ウクライナはもう、プーチンの決断一つだよなぁ。
一九九八年一〇月一八日 一一時二五分
新潟県村上市内のとある県立高校 職員用応接室
授業終了のチャイムが響き、休憩時間に廊下に出る生徒たち。
だが、その姿はまばら。
校舎に響く喧噪も無いに等しい。
原因など、もはや言うまでもない。
BETAと人類の生存を賭けた戦いは、国家滅亡の危機という形で日本帝国にも覆い被さり、それは地域社会の隅々にまで影響を及ぼしている。
都市や街の明かりが消え、職場や学校の人が減る。健全な者達が徴兵され、軍人となる。
大人と学生たちが戦場に向かい、子供と年寄りが疎開する。
神流とその恩師である田中講師との間にも、重苦しい空気だけが漂う。
「やっぱり、私だけなんですね……」
俯きがちに、そう力無く消え入りそうな声で呟く神流。
その正面に座る田中も力無く、だがはっきりと断定して答えた。
「――ええ。第一次徴兵者で今も生きていると確認が取れているのは、貴女だけよ。あとの行方不明の二名は……」
現実を考えると田中も言葉を濁した。
BETAとの戦いで行方不明になった者は、誰も死ぬところを見ていないという場合の方が多い。
戦い終わった後に本人が見つからない。
しかし、誰も死ぬところを見ていない。
このような場合、行方不明扱いとなるが、脱走の可能性が無いわけでもない。
だか、この場合、数ヶ月もしないうちに自動的に死亡扱いとなる。
BETAは捕虜を取らず、言葉も通じない。
遭遇すれば、ほぼ確実にどちらかが死ぬまでの戦いとなる。
恐れも痛みも感じない、鉄をも喰い千切る敵が数万単位で蠢く中で戦い続けるのが、BETAとの戦場だ。
BETAの支配地地域に取り残されてしまった者が生きて帰ってくる可能性は、途方もなく低いものである。
だから、もうお互いに行方不明の二名は死んでいると思っている。
現実を考えれば“行方不明”など、役人たちの言葉遊び――万が一の可能性に備えた言葉遣いに過ぎない。
「……本当に一人だけなんですね……」
「…………」
諦めた様に呟く神流に、田中も掛ける言葉を見つけられない。
応接室のソファで向かい合う二人の間にある低く広い机。無造作に置かれた五部の書類の束。
神流はその一つをめくり続ける。
『第一次学徒徴兵者名簿』
神流本人の名もある、この高校で徴兵された者たちの一覧名簿。
残りの四部は第二次から第五次まで、二週間ごとに徴兵されていった同校生たちが記載されている。
再生紙に印刷されているのは氏名、生年月日、住所、連絡先、配属先、備考欄等々。
備考欄に赤字で書き込まれる項目のほとんどは死亡日時と場所だけ。
意味は特に無いのだけども、一から目を通す。
ある名前を見つけ、ふとページをめくる手が止まった。
『土谷 君華』
それほど親しくはなかった友人の友人。偶に話す程度の知人。
備考欄に書き込まれた文字を目で追う。
『第一九一歩兵連隊配属 一九九八年九月一一日頃 上越市郊外で戦死』
諦めたように次を見る。
顔が思い浮かばない名前は読み飛ばす。
見知らぬ人の死にまで悲しんでいたら、心が保たない。
いや、悲しみが多すぎるから、人の死に少々無感動になってしまった。
神流自身、他人の死に慣れてしまったことは自覚している。
その事実が棘《いばら》のように少女の胸を刺す。
『立花 伊月』
「イツキちゃんもか……」
徴兵されたあの日。
別のバスに乗り、別の部隊に行った同級生。
高校で出会った親友。彼女とは二年生の時に同じクラスだった。
細身でつり目、三つ編みにした黒髪、ちょっと気の強い、早く独り立ちしたがっていた友達。
『第一五六歩兵連隊配属 一九九八年九月二〇日 新潟市内で戦死』
「イツキちゃん、近くにいたんだ……」
「…………」
思い出を懐かしみながら、呟く。
田中が声を掛けようか悩むが、神流はそれに気付かず、独白するように言葉を漏らした。
「イツキちゃんが死んだ日、私も新潟市内で戦っていたんですよ。私たちが市内の中心部を守っていたんで、おそらく南側にいたと思います。きっと一〇キロも離れていないのに――。戦場じゃ何も分からなくて……」
「そうね……」
大した言葉も思い浮かばず、間を埋めるように田中は相槌を打った。
「私は三〇機械化連隊だったから新発田駐屯地に居たんです。同じ新潟市内に展開していたのなら、一五六連隊も近くの学校や公園とかに野営していたのかもしれません。だけど、出会えないものなんですね……。この頃、市内は激戦だったんです」
一瞬、涙腺が緩みかけたが直ぐに引き締めて涙はこぼさない。
神流は顔を田中講師に向けずに、手元の資料を見続けた。
ページをめくり、名前を確認する。
神流の欄以外ただ一人の例外もなく、戦死と行方不明の文字だけが備考欄を埋め尽くす。
ただ、応接室に紙をめくる音だけが響き続けた。
先ほどの呟きに対する返事はない。
それでも神流は構わなかった。
今の彼女にとって会話は重要ではなかったし、恩師がそこにいるだけで十分だった。
知り合いが目の前で生きているだけで十分。と、感じていた。
田中も無理して声を掛けない。
今まで、戦地に旅立つ教え子を何人も見送った。
夫も、息子も、孫も、遺骨一つ遺灰一握りすらない。
そのような経験から、神流の感情の全てが分かるとは言わないが、大方は想像出来るし共感もする。
だから雰囲気で神流が言葉を求めているのではなく、今も生きている確かな存在を求めているのだということは、何となくではあるが理解できた。
暫くして第一次徴兵者名簿を読み終えた神流は、それを静かに閉じた。
やはり、自分が徴兵されたあの日、あのバスに乗った学徒兵に生存者はいない。
それどころか、別のバスに乗った学徒兵にも生存者はいない。
この高校の第一次徴兵者二八名中、たった一人の生き残り。
神流は無言のまま瞳を閉じた。
そのまま、黙祷を捧げる。
あの地獄で苦しんで死んだのならば、せめて天国では安らかに眠って欲しいと祈った。
走馬燈の様に駆け巡る記憶の断片。
一緒に過ごした日々。
一緒に体験した出来事。
入学式、部活動、体育祭、夏祭り、海水浴、文化祭、初詣――。
共に過ごした時間。分かち合った感情。
瞼に浮かぶ親友の顔。
思い出す表情は、眩しいほどの笑顔だけ。
――痛かったよね。
――怖かったよね。
――辛かったよね。
――でも、もう何もないから。
――せめて、安らかに眠って。
――もしも生まれ変わったら、また友達になろう。
――もう一度、みんなで集まろう。
――みんな揃って、遊ぼう。
――私は絶対忘れないよ。
――みんなのこと、絶対に忘れない。
――私が生きている限り、絶対に――。
そう祈り終わると、神流は静かに目を開けた。
無言でポケットの中に入れておいたメモ帳を取り出す。
ごく普通の動作で取り出したメモ帳は、千葉から貰った鶯色の防水紙で作られた軍隊用の一品。
再び名簿を開き、メモ帳に友人の名前と戦死した場所と日付を書き込み続ける。
心配そうな田中の雰囲気を感じ取った神流は「大丈夫です」とだけ伝え、続けて第二次徴兵者名簿を手に取った。
それも見終わると、新たに第三次徴兵者名簿に移る。
回を重ねることに厚くなっていく徴兵者名簿。
第三次徴兵者名簿は第一次徴兵者名簿と比べると、それの厚さは倍近い。
その事実を無視して、作業を続行する。
また見つけた。
メモを取り、先に進む。
また見つける。
繰り返し読まされる、友人たちの死。
時折、まるで心臓が捻れるように痛む。
歯を食いしばって痛みに耐えた。
きつく閉じた唇から、小さく歯軋りが漏れる。
それでも止めない。
自分が徴兵され、戦場に飛ばされた後に――。
親友たちがどのような運命を辿ったのか確かめなくてはならない。
その為に母校に来たのだ。
一時除隊の身である以上、再び戦場に向かうことになるのかもしれない。
そう思うと、こういう事は時間のある内に終わらせなくてはならなかった。
二〇分ほどかけて全ての徴兵者名簿に目を通すと、彼女のメモ帳には八人の名前が記された。
神流が漠然と予想していたとおり、もう、この高校に友人と言える人間はほとんどいなくなっていた。
『横山佐知子 第一一六歩兵連隊配属 一九九八年八月二七日 富山市にて戦死』
『葉月智美 第一一六歩兵連隊配属 一九九八年九月一日 直江津市にて戦死』
『立花伊月 第一五六歩兵連隊配属 一九九八年九月二〇日 新潟市にて戦死』
『貝沼菜々実 第一五六歩兵連隊配属 一九九八年九月二三日 新潟市にて戦死』
『更科瑠美 第一五七歩兵連隊配属 一九九八年九月二九日 上越市にて戦死』
『中村亜矢 第一五七歩兵連隊配属 一九九八年九月一八日 柿崎市にて戦死』
『上村千里 第一六一歩兵連隊配属 一九九八年九月一八日 十日町市にて戦死』
『笹川登喜子 第一五六歩兵連隊配属 一九九八年一〇月三日 新潟市にて行方不明』
最初の二人は徴兵者名簿を見ることなく書いた。
戦死者のほとんどが三桁の部隊番号を持つ連隊ばかり。
徴兵された者主体で構成された付け焼き刃の部隊。
訓練期間が碌にない中で編成された部隊である以上、そんなことは当然であり、それが原因で死傷者数が尋常でないことも、また当たり前の結果だった。
そんな部隊の主任務は防衛線での警戒と迎撃戦や市街地等での掃討作戦が相場であり、死傷者が出ないわけがないものばかり。
神流も最初は第一一六歩兵連隊に配属され、その後
彼女以外、誰も帝国軍の常設部隊に配属された者がいない。
結局、それが運命の分かれ道だった。
初陣からの数戦を幸運にも生き残り、第三〇機械化歩兵連隊に転属。
それにより神流はユーラシア大陸での実戦経験を持つ
それが今日まで神流を生き残らせた。
徴兵されてからは異常としか形容のしようがないような密度で時間が過ぎていた事を、不意に思い出す。
「――先生。先生はどこか行きたいとか、何か叶えたいような願い。って、ありますか?」
唐突に神流が田中に問い掛けた。
「本音で答えるべきなのかしら?」
少しばかりお茶目な笑みを浮かべる田中。
その悪戯するような表情が、神流に童女のような錯覚を抱かせる。
「本音でお願いします」
オウム返しのように答える神流。
今まで恩師が、どのような考えと感情を持って日常を過ごしていたか考えたこともなかった。
だからこそ、今それが知りたいと思った。
自分よりも悲しい思いをしてきた恩師が、どのように今まで過ごして、どのような願いを抱いているのか?
いつも優しく教えてくれた部活の顧問。
定年間際の家庭科の非常勤講師。
神流が見ていたのは、田中の人生の一部だ。
他の生徒や部員に比べれば、神流の方が遙かに田中との付き合いが深く、長い。
だが、意図的に話題にしないことも沢山あった。
深入りしない事に決めていたこともあった。
そうこう気兼ねしている内に、神流は徴兵された。
戦場で、幸せだったと気付かぬ内に日常と友人を失った。
恩師と自分が同じ訳ではない。
けれども、神流は田中と共感できる何かがあるのではないかという確信に似た何かをはっきりさせたいと思った。
そう思わせる自分の感情が分からないまま、勢いで口から
それも見越していたのだろうか。
田中は冗談めかした口調で、叶わぬ願望を口にした。
「
「……先生……」
想像さえ出来なかった回答に絶句した神流が擦れた声で呟く。
叶うわけがない願い。
もう殺されてしまった家族と共に有りもしない別世界に行きたい――。
そんな夢物語を恩師が言うとは想像も出来なかった。
後悔が、神流の小さな胸をゆっくりと染みるように埋め尽くしていく。
とうの昔に、神流の恩師は未来への希望を捨てていた。
ただ、疲れ切ったような笑顔で――。
田中は、未来を必要としていないことを告げた。
「――そんなこと願っても、全く意味がないのにね」
天涯孤独となった老女が、教え子の心情を思い、今度は寂しさを見せない微笑みを作る。
――どうしようもないことだから、貴女が気にすることないわよ。
神流はそんな風に語り掛けられた気がした。
「私は教え子と知り合いが少しでも長生きしてくれれば、もう満足なのよ」
これも田中の本音。
自分の未来には期待していない。
せめて今は、知り合いに不幸がなければいい。
吐露した心情に偽りはない。
その口調と表情が、神流にそれを知らしめる。
「ほらほら、そんな泣きそうな顔しないの」
泣き出しそうな表情の神流に、あやすように語り掛ける。
「貴女が無事だったから、十分なのよ」
と、また微笑む。
そう言われても、急に笑えるようになるわけではない。
ただ、泣かないようにと涙を堪える。
田中は優しく、神流の手を握った。
仕事と生きてきた歳月で、皺だらけになった手。
苦労の数だけ刻み込まれたのだろうかと思うほどの皺の数。
皺だらけで、暖かく、柔らかい両手で、神流の手を励ますように握った。
授業終了のチャイムが鳴る。
通っていたときと何一つ変わらない、聞き慣れた音。
田中はチャイムが鳴る終わるまで待った。
神流には、一字一句聞き漏らさずに聞いて欲しいと思ったから。
さきほど神流が思ったとおり、二人とも似たような境遇になってしまった。
少女は父を殺され、長姉を殺され、友達たちを殺された。
老女は夫を殺され、息子を殺され、孫たちも殺された。
共に大事な人たちはBETAに喰い殺された。
似たような境遇に在りながら決定的な違いがあることを、老女は少女に認識して欲しかった。
そうしなければ、教え子の人生に光が無くなってしまうという確信がある。
「人生をマラソンに例えると、私の人生はもうすぐゴールなの。思ったより長い距離で走り疲れてしまったというのが、本当のところよ。だけど、貴女の人生はまだ折り返してすらいないわ。マラソンとは言っても、走る距離は人それぞれで、ペースも人によってまちまち。行く先すら、同じ人はいない。そうね。伴走者がいたとしても、配偶者とか、大親友とか、ごく僅かしかいないの」
両手で神流の手を強く握る。
その力強さに引かれるように、顔を上げた。
「だけど、これもしょうがないわ。人はそのように生まれ、そのように生涯を終えるのだから――」
教師として、人生の先輩として、人生の行く先を指し示せない。
夢を追い掛けなさい。などと気安く言えない現実が直ぐ隣にある。
戦場に向かう事が普通となった社会で、個人の自由が――職業選択の自由等が保障されている訳がない。
まず個人の前に、国家が、人類が優先される社会。
社会無ければ、個人もない。
個人無くして、社会もない。
その天秤は時代と状況で変化するものだが、今は明らかに社会を優先すべき時代である。
田中自身、そう考えてしまうと家庭科のような授業自体――延いては自分自身が無価値なような気がするときもあった。
だが、今まで生きてきた年月で得た知識も経験も決して無駄ではない。
経験も知識も情熱も、言葉にして伝えることが出来る。
全てを伝えることは出来ない。
全てが必要なわけでもない。
そして、全てが無駄でもない。
本当に伝えたいと思ったことを、確実に伝えようと言葉を紡ぐ。
「だからこそ、ね。――神流さん。貴女は、貴女の人生を精一杯走りなさい。今やりたいこと、今やらなければならないこと、全て今直ぐに【ルビ:・・・・・・】やりなさい。明日があると限らないのは自分だけじゃない。貴女の知り合いも、明日があると限らない。人生という有限の時間の中で、貴女が出来ることは常に限られている【ルビ:・・・・・・・・】の。もしも、やりたいことが分からないのなら、目の前のことを片付けなさい。人は動いている内に
その言葉に怯えたように身体を震わす神流の手を、震えを止めようかというほどの意志を込めて田中が強く握る。
「確かに、この高校には貴女の友人はもう一人しかいない。けどね、貴女は生きているの。貴女には時間があるの」
瞳が震える。
一人で過ごす時間の寂しさを思い――。
誰もいない中で続く悲しみを思い――。
自分だけが生き残ったことに対する刑罰のような孤独。
まるで友情を裏切り、一人生き残った事に対する代償。
その孤独を思えば神流の心が怯え、それは目尻に滲んだ涙になった。
大丈夫よ。と、田中は言いながら神流の手の甲を優しく撫でた。
田中は、その恐怖に立ち向かいなさいと神流を後押しする。
「それは、貴女自身が、貴女と貴女が選ぶ誰かの為の時間を、貴女自身の努力で手に入れたの。生き残るために頑張った貴女の努力によって、貴女は何かをするチャンスと時間を手に入れたの」
(何がしたい? 何をする? 私が――、何を?)
「だから、無駄にしないで。貴女には、まだ出来ることが沢山あるの」
(――だけど、今さら何をしたらいいの!?)
神流は心の中で叫んだ。
心の叫びは細切れになり、小さな唇から漏れた音はまともな言葉にならなかった。
「ですが、先生! 私! ……私は! ……私が!」
(――生きていていいんですか!?)
叫ぶように問い掛けかけて、口を噤んで、俯いた。
自分が生きていてくれて嬉しい。
と、伝えてくれた人に言うべき内容ではない。
恩師はたった一人生き残った自分を責めない。
悪夢の中で偶に見る友人知人たちのように虚ろな瞳を向けない。
それだけでも十分なのに――。
何を言ったらいいのか、分からなくなった神流はそのまま下唇を噛み締めた。
二人の会話が途切れる。
応接室に流れてくる昼休みの喧噪。
以前に比べれば遙かに静かになったとはいえ、在校生の騒ぎ声が聞こえてくる。
神流が俯き、田中が見守る。
それから少しして神流が田中の手を小さく握り返すと、老女は嬉しそうに微笑んだ。
そして、ある事を思い出し、時刻を確認したのち、彼女は励ますように教え子に語り掛けた。
「――さぁ、貴女がしなければならない事が、向こうからやって来るわよ。頑張りなさい」
「……??」
急に変わった話題に付いて行けず、また恩師が言うことが分からず、神流は暫し呆然とした。
神流の瞳に映る田中はニコニコとしている。
それも今までと比べものにならないくらいの笑顔だ。
訳が分からない。
先生が笑顔である以上、私にとって嫌なことではないはず。
(……向こうから、来た? 来るって、何が? 来るって事は、何か動くもの?)
神流が一瞬目を閉じて、耳を澄ます。
廊下から聞こえるのは、様々な人の笑い声、はしゃぎ声、足音。
その中でやけにはっきり聞こえるのは、走っている事が間違いない
――
閃くように連想した事実に気付いた神流がソファから立ち上がり扉に身体を向けるのと、その扉が叩き付けられるように横に開いたのは、ほぼ同時。
「――神流ちゃん!!」
その姿。その声。その呼び方。
荒い息を吐きながら目の前に現れた人物の名を神流が思い出すよりも早く、応接室に飛び込んできた少女が神流を力一杯抱きしめた。
両の腕できつく――まるで離さないように強く、細身の神流を抱きしめる。
「――よかった……。本当に……。神流ちゃん、生き…て…た……」
神流より少しだけ背の高いポニーテールの少女が神流の耳元で途切れ途切れの荒い呼吸のまま呟くと、神流も彼女の背に両手を回して優しく抱きしめて伝えた。
「……ただいま。絵里……」
「うん。おかえり――」
少女の名前は、沢口絵里。
未だに徴兵されていない、母校でたった一人残っていた神流の親友。
千葉の下にいた頃、神流が手紙を通じて恋の相談をしていた友達。
その彼女の声はもはや言葉にならず、神流を抱きしめながら嗚咽を漏らし――。
神流も抱きしめながら、慰めるようにその背を撫で続け――。
余りにも言いたいことが有り過ぎて、それ故に一言も言葉に出来ない二人はただお互いに抱き締め合った。