Muv-Luv 関東絶対防衛圏   作:八式健吾

10 / 28
忘れてしまいそうになりますが、本来スマホとか存在しない世界設定。
なので、10円玉と公衆電話の組み合わせになります。


第11話 誰かが誰かのために

 一九九八年一〇月一七日 二三時一六分

 帝国陸軍相馬原駐屯地内のとある公衆電話ボックス内

 三輪二等兵

 

「……うん。……そっか、叔母さんも疎開したんだ。……うん、これで関東にいる親族は全員疎開完了だね。――お母さんたちも早く疎開してよ。――場所なんて選んでられないんだからね――」

 

 消灯の時間が過ぎ――それはつまり寝ることが出来る時間であるにも係わらず、三輪貴子は隊舎を出て、少し離れたところにある公衆電話ボックスの中にいた。

 帝国陸軍の迷彩柄の戦闘服の上着を着て、ジャージのズボンを履いて、頭には迷彩柄の戦闘帽を被ったラフな格好。

 仕事以外の帝国陸軍軍人のよくするジャー戦と呼ばれる、ありふれた格好。

 三輪の格好では、今の時間帯は結構寒い。

 相馬原駐屯地は山の麓にあるので、山から吹き下ろす夜風の寒さは洒落にならない。

 季節が秋と言うこともあり、昼間は陽が出ていれば暖かいのだが、夜になれば結構な寒さになる。

 それに山地特有の風が合わされば、体感温度は相当低めだ。

 

 そんな中でも、彼女はそれを気にも止めずに電話していた。

 電話ボックスが風を遮ってくれるというのも大きい。

 本当は無料で掛けられる公衆電話が隊舎の各階に三台ずつある。

 ただ、みんなが電話を使うので――訓練の関係上使用する時間は夜間に集中しやすいので、一人当たりの使用時間は決められていて一日五分となっている。

 それ以上、電話を掛けようとすれば駐屯地内の各所にある有料の公衆電話を使用するしかない。

 それですら一杯になりやすく、順番待ちはよくあることだった。

 深夜に実家への電話。

 らしくないと、三輪自身が思っている。

 

『貴子、ちゃんとご飯食べてる? 貴女は小食だけども、お腹一杯食べなさいね。運動しているんだから、食べないと身体が持たないわよ』

「……うん、大丈夫だよ。ちゃんとご飯食べてるよ」

 

 受話器から聞こえる母の声。

 娘を心配している母が矢継ぎ早に繰り出す質問の数々。

 それに頷くように言葉を返す。

 彼女が一言も挟めないようにそれが続く。

 微苦笑を浮かべながら、追加の十円玉をまた一枚入れた。

 きっと、徴兵される前の三輪なら『私にもちょっと話させてよ』とでも言っていたに違いない。

 そういうことも、自覚してしまうほどの心境の変化。

 環境の変化が強制的にもたらした心境の変化には、三輪自身が驚いている。

 今まで、こんな事をしたことはない。

 する必要も無いと思っていた。

 半ば儀式的なものと割り切っていたところも無いわけではない。

 

 親元を離れ一人暮らしを始めた頃も、そんな経験はない。

 あの頃は通い始めた大学が楽しくてたまらなかった。

 広葉樹の緑が眩しい、広々とした大学の敷地。

 今まで過ごした歴史を感じさせる大きな校舎。

 図書館に入れば、天井まで届きそうな高さの本棚が視界を埋め尽くす。

 階段上の大講堂で受けた政治学の講義は、今まで考えたこともないものの見方や知識で知的好奇心を満たしてくれた。

 口達者になりたいと思って入った弁論部の活動だって面白かった。

 部活の仲間で酒を飲み交わしながら、夜が明けるまで語り合ったことも楽しかった。

 楽しくて楽しくて、あの当時は母親の事なんてほとんど忘れていた。

 

 けど、今は違う。

 以前は煩わしささえ感じた、心配性の母親の気遣い。

 それが懐かしく、そして嬉しく感じる。

 また一枚一〇円玉を入れる。

 もう何枚目かは数えていない。

 実家はここから一〇〇キロメートル以上は離れているので電話料金は結構掛かり、積み上げていた一〇円玉はあっという間に消えていく。

 

『本当? あと、ちゃんと寝てる? 訓練で眠れないとか無いの? 大丈夫なの?』

「……うん。大丈夫だって……。寝てるよ。睡眠時間もちゃんとあるよ」

 

 懐かしく感じても、そのまま甘えることが出来ない。

 母親は厳しい訓練で怪我とかしていないかと、心底心配している。

 その母親の想像は間違ってはいない。

 今日も訓練で千葉の罵声を浴び、踏まれ、泣かされた。

 そんな事はとてもじゃないけど言えなかった。

 正直に言ってしまったら、心配性の母親が眠れなくなってしまう。

 

『本当? 正直に言っていいのよ。愚痴ぐらいいつでも聞くからね。自分のことを大事にしなさいね。格好良くなんて、考えなくて良いから……。無事に帰ってきなさいね』

「――そんなに心配しないでよ。……大丈夫だから……ね……」

 

 不意に言われた最後の一言。

 必死になって嘘を()く。

 

 ――帰ってきなさいね。

 

 それで三輪の目尻に涙が滲んだ。

 込み上げた感情で喉が詰まった。

 焦って口を噤む。

 涙声が聞こえないようにと努力する。

 呼吸を落ち着けようと、息を止める。

 本当は甘えたくて、電話を掛けた。

 優しい声が聞きたくて、わざわざ公衆電話にまで来た。

 挫けそうだったから、一人になった。

 情けない姿なんて、誰にも見せたくなかった。

 

 だけど…………。

 だけど――!!

 

『お願いだから……無茶だけはしないでね』

 

 その嘘は母親に全然通用していなかった。

 母親は何もかも見通していた。

 それが嬉しくて――。

 本当の自分を分かってくれる人がいることが――。

 母親が自分を理解していてくれることが嬉しくて――。

 その人と遠くにいることが悲しくて――。

 涙が溢れて、足下に落ちた。

 

「……うん……」

 

 涙声になったけど、隠しきれていないけれども――。

 三輪は素直に応えた。

 母親も微妙に涙声になっていき、最後にはお互い涙声になった。

 今はまだ会話が出来る。

 お互いに生きているから……。

 けど、実戦で自分が死んでしまったら、もう話せない。

 徴兵される前に、何度も夜更けまで語り合った。

 酒の力も借りて、悔いを残さないようにと話した。

 

 ――はず、だったのけれども……。

 

 言いたいことが、まだ胸の内に――胸の奥底にまだまだ埋もれている。

 もしかしたら、既に言ったことなのかもしれない。

 だけども、もう一度言葉で伝えたい。

 何度でも伝えたい。

 

 ありがとう。

 生んでくれて、ありがとう。

 育ててくれて、ありがとう。

 私を――。

 私を“三輪貴子”に育ててくれて、ありがとう。

 

 ありがとう。とは言える。

 だけど、その一言だけでは心の全てが伝わらない。

 それがもどかしくて、胸の内を伝える言葉を探す。

 いろいろ勉強したはずなのに、この感情を余すところ無く伝える言葉が見つからない。

 伝えたいこの気持ちが纏まらなくて、もどかしくて、胸が苦しくて、悔しい。

 

 用意した十円玉はもう無い。

 あと十数秒で料金切れになる。

 伝えたい気持ちを伝えきれないまま、電話が切れてしまう。

 

「もうすぐ切れちゃうけど、また電話するね。……お母さん、ありがとう」

『――ううん、貴子。私こそ、貴女が私の娘に生まれてきてくれて、あり――』

 

 母親が言い終わらないうちに通話が切れた。

 ツーツーツーと電話のトーンだけが三輪の耳に響く。

 最後まで聞くことが出来なかった母の言葉。

 その最後を気にしながらも、名残惜しげに受話器を戻した。

 後悔の念で受話器を固く握りしめた指が離れない。

 あと少し話していたかったと思う。

 そう思うのであれば、私はどうしてもっともっとたくさんの十円玉を用意しておかなかったのだろう。

 そんな、何かを引き摺るような後悔が胸に残る。

 

「……ありがとう……」

 

 夜の電話ボックスの中で小さく呟く。

 

 今はもう私の声が聞こえない母親へ――。

 母親が伝えてくれた言葉を心に染み込ませるように――。

 本当にさっき大泣きしてしまいそうだった。

 優しい母親の気遣いで涙腺が緩んだ。

 もっと泣いてしまえば楽かもしれない。

 声を出して泣いても母親に心配を掛けないで済むから――。

 もう、我慢しないで素直に涙を零す。

 

「……お母さん……、あ…り…が、とう……」

 

 込み上げた悲しみで胸が一杯になる。

 伝えきれないこの思いで胸が苦しくなる。

 もう、しゃくり上げる嗚咽は止めようがなかった。

 電話ボックスの中にいるという密閉感が拍車を掛けて、感情の箍《たが》が外れる。

 何度も何度もしゃくり上げて、細い両肩が震えた。

 ぎゅっと閉じた両目からは、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちて止まらない。

 いつもなら理知的な雰囲気を纏う端正な顔は、くしゃくしゃになり、紅潮した頬には涙が伝う。

 

「……あり……がとう……」

 

 最後に一言呟いて、感情のままに、ただ泣いた。

 何も考えず、嗚咽を零して涙した。

 死ぬときは――。

 BETAに喰い殺されるときは一人。

 そう思うと悲しくて。

 明日はもう声を聞けるか分からなくて不安に震える。

 そんな感情が彼女の体内でうねるように駆け巡り続けた。

 それから数分後。

 

(――もう何分、たったのかな……)

 

 やっと泣き止んだ彼女はそう思いながらも、腕時計を見なかった。

 今は時間の事なんて考えたくなかった。

 眼鏡をずらして指で目尻の涙を拭う。

 顔を上げて下唇を噛み締める。

 鼻を啜って顔を戦闘服の裾で拭う。

 深呼吸して呼吸を整えた。

 

(――もう……寝よう)

 

 そう思い、心の迷いを振り払うように迷彩柄の戦闘帽をかぶり直して、電話ボックスの外に一歩踏み出した直後、ギョッとして足が止まった。

 全身が萎縮し、慌てて直立不動の姿勢を取ると、素早く右手を挙げて敬礼の格好。

 彼女の口からは反射的に言葉が出た。

 

「――お、お疲れ様です! 樽木三曹」

 

 電話ボックスから数歩離れたところにひっそりと立っている樽木を見つけて、一瞬でさっきまでの感傷が吹き飛んでしまった。

 三輪の背中に冷や汗が浮かぶ。

 消灯後に勝手に隊舎外を出歩くのは規則違反だ。

 寝るのも仕事と言われ、徴兵以来ずっと厳しく指導されていれば、彼女の背にも冷や汗の一つや二つは簡単に浮かぶ。

 よくて反省――と、言う名の腕立て伏せによる懲罰だし、悪ければ寝ている仲間全員が叩き起こされての連帯責任。

 即座に懲罰が下されるなら、今まで千葉が散々行ってきたように有無を言わせず殴られる。

 樽木が少し不機嫌な表情で、何も言わずに近付いてくる。

 思いがけないことに、逃げることも言い訳することすらも思い浮かず、身体が硬直し思考が止まった。

 皆に迷惑を掛けてしまうと思うと、皆に掛ける迷惑とそれにより仲間から糾弾されるような視線を向けられるであろう自分を想像し、その恐怖で身体が震えた。

 

「――三輪」

 

 樽木の何気ない一言で、何故か千葉の姿が蘇る。

 千葉の姿を思い出して、さらに込み上げる暴力への恐怖感。

 喉から零れかけた悲鳴を必死になって止める。

 泣いていたことも、みっともない顔であることも、全て吹き飛んでしまった。

 そんな彼女の視界の中で樽木が右腕をゆっくりと上げて、彼女に近づける。

 一瞬後にはその身を襲う衝撃と苦痛に怯えて目を閉じ、「ひっ」と小さい悲鳴が絆創膏を貼った口元から零れ出た。

 肩を竦めて全身を硬直させた三輪に、樽木は――――。

 

「……ばーか。くだんねぇこと、気にしてんじゃねぇよ」

「……っ!」

 

 ただまっすぐに延ばした右手で三輪が被っている戦闘帽のつばを指で摘んで、その泣き顔が隠すように一気に引き下ろして彼女の顔を隠した。

 殴られないことに驚き思わず顔を上げたが、樽木が下ろした戦闘帽のつばで樽木の表情が見えない。

 樽木のいつもの騒がしいような陽気さは無いが、思いも寄らぬほどに優しい口調で語る。

 

「高井に感謝しろよ」

「――え!?」

 

 驚いて、帽子を上げる。

 目に映ったのは迷彩柄の戦闘服を着込んだ樽木とその後ろに立つジャージ姿の高井。

 樽木の斜め後ろにひっそりと立つ高井が、三輪に控えめに手を振った。

 当の三輪は驚いた表情のまま固まり、声も出ない。

 

「隊舎当直には一報入れてある。一緒に帰るぞ。あ~~~。……あとな、三輪……。お前な、こんだけな、ストレス一杯、不満一杯、我慢限界、明日無き絶望に満ちた男たちが、この相馬原駐屯地に閉じ込められてるんだぞ。もっと女らしく身の危険を感じて、予防策を取れよな……。まったく、お前は、よ~~~~」

 

 最後にはハ~ッと深い溜息を吐きながら、いつもの口調で語り掛ける樽木。

 最後は大げさな口調とともに顔を逸らす。

 何とも言えない恥ずかしさ。

 飴役とはいえ、いつもはちゃんと教官面しているので、こんなに大げさに心配している自分は見られたくない。

 

「……ありがとう、ございます……」

 

 今までからは想像も出来ない樽木の一言だったが、ぎこちなく謝意の言葉を返す。

 三輪は教官たちにこんな風に――優しく扱われるなんて思いも寄らなくて、また不意に涙腺が緩む。

 再び涙が彼女の頬を流れ落ちる。

 樽木の影からひっそりと近づいた高井が、呆然と涙を流しながら立ち尽くす三輪の涙を取り出したハンカチで優しく拭う。

 優しくしてくれる高井になんと言えばいいか、三輪は一瞬声が詰まった。

 

『高井に感謝しろよ』

 

 リフレインする樽木の言葉。

 自分が知らないだけで、高井はちゃんと見ていた。

 居室ではみんなとの会話を最小限にして素早く寝ていたのに、勝手に部屋を抜け出した自分を気に掛けて高井が樽木を動かしたのだ。

 樽木も怒るでもなく本当に心配していて、行き先を告げずに彷徨《うろつ》いた自分を探し出している。

 自分は大してみんなに気を掛けていなかったのに――。

 高井や樽木は自分を――。

 

「さ、帰りましょ」

 

 高井が優しく語り掛け、三輪の震える両肩に手を置いた。

 

「……はい……」

 

 嬉しかった。

 私は一人じゃない。

 その事実を実感して、心底嬉しかった。

 そうして三輪が俯いたまま答え、高井の手に触れて――ハッとなって慌てて顔を上げた。

 

「――っ!? ……桃さん!!」

 三輪は()()()()()()()()()()()高井の両手を、優しく、いたわるように自らの両手で包み込んだ。

 自分の手より遙かに冷たくなっている高井の手が痛くないようにと注意しながら両手で包み、少しでも暖かくなるようにとさすった。

 そんな三輪がなにか言い掛けた機制を制して、高井は微笑みながら促した。

 彼女は何も言わない。

 ただ、優しく微笑んで促すだけだ。

 

「さ、早く寝ちゃいましょう。冷えちゃうわよ」

 

 樽木と高井は待っていたのだ。

 この肌寒い山風が吹く中で愚痴も文句も何も言わずに、母親との電話が終わるまでの間、ずっと三輪を見守っていた。

 三輪の心に染み渡る、高井の優しさ――慈愛に包まれるような暖かで心地よい気持ち。

 電話で感じた母の優しさ。

 今まで気にも止めていなかった自分の狭い視野。

 いろいろな感情が三輪の胸中に渦巻く。

 その事を感じ取っているだろう二人は何も言わずに微笑むだけだ。

 

 私も、もっと頑張らないと――。

 

 同じ境遇の仲間が、私のために心配しないでと微笑んでいるのだ。

 私だって変わらないはず。

 私にだって出来るはず。

 そう決意して、前を見た。

 

 満月と無数の星の光に照らされた駐屯地の夜道。

 それはまるで人類、そして自分達の行く末のようにさえ見える。

 寿命が尽きるまで生きられることは、もはや有り得ない彼女の人生。

 BETAと戦い続ける、半ば死が約束された彼女たちの将来。

 

 だけど、進む。

 この人たちと一緒に進む。

 この人たちとBETAと戦う。

 共に歩み、共に戦い、共に生きていく。

 また弱気になってしまうかもしれないけども、また頑張る。

 みんなも頑張っているのだから、自分も頑張る。

 

「――はい。もう帰って寝ます。……ありがとうございます」

 

 涙声で心を伝えて、これからの第一歩を今、踏み出す。

 流れ落ちる涙はもう気にならなかった。

 ただ高井に、これ以上寒い思いをさせたくなくて足を進める。

 

(桃さん、貴女と一緒になれて良かったです――)

 

 樽木に聞かれるのが何となく恥ずかしくて、高井への言葉は心の中だけにとどめた。

 高井と横並びで歩き出す。

 三人は高井を中心に寄り添うように――。

 まるで支え合うように――。

 星明かりで照らされた夜道を女性用隊舎に向けて歩き始めた。

 

 

 

 

 

 一九九八年一〇月一七日 二三時四四分

 帝国陸軍相馬原駐屯地 第二機械化連隊第三中隊事務室

 千葉一等軍曹 及び 樽木三等軍曹

 

 ほとんどの者が就寝し、日付が変わりそうな深夜二三時過ぎ。

 この時間まで残業しているのは流石に限られる。

 そして今日は千葉だけだったが、その手は動いていなかった。

 彼の事務机の上に書類は広げられてはいる。が、ボールペンが動いていた形跡は僅かだ。

 今日も疲れた。

 千葉とて生身の人間。普通に疲れもする。

 それも体力的な疲労より、精神的な疲労が主だ。

 怒鳴り続けるのも思ったよりは体力を使うし、些細なミスも――今日の実弾射撃のような訓練では誤射の可能性も否定できない――見落とさないようにと、自らも緊張させる。

 そんなのが訓練中続き、新兵が休む間に自分のトレーニングを行い、夜遅くに事務室で残業をする。

 さらに新兵どもの教育は思った以上に気を遣う。

 怪我をしないように、脱走させないようにと、訓練スケジュールとの擦れを修正しつつ、なんとか訓練しているというのが教官としての千葉の本音だ。

 それでも当初のスケジュール表と進捗状況表を見れば頭が痛くなる。

 

「――千葉一曹、見送り終了しました。三輪は無事ですよ」

「……そうか。一安心だな」

 

 事務室に入ってきた樽木が開口一番に言うと、千葉はリラックスしたようにありふれた事務用椅子の背もたれに体重を掛けて背を伸ばす。

 パキパキパキと背骨が鳴る音が身体の中から低く響く。

 それから、大きく溜息を吐く。

 三輪が無事だったら、それでいい。

 千葉が特に彼女に怒ることは無かった。

 本当は怒るべきなのだろうが、今回は不問にした。

 一応、癖になっても困るので次にやったら厳しく怒らなければならないが、今日はいい。

 そう思いつつ背もたれに身体を預けたまま、千葉は樽木の方を向いた。

 

「高井との深夜デートは上手くいったか?」少しにやけて問い掛ける。

「いやあ、まぁ、その、なんて言いますか? 三輪が直ぐに見つかったんで、そこそこ語り合ってですね……って、今それは脇に置いといて――」

 

 樽木がいつもの戯けた口調と大げさな仕草で受け答える。

 

「三輪のやつ、どうだった?」

 

 千葉としては直接見ていないので樽木の報告を受ける以外、三輪の精神状態を知る術がない。

 これでも千葉としては気を遣ったのだ。

 

 心配性の高井がこの事務室に内線電話で連絡してきたのは消灯直後。

 ある意味、運悪く千葉が電話を取った。

 慌てた高井が電話を切ろうとしたが、それを一喝して止めさせた。

 なかなか口を開かない高井に『最悪、三輪がレイプされるぞ!』と脅した。

 もっとも高井自身もその可能性が否定出来ないから深夜にも係わらず事務室に電話を掛けてきたのだ。

 

 その彼女の計算違いは樽木ではなく、千葉が電話を取ったということだけだ。

 昨今の帝国陸軍駐屯地内で発生する犯罪というのは冗談話ではなく、千葉らにとっては本当の心配事だった。

 BETA上陸により絶望的な状況に陥った中で、無理矢理徴兵された人々が駐屯地に閉じ込められているのだ。

 大なり小なり、犯罪が起こらないはずがない。

 犯罪に対して厳罰で対処しているとはいえ、規律を碌に教える暇もなく、何よりも徴兵された人々には明日がないというある種の絶望感が満ちている。

 無論現実を見据え、それでも生き残ろうと頑張っている人々が大多数だが、死刑になるのもBETAに喰い殺されるのも大差がないと開き直った人間が容易く犯罪に走る。

 人目が多い昼間は問題があまりないが、寝静まった夜間はどうなるか分からない。

 そんな状況であるので、各部隊は対応策として憲兵隊とは別に独自に不寝番(ふしんばん)と呼ばれる夜間の見張りを数名立てて、自らの装備品や貴重品を守っている。

 つまり、身内に泥棒がいるという前提で構えていなければならないほどの状況である。

 そのような状況なので、駐屯地内とはいえ夜間に女一人で人気のないところを歩くのは本当に危険なのだ。

 

 千葉は直ぐさま樽木に呼び寄せ、高井と一緒に三輪を探すことを指示した。

 自分が行っても、三輪が余計な緊張をするだけだ。

 ここは飴役である樽木に捜索を任せた。

 当然、樽木を信用しての行動である。

 それから日夜駐屯地を見回る警衛隊に一人で歩いている女性兵士を発見次第、連絡をして欲しいと一報入れて事務室で待った。

 あともう少し遅かったら、班員全員を叩き起こして捜索しようかと考えていたが、杞憂に終わってホッとしたというのが今の千葉の心境である。

 

「かなり派手に電話ボックスの中で泣いてました。電話相手は母親ですけどね」

「そうか……」

 

 樽木にしては珍しく沈んだ声。

 良くも悪くも彼は優しいところがある。

 千葉もいろいろ思うことがある。

 が、それが顔に出ないようにと努めた。

 

「……明日四時からの非常呼集訓練、止めた方がいいと思います」

 

 樽木が、班員たちが想像したことすら無いような控えめな口調で、千葉に意見具申した。

 これは彼が高井と一緒に三輪を捜索していた最中から、言おうと決めていたことだった。

 

「……もう、限界か?」

 

 千葉は視線を樽木から、机の上に置いた訓練スケジュール表に移した。

 何度も赤字で書き込まれた注釈の数々。

 今まで一言も千葉と樽木は班員たちの前で言わなかったが、訓練スケジュールはもはや相当の無理をしないと取り戻せないところまでずれ込んでいた。

 樽木とて助教役である。

 そのことは重々承知で口を開いた。

 

「限界だと思います」

 

 きっぱりと言い切った樽木は、それ以上何も言わずに千葉の返事を待った。

 

「彼奴ら全員目の下にクマが出て来ているし、風邪気味だと真木野と田淵が報告してきているしな……」

 

 独白のように千葉が呟くと、樽木は肯定する為に首を小さく縦に振った。

 徴兵された八人は新兵そのものだ。

 軍隊に入ってまだ一月も立っておらず、肉体的にも精神的にもまだまだだ。

 その上、真木野や高井、三輪は女。当然、筋力は男に劣る。

 限界に追い込むように訓練しているが思った以上に早く、それが来た。

 

 千葉が一瞬坂上の顔を思い出して、不機嫌そうに顔を顰める。

 彼とて新兵たちはちゃんと観察し、目を配っている。

 そうでなければ、とうの昔に新兵たちは訓練中に事故を起こしているだろう。

 不慣れな新兵に詰め込み式の訓練を朝から晩までやらせているのだ。

 怒声で無理矢理緊張させ、操作に間違いがないかを事細かに目を配らせて事故を未然に防ぐ。

 端から見れば、怒鳴って揚げ足取りをやっているようにしか見えないが、千葉たちが怒鳴るということはそういった目的がある。

 その上で、彼らの健康状態にも気を配って訓練をしている。

 倒れて訓練出来ない状況では本末転倒だ。

 

 樽木の一言に、流石に悩む。

 真木野たち八人が上手く訓練が出来ず、また彼らが時間を守る事が出来ず、当初の計画通りに訓練は進んでいない。

 千葉が叱責したりする時間も正直多すぎるが、ミスをしたらその場で矯正しなければ間違ったまま覚えてしまう。

 ただでさえ時間はないのだ。やり直す時間の方が勿体ない。

 体力は無く、技術も無く、要領も悪い。

 どれも新兵であるならば、ある意味致し方のないことだ。

 だが、このまま戦場に行けば確実に死んでしまう。

 皆で力を合わせようが、ゼロ足すゼロはゼロにしかならない。

 そのゼロをせめて一にして、皆で協力し合って生き残ろうと考えているのだ。

 何が何でも戦力になって貰わなければ、本当のお荷物だ。

 

 このままでは仮に千葉の元を離れ、別の部隊に行こうが、部隊が彼らを見捨てるだろう。

 最低限の戦闘技術を身に付けなければ、そんな扱いを彼らが受けてしまう。

 最悪の場合は、真っ先に使い捨てられ、無駄死するだけだ。

 だが、戦う前に戦えなくなるのでは訓練の意味が無い。

 一瞬だけ躊躇ったが、結論を下した千葉は大きな溜息を吐き出した。

 

「――早朝の非常呼集訓練は中止。午前中の跳躍ユニットを使用した降下訓練塔からの降下訓練と緊急離脱訓練も中止。実技は明後日にずらして、明日は跳躍ユニットを含めた強化外骨格の座学をやろう。どうせ、強化外骨格自体も使いこなせていないし、理解も不足している。明日は持たせる武器の取り扱いを教えて、強化外骨格自体の習熟に重点を置く。――集中力の無い状態で跳躍ユニットを使っても……。ミスしたら、墜落してしまうしな……」

「自分もその方がいいと思います」

 

 ホッとしたように樽木も賛同する。

 千葉が急ぐ理由も分かり、樽木も基本的には同じ考えではあるが、もう危険な状態だと判断していた。

 それが受け入れて貰えて、本当にホッとして胸をなで下ろした。

 

「――さて、もう少し書類を片付けたら、寝るか」

「ういっす。俺も手伝います。訓練スケジュールの変更報告と射場使用申請を書き上げておきます」

「悪い、頼む。俺は整備小隊への作業依頼書を書き上げる。が、切りのいいところで切り上げて早く寝よう」

「了解」

 

 そう言って二人は書類作成に取りかる。

 結局、彼らが寝たのはいつものように日付が変わってからだった。

 第一班集中訓練、残り二日。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。