今日は短いですが、取り合えずここまで。
一九九八年一〇月一八日 一〇時〇八分
新潟県村上市内のとある県立高校 職員用応接室
「……本当に、よく生きて……。お帰りなさい」
「お久しぶりです、先生……」
ジーンズにジャケットをラフに羽織った神流は、高校に通学していた頃に料理部で世話になった顧問の田中寿子と二ヶ月半振りの再会を果たしていた。
神流にとって、彼女は様々な国の料理を教えてくれた恩師とも言える人物だった。
その定年間近になった初老の家庭科の非常勤講師が、連絡もなく突然現れた教え子との再会を喜び、涙声で迎えると、それだけで神流の胸に熱く込み上げるものがあった。
久しぶりすぎて、ぎこちなく言葉を交わす。
お互いに両手で握手を交わすと、初老の講師は孫娘のように接していた神流を優しく抱き締めた。
神流も田中講師の背に腕を回した。お互いをいたわる緩やかな抱擁の中、お互いの胸で詰まった感情が言葉にならず無言のままだった。
寂れた校舎に授業開始のチャイムが鳴り響き、誰も廊下にいなくなる。
少し前まであった尾を引くような少年少女たちの喧噪はどこにも無い。
第二次世界大戦後のベビーブームでは在校生が五〇〇人近くになったこともあったそうだが、今や二〇〇人いるかどうか。
生徒の減少に伴い、教員も減り、残った教員の多くは高齢――徴兵可能な年齢の教員は健康上の問題か、何らかの理由がない限り、軍関係の何らかの仕事に就いた。
約二ヶ月振りの母校。
その敷地に足を踏み入れた瞬間、神流は生徒数が激減しているのを肌で感じた。
使用者の名前が剥がされた下駄箱。
三年生の下駄箱では名前がある方が少ない。
校舎の隅に溜まった埃。堆積して取り除かれる気配がない落ち葉の山。
まばらにしか点いていない教室の明かり。
雑草が生え始めたグラウンド。
聞くのが怖くて聞けない問い掛けが、神流の胸の中にある。
だが、ここに来なければ、どうしても知ることが出来ない事柄があり、彼女はその為に母校に来ていた。
「……田中先生、他の……」
問い掛けたいが、その先が続かない。
言葉が止まる。
何度も言い掛けようとし、舌がもつれたように声が出ない。
喉を詰まらせ、俯く神流を見かねた田中は無言でその手を引いて応接室のソファに座らせた。
戸惑いの表情を浮かべた神流に優しく微笑みながら、ソファに深く腰掛けさせると田中は少し明るい声で切り出した。
「まだ静岡県産の天然緑茶が残っているの。煎れるから、ちょっと待ってなさい」
職員室へ茶器を取りに行くと言って、田中が出て行く。
一人になった神流は深い溜息を吐くと、ソファに深く腰掛け、背を逸らして真上を見た。
その瞳に映るのは、殺風景な校舎の天井。
薄汚れてしまったアイボリーの色合いと、所々寿命が切れている蛍光灯。
たまにしか掃除されていないのだろう、薄く埃を被った応接セットのソファと机。
それはこの部屋に通された人間が、つい最近までいなかったということの証し。
ただの高校生の頃は、その目に映る様々な事を一瞬で観察し、判断する考察力はそれほど鋭くなかった。
この考察力は神流が戦場で手に入れた――。
いや、違う。
これは千葉春久に叩き込まれた戦闘技術の一つ。
静かに目を閉じる。
唇を少し開け、耳を澄ます。
微かに聞こえる音。
柔らかなゴムの靴底がタイルと擦れて発する、田中講師の足音。
コンクリートの
それ以外の足音が聞こえない。
その事実を確認してから、神流は目を開けた。
安全なはずの校舎で、BETAがいないかと耳を澄ます自分。
一時除隊から既にもう三週間近く経つが、戦場での癖が抜けない。
その理由は神流自身がよく分かっている。
神流の骨の髄まで染み込んだ、BETAに対する原始的とまで言えるほどの恐怖。
無防備な人々が集まる場所でさえ、本当にここが安全なのかと物陰を凝視し、耳を澄まし、足音を聞き分ける。
理性と知識では分かっている。
本当にBETAが近くにいるのであれば、誰かが武器を持っているはずだ。
そうでなければ、たった一匹の戦車級でも辺り一面を血の海に変える。
たった一匹の戦車級さえ、大人が何十人集まろうと素手で殴り殺すことは出来ない。
なにかしらの武器になりそうな道具を持ち出しても、一匹殺すまでに何十人殺されるか想像も出来ない。
第一、殺せるかどうかも定かではない。
そんな化け物が近くにいたら、みんなが
だが、感情――恐怖が理性を凌駕する。
心に刻み込まれた数々の惨状が、神流の耳元で恐怖を囁く。
――たった一匹のBETAがいるだけで、みんなが殺される。
何度も看取った友人たちの最期。
絶叫と悲鳴の中、戦車級に喰い殺された親友。
再び出会ったときは、首だけになっていた幼馴染み。
脳裏にこびり付いた恐怖に背筋が震えた。
陰鬱な気分を引き摺るように、気怠げにソファの背もたれに預けていた上半身を起こして、応接室の窓から見える自然を眺める。
遠くに見える稜線と澄み切った青い空。
流れる雲は
山々を染め上げる紅葉が血を連想させる。
それが嫌で、視線を落とした。
いつの間にか、両手が鮮血で染まる。
手のひらに伝わる人肌の温もり。
手首を伝わり、流れ落ちる他人の血潮。
応接室の床に広がる血の海。
「――――っ!!」
反射的に込み上げた悲鳴を喉元で押さえ込み、きつく瞳を閉じた。
恐怖で竦み上がるが、直ぐさま理性が否定する。
ここは学校。
BETAのいない場所。
つい、さっきまで先生と話していた応接室。
そう何度も心の中で呟いてから、神流は恐る恐る目を開けて確かめる。
何もない。
見えるのは小刻みに震える自分の手のひらだけ。
血に塗れた両手も、床に広がる血の海も、存在しない。
全ては幻。
あのバス停で見た“サチ”と同じ。
自らのトラウマが生み出した、ただの幻影。
(……私は
漠然とそう思う。
心の奥底から、滲み出るような恐れ。
(――会いたい)
「――……千葉さん」
会いたいと思っただけで、愛している男の名が零れた。
「千葉さん……」
いつも手の届くところにあった、あの背中に触れたい。
見慣れないと分からない、あの微笑みが見たい。
乱暴な口調なのに本当は心配している、あの声が聞きたい。
出会った時から、追い続けたあの人。
「………千…葉さ……ん」
側にいて――。
慰めて――。
あの時のように、きつく抱きしめて――。
不意に頬を流れ落ちた一筋の涙にハッとなって、彼女は慌てて顔を上げた。
天井を見て、無理矢理涙がこぼれないようにする。
下唇を噛み締めて、眉間にもしわが寄る。
何が何でも泣くものかと、神流は天井を睨み付けた。
この学校で出会い、広がった友達の輪。
将来の夢を語り、色恋沙汰で悩み、愚痴もこぼし合って――。
時に必死に、時にふざけて、時に言い争って――。
春夏秋冬、移りゆく季節の中で共に過ごし――。
いろいろな事を語り合った、ありふれた青春。
みんなが揃って笑った、最後の場所。
戻らない、幸せな高校生活。
取り戻せない、友人達の笑顔。
悲しくて、悔しい。
それでも神流は、思い出の場所を涙で濡らしたくなくて、天井を睨み続けた。
田中先生がなかなか戻ってこないことが本当に有り難かった。
優しい言葉一つで、溢れ出そうな悲しみが決壊してしまいそうで――。
少女は、ただ天井を睨みながら恩師を待った。
――それから数分後。
「――ごめんなさい。いろいろと用事が入って来ちゃって」
「いえ、気にしないで下さい、先生。全然大丈夫ですから」
神流の気持ちが落ち着いた頃、先ほどとは違い金縁の老眼鏡を掛けた田中が茶器と小さな魔法瓶を手に、そして書類を脇に挟んで戻ってきた。
神流が素早く立ち上がり魔法瓶を持つ。
田中は「有り難う」と言って脇に挟んでいた書類を机の上に置き、手際良く茶を入れる準備を始めた。
神流もそれ以上余計なことはしないで静かに待つ。
しばらくすると、濃い目の緑茶が二人の湯呑みに注がれ、神流は礼を述べ、緑茶の香りを楽しんでから口を付けた。
机に置かれた書類は意図的に無視し、「おいしい」とだけ伝えて、味わい豊かな天然物の緑茶をゆっくりと味わう。
帝国軍でもお茶が出たが、それは全て加工品で、兵士のストレス緩和が目的として食堂で出されていた。
基本的にそれほど美味しいものではないし、特に香りが少ない。
(……もしかして、軍隊のお茶を知っていたのかな?)
記憶に無いくらい濃く出された緑茶を再び口に含むと、そんな考えが浮かんだが聞く気にはならなかった。
田中講師の夫も、息子も、孫も、戦死している。
教え子も戦死し続けている。
安易に聞けるような気はしなかった。
田中は不意に無口になった神流を訝しむことなく、無言で右手を上着のポケットに入れて銀紙に包まれたチョコレートを取り出した。
既に開封されていた板チョコを二つに分けると「はい」と言って差し出す。神流は慌てた。
「――え!? あ、あの……いいんですか?」
流石にいりませんとは言えないけども、素直に受け取るのも躊躇われた。
カカオが手に入りにくい現在では、チョコレートは高騰し続けている食品の一つで、もはや高級品に近い。
「一人で食べる食事は、例えどんなものでも美味しくないわ」
そう言って、恩師が微笑む。
優しく、包み込むような微笑み。
その微笑みを直視できなくて、俯きがちに受け取った。
お礼を言ってから、一口食べた。
「ね、美味しいでしょう?」
「………はい」
いつの間にか――。
チョコレートからは塩の味がした。