「風太郎君!遅いですよー!」
「ぜぇ、ぜぇ…、し、死ぬ…。」
こちらは疲労で死にそうになってるのに、その元凶となる殺人的ハイペースを生み出した本人は目の前で元気に跳ねている。
その頭で揺れているリボンを引っこ抜いてやろうかとも思ったが、今はそんな元気もない。
勘弁してくれ、ただでさえ昨日のことのせいで筋肉痛なんだ。と口にしようかとも考えたが酸素の足りない脳みそを精一杯回してやめた。
代わりに朝っぱらから走ることになってしまった原因となる自分の軽はずみな発言を後悔することに決めた。
迂闊に返事をした昨日の自分に怒ればいいのか、それともわざわざ朝っぱらから家に押し掛けやがった四葉を呪えばいいのか。
取り敢えず今はそんなことを考える元気もない。
普段運動しないにもかかわらず二日連続で重労働を強いられている足の筋肉が先ほどからしきりに悲鳴を上げているという事実からはもう少しだけ目を逸らすことに決めた。
「本当に体力ないんですね…。」
「だから…、ぜぇ、言っただろ…、はぁ…。」
公園で一旦休憩という話だったので倒れ込むようにベンチに座り、天を仰ぐ。
「あの、ごめんなさい…、無理をさせたかった訳じゃないんです。これ、飲んでください。」
「あぁ、悪いな…。」
四葉が手渡してくれたスポーツドリンクをあおる。
生き返り…、はしないが少し楽になった。
もう日陰になっているこのベンチから動きたくないと疲れた頭でそう思っていると、隣に四葉が座ってきた。
「風太郎君、風太郎君は家庭教師ですよね…?」
「…?あぁ、そうだが。」
「じゃあ、何で勉強以外も色々してくれるんですか?」
「勉強以外?そんなこと…。」
いや、思い返してみれば沢山やっている。それに夏休み終わりに林間学校の手伝いも控えている。
しかし、何でそんなことをしているか、か。
「風太郎君は優しいです…、私も、皆もそれに甘えてばっかりです。
無理して、ないですか?」
「今お前のせいで無理したところだよ…。」
「す、すみません!でも、そうじゃないんです。
…お母さんは、無理して倒れちゃいました。」
この子達の母親のことはよく知らない。話してはくれなかったし、自分から聞くべきことではないと思っていたから。
でも、今の言葉でほんの少しわかった気がする。こいつらは五人もいる、年代が別々ならまだしも五つ子だとその世話の忙しさは言葉には言い表せないほどだっただろう。その育児の疲れが死因の一つだったのだろうか。
あんな金持ちの父親がいるのにどうして、とは思う。
だが、もしそうだとしたら隣で不安そうに瞳を揺らして此方を窺っている子は、俺が同じようになってしまわないか心配しているのだろうか。
優しい子だ、そして思い込みが激しい子だ。あの日の京都でも、この子は転んで傷ついても歯をくいしばって前に進もうとしていた、母親に元気になってほしい一心でだ。
「倒れるわけないだろ、お前の母親とは苦労の量が違う。俺はいつもお前らと一緒にいる訳じゃないからな。」
「でもっ!…でも、最近少し疲れた顔してました。だから私は、もっと、良い子に…。」
「良い子だったら朝家に押し掛けて走らせたりせんぞ。」
アホな事を抜かす奴の額にデコピンをくらわせてやった。
この子は変に一人で抱え込みすぎる。前だって抱え込んで、塞ぎこんで、性格まで変わってたじゃないか。
「お前もあいつらもそのままで良いんだ。ちびっこが変な気まわしてんじゃねぇよ。」
「でもぉ…、もし風太郎君まで倒れちゃったらっ!また、また前みたいに皆悲しくなっちゃう!せっかく皆楽しそうに笑うようになったのにっ!
…無理、しないでよぉ!」
すがり付くように、しかし遠慮がちに片方の手だけでほんの少し服を握ってきた手は震えていた。
俺が無理しているように見えたのだろうか。昨日こいつらの前で疲れて寝てしまったのが悪かったのかもしれない。
不安にさせてしまった。確かに夏の暑さにやられて疲れた顔もしていたかもしれない。
「…大丈夫、大丈夫だ。」
あぁ、こんなとき何て言えば良いんだろうか。不安で押し潰されそうになっている子を安心させるにはどうしたら良いんだろうか。
リボンの形をくずさないようゆっくりとその頭を撫でてやる。
昔らいはがぐずったときはこうすれば泣き止んだんでいた。記憶にある妹よりもずっと大きいが、段々と強ばっていた体から力が抜けていくのは同じだな。
「なぁ、四葉。…お前らの母親の事、聞かせてくれないか。」
「なんでですか?」
「大好きな母親なんだろ、知っておきたいんだよ。」
「…うん。」
四葉は話してくれた。大好きな母親のこと、教師だったんだ。厳しくて、いつも正しくて、かっこよくて、でも綺麗で。
とても優しい人だったらしい。
あまり笑わないけど、たまに笑ってくれるととても嬉しかったんだと泣き笑いのような表情で話してくれた。
「大好きだって沢山伝えられたんです、私もですよって笑って返してくれたんです。
…風太郎君のおかげですよっ!君が、言ってくれたからっ。」
母のことを語るこの子の目は輝いている。もっと、もっと母には良いところがあるんだと、もっと凄いんだと言葉を探している。
確かに、あの時京都で俺は言った。俺の様に成ってくれるなと願いを込めて約束をした。
あの約束はこの子を縛るものになってしまっていたけど、言葉は届いていた。
俺の様に、言えなかったと後悔なんてしていない。
それがたまらなく嬉しかった。
「…あぁ、会いたかったなぁ。きっと、素敵な人だったんだろうな。」
「はいっ!お母さんは凄い人です!今度家にある写真を一緒に見ましょう!」
「そりゃあ良い、よっ、と!」
勢いをつけて立ち上がる。そろそろ帰らなきゃならん。らいはが朝御飯つくって待ってるんだ。
「四葉、俺が何でお前らの面倒見てるかだったな?」
「は、はい!」
「危なっかしくて放っとけないからだよ問題児どもめ。ほら、早く帰れ。
お前が俺の心配なんて10年くらい早い。」
「むぅ!何ですかその言い方!」
「また、後でな。」
「…ッはいっ!また後で!」
手を振ったあと背を向けて歩き出す。最後にあの子は笑ってくれた。
「風太郎君、ありがとうございます!
だ、大好きですよ!」
「…そういうのは本当に好きなやつに取っておけ。」
背中に勢いよく引っ付いてきたやつを引き剥がす。
能天気に笑いやがって、俺もお前も結構汗かいてんだぞ。暑いんだよ。
「…違うのに。」
小さく呟いた声はきっと届かなかった。だって、風太郎君は変わらず面倒そうな顔をしてたから。
困ったとき、悲しいとき、…私が助けて欲しいって叫んだときにいつも隣に来てくれる人だ。
これ以上言ったらきっと風太郎君を困らせちゃう。だから…、今は、まだもうちょっとこのままで。
「風太郎君!私、頑張りますよ!」
「何をだよ…、良いから離せ。」
いつかきっと、君の隣に立てますように。