一九九八年一〇月一八日 一二時二四分
帝国陸軍相馬原駐屯地 大食堂
自由を制限された娯楽がない状況下で、誰もが待ち望む楽しみとは何か?
単純明快。
食事以外、存在しない。
美味しい。または美味しく感じる食べ物は軍人にとって――徴兵された人たちにとっては特に――何物にも代え難いものである。
美味しい食事自体が食べた本人を満足させるし、一緒に食事をすることにより仲間との会話も生まれやすい。
徴兵され、見知らぬ人たちと共同生活を送らざるを得なくなった場合、ちょっとした事柄や共通の経験から打ち解け話や会話が始まる。
それも考慮しての千葉の命令――班員全員揃って食事をすること――である。
故に、第一班は新兵八人揃って食事を取ることになる。
彼らとて当初から素直に千葉の指示に従っていたのではない。
言われた初日は『無視しても、大したことないだろう』と高を括って、千葉に見つかっている。
当然、彼らの辿った結末は両腕が痙攣起こすまでやらされた腕立て伏せであり、それにより箸すら持てなくなった彼ら八人は腕の痺れが取れるまで、碌に食事も取れず、一食抜いたような状態に陥った。
厳しい訓練を続けている最中に食事を抜かれるのは想像以上に堪える。
まして、それ以外、ほとんど食事が出来ないなら余計にだ。
その日一日、彼らはお互いに小言を言い合い、非建設的な感情的な言葉を撒き散らした後、どうにか食事を共に取るために協力することを覚えた。
それ以来、千葉たちから何らかの指示がない限り、彼らが別々に食事に行くことはなくなっていた。
雑踏の中のように混み合う大食堂の中、目敏く一人で食事中の樽木を見つけた真木野が手に持つトレイの中身を溢さないように注意しながら、直ぐ後ろで八人分の空席を探す高井を
「――桃さん! 桃さん! ほら、ちゃんと樽木さんの前に座らないと!」
後ろに並ぶ仲間たちに手を振り、誘導し始める真木野。
こういう時の彼女のリーダーシップは半端じゃない。
「れ、玲ちゃん! ……声、大きいよ」
その彼女の背に隠れるように、だけど付いていく高井。
猫背になるとトレイの上の料理に胸が届きそうになるから、膝を軽く曲げて進む。
「高井さん。聞いてるこっちが恥ずかしいから、さっさと樽木三曹の前に座って下さい」
「三輪ちゃんまで笑いながら、ひどいよ!」
高井の後ろの三輪が、何食わぬ顔で彼女を追い込む。
その彼女の口元は微かに笑っている。
恨みがましい目線で高井が抗議すると、三輪は微笑みの表情を浮かべた。
どうやら、三輪も高井を樽木の前に座らせる気らしい。
三人の遣り取りと表情だけ見れば、ここは軍隊ではなくどこかの大学ではないかと錯覚しそうになる。
そう、彼女たちの後ろでトレイを持つ坂上は思う。
真木野達三人は色恋沙汰で微笑ましい遣り取りをしつつ、長机の端で一人黙々と昼飯を飲み込むように食べている樽木のいる場所に向かい、残りの坂上たち五人の男たちが彼女たちの後を付いて行く。
そして、坂上に続くのは笠原であり、最後尾はいつものように東野だった。
「お疲れ様で~す!」
元気よく明るく、媚びない程度に魅力的な挨拶をしてから、樽木の斜め前の座席を選ぶ真木野。
モデルとして撮影時は、いつも浮かべていた表情はもはや癖どころか、真木野の顔に張り付いたもう一つの皮膚と言って差し支えない。
「――お疲れ様です」
高井の後ろにいたはずの三輪が、高井を追い抜くようにして真木野の正面――つまり樽木の隣に陣取りながら座った。
三輪がいたずらっ子のような目線で高井を促す。
『桃さん。諦めて、座って』
(――う~~~~~っ)
真木野と三輪に抗議したいけど出来ない高井が心の中だけで呻き声を上げた。
彼女は頬に感じる熱で赤面していることを自覚して、俯きがちに樽木の正面の席に座った。
「お、……お疲れ様です!」
少しどもって慌てて何気ないように声量を上げた高井。
だけど視線はさり気なく外してあって、彼女の視線は食べかけの食事が載っている樽木の食器トレイに向かう。
「ういっす、お疲れ~」
樽木の陽気な笑顔が、さらに明るくなったように感じる。
赤面した高井の微妙な視線が外れていることは、樽木も確認済み。
彼は普通に高井の顔を見ているので当然である。素早く真木野に目を向ける。
以心伝心。
真木野が高井の死角でこっそりと親指を立ててサムズアップをしてニヤリと一瞬だけ笑い、樽木が箸を持つ右手の親指を一瞬だけ立てた。
意地の悪い笑顔は二人とも共通。
もちろん、それも一瞬で消え去る。
(――なんというか。……ある意味、人身御供を差し出しているような感触よね)
二人の仕草を見てそう思うのは傍観者であり、また、さり気なく高井の退路を断つ三輪貴子の感想だ。
無論、三輪も真木野が『恋愛のチャンスがあるなら、玉砕覚悟で突撃するべき』という思考の持ち主であることを、一昨日の夜に安眠妨害の形で聞かされている。
それを自ら実施しようとは思わないけど、高校生ですら異星人との戦いのために徴兵される時代だ。
少しでも摑める幸せがあるのであれば、それを応援したくなる。
優しい桃さんには、少しでも、一時でも、幸せになって欲しい。
それが三輪の本当の気持ちだ。
ただ、まるでどこかの純情女子高生のような高井の反応も可愛らしくて、それを見て楽しんでいるというのも本当のところ。
結果、彼女は樽木と高井の恋の応援者であると同時に、小悪魔的
他の班員も各々座り始め、第一班の八名は「頂きます」の言葉と共に食事を始めた。
今日の昼飯は、玄米ご飯にわかめの味噌汁、大豆で作られたハンバーグに飾り付けのように添えられた刻みキャベツと一切れのトマト。
今の一般家庭に於ける食事に比べれば、優先的に食料が供給されている軍隊の食事は遙かに豪勢で、空腹でなくても箸が進む。
もっともそれは戦場で命を賭ける代価であり、また強い兵士を育て上げることにより、BETAに勝利するという人類存亡のための合理的判断と当然とも言える資源の傾注でもある。
「樽木三曹、そう言えば、出身はどこなんです?」
樽木に質問をしたのは、赤面した顔のまま俯きがちに食事する高井ではなく真木野。
どうせ高井から会話するわけもないと見切り、樽木から話しかけても高井とでは会話らしい会話にならないと踏んだ彼女のリード。
なんと言っても、高井は男に対する警戒心が強い。
樽木に対しては他の男性よりは警戒心が弱いとは言え、真木野に言わせればまだまだ警戒心が強すぎる。
まずは、樽木という人物がどんな人間なのか見せてしまう方が早い。
そう考えると、樽木に話しかけるのは自己紹介的な会話からスタートするのも無理もない。
「――ん? ああ、石川県。生まれも育ちも石川オンリー」
樽木にとっても真木野のリードは少々予定外。
一瞬の間を置き、それでも素早く答える。
「その割には、あんまり方言が出ないですよね?」
真木野の意識しなくても出る笑顔。
ちょっと意外。と、感じた事を示すように見開く瞳。
もちろん言葉のイントネーションにも変化を付ける。
そして、微かに浮かべたいたずらっ子のような笑み。
流石に公衆の面前では、あのオヤジ笑いは出さない。
「いや、な。今思うと若すぎるつーか、なんというか……。入隊直後に助教たちに馬鹿にされたから、ムカついて直したんだな、これが」
いつもの調子で樽木が返す。
「え~、なんか、いじめられっ子みたいじゃないですか」
「そりゃ、そうさ。俺たちが新兵の時なんて、お前らの比じゃないくらい扱かれまくってたから、そりゃ、もう必死だよ、必死。どんな些細な事でも“反省”のネタにされたくなかったからなぁ~」
樽木が遠い昔を思い出しながらぼやくように言うと、隣に座る三輪が驚いた。
「――今より酷いって!? 一体、どんな世界ですか!?」
「どんな世界って言われても……、なぁ……。まぁ、毎日血尿が出て、怪我して医務室に行ければ、『この怪我は神と仏様が下さった御褒美』だと思えるような、ちょっとだけハードな日常かな」
「……そ、それは、凄い……です、ね」
そう答えて最後は「ニヤッ」と陽気に笑う樽木に、高井が絶句し、三輪がなんとか相槌を打った。
三輪には今よりも酷い新兵訓練があるとは思っていなかったから、ちょっと衝撃的だった。
「近頃じゃ、
「あ、やっぱり詰め込み式なんだ」
真木野の確認。
別に隠すことでもないので、樽木も素直に答える。
「そりゃ、そうさ。昔の新兵訓練なんて半年近くあったのが今じゃ一ヶ月無ぇ状態だし」
「正直言うと見本をあんまり見せてくれないから、そんな感じがしたんだ」
真木野の少しフランクな口調に坂上たち男性陣がギョッとするが、女性陣は気にせずに会話を進める。
当然、樽木は怒っていない。
真木野は彼にとって極めて重要な協力者なのだ。
非常識なことをしない限り、特に怒る気もない。
今の樽木は軍紀よりも恋愛優先。
元々上下関係に厳しくない性格も、これに拍車を掛けている。
さらに付け加えれば、彼は飴役だ。
彼らが話しやすい相談相手になる必要もある。
「覚えることはまだまだ、まだま~~だ一杯あるさ」
事も無げに言う樽木に女性陣が慌てた。
「とりあえず、今のペースでお腹一杯です」苦笑いの真木野。
「無理です」きっぱりと三輪。
「……それは、ちょっと」やっと喋った高井。
「そういえば、高井はどこの出身なんだ?」すかさず話題を振る樽木。
「――え! あ、あ、その、……群馬です」
(玲ちゃんの馬鹿。巨乳好きとか変なことばっかり言うから意識しちゃうじゃない……)
大した質問でもないのにドギマギする高井。
胸の中だけで真木野に抗議の声を上げる。
深夜に居なくなった三輪を樽木と二人で捜していたときは、三輪が心配でそんなことを思いつかなかったが、こうやって改めて話すと緊張で考えが纏まらない。
何よりも真木野と三輪が近すぎて、自分と樽木の会話を聞かれているかと思うと恥ずかしい。
「なんだ、ここが地元なんだ。よかったじゃん。実家近いし、食べ物美味いし、温泉あるし、浅間山もあるし。今食べているキャベツで思い出したんだけど、群馬の特産品でキャベツって無かったけ?」
「ええ……と、嬬恋村の特産です」
「この季節って、キャベツ採れた?」
樽木の素朴な質問。
「いえ、群馬だと夏から秋にかけての間だけで……。今年はもう寒いから、出荷は無いと思いますけど」
「そっか。美味しいからてっきり地場産かと思ったんだけどなぁ……。結構詳しいけど、実家が農家?」
「え、いいえ。園児たちの親御さんはやっぱり農家の方々が多かったので自然に覚えた、というか、なんというか……」
「俺の実家はただの――。ん? ああ、そうか、高井って保母さんなんだよな」
「は、はい。今は、もう……軍人ですけども……」
自分で言って、ちょっと悲しくなる現実。
(うわっ! なにそれ! ちょっと、ちょっと! 今さらそんな質問内容、白々しくない! そんなこと、どうでもいいから、ちゃっちゃかちゃっちゃか、さっさとデートの約束でも取り付けなさいよ!)
特に何もなく進む二人の会話に無性に苛立つ真木野の内心。ただ今、男としての樽木の評価低下中。無論、表情は変化無し。にこやかな笑みのまま。そこら辺の事に関しては腐っても役者の卵。
(――まぁ、場所も場所だし。……無難な会話よね)
これまたにこやかな表情で食事を進める三輪の内心。
彼女から見れば、高井の警戒心を、会話を積み重ねることで低くしていこうとする樽木の判断は妥当なものだ。
見せ物と考えれば物足りないが、真面目なお付き合いをして欲しい三輪としてはそれ程悪くない出だしである。
そうこうしながらも皆の食事も進む。
二人の会話だけだと、怪しまれるから真木野は会話相手に三輪を選んだ。
一口、ハンバーグを食べながら聞く。
「ミワっち、このハンバーグ、本物?」
「大豆から作った合成モノでしょ。あと、私をミワっちって呼ぶな」
きっちり答えて、冷たく突き放す。
右目を瞑り、左目で睨んで、真木野を観察。
なかなか器用。
「え~~っ! ……可愛いのに~っ……」
真木野の未練がましい視線。
コケティッシュな雰囲気と口調、そして少々大げさな表情の変化。
無論、これも演技。
男にはとても気付けそうにないほど、自然に見える仕草。
「貴女の美的センスを疑うわ」追い打ち。
「ほら、私美人だから、それでも困らないのよ。美人過ぎて、ね」打ち返し。
「自分で言うな」再攻撃。
「あら、否定は出来ないでしょ?」開き直り。
年齢に不釣り合いな妖艶な微笑みと引き込まれるような流し目。
同性でさえ、ぞくっと背筋に寒気が走るほどの色気。
「うぐぐぐぐっ~~~」手詰まり。
容姿関連だけは逆立ちしても勝てそうにない。
「うふふふっ~」勝利宣言。
小憎たらしいはずの笑みすらも魅力的。
そう言う遣り取りもしつつも、彼女たち二人の耳は高井の会話に集中している。
この遣り取りは『桃さんの会話なんて聞いていませんよ』というジェスチャーであり、高井も実は気付いている。
(樽木さんの事、嫌いじゃないけど……みんなに聞こえる場所じゃ恥ずかしいよ!!)
真木野が聞いたら、『一体、どこの小学生よ!?』と言い出しかねない高井の本音。
恋愛関係色恋沙汰から、ひたすら逃げてきた彼女の心理。
別に男性が嫌いな訳じゃない。
みんな彼女の豊かすぎる胸を注視して、碌な会話もしないうちにデートに誘う。
高井自身の人格は無視して、肉体関係ばかりを求められている気がして駄目なのだ。
一言で言い表せば、自分を見る目が『嫌らしい』。
被害妄想のように感じる嫌悪感が彼女を恋愛から遠ざける。
仮に高井が男女関係を楽しむ性格だったならば――例えば真木野のような性格だったならば問題ない手順なのだが、奥手の高井には警戒心と拒絶感を生み出す。
そんな彼女が男との会話になれているわけがない。
保育園に来る男なんてほぼ既婚者に決まっているので、それほど怖くない。
むしろ夫が色目を使ったという理由で八つ当たり気味に嫉妬する妻の方が怖い。
樽木の陽気でさっぱりとした雰囲気は嫌いじゃない。
高井自身がそう感じている。
自覚もしている。
もっと話したいとも思っている。
どんな人か知ってみたい気もする。
だけど、ここじゃ恥ずかしい。
真木野とも三輪とも仲は悪くないけど、今の状況は気恥ずかしい。
かといって、二人っきりになるのも何となく、さらに恥ずかしい。
第一、そんな時間も碌にない。
三輪を捜したように睡眠時間を削るかしなければ出てこない。
まだ、そこまでする気はない。ちょっと微妙な雰囲気と流れ。
女性陣三名の心の内とは無関係な坂上ら五名の男性陣は黙々と食事中。
偶に彼女たちの会話が耳に入らないわけではないが、気にしていられない。
目の前の食事を胃に詰め込むことの方が大事である。
みんなの様々な考えが渦巻く食堂の一角で、樽木は何気なく会話を続けた。
「別に無理して、軍人らしくする必要なんて無いぜ」
「え!?」樽木の思わぬ一言で高井の唇から声が漏れ――。
「へっ!?」真木野の仮面が綺麗に剥げ落ちて――。
「――!?」三輪が喉にご飯を詰まらせ――。
「――なっ?」国防の使命に燃える笠原が驚き――。
「…………」坂上は次の言葉を待った。
軍人が、新入りとはいえ、徴兵されたとは言え、既に軍人である者に対して言うべき言葉か?
樽木は皆の驚きを知りつつも、言葉を続ける。
ちゃんと説明しないと余計な誤解が生まれそうだ。
「軍人がよくする動作を覚えれば、誰だって軍人っぽく見える。今の御時世、軍服身に付けて銃持っていりゃ、どんなガキだって徴兵された新兵さんに早変わりだ」
間を置いた。
樽木は高井を見た。
きょとんとした顔の元保母さん。
そして、彼は視線を他の七人に向けた。
「軍人らしさとか、見てくれなんて、最低限でいい。少なくとも俺や千葉一曹は上から命令されない限り、見た目の良さなんて要求しない。そんなのに、俺は意味を感じない。TPOをきっちり守ってくれればそれで十分だよ」
別に全員に聞かせる話でもない。
そう思い、声量は上げないまま、樽木は喋った。
聞きたい奴だけ、聞こえた奴だけ、俺の独り言を聞けばいい。
そんな思い。
「戦って生き残る技能を身に付けて、軍人としての最低限の常識を身に付けてくれれば――共に命を賭ける他の部隊の仲間や同期に迷惑を掛けない程度の軍人になってくれれば、俺はそれで良いんだ。そこら辺は、きっと微妙に千葉一曹と違うだろうけどな。別に心の中まで、とやかく言う気はない。今までの人生で積み上げてきたモノまで捨てなくていいんだ」
樽木は高井に視線を戻した。
彼女は樽木の言葉を聞き漏らしていない。
視線を合わす。
高井の瞳に浮かぶのは戸惑いの色。
「戦う組織の一員として、規律を守り、戦う技能を身に付けなくてはならない。こればっかりはどうしようもない。義務だ。だけど、お前たちは軍隊の事だけ【ルビ:・・】を考え続ける義務は無いんだ。これから先もBETAと戦い抜く人生を選ぶんなら、また別の話だけどな。だけど、過去を捨てる必要もないし、未来を諦める必要もないんだ」
そこで樽木は一息吐いた。
視線を高井から外す。
高井には分からなかった。
樽木は何を伝えたかったのか。
その疑問は顔に出た。
それを視界の片隅で知りながらも、樽木は答えない。
隣の三輪の唇が動きかけて止まった。
胸にわき上がる問い掛け。
――もう、私たちの運命は、それこそ人生そのものが戦う以外、何もないじゃない!?
BETAに勝つか、負けるか?
負ければ、四肢を千切られ、頭蓋骨を噛み砕かれ、内蔵を撒き散らして、喰い殺される。
勝てば、明日という日を手に入れるであろう。
なんという分の悪い賭け。
掛け金は命。
手にするは明日。
この
結果、ユーラシア大陸に人類はほとんどいない。
――未来? 私たちが摑めるような未来があるのか?
坂上は樽木をさらに注視した。
彼の言葉を――樽木個人の考えをもう少し聞きたいと思った。
樽木が言う過去を捨てるなとは?
続けて言った未来を諦めるなとは?
徴兵されてまだ一ヶ月も経っていない自分には分からない。
坂上らは東野以外、まだ実戦にすら出ていない。
彼らとは比べものにならないほどの実戦をくぐり抜けた樽木の言葉は、彼の意に反して重い。
高井は今一度、樽木を見た。
目の前の男の言葉を反復する。
――未来を諦める必要はない?
改めて考える。
自分の未来がどこにあるのか分からない。
明日を諦めた訳じゃない。
それは真木野にも話した。
母と弟妹と祖父母と子供たちと友人たちに誓った。
彼らには言っていないが、心の中で誓った。
諦めないと――。
だが、具体案は無い。
戦場に出たことすらない高井には対処の方法を具体的に想像出来るわけがない。
その事実と問題点と、その解決案を欲する気持ちが胸に湧き上がると、飢えにも似た渇望感が高井を襲う。
気配が変わった高井を見て三輪は目を見張った。
大きく見開いた瞳。
今までの高井からは決してみることがなかった生への執着。
何かを身に纏ったような雰囲気で、高井の毛が逆立ったかのような錯覚さえ感じる。
「樽木さん…そう!」
「どうした?」
さん付けで呼びかけて、慌てて言葉を繋げて階級にした。
そんな高井に気にするなと、樽木は軽い口調で言外に語る。
「未来ってあるんですか? 私たちが手にすることが出来る将来って存在するんですか!?」
高井が食い入るように樽木を見る。
突き刺さるような視線を感じつつ、彼は事実だけを、注意深く言葉を選んで、静かに告げた。
「確実な未来なんて、誰にもない――」
一目で分かるほどの高井の落胆。
そんな彼女を見ていると、死刑宣告でもしたような気にもなる。
この結果は目に見えていたが、嘘を吐くほど不実に成りたくなかった。
「この世にBETAが居ようが、居まいが、確かな未来なんて誰にもない。どんな人でも明日必ず生きているという絶対の保障はないんだ。結局は、今をどう生きるか。これだけだ。日常の中の、一瞬一瞬。
静寂。
賑やかな大食堂の中で、樽木と高井を中心に広がる小さな沈黙の輪。
落胆する高井に掛ける言葉を思い浮かべられない三輪が苦慮し、真木野も言葉を探す中、樽木はその沈黙を打ち破るように、パンと手を叩き合わせて「ごちそうさま!」と今までの暗い話題全てが嘘のように明るい声を発した。
樽木は自分で言った。
一瞬一瞬を大事にしろと。
だから、諦めないことを体現するように元気な声を出す。
『皆を励ますのは、この俺だ』と、言わんばかりに笑顔を作る。
「高井、下ばっかり見ても何もないぜ」
ハッとして顔を上げる高井。
目の前の樽木は腰を上げ、食べ終わって空になった食器トレイを右手で持ち上げた。
思わず、目が合った。
樽木はもういつもの陽気な笑みを浮かべていた。
高井が付いて行けないくらい切り替わりが早い樽木に、彼女の思考回路は半歩以上送れている。
高井が樽木を見上げた。
樽木がより一層笑みを深くした。
それに半ば釣られて、高井も力なく微かに微笑んだ。
「未来は自分で作るんだぜ。少なくとも、俺の未来は俺が作るつもりさ。まぁ、そう言うわけで――」
樽木は言葉を切った。
高井は彼の言葉を待った。
そんな遣り取りに真木野と三輪、坂上と笠原が注目する。
東野は無視した。
彼はそこまで他人に関わりを持ちたくない。
「――高井。今度の休み、デートしようぜ」
「……はい?」
にっこり笑って何気なくのたまう樽木と、言葉を聞き違えたかと首を傾げる高井。
余りの脈絡のなさに絶句する坂上と笠原。
「いや、だからさ、何時になるか決まってないけど、今度の休みにデート。待ち合わせて、茶でも飲もう。まぁ、きっと実家に帰るだろうから、半日程度のデートにしよう。地元なんだろ? 美味い店でも一緒に行こうぜ」
「え、え……ええ。えっ、――――えええええええええぇえええええっ!!! デ…デデ、デートをおっ! ―――っ!!!」
酔っ払っているみたいに、思わず素で叫んでしまった。
ハッ! と、自らに集中する周りの視線と自らが上げた声の大きさに萎縮するように、高井は肩を竦ませて縮こまった。
「……あ、あの、そういう事は……人前で、言わないで…欲しい……のです…が……」
顔を真っ赤にして俯きながら、それでもなんとか上げる抗議の声。
「――ん? ああ、わりぃ。だけどさ、こうでもしないと俺たちは時間が無いんだぜ。嫌じゃないなら、それで行こう」
「そ、その、嫌とか、そうじゃないか……とか……」
高井は迷った。
ただでさえ余りにも恥ずかしいこの状況で頭が一杯なのに、さらに恥ずかしいデートの約束。
にこやかな笑みのまま、強引な約束を取り付けようとする樽木に徐々に首をもたげ始める心の中の不信感。
樽木がいい人だと言うことは、深夜共に三輪を捜した時によく分かっている。
三輪が母親に電話しているとき、寒空の下だったにも係わらず終わるまで待つと言ったのは樽木だ。
彼女も頼むつもりだったが、それよりも先に樽木が決断していた。
探す時だって真剣だったし、素早く対処してくれた。
悪い人ではないと分かっているが、恋愛に臆病な心が高井を足踏みさせる。
樽木はぼそぼそと喋った高井の声をしっかりと聞きつつ、それでも簡単に諦める気はない。
とはいえ、食堂という場でしつこすぎるのも確かに余り良くない。
最後に一言言って離れようとしたとき――。
「樽木三曹! 私も一緒に、お邪魔していいですか?」
元気よく右手を挙げてアピールする真木野。
彼女の左手は今も俯いて膝の上で両手を握りしめている高井の小さな拳に伸びて、そして励ますように高井の手を握った。
ビクンとする跳ねた高井の身体。
彼女は恐る恐る握りしめられた手を見た。優しく包み込むように自分の手の甲を覆う真木野の細い左手。
そのまま視線を真木野に向けると、それを待っていたかのように彼女と視線が合う。
真木野は小さく頷いた。
その瞳に浮かぶのは絶対的な自信。
任せてよ。と、言わんばかりの表情が高井を後押しする。
掲げた右手はそのままにもう一押し。
「――問題ないですよね?」
樽木に向けて、にっこり笑顔。
演技じゃない本当の笑顔。
きっと、絶対、楽しいデートになるから、待ち遠しくて堪らない。
まるで遠足を楽しみにしている子供のよう。
「ああ、人数多い方が楽しいしな!」
真木野の提案に異論などあるわけがなかった。
樽木が笑顔と共に了承する。
高井を無視して決まるデートの約束。
恥ずかしくて堪らない。
ここから逃げてしまいたい。
だけど、本当は嫌じゃない。
きっと楽しいだろうとも思う。
そう思いつつも、余りにも恥ずかしくて、また彼女は下を向いた。
結局、拒否はしなかった。
「じゃ、午後の訓練に送れるなよ」
「了解~!」
「「はい」」
「了解です」
「ういっす」
「……はい」
最後に一言だけ皆に言って立ち去る樽木と、それに答える班員達の声。
去り際の一瞬に交わす、樽木と真木野の親指を立てたサムズアップのサイン。
「……よくやるわ……」
三輪は高井に気付かれずに見事な連携を見せる二人に、微笑みながらも呆れたように溜息を漏らし――。
「……青春だねぇ……」
坂上はそれ以上何も言わずに味噌汁を啜った。
にんまりとした表情を浮かべた真木野は樽木の評価を心の中で上げ、高井は自分の胸に手を置き早鐘を打ち続ける鼓動に戸惑い続けた。
三々五々思い思いに昼食を取る中で――。
笠原は何かに耐えるかのように握りしめた拳を振るわせ、それに気付いた東野は嘲笑うかの如く暗い笑みを浮かべた。