台湾海峡、荒れてきたなぁ…………。
一九九八年一〇月一八日 二〇時〇一分
帝国陸軍相馬原駐屯地内
第二機械化歩兵連隊第三中隊 兵舎近くのトレーニング場
笠原二等兵、田淵二等兵 及び 胡桃沢二等兵
陸軍の兵舎の近くには、鉄棒や腹筋用の斜度の付いたベンチ、ベンチプレス等がよく設置されている。これは陸軍の兵士は特に強靱な肉体を任務的に必要とするからである。
特に身体が出来上がっていない兵士とって、肉体的弱点は致命的である。
故に、その点を自覚している者は誰に言われることもなくトレーニング場に足を向ける。
新兵たちは教育期間中、訓練で疲れ果てて不意に寝てしまうか、雑用を片付けるか、それともトレーニングをするかで日々の時間を潰す。
どれも兵士にとっては重要であるが、その時その場所で何をすべきかには優先順位がある。
その観点から考えるならば、徴兵されたばかりの新兵は可能な限り、筋肉トレーニングに精を出すべきである。
だから、同じような結論に至った笠原、田淵、胡桃沢の三人はトレーニング場で腕立て伏せをしている真っ最中だった。
「……6、7、8、9、10──どうして、千葉一曹はあんな判断したんだ」
腕立て伏せの回数を数えながら、笠原が器用に愚痴る。
数える人は一〇回ごとに変わる。
「……18、……19、……20──僕に分かるわけ、……無いよ」
腕をぷるぷると震わせながら何とか二〇回目をこなす田淵。
彼の腕立て伏せは腕が少ししか曲げていない。
それでも辛いのだ。
腕力と体重が違いすぎてペースも遅い。
「……27、28、……29、30──終わり!」
彼らの愚痴には付き合わずに、胡桃沢は三〇回の腕立て伏せをし終わると筋肉の限界が来たようにごろんと芝生の上に寝転んだ。
ぜぇぜぇと荒い息が彼の意に反して出続ける。
次のメニューは腹筋だ。
軽妙とは言い難い足取りで腹筋用のベンチに向かう。
これも三人揃って回数を数える。
「……7、8、9、10──東野が組長だなんて」
笠原は今まで野球部で鍛えていただけあって、あっという間に一〇回という回数を終えてしまう。
「……18、……19、……20」
田淵にとって一番キツイ腹筋。笠原の愚痴に相槌を打つ余裕もない。
「……28、29、30。とりあえず、俺らにはどうしようもない」
胡桃沢は腹筋が終わると仰向けから俯せに姿勢を変えた。
これからやるのは背筋だ。
「とりあえず、さっさと終わらそう。冷え込んできたし」
笠原の愚痴に碌に付き合う気がない胡桃沢が二人を促す。
既に日が落ち、十分冷えてきてはいたのだが、もう少しすれば“冷えた”ではなく“寒い”と愚痴を零すことになるだろう。
これには誰も異論はなく、さっさと背筋を行う。
陸に上がった魚がピチピチと跳ねるように三人揃って背を逸らして背筋を鍛える。これも回数は三〇回。
この背筋がちょっとした休憩だったかのように、素早くスクワットを始める。これも回数は三〇回。
腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット各三〇回を一回としたサーキットを合計三回行うのが、彼ら三人の自主トレーニングのメニューである。
回数が増えるにつれ、彼らの無駄口は減り、ただ回数を数える声だけが聞こえるようになる。
兵舎から漏れる明かりで照らされるトレーニング場には、彼ら以外にも様々な階級の兵士たちがトレーニングを行っている。
中には士官や下士官もいるのだろうが、正規の訓練ではないので服装はみなジャージなどのトレーニングウェアで顔見知りや有名人でもない限り階級など分からない。
階級が分からないトレーニング場という空間というものは、田淵としては居心地がよかった──トレーニングを別にすれば、の話ではあるが……。
自主トレーニングは、既に樽木にやるようにと言われていたし、何時始まるか分からない実戦が確実に控えている以上、生き残りたければやらなくてはならない事だ。
よって、身体が動かすことが嫌いな田淵も愚痴を吐きつつ行っている。
胡桃沢も似たようなものだ。
彼も田淵と同じで身体を動かすことがあまり好きではない。
ただ彼の場合は年齢と社会人の経験というものが影響しているのだろう。
それほど愚痴は吐かない。
もっとも彼は会話自体が少ない。
東野だけが悪い意味で目立っているが、胡桃沢だって仲間との会話が少ないと言う点では変わらない。
東野との違いは、見た目と皮肉めいた言葉があるか無いかである。
笠原は他の二人とは違う。
野球が好きなだけあって、身体を動かすことは好きだ。
彼にとって今日のトレーニングは物足りなかった──千葉が訓練内容を変えたからであるが、無論そんなことはことは知るよしもない。
トレーニングが好きなだけでなく、笠原は目的意識も高い。
その目的意識が、彼を努力させる。
未来のため。
人類のため。
日本のため。
社会のため。
これはBETAという異形の地球外生命体から人類を守る為の戦い。
そのために徴兵された自分。
今積み重ねている努力の全ては、その戦いに勝利するため。
そういう認識を笠原は持っている。
人類がユーラシア大陸を失い、BETAに五〇億人近く喰い殺された。
この状況で戦わないなんて有り得ない。
結末は人類が滅びるか、BETAを滅ぼすか。
二つに一つしかない。
軍隊は人類が作り上げた戦うための組織。
人類同士で戦おうが、地球外生物と戦おうが、今も昔もその点だけは変わらない。
その一員であるという高揚にも似た感情が、彼を突き動かす。
「……29、30ッ!! 終わったッ!!」
腕立て伏せも深く折り曲げることで負荷を掛けていた笠原が声を張り上げる。
これで今日の自主トレーニングメニューも終わり。
彼から少し遅れて、田淵、胡桃沢も終わり、二人は息を切らしながら芝生の上に腰を付いた。
二人を尻目に笠原はストレッチを始めた。
少ししておくだけでも効果がある。
トレーニング終了直後にやっておけば疲労が軽減できる。
笠原は腰を下ろして前屈をしながら、田淵に声を掛けた。
「先生はジョギング?」
「うん、そうだよ。東野君と一緒に走ってるはず」
田淵はまだふうふうと息を切らしながら答える。
「お前もこれからジョギングすべきだな」
胡桃沢が田淵の出っ張ったお腹を指差しながら茶化すように言うと、田淵はさも当たり前のように答えた。
「無理無理。付いていけないから、筋トレにしたのに」
「痩せる気、全くないね」
今まで散々言われてきたのだろうが、この期に及んでも痩せようという気は無いらしい。
「僕は肉塊を助ける気は無いから、いざというとき痩せていなかったら助けないよ」
ズバッと切り捨てる笠原。
微妙に苛ついているが、田淵には分からないだろうと笠原は思っている。
第一、分かったとしても気にしない。
田淵にそれほど興味がない。
それほど興味を払うような人物でもない。
「肉塊って非道いよ! 好きで太った訳じゃないよ!」
田淵の言葉に説得力など皆無。
彼の場合、見た目でそれの全てを否定される。
「そういえば、直談判は行ったんだ?」
二人の遣り取りなど大して興味がない胡桃沢が話題を変えた。
彼はあまり他者に注意を払わない人間で、このような事は珍しくもない。
「……門前払いでした」
湧き上がる苛立ちを隠さず、半ば吐き捨てるように笠原は答えた。
訓練が終了下後に直ぐさま中隊事務室へ向かった笠原だったが、千葉は彼に「お前如きが喋るな。まだ喋れるなら、全員訓練再開だな」と発言自体を止めさせ、樽木は樽木で「これは命令で確定事項だから、意見は受け付けない」と彼の意見は聞きもしなかった。
この遣り取りが余計に笠原を苛立たせた。
「理解出来ません。誰がどう考えたって、先生の方が東野より上じゃないですか。人格も知識も。この班を軍人以外で纏められるのは先生だけです。もし、先生が体力がないから駄目だというなら、……体力で選ぶというなら一番体力がある僕が組長になるべきじゃないですか。まったく、狂ってるんじゃないですか、あの班長」
怒りで拳と声を震わして吐き捨てる笠原はもう二人を見ていなかった。
二人に敵意を向けるわけにはいかないので、意味もなく棚に整頓されているたくさんのダンベルを睨み付けた。
叫びだしたい衝動を、強く拳を握り、殺意を込めた視線を関係ないものに向けて抑え込む。
──こんな非常事態に、なんでこんなに馬鹿な判断ばかりしているんだ。
笠原が漠然と思っていた不満が、ここ数日ではっきりと形になった。
彼の青春の目標は、よくいる野球少年と同じで甲子園だった。
それから先の目標は国連軍に入隊することだった。
それが彼が描いていた人生の青写真だった。
当然、そんなものは破り捨てられた紙切れのように無残に散った。
彼は今まで運良く学徒動員されていなかった一人ではあった──無秩序に国民を徴兵し続けた場合、日本帝国国内の経済活動が停止して帝国軍全ての継戦能力が失われてしまう為、徴兵基準に該当するものであっても招集されないことがある。
甲子園は、今年初めに朝鮮半島であった光州事件で諦めていた。
あの事件は帝国軍に大損害をもたらすと同時に、日本国内外に政治的混乱を巻き起こした。
最終的には彩峰中将の処刑で幕を閉じたが、BETAの日本上陸寸前まで政局は大混乱していた。
今でさえ、榊首相の強引極まりない政治手腕で反発する人々──政治家、官僚どころか軍人や民衆にまで強い反感がある。
どうせ命を賭けるなら、人類のための方が良いと思ってはいたが、それも叶わぬ夢。
国連軍への道は、徴兵され、帝国陸軍に入隊したことによりほぼ閉ざされた。
出向という手段があるが、あくまでもそれは『帝国軍人』としてだ。
彼が思い描いていたような『全人類の為』という訳ではない。
それでも頑張ろうと思った。
易々と死ぬ気は無い。
殺されたくもない。
だが、これは何だ?
(──こんな判断ばかりしているから、人類はBETAに負けているんだ)
本気でそう思った。
(どうして、第三組長が東野なんだ! アイツ如きが僕の上なんだ!)
笠原のこの感情は疑問ではなく怒り。
理不尽な事に対する正当な怒り。
彼は己の感情をそう分析している。
不真面目で、捻くれていて、人の和を崩すような最低の人格。
間違っても人の上に立つような人物ではない。
東野が僕より優れているのは喧嘩の強さだけ。
体力だって大差ない。
不良のくせして不思議と体力あるけど、持久力に関しては真面目に野球で身体を鍛えてきた僕の方が上だ。
射撃だって僅かな差だが、僕の方が上。
学力に至っては比べる必要がない。
人望だって比べる必要がない。
万人受けする性格とは言わないけれども、無闇に反感を買うような性格ではないと思っている。
(──せめて先生なら、坂上先生なら納得できたのに……)
確かに先生は体力がない。
それはある意味、仕方がないことだ。
壇上で教鞭を取っていた人物が、今度は小銃を手に取るのだ。
腕力とか鍛えているわけがない。
だが、先生は豊富な人生経験と知識を持っていて、千葉一曹と樽木三曹を別にすれば、この班を纏める事が出来る。
先生なら女性陣も円滑に纏められて、あの東野だってなんだかんだと言っても指示を聞く。
そう。
坂上の言葉や指示は、徴兵された者たち全員が耳を傾けているのだ。
だったら、その人物がまとめ役たる第三組長をすべきだと笠原は信じて疑わない。
それなのに、現実はどうだ?
不良くずれの東野が組長で、千葉一曹も樽木三曹も、笠原の意見すら聞きはしない。
坂上でなく東野が選ばれるのは間違いで、せめて自分が選ばれるべきだ。
自分は坂上に劣るところなど無い。
体力も、人格も、頭脳も、優れているのは僕だ。
これが理不尽でなかったら、何を理不尽と言えばいいのだ。
その思いで、その怒りで──。
身体が震え、思考が染まる。
笠原はただ無言で誰もいない、何かを睨み続け──。
取り残された田淵と胡桃沢はお互いに目を合わせて苦笑を浮かべた。
田淵も胡桃沢も、笠原が考えていることなど簡単に想像付く。
この件に関してはどうせ何を言っても聞かないだろうから、二人は関与しないことに決めただけだった。