部室の灯りが点いている。扉の上部の磨りガラスからは曇った光が漏れていた。
(こんな授業中に珍しいな……)
佐原灯馬がドアを開けて中に入ると、中央に固めて置かれた長机と壁を埋め尽くす本棚が自然と目に入った。
昔はディケンズ研究会とかいう主にイギリス文学を研究する団体の部室だったらしく、壁は背の高い本棚に覆いつくされている。天文部の部室になってからは、歴代の部員たちがそれぞれ好き放題使っていたようで、小説や漫画、ブルーレイなどが大量に並んでいる。
「あ、どもです、佐原先輩」
と、窓際のほうから声をかけられる。
そちらに目を向ければベージュのカーディガンを羽織った女子がパイプ椅子に腰かけていた。顔に合わない野暮ったい黒縁眼鏡が今日とてうさんくさい。二週間ほど前に入部した新入生だった。
「よう、仁科。サボり?」
一応訊ねた灯馬だったが、答えを聞くまでもない。少女は漫画を片手にだらけた様子でひらひらと手を振った。早くも部室に馴染んでいる。
「ええ、せっかくなのでバックレです。体育なんて一人くらい居なくてもわかりやしませんよ」
なにがせっかくなのか灯馬には分からなかったが、この能天気に笑みを浮かべる後輩女子にはひとつだけ忠告しておくべきことがあった。
「電気」
「?」
後輩は首をかしげた。
「素人め。次から電気は消しとけよ。これじゃ人がいるって外から丸わかりだ」
これまでの経験上、授業中にこの文化部棟まで教師の見回りが来たことはなかったが、念のためにドア横のスイッチに触れて明かりを消す。まだ昼間なので電気を消しても明るさはさほど変わらなかった。
「おっと失敗……にしても手慣れてますね?」
仁科――仁科果歩は愛想の良い笑みを浮かべた。
どうも妙な後輩だ、と灯馬は思った。
ひょっこり見学に来てそのまま居ついた新入生だ。天文部は大した活動はしていないのだが、それが逆に気に入ったらしい。どうやらマイペースな気質があっているようだ。
話は合うらしく、今のところ特に話題に困ることはなかったので灯馬としては気まずさを感じることはなかった。
「ところで先輩」
と、テーブルを挟んだ向かいで本を読んでいた果歩がおもむろに口を開いた。
「漫画とか読んでて唐突に安易な『のじゃロリ』キャラ出てきたら殺意沸きません?」
「その沸点の低さなんなの?」
灯馬はあきれたように後輩女子を見やった。後輩は読みかけの本をパタンと閉じると、やや不満げに口を尖らせて言う。
「だって先輩。幼女が語尾に『なのじゃ』付けただけって、かなり鬱陶しいですよ。仮にも長年生きてる設定ならそのガバガバな老人ロールプレイをもっと見つめ直すべきです」
「ロールプレイて」
まためんどくさい事を言い出したな、と灯馬は内心ため息をついた。この少女がこういう顔をしているときは大抵しょうもない難癖だ。
「馬鹿だな。そういうのって絵で売ってる感あるから、最悪キャラ絵が可愛ければ喋り方なんて何でもいいんだよ」
心底どうでも良かったので身も蓋もないことをのたまう灯馬だったが、
「え、じゃあ美少女キャラの語尾に『インダス文明』とかくっついてても許せます? 『わたくし、初めてお会いした時から貴方のことをお慕い申し上げインダス文明』」
「もはやロールですらない。呪いかなにか?」
「たぶん古代人ですね。さりげなく出身をアピールしてますよこれは……」
神妙な顔つきでのたまう果歩。胸焼けしそうなくらい露骨なキャラ付けだった。
「微塵もさりげなくないが。てか語尾をキャラ付けの骨格に使うのは……いや待て、本質的に『安直な語尾のロリババア問題』とそう変わらないのか……?」
灯馬はべつに『のじゃロリ』に理解があるというわけもない。それは言い出しっぺの後輩も同じだったらしく「さあ?」と、首をかしげた。
「あんま関係ないですけど、理系とか理系もどきの人って句読点のかわりにコンマピリオド使いがちですよね。超読みにくい」
「理系出身アピールしてるとかじゃないんだよ、それ。マジで全方位に噛みつくのやめろ」
「そんな人を狂犬みたいに……。あ、そうだ。理系の人たちって異世界飛ばされても絶対『ステータスオープン!』とか言わなそう」
「え、なんで?」
「だって、ああいう人たちってゲームでも最初に設定画面開きそうじゃないですか。あとこだわりが強い。なのでたぶん叫ぶならこうですよ。『UIがクソ!』」
「偏見過ぎる……」
灯馬は神経質そうな銀縁眼鏡をかけた理系風の男が『コンフィグ!』だとか『オプション!』などと必死に叫ぶのを想像してなんとも言えない気持ちになった。あるいはプログラマーならば『インフォ32!』とでも叫ぶのだろうか。馬鹿げている。
「そもそもステータス制ってなんだ? ファンタジーなのにゲーム感覚なのか。それともゲームの中に入ってる設定なのか?」
「さあ? 世間でそういうものだと受け止められている以上、気にしたら負けな気がしますが……」
「負けってなんだ……というかほんと異世界系増えたよな」
「あんま興味なくてもCMとかでもよく見かけますしね」
「王道になったよな。妄想のシチュエーションにしても市民権を獲得した感ある。ついこのあいだまでは『突然テロリストに学校を占拠されたら――』みたいなのが堂々の一位だったのに……これが新世代ってやつなのか……?」
喋っていて灯馬は愕然とした。いまいち流行に乗れない自分に気づいたのだ。まるで時代に取り残されたかのような気分だった。一度自覚すると辛く悲しい気持ちになった。
「えっと、それもうだいぶ古くないですか?」
遠慮がちに果歩が追い打ちをかけた。
「え?」
「わたしの独自調査によると寝る前の妄想上位は異世界転生して俺つえー、人生二周目、ある日突然TSして美少女になっちゃう系あたりですね。あ、男友だちを女体化させるのも最近熱いみたいですよ」
「なんだそれ地獄過ぎるだろ……」
灯馬はげんなりした。果歩が挙げた中には共通して違う自分になりたいという欲望が見え隠れして心がしんどかった。そこまで自己否定に走らなくても。
「最近の小学生とはもう話が合わないかもしれませんね。まさしく佐原先輩は旧時代の人間側というわけです。まあ、わたしも先輩と一コしか違いませんけど」
「うっそだろ? やっぱ撤回。こういうのに時代関係ないから。ほら、電車とか車乗ってて外の景色に忍者走らせるとかたぶん今の小学生もやってるから。退屈がもたらした人間のサガだから」
「主語がでかいです。一応それって某配管工兄弟のおかげですよね。間違っても青ヘルメットのほうの影響じゃありませんよ」
「そんなところにも新世代との断絶が……もっと頑張れ集合無意識」
なんなら灯馬はいますぐ転生して小学生になりたかった。
「そういえば、先輩も寝る前の妄想は〈学校テロリスト派〉だったんですか?」
「いや、おれはシンデレラ派だった。なんかの間違いで石油王の落胤だったりしないかなあ、とか夢見てたね。遺産分割のときに発覚すんのな」
「そんな意地汚いシンデレラいませんよ、先輩。あとどっちかというとジョジョ四部」
「街に殺人鬼とか潜んでそうで嫌だなそれ」
「まあ、仮に転生してたとしてもバトルな異世界には住みたくないですよね」
「前世の記憶引き継いでなければどこでも良いよ」
「頑なですね」
果歩はなかば感心したようにうなずく。
「やっぱステータス制の異世界モノってほんと謎だわ。なんでゲームでもないのに当然の権利のようにステ振ってるの? おかしくない?」
「そりゃあ、ゲーム風のほうが読者に馴染みがあるし、わかりやすいからじゃないですか?」
「作者の都合過ぎる」
「あ、でもわたし、前にメタ的じゃない合理的な説明を考えたことがありますよ」
気になって夜も眠れなかったので、と果歩はすっとぼけた顔で続けた。
「聞きたいですか?」
「なに?」
ええとですね、と果歩は前置きしてから、
「言っちゃ悪いですけど、よく異世界行く人たちって大抵は社会不適合者じゃないですか」
「まあ……たしかに」
言い方が悪いと思ったが、灯馬はうなずいた。心身に瑕疵があり、それに起因する歪んだコンプレックスを抱えている場合が多い。作者の自己投影と言われればそれまでだが。
「なかでも重篤な症状を持ち、なおかつ社会に悪影響を与えかねない人たちを現実から体よく隔離する場所が異世界ってわけです」
「隔離ってどこに? ほんとうにステ制の異世界があるわけでもないだろ?」
「ええ。場所は隔離施設とか特殊病棟でもどこでもいいですよ。親族や本人の合意のもとに、脳に電極かなにかをぶっ刺して、トンデモ機械で意識を電脳の仮想空間に閉じ込めるんです」
「急にSFっぽくなったな」
灯馬はイーガンの『順列都市』や『ディアスポラ』を思い浮かべた。
「終末医療の一環という設定はどうでしょう。ダメ人間隔離病棟」
果歩は続けた。
記憶や思考ルーティンのサンプリングを独立した精神データとしてスキャンし、インターネット上の隔離仮想空間にアップロードする。その領域はそれぞれRPG風のゲームを基礎として構築されたもので、独自の世界観に沿って進行する。
「データ上で適当にパラメータ弄ればいいのでチートも無双も楽々叶えられますよ。転生者が複数いる系のは混線とかそういうので説明つきますしね」
「なんかディストピアな解釈で嫌だなあ。あと夢がない」
「そうですか? 永久に覚めない夢の中ですよ。それにほら、異世界バース的なわくわく感が」
「ねえよ」
「ええ、思ったよりなかったですね……」
異世界――誰もが憧れる場所だがそこに至るには未だ遠く、だからこそ人々は転生を夢見るのだろう。それをナンセンスと断じるのは野暮というものだ。届かないものに憧れるのはそれこそ人間のサガなのかもしれない。