しかし、ロシアはどこまで核兵器を『使う』つもりなんだろうな。
一九九八年一〇月一八日 一五時二五分
新潟県村上市内の某所
「――そっか、神流ちゃんは新潟市内に居たんだ」
「うん……。新潟と新発田を行ったり来たりしてた」
夕暮れが迫る中、田舎のたんぼ道を二人で歩く。
神流は今、沢口絵里と共に母校から帰宅途中だった。
遠くに見える山々の稜線。
流れる雲と刈り入れが終わって寂しくなった田んぼ。
無数の赤とんぼが冷たい風と共に二人の近くを舞う。
高校入学から今まで、繰り返し過ごした季節と眺めた景色。
親友たちとよく歩いた、お馴染みの道。
学校近くのバス停に乗り、その道中もお喋りをして、各々の実家に一番近いバス停で降りていく。
仲良しグループの中でもっとも家が遠かったのは神流。
続いて、横山佐知子と坂本智美。
そして、沢口絵里。
彼ら四人は時間的余裕さえあれば、この道を歩いて帰った。
共に過ごすためにバス停一~二箇所分の距離を歩く。
ある意味、この道を通ると言うこと自体が道草であり、一人の時は決して通らない道でもあった。
昼休みに再会した時、彼女たちは一緒に帰る約束を交わした。
未だ高校生の絵里に喫茶店に行くような経済的余裕はほとんど無いし、何よりも食料配給制への移行が噂されている現状では開いている飲食店も以前より遙かに少ない。
自然とお金の掛からない、そして、長く会話が出来る徒歩での帰宅となった。
だがお互いの意に反し、二人の会話の出だしは微妙だった。
戦場で辛く悲しい出来事の連続だった神流に気を遣い、どの話題から言い出していいか分からずに戸惑う絵里。
戦死した親友たちのことを聞きたいけれども、絵里を悲しませてしまうのではないかと遠慮する神流。
既に再会してから結構長い時間を過ごしているにも係わらず、二人の会話はお互いに欲する出来事に至らずに、当たり障りのない内容で流れていった。
二人して、そういう流れになっているという自覚はあった。
時間が無くなっているという事も――つまり、もうすぐ自宅近くになるという事も分かっている。
この雰囲気の中で、先に動いたのは絵里の方がだった。
神流にも、絵里にも、お互いに様々な理由がある。
まるで、それが絡み合うかのように――だが目には何も映らず、時だけが進む。
「神流ちゃん、髪型変わったんだね」
脈絡の無い絵里の質問に少し驚いたが、神流は二ヶ月ほど前を思い出しながら答えた。
「――うん。やっぱり、あれだと長すぎたからね」
そう答えて少しだけ悲しげに目を伏せた。
が、それも一瞬。
右手で梳くように少し長めにした前髪をかき上げる。
「これはこれで、似合っているでしょ?」
今の神流の髪型は前髪を長めにしたウルフカット。
実戦に出るときは邪魔にならないようにヘアピンで要所要所を止めていた。
今の髪型からは想像も出来ないが、徴兵される前の神流は腰まで届きそうなほどの長髪だったのだ。
当然、絵里が最後に見た神流も長髪だった。
「うん。似合ってるよ。いいなぁ、私が短くしたって絶対に似合わないのに」
神流の視界の片隅で、絵里のポニーテールが揺れる。少し羨ましかった。
「こんなに短くしたのは生まれて初めてだけどね……」
今思い返せば、あのPXの床屋にいた名前も知らない理容師には感謝している。
命令でバッサリ切られた髪を取っておいてくれただけでなく、ショックで髪型の希望すら言えなかった自分に似合う髪型にしてくれた。
あの人物が今どうしているかは分からない。
彼女が徴兵され、初めて足を踏み入れた帝国陸軍関連施設は新潟県の南に位置する上越市の高田駐屯地。
残念ながら、その高田駐屯地も九月始めにBETA侵攻により壊滅している。
今では、もうその人物が生きているかどうかすら分からない。
そんなことを考える神流に絵里は躊躇いがちに問い掛けた。
「……だけど、神流ちゃん。結納の時は絶対自分の髪で結い上げるって言ってたじゃん。もう、残ってないの?」
「大丈夫だよ。切った髪は少し残してあるから、付け毛《ルビ:エクステ》出来るよ。流石に全部は取っておけないから、今付けると細長い尻尾みたいになっちゃうんだけどね」
「……」
「そんな顔しないでよ、絵里。今さら気にしたってしょうがないもの」
神流は出来る限り、明るく振る舞っていた。
自己暗示でも掛けるかのように、自分自身を励ます。
たった一人生き残っている親友にPTSDで苦しんでいるところなど見せる気はない。
そんなこと抜きに、
その口調と雰囲気は、母親も主治医も見たことがないくらい明るい。
だが、その心理は恐怖への裏返しでもある。
この一時の幸せ。
まるで徴兵される以前に
さりげない日常に隠れていた幸福。
昔と同じではないけれども、あの当時の幸せが、確かにここにある。
「――そういえば、ねぇ! 神流ちゃん、あの人とはどうなったの?」
ふと思い出した明るい話題に絵里は顔を綻ばせた。
戦場から届く神流の手紙の中で、たった一つの明るい話題は恋愛相談だった。
こちらから返せる話題も明るいものが少なく、自然と恋愛相談に関する事柄を多く書き込んだ。
あの当時は『一回りも年上の男性を好きになった』という内容の手紙に物凄く驚いたけれども、少し経ったら神流なら当然のことだなとも思った。
高校入学当初の頃から、神流は可愛いというよりも美人と感じさせる大人びた容姿を持っていた。
かなり良い運動神経とスリムなプロポーション。
頭だって悪くない。
成績が飛び抜けて良いとは言わないけれども、それよりも、どちらかといえば機転が利く方だ。
在校中、彼女がラブレターを貰ったことは一度や二度では済まない。
一ヶ月に一度や二度、下手すれば他校からも来た。
ちょっとでも男子生徒と仲良くなれば、直ぐに付き合い始めたとか根も葉もない噂も立った。
やっかみ半分の噂だったが、そう信じさせるぐらい神流は誰かと付き合うとか、恋愛関係になるということが無かった。
その理由は単純明快。
本当の理由は、親しい友人だけが知っていた。
『――子供になんて興味ないの。同い年の男の子《ルビ:・・・》をあやしたって、意味無いじゃない』
これは神流が高校二年生の時に言い放った台詞だ。
幼い頃から結婚願望が強く、彼女なりではあるが、真剣に結婚相手を吟味していた神流にとって同い年の男の子たちは“頼りない男”に過ぎなかった。
精神年齢は女性の方が早く成長するとは言え、彼女のそれは早熟すぎた。
子供たちに囲まれ、夫の帰りを待つという専業主婦を夢見る――それは両親がいる家庭を経験したことが無い為の、幼き頃からの憧れ――神流にとって、ちゃんとした定職を持っているということは絶対に譲れない最低ラインの条件であり、それが確定していない同級生は論外なのだ。
女手一つで自分を含む四姉妹を育てている母親を見ていれば、なおさらだ。
まして、神流は父親を知らない。
その為か、包容力のある年上の異性に強く憧れていた。
下らないことではしゃぐ同い年の男の子など、異性として対象外である。
絵里にとって年上の男などただの“おっさん”に過ぎないのだが、彼女の親友はその“おっさん”が恋愛対象だったのである。
そのくせ、年上なら誰でも良い訳でもない。
絵里たちが『いいお兄さん』とか『格好いいおじさま』とか思うような年上でも、神流は『趣味じゃない』とか言って見向きもしない。
彼女の男を選ぶ基準は、いまいち理解できなかった。
その為、『何時になったら、恋愛できるのよ?』と、ツッコミを入れた回数は数え切れない。
かといって、恋愛に臆病でも奥手なわけでもないらしい。
『惚れた
神流に何度この言葉を豪語されたか分からない。
全く根拠も実績もない言葉なのだけども妙な迫力と説得力を持っていて、神流が結構勝ち気ということもあり、なかなか説得力のある反論がしづらかった。
そんな彼女が惚れた男性がどういう人物なのか、絵里は興味津々だった。
我ながら明るい話題を思い出したと喜色満面の笑みを浮かべた絵里だったが、彼女の予想は見事に裏切られた。
「……分からないの……」
神流の暗く沈んだ声音と表情が、その事態の深刻さを物語るようにしか見えない。
絵里は慌てた。
神流が言う『分からない』は普通に考えれば、生死不明だということだ。
片思いの相手が部隊の上官だと言うことは手紙で既に知っている。
同じ部隊にいて親友が無事なのだから、片思いの相手も無事だと思い込んでいた。
最悪の地雷を踏んでしまった。
そう思った絵里は慌てて言葉を続けた。
「……ご、ごめん! この話題無し! 無し! 止めよ!」
「――違うの! 生きているの! 絶対に生きてるの!」
「っ!!」
絵里が今まで聞いたことも無い、甲高い悲鳴のような声。
絵里が言外に千葉春久が既に死んでいると思い、謝罪したからこそ出た言葉。
その考え自体を否定する神流の叫び。
首を激しく振って否定する神流の姿は、片思いの相手が死んでいるという想像すら振り払おうとしているように見えた。
「あの人は絶対生きてる!
「……か、神流ちゃん! 落ち着いて! 大丈夫! 大丈夫だから! 大丈夫だから!」
訳も分からず絵里は神流の両腕を掴んだ。
自分で言った言葉に矛盾を感じつつも、神流を落ち着かせようと必死だった。
親友の今まで見たこともない、狼狽にも狂乱にも似た有り様。
縋り付くように絵里の腕に神流の指が、きつく食い込むように爪を立てる。
その痛みに微かに顔を顰めながらも、絵里は優しく神流を抱き締めて、その背を撫でた。
「――分からないの! どこにいるのか、分からないの!! あの人がどこにもいないの!! 部隊にも!! 駐屯地にも!! どこにもいないの!!」
感情の爆発。
そうとしか言い様のない、神流の叫び。
「――大丈夫、大丈夫だよ。神流ちゃん。絶対……、絶対、大丈夫だから……」
落ち着かせるために自らの声のトーンは落とし、親友の背を優しく撫で続ける。
大丈夫とは言うものの、それはただ神流を落ち着かせようとするだけの根拠の無い言葉で、絵里には真実など知りようがない。
絵里の目の前にいる神流は深く俯き、その表情は見えない。
何かに耐えているような身体は細かく震え、それは次第に絵里の身体に伝わり、そして小さな嗚咽が聞こえ始めた。
ただ親友に落ち着いて欲しくて、絵里は何度も大丈夫と言い続け、その震える背を撫で続けた。
五分ほど経った頃だろうか、神流の震えは止まり、俯いていた顔をゆっくりと上げた。
「……ごめん。もう……大丈夫……」
先ほどの叫びが嘘のように落ち着いた声で、そう言った神流の目尻には涙の跡が見えた。
絵里は無言でポケットからハンカチを取り出すと優しく拭き取った。
その間、神流は何も言わずにされるがままに任した。
涙を綺麗に拭き取った絵里は、ポケットにハンカチを戻しつつ詫びた。
「ごめん。私、無神経なこと言った」
「ううん。……私こそ、ごめん。取り乱してちゃって……」
絵里はゆっくりと神流から手を放した。
神流も絵里の腕から指を放す。
「……あのね……。私で良ければ………話、聞くよ。話せば、それだけで、違うよ……」
恐る恐る、聞いた。
見て見ぬ振りは出来なかった。
絵里にとって、神流はたった一人の生きて帰ってきた親友。
神流はその言葉にぎこちなく頷いた。
「……時間、掛かるけど。……いい?」
「うん。少し歩きながら話そう」
絵里はポツリポツリと過去の出来事を語り始める神流に相槌を打ちつつも、この先のどこかに座れる場所がないかと視線を巡らした。