一九九八年一〇月一八日 二〇時三〇分
新潟県村上市内 直江家
「ただいま~」
直江君江が職場から帰ってきて、玄関の扉を開けると同時に必ず言う一言。
「「おかえり~」」
君江が二人の娘と交わす何気ない遣り取り。
不意に、彼女の目尻に涙が浮かんだ。
彼女の手元に戻ってきた、ありふれた日常の一コマ。
娘たちと交わす一言。
たった、それだけの事なのに例えようがなく嬉しかった。
新潟県の北端に位置する村上市。その山間の農村部にある直江家。
今は土地も少なくなったとはいえ、そこそこ歴史のある古い農家。
君江が嫁入りした直江家は豪農の分家と言うことでそれなりの土地と屋敷を持っていたが、夫を失ってからは僅かな農地と屋敷を残して借地にするか売り払った。
そうでなければ、とても女手一つでは四人もの娘を育てることは出来なかっただろう。
他にある収入は遺族年金だけだ。
そこそこ立派とはいえ、もう建てられてから相当な年月を過ごした古い木造家屋。
年期を感じさせる柱や畳は
一度、土地を売ったお金で水回りや屋根等を改修しているとはいえ限界がある。
だが、今の日本ではそんなことを気にするだけの余裕がある家庭の方が少ない。
君江もご多分に漏れず、それらの事をたまに思い出すが、どうしようもないので放置するか一番末の娘に修理をお願いするぐらいしか出来ない状態である。
君江はパンプスを脱いで家に上がり、娘たちに見つからないうちに服の袖で涙を拭った。
こんなことで娘たちに余計な心配は掛けたくない。
そう思う君江の元に足音が近付いてくる。
ぱたぱたと慌ただしく走る音。それだけで君江には誰が来たか分かった。
「おかえりなさい! 母さん!」
「望、何、慌ててるのよ?」
涙を気付かれていないことに安堵しながら、君江は僅かに首を傾げた。
娘たちは「おかえりなさい」とは言ってくれるが、仕事帰りの母親の鞄を受け取りに来るようなことはない。
そういうことをしたことがあるのは、次女の律子と三女の神流だけ。それもたまに、だ。
板の間をスリッパでパタパタと音を立てながら走ってきたのは、末娘の
中学校の制服から普段着として着ているお古のジャージに着替え、もんぺを羽織るのがいつもの格好。
耳元の少し下側で切り揃えた艶やかな髪に真っ白な肌。
別に甘え上手だからと言うわけではないだろうが、実年齢よりも幼く見える容姿。
夫が死んだ後に身籠もっていたことを知ったためか未熟児として生まれ、身体はあまり強い方ではない。
君江の前で急ブレーキを駆けて、僅かな距離をスケートのように滑って止まる。
ぴったり母親の前一メートルで止まった中学三年生の末娘は、母親に顔を寄せ、困り果てたような表情のまま小声で、だが焦りを滲ませた口調で現状を伝えた。
「お母さん、神流お姉ちゃんが、ちょっと……変」
「神流に何かあったの!?」
大きくなりそうな声をなんとか抑える。
PTSDを抱えた三女は、今も薬剤投与とカウンセリングを継続中だ。
「ううん、パニックとかじゃ無いんだけど……」
望はどう言っていいのかしばし悩んだが、良い言葉が見つからない。
自然と言葉を濁す結果になった。
「とりあえず、見て」
「……わかったわ」
望の表情と言葉で、深刻な症状ではないらしいと確認した君江は自らの気持ちを落ち着かせるために、小さく深呼吸した。
吸い込んだ空気と共に、君江の鼻腔を美味しそうな料理の香りがくすぐる。
料理しているのは間違いなく神流だ。
言っては何だが、末娘と三女では料理の腕は比べものにならない。
神流の料理の腕はセミプロレベルはあるのではないだろうか。
親の贔屓目が多分にあるのだろうが、君江がそう思うほど料理が上手い。
まだ神流の状態を見てもいないのに心配しても仕方がない。
まして、神流が戦場にいるわけでもない。三女が軍隊にいたときに比べれば、遙かに安心できる状況なのだ。
「ご飯持って行くから、掘り炬燵で食べよう」
台所の奥からだろうか、神流の声が響く。
「着替えたら、すぐに行くわ」
神流の声からは深刻そうな雰囲気がない。
だったら手早く着替えてしまおうと、君江は自室に向かった。
仕事着のスーツを素早く脱ぎ、普段着に着替えると居間に向かう。襖を開けた時、丁度神流が鍋を持って来たところだった。
「おかえり。ご飯出来ているよ」
そう笑顔で、普段着姿の神流が母親を迎え──。
「ただいま。 ──っ!」
母親もその笑顔にホッとして返事した直後、神流の姿を見て半歩後退った。
「冷めないうちに食べよ。望、茶碗取って」
神流は母親の驚きに特に気付いた様子もなく持ってきた鍋を掘り炬燵の上に置き、腰を下ろした。
「うん」
望は、神流が気付かないように素早く母親に目配せして、姉と同じように腰を下ろすと、何事もなかったように「──はい」と言って茶碗を手渡した。
君江は神流をもう一度見た。
着ている服装はいつもと変わらない。家ではよく着ている色褪せたスリムのジーンズに、鶯色の手編みのタートルネックセーター、そしてセーターの上から巻いた革のベルトには一振りの大きな鉈。
それは納屋に置いておいたはずの鉈。
滅多に使わないので埃を被っていたはずのそれは、明らかに磨かれて神流の左腰にあった。
きっと神流のことだ。
刃も研いでいるだろう。出刃包丁から刺身包丁まで一通り扱える神流は自ら刃も研ぐし、この家の台所には大方の包丁は揃っている。
無いのは牛刀などの特殊な包丁だけだ。
「母さんも早く座ってよ」
ご飯を手早くよそう神流に促され、君江も望と同じように腰を下ろして、掘り炬燵に足を入れる。
堀り炬燵を使うには時期的には少々早いが、安価な木炭で効率よく暖まるには最適な暖房器具だった。
きっと少ししか炭を使っていないのだろう。炬燵の中は暖かいと言うよりは、生温かいといった感じである。
あっという間に、食卓には玄米ご飯と野菜たっぷりの鴨汁、椎茸の網焼きと野沢菜の漬け物が並ぶ。
「いただきます」
三人揃って夕飯を口にする。
しばし無言で夕飯を口に運ぶ。
ご飯の玄米は柔らかく炊いてあり食べやすく、鴨汁も肉は僅かしかないが、ガラのだしが野菜に染み込んでいて美味しい。
椎茸はきっと裏山に育てているもので、ほどよく焼けている。
君江にはこの料理は間違いなく、神流が調理したものだと分かる。
精神的に何か障害があったとしても、料理は問題無く出来るのだろうか?
そんなくだらない疑問が脳裏を掠める。
「お姉ちゃん、この鴨肉どうしたの?」
あっという間に鴨汁の入ったお椀を空にした望が訊ねた。
「ん、阿部川さんが仕留めた野鴨と鮭を交換したの。半身ずつだけどね」
望がチラリと横目で神流が腰に下げた鉈を見ながら、どうして鴨肉を手に入れられたかを訊ねるのは理由がある。
これから農産物の流通自体が減る冬期と確実に悪化する食料供給事情を考えると、入手先の確保と、可能な限りの自力調達は文字通りの死活問題だった。
神流は数日前、近くの川で釣り上げた鮭──村上市は江戸時代以前から鮭が名産品で市内の川を鮭が遡る──と、同じ村内の猟師である阿部川さんと食料品の物々交換したのだ。
「この前、釣れた鮭は何匹だったの?」
ここのところ、自力での食料調達は娘たちに任せっきりの君江も聞く。
彼女は質問を通して、神流を観察している。もしもパニックになって鉈でも振り回されたら、どうしようもない。
神流が自分と末娘に危害を加えるわけがないと信じているが、目に見える実物の鉈というのは思った以上のプレッシャーだった。
「三匹だよ。下流に網が仕掛けてあるから、滅多に上流には来ないね。釣れたのは塩引きにしてるから、ちょっと待ってて」
少し苦笑しながら神流は答えた。
下流の魚網を逃れた鮭を狙ったのだが、やはり上手くはいかないらしい。
丸一日費やしても三匹。これを多いと見るか、少ないと見るか。
今の神流には病院に行くか、農作業等を行うか、家事をするぐらいしか出来る事がないので一日を丸々釣りに費やすことが出来る。
おかしいところは何もないように感じる。
君江は三女にどうして鉈を持ち出したのかを問うことに決めた。
「ありがとう、神流。……ところで」
「──鉈のこと?」
先読みしていたかのように神流が質問を遮る。
それから彼女は少し寂しそうに目を伏せた。
諦めに似た表情。
妹の望はこのやり取りに少し驚いた。
姉は自分の勝手な想像と違い、ちゃんと自覚症状があった。
だったら、どうしていつまで鉈を腰にぶら下げているのか分からない。
鉈を使うのは農作業か薪割りくらいだ。
「そうよ、鉈のこと。……食事の時にまで持ってくるものじゃないし、第一、今は必要ないでしょう」
「……普通、そうだよね」
そう呟き、苦笑した神流は腰の鉈を外して後ろに置いた。
何故か名残惜しそうに手を放す。
その表情は別れを悲しむようで、君江には訳が分からなかった。
「神流、どうしたの? 鉈を使うなとか、そういう事じゃないけど。今までそんなこと一度も無かったのに、どうして?」
箸を止め、君江は優しい口調で問い掛ける。
神流は何か言おうとして顔を上げ、口を噤み、また俯いた。
望はわざと食事に集中した。
姉にも母にも気にしていないよ。と、演技でする。
暫くして、神流は理由をぼそぼそと述べ始めた。
「ちょっと、ある人の言葉を思い出して……」
とても言い辛そうに言葉を濁し、無言になる。
言うのを止めた三女が再び喋り出すのを、母は無言で待った。
しばらくして、君江は三女が戸惑うのを意に介さずに、自分の心の内の正直に語った。
「今さら多少のことがあったって、驚かないし、騒がないわよ。神流が帰ってきただけで十分驚いたし、嬉しかったんだから。大丈夫よ。神流が思っていることを教えて」
「そうだよ、神流お姉ちゃんは帰ってきただけで凄いんだから」
「望!!」
母の声で、妹の顔が一瞬で青ざめた。
「うわ! ごめんなさい! 他意はないんだよ、変な意味で言った訳じゃ……」
「『凄い』だなんて、無神経な言葉使いして! 他のご家族のことも考えなさい! いつもそんなのだから、何気ないときに口を滑らすのよ! 壁に耳あり障子に目あり! 役に立たない諺は、諺になって無いのよ!」
「……ふぇぇぇっ……」
望の不謹慎な言葉を聞き咎め、君江の説教が始まる。
徴兵される前は、いつもの様に聞いていた、いつもの遣り取り。
甘えん坊でお調子者の妹が、母に失言を咎められ叱られる。他愛もない会話。
そんな遣り取りから数秒後、神流は口を開いた。
直ぐさま、君江も望も口を閉じて、神流の言葉に耳を澄ました。
「……いつも怖かったの……。一人になると、物陰とかに、……もしも、BETAがいたら、どうしようって……」
「神流お姉ちゃん……」
望が心配そうに呟くが、神流はそれに言葉を返せなかった。
「みんながいるから、大丈夫だって…………、分かっては……いるんだけど……。暗くなったり、物音がしたりすると、どうしても……BETAがいるような気がして……、怖くて……。銃も何も無いから、勝てるわけ無いって分かっているんだけど……」
君江が心配そうに神流を見るが、俯き始めた神流にはその表情は見えない。
「……だけど、諦めたくなくて……」
神流は諦めたくない。
生きることを諦めたくない。
「──みんなで! みんなで戦えば、きっと大丈夫だよ!」
「無理よ! 男の人が何十人いても、素手じゃ絶対に勝てない! 武器が無ければ、無理なの! たった一匹すら殺せないのよ!」
励まそうと発した望の言葉を、神流は反射的に激しい口調で切って捨てた。
無意識に滲み出る生還者の切迫感。
それが和やかな食卓の雰囲気を、一瞬で塗り替えた。
大の男が一体何人集まれば素手で戦車級が殺せる?
一〇人? 二十人? きっと三〇人でも、まだ足りない。
それだけ集まっても、戦車級一匹すら素手では殺せない。
武器になるような道具──斧や包丁を持ったとしても大差ないだろう。
生物単体として見た場合、それだけの格差が人間とBETAの間にはある。
「……お姉……ちゃん、……ごめ……ん……なさい……」
善意で発した言葉は、敵意すら感じる言葉で切り捨てられた。
姉の言葉に傷付いた望は、涙声で小さく謝るだけで精一杯だった。
自分では想像すら出来ない地獄を生き残ってきた姉の言葉は、BETAの姿すら見たことがない望には反論が出来ない鋭さと迫力がある。
望は人間が生きながら喰われるという地獄のような光景を真面目に想像したことがない。
そういう凄惨な光景は想像しようと思って出来るものではない。
自分が想像出来ないような地獄を生き抜いてきた姉に、掛ける言葉を失った妹は口を噤んだ。
神流は生きたまま喰い殺された親友の返り血を浴びて、それでも生き残って此処にいる。
彼女とて、妹の真意には気付いている。
だが、現実を知らない発想と言葉に苛つき、反射的に言葉が出た。
「ごめん、望……」
神流が、泣き出しそうな雰囲気で俯いた望に謝るが、妹は首を振った。
──謝る必要なんて、ないよ。
望の声にならない声。
余計な一言で姉を傷付けたと萎縮した妹は、俯いたまま顔を上げなかった。
神流には垂れ下がった前髪で望の表情は見えない。
ただ、彼女はもう一度だけ「ごめん」と謝った。
「神流……」
君江が三女を落ち着かせようと思って名を呼ぶが、神流は何も知らない妹に当たったことを後悔出来るほどには落ち着いていた。
「…………でもね、ある人が教えてくれたの。諦めなければ、生き残る可能性があるって……武器になるものは、何でも使えって、教えてくれたの……。戦えば、生き残る可能性はゼロじゃないって。生き残れる可能性があるって……。その言葉を思い出したら、居ても立ってもいられなくて、家中探して鉈を見つけたの。鉈一本《これ》で勝てる訳ないけど──」
BETAに鉈一本で勝てるわけがない。
その現実は、神流の心身に親友たちの血と悲鳴と共に刻まれている。
「──だけど、何もしないのは、もっと嫌なの!」
神流の心にある生き残ろうとする意志。
誰にでもある生存本能。
神流のそれを、母親である君江が見たことも感じたことも無いほどに強くした『ある人』。
娘が言う『ある人』とは誰なのか、それは直ぐに分かった。
神流が入院した事実を、真夜中に電話で伝えた『あの男』。
答えを導き出したのは、母として、また女としての直感だった。
神流は家族に今まで一度も千葉のことを話したことがない。
戦場からの手紙でも千葉という名前を書いたことがない。
気になる人がいるとは書いたことがあるが、詳しいことは一切書いていなかった。
手紙はいつも、生きているうちに母と姉妹に伝えたい言葉の数々で埋まっていた。
それでも、君江はあの不快な人物以外あり得ないと確信した。
「神流にとって、
神流は少しぎこちなく、だが即座に首を縦に振った。
「……分かったわ。持ってても良いわよ。ただ、街に行くときは駄目。犯罪者だと思われてしまうわ」
神流は、これにも首を振って同意を示した。
君江は娘のために、ここは妥協すべきだと感じた。
まさか鉈がお守り代わりになろうとは思ってもいなかったが、神流がそれで安心できるならば安いものだとも思う。
明日は神流とともに通院し、主治医に相談しなければならないとも心に留める。
今日はこれ以上、この件に関して話すべきではない……。
君江は僅かな焦りすら伴って、そう判断した。
下手に戦場のことを思い出しすぎて神流がパニックになってしまっては、一人で出歩くようにまで回復したのが全て無駄になってしまう気がする。
主治医にも無意味にトラウマを思い出させるようなことはするなとも、釘を刺されている。
だから、もうこの話題に関して何も話させる気は無い。
強引にこの話題を終わらす。
「──あと、神流、望に謝りなさい。言い過ぎよ。望、いつまでもくよくよしないで。ちゃんと、ご飯食べなさい。神流がせっかく作ってくれたのに冷めてしまうわ」
「ごめんね、望」
「ううん。私こそ、ごめん」
神流が望の頭を優しく撫でると、望はその手に触れ、ゆっくりと握った。
お互いに何度か強く握り合ったのち、二人の手が離れる。
俯いていた顔を上げた望が自らを励ますように勢いよくご飯を食べ始め、神流は無言で妹の空になったお椀に鴨汁のお代わりをよそった。
多少のぎこちなさはあるものの、食事を再開する三人。
徐々に戻り始める、家族の団欒。
だが、君江は何故か言い様のない不安を抱えたままだった。