞ。

合格点は…そうだな、60、いや、50点あれば良い」

 

「分かりました」

 

さて、成績が振るわないとは言っていたが、どの程度のレベルなのやら…。

 

 

 

 

 

「採点終わったぞ、点数は…

 …22点だ。」

 

「ううぅぅぅぅぅ、ごめんなさい…。」

 

 

 

 

図書室で勉強を始めようとすると、彼はテストをすると言った。何でも私の学力の程を知りたいらしいのだ。

それを聞いたとき、私はとても怖くなった。

 

“このテストで点数が悪かったら上杉君も私を見捨てるのでは?”

 

と、そう思ってしまったのだ。

彼は大丈夫だ、一部では思っていても、教師や先輩に向けられた視線が、投げつけられた言葉が、それを確信に変えてくれない。

 

彼は合格点は50点だと言った、ならそれ以上の点数を取れば大丈夫だと、自分を無理に納得させてテストに挑んだものの…

 

 

 

結果はその半分にも満たないという酷いものだった。

 

顔をあげることができなかった。彼の顔をみるのが恐かった。あの静かな夜空のような目に、自分を嘲るようないろが浮かんでいると想像しただけで、身がすくむような思いがした。

 

「ごめんなさい、ごめんなさいぃ…」

 

「あぁ、それじゃあ──」

 

「ごめんなさい!もっと頑張るから、

 頭良くなるからっ、だからっ!」

 

 

──私を見捨てないで

 

 

そんな悲鳴は、言葉になる前に消えた。

ぽん、と軽い、それでいて暖かい重みが、頭にのったからだ。

 

「……ぇ?」

 

 

その重みは、ゆっくりと五月の頭を撫でていた。まるで壊れ物を扱うような、ぐずる子供をあやすような、優しい手つきだった。

 

「大丈夫、大丈夫だ。

 …その、勉強出来るようになりたいから

 俺のところに来たんだろ?

 

 なら今出来なくても気にしないで良い。

 大丈夫だ、見捨てたりしないさ。」

 

見上げるとそこにあったのは、困ったように笑いながらも、優しさを目にたたえた彼の姿だった。

 

──あぁ、大丈夫なんだ

 

気づけば涙が溢れていた。これほど心から安心出来たのは、母が亡くなってから初めてのことだった。

 

「ど、どうした?大丈夫か?」

 

そう言って慌てる彼の姿がおかしくて、でもそのせいで手が離れてしまったのが寂しくて、全く似ていないのにまるで母のように安心できるその暖かさが恋しくて

だからだろうか、口からぽろりとこぼれだした言葉があった。

 

 

 

「………お父さん?」

 

 

 

 

 

点数を伝えたら取り乱してしまった五月に少し困惑する。

…怒られると思ったのだろうか?それとも、俺に見放されるとでも思ったのだろうか。

 

目の前で泣きそうな様子で謝る五月を見てられなくて、気づけば妹を慰めるときのように頭を撫で、声をかけていた。

 

一瞬びくりと震えて、おそるおそるといった様子で顔をあげてくれた五月は、安心したような顔をして──、次の瞬間静かに泣き出してしまった。

 

「ど、どうした?大丈夫か?」

 

何かやってしまっただろうか?そう思い慌てる俺に、更なる混乱が襲いかかった。

 

 

「………お父さん?」

 

「……え?」

 

一瞬何を言われたか分からなかった。

すぐに自分が何を言ったか理解したらしい五月が慌て始め、それにあわせて再起動する。

 

「すすす、すみません!

 今、何てことを言ってしまったのか!」

 

「…落ち着け、何でそんなことになったか

 は聞かないが…。

 その、お父さんは勘弁してくれ。」

 

「…そう、ですよね…。」

 

そう言ってしゅんとする五月。自分では無自覚なんだろうが…、何故だかこちらが悪いことをしているようで落ち着かない。

 

「えぇ~っと、その、なんだ。」

 

「?」

 

「まぁ、他の呼び方なら、別に…。」

 

そう言うと、ぱっと表情が明るくなる。

自分でもつくづく甘いなと思う。いつからこんなに年下に弱くなってしまったのだろうか。

 

「……お兄ちゃん。」

 

「は?」

 

「お兄ちゃんって呼んだらダメ…ですか?」

 

「…まぁ、たまにならな。」

 

随分と予想外な呼び方をされてしまったが、嬉しいそうにしているこの子を見ていると、ダメとは言えなかった。

…何か事情があるんだろうな。

そうは思うが、他人である自分が踏みいる訳にはいかない。

 

そんなことを考えながら、嬉しそうに笑う五月に声をかけ、テストの復習を始める。

 

「宜しくお願いしますね、お兄ちゃん!」

 

「…あぁ。」

 

何かに必死で、それでいて危うくて、少し押せば折れてしまいそうな少女だ。

そんな子が、今は笑ってくれている。

それが嬉しくて、風太郎はほんの少し、笑みを溢すのだった。

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