一九九八年一〇月一八日 二二時四一分
帝国陸軍相馬原駐屯地内
第二機械化歩兵連隊第三中隊 営内隊舎3Fの非常階段に設置された喫煙所
東野二等兵 及び 坂上二等兵
点呼が終わり、消灯ラッパ=一日の終わりを待つだけの僅かな一時。
思い思いの感情を胸に、今日も帝国陸軍の愛煙家たちが設置された灰皿──と、言っても、小さなバケツのような、空き缶再利用の灰皿──通称『
その中には、もはや当然のように東野と坂上の姿がある。
意外なことに第三中隊第三小隊第一班の中で喫煙者は少なく、千葉と坂上、そして東野しかいない。
東野は未成年だが、坂上が何度注意しても吸うのを止めない。
坂上とて、その気持ちが分からないでもないが、教師としての
それを無視して煙草に火を付けるのは、東野の不良としての条件反射と言って良いのだろうか。
このままお約束事にでも成りそうな、会話を交わし、時間が無いことに気付き、お互いの紙煙草に火を付ける。
そして、東野は笑い、坂上が付き合う。
坂上はそんな自分に呆れながらも、今日も喫煙所で煙草を吸う。
煙草は安くはないが、手に入らない商品でもない。
今日一日を頑張った自分に対する御褒美が一本の紙煙草。
許可がなければ酒が飲めない兵舎内では、ストレスはただ無尽蔵に溜まるだけ。
自分で何かしらの発散方法を見つけなければ、ストレスでおかしくなってしまう。
かといって、何でも出来る訳じゃない。
そうなると自然と、煙草というものが重要になってくる。
そうでなければ、わざわざ国から嗜好品として兵士に煙草が支給されるわけがない。
この煙草の価値というのは嫌煙者には分からないものだろう。
だが、喫煙の価値を知っている坂上と東野は、ある意味それを共有しているが故に、今夜も昨夜と同じように煙草を吸っていた。
見上げれば、今日も満天の星空。
山から吹いてくる肌寒い風も昨日と変わらない。
ただ満月が少しだけ欠け、日付が違うことを形で示している。
いつの間にか、喫煙所にいるのは二人だけ。
高校を中退することを選んだ不良もどきの少年と、大学卒業以来教育一筋で生きてきた高校教師。
徴兵されなければ言葉を交わすことがなかったであろう二人が、非常階段の踊り場に設置された狭い喫煙所で紫煙を曇らす。
(こういうのが運命というべきなのだろうな。絆か……)
坂上はそう思うが口にしない。
(面白れぇな、まったく。こんな時でもなければ、こうならねぇけどな……)
東野は手すりに身体を預け、煙草を吸う。
無言。
共に無理に話す必要はない。
ただ東野の胸のあることを確かめたいという欲求が彼の口を開かせた。
「──先生。先生は俺の命令をちゃんと聞くのか?」
不意に出た、東野の問い。
唐突すぎる出出し。
急に始まる会話に坂上は苦笑を漏らす。
「いつものように唐突すぎるな。東野は本当に普通の会話が苦手だな」
先生と言われているからか、坂上の口調が生徒と接していた時と同じになる。
「いいんだよ、別によ。どうせ二人しかいないんだから、言う必要ねぇだろ」
「急に言われても困るよ」
そう言う割にはさして困っていない素振りで、坂上は煙草の灰を煙缶に落とす。
「で、どうなんだよ」
東野の僅かな苛立ち。
焦りと不安がモザイクのようになった感情。
それを飲み込むかのように紫煙を肺に吸い込む。
「よほど、馬鹿なこと言わない限りは、ちゃんと聞くけどね」
特に気負うことなく、答える坂上。
一〇歳以上も年下の東野が命令を下すことにさして驚いた様子も、不快な様子もなくあっさりと答える。
「……先生なら、そういうだろうと思ったよ……」
諦めたように、そして半ば呆れたように応じる東野に、坂上は苦笑したまま答えた。
「どうせ、上官には年下が沢山いるんだし……。そんなのに驚いていたら、これからの軍隊生活がやっていけないよ」
三十超えてからの軍隊生活。
去年入隊した青臭いガキさえ、坂上より階級が上だ。
そこには個々の都合は一切無い。
資格も実力も経験も年齢も関係ない。
階級の差があるだけだ。
坂上だって達観するしかない。
東野が紫煙を深く吐き出す。
「そりゃ、そうだった」
帝国陸軍幼年学校から配属された人間に至っては一八歳で軍曹。
東野の年齢ですら、年下の上官が存在する。
「──やっぱり、気になるかい? 君でも」
苦笑混じりの問い掛け。
「気になるに決まってんだろ──」
自棄気味の返答。
苦々しい表情を浮かべ、唇の端から吹き出すように紫煙を吐き出す。
「そりゃ、よ──」
彼とて自覚しないわけにはいかなかった。
徴兵された八人の中で、彼だけがたった一回だけとはいえ実戦経験がある。
その上、徴兵されたのも一ヶ月ほど早い。
階級こそ同じだが彼の方が先輩であり、軍隊では同階級ならば先にその階級に任官した者が指揮を執ることになる。
だから、千葉の決断は規則通りという一面もある。
が、東野はそう思っていなかった。
彼は自分たちをしょっちゅう殴るあの班長が、規則や命令を遵守する人物とは思えないと感じていた。
──間違いなく、実戦経験を最優先してやがる……。
徹底した現場主義。
東野が千葉から感じるのはそれだ。
「──覚悟はしてたさ」
それを投げ出したくて、空を見る。
見上げた夜空で輝く星々。
彼の思いは決して届かない。
東野は無言で星々を見つめた。
たった一回の実戦を思い出す。
視界を埋め尽くす、夜空に煌めく星の光。
誰かの命の灯火のように感じる錯覚。
碌な遺体すら残らなかった同期たち。
その小銃班でたった一人生き残った東野は、頭数を揃えるという理由で、第二機械化歩兵連隊に転属させられた。
本人の意志など関係ない。
それが命令で、それが軍隊だ。
僅かばかりに残っていたはずの仲間との絆は、ぷっつりと切れた。
なんとなく感じる感傷。
哀愁。
だが、東野はその感情をどう言い表すか知らない。
彼にはそんな知識がなかった。
「これでも、もう実戦経験者だしな──」
対BETA戦を怖くないと思うのは無理だ。
もう一度、あの場所に立つ。
ぶっちゃけ、怖くてたまらねぇ。
そう考えると、あの班長は“化け物”だ。
口にはしないが、そう思う。
現実の恐怖を知らないと、あれは分からない。
そう考えれば考えるほど、今のお気楽な仲間たちには反吐が出る。
明日死ぬかも知れない現実を何も分かっちゃいない。
例外は先生だけだ。
田淵は舎弟だ。
あれも別。
先生はどんな筋かは知らないが、それでも、それをあの班長相手に通そうと頑張っている。
田淵は素直にびびってる。
死ぬかも知れない実戦にびびってる。
俺を頼ってくる人間見捨てるほど、落ちぶれちゃいねぇ。
だから、舎弟の面倒は見る。
他の奴らは、どうでもいい。
興味ない。
笠原のヤローには苛つくだけだ。
どうせ、BETAと一回戦えば半数以上は入れ替わる。
覚えるだけ、無駄だろ。
俺だって、初陣じゃ小便ちびった。
漏らさなかったのは、ただ単にそれ以上出すのがなかったからだ。
勇ましいこと言っていた奴らはほとんど死んだ。
ビビっていた奴らもほとんど死んだ。
仲間が半分やられて、残った奴と逃げながら弾撃ってまくって──。
その途中、砲弾が近くに落ちて、吹っ飛ばされて──。
気が付いたら、
BETAは一匹も生きちゃいねぇ。
でかい肉片となって、転がってた。
仲間もみんな生きちゃいねぇ。
細切れの肉片になって、散っていた。
現実感が失せた目の前の惨状に、意味不明の叫び声を上げて腰を抜かした。
目が覚めたときには、戦いはとうの昔に終わっていやがった。
そんな惨劇の中でも軍人達は働いてる。
工兵や衛生兵、それとまだ元気な歩兵が
その三時間後には、俺も一緒に
何もかも麻痺した中で、誰のだか分からん遺体と囓られた金属片を拾い歩いて、野積みにしたBETAを燃やす。
涙の一つも出やしねぇ。
本当に心には何もなくなって、
泣いたのはその日の夜、たった一人で寝たときだ。
昨日まで一〇人いたのに今は一人。
無人のベッドを夏の夜空に煌めく星々が照らした。
悩んでも、大した意味は無い。
悩んでも、現実は変わらない。
「──まったく、大したことねぇよ」
声に出して、東野は自らに言い聞かす。
視線を夜空から足元に戻す。
長くなった煙草の灰は、そのままコンクリートの床に落として足で散らした。
視線を下に向けたまま、東野は聞いた。
「死守しろって言ったら、さ……。正直、守る気あるか?」
二本目の煙草を口に咥えた坂上は、急な質問に驚かなかった。
坂上が口に咥えた煙草を離し、東野は手に持つ短くなった煙草を吸った。
「それが子供の明日に繋がるのならば、喜んで守るよ」
躊躇いの無い、坂上の返答。
その言葉を裏付けるような、坂上の力強い視線。
彼が言う“子供”とは教え子のことだろうか?
それとも血を分けた実子だろうか?
東野には分からない。
ただ、彼は煙草を咥えたまま唸った。
唸りながら、右手でボリボリと荒々しく頭を掻く。
形容する言葉を持たない東野の複雑な感情を示すかのように、低くとも弱々しいとも苛立たしいとも受け取れる唸りは、紫煙と共に彼の唇から漏れた。
その後、肺に残った僅かな空気を溜息として吐き出し、煙草をもう一息深く吸って、三度夜空を見上げる。
昨日と同じ、満天の星空。
遠くに見える工場と、街の明かり。
それらが微かに東野を照らしている。
肺に詰めた紫煙を吐き出す。
「──本当、俺には向いてねぇよ。組長なんざ……」
「君なら、出来るさ」
「言うだけなら、簡単だよな」
「……まぁね」
東野は夜空を見上げたまま、坂上が肩を竦めたのを感じた。
「だけど、もうみんな一蓮托生なんだよ。君も笠原君も、そして千葉一曹もね。だからこそ、皆で協力し合わなければならないんだ」
「また、その話かよ……諦めわりぃな……」
彼らの会話は、もう暫くだけ続く。
坂上と東野が煙草を吸っていた時、事務室ではいつものように千葉と樽木が残業中だった。
千葉が防衛計画を書き記したメモを見ながらパソコンを打ち込む。
実際に出撃した際に使用する各種情報や必要事項を自らの情報端末で見れるようにする地道な作業。
以前の第三〇機械化歩兵連隊と第二機械化歩兵連隊では、任務や担当地域が違う。基本的事項は変わらないため打ち込まなくていいが、部隊毎に割り振られている周波数や
小隊長である竹中中尉が千葉にデータを渡さない以上、千葉は睡眠時間を削って打ち込むしかない。
ついでに言えば、樽木も貰えていない。
千葉も一時、他の班長から回して貰うことも考えたが、それはそれで苛つく。
どうせ、自分が使いやすいようにカスタマイズした方が良いと考え、夕方の出来事を思い出しては苛々しながらキーボードを叩く。
「全く、あいつ等本当に根性ねぇな」
今日の夕方、八つ当たりと自らの筋トレを兼ねて行ったトレーニングを思い出しながら愚痴を零す。
無論、あいつ等とは真木野たちのことだ。
「流石にそれには同意しかねます、はい」
きっぱりと正面の事務机で作戦地図を広げていた樽木が異議を唱える。
新兵たちは徴兵からまだ一ヶ月も経っていない。
そのことを鑑みれば、充分頑張っているのは事実である。
「以前の部隊じゃ、マンツーマンで教えたんだがな」
『そんな事は理由にならない』と言わんばかりの千葉の口調。
露骨に顔を顰めてみせる。
「うへぇ!! その新兵、まさか、自殺とかしていませんよね!?」
樽木が素で驚いて心配した。
彼ですら新兵として千葉にワンツーマンで教育を受けるとしたら即座に断る。
「馬鹿言うな。一七の小娘がちゃんと耐えきったぞ!」
驚かれたことに驚いた。と、言わんばかりに千葉が言い返すと、今度は樽木が椅子から腰を抜かして驚いた。
「いや、絶対、その
「──なにッ!!」
間髪入れずに注がれる千葉の怒気籠もる視線と怒声に樽木がびびる。
「──うわっ! ごめんなさい! すいません! いきなり怒んないで下さいよ!」
睨まれる居心地の悪さから、樽木は露骨に視線を逸らした。
用もないのに、事務室の窓から夜空を見上げる。
そんなとき消灯ラッパが鳴り、駐屯地中の灯りが消えた。
千葉が樽木を怒鳴った時、新潟県村上市の直江家では神流が布団の中で寝返りを打った。
今夜は何故か、目が醒めて眠れない。
退院してから、彼女はいつも実家の二階の和室で母親と一緒に寝ていた。
悪夢にうなされる神流のために君江が一緒に寝ることにしたのだ。
そのお陰か悪夢にうなされる回数は以前に比べれば遙かに減り、神流はその他にもいろいろと介護してくれる母に感謝していた。
その母は隣の布団で静かな寝息を立てている。
隣に生きている人がいるだけで安心する。
今日は田中先生と再会し、絵里に励まされ、望と母に助けられた一日。
恩師の優しさ。
友達のいたわり。
家族の温もり。
「──ありがとう」
神流はそう呟きながら、布団の中から夜空に煌めく星を窓越しに見た。
──あの人も……どこかで、この星空を……見ているかな。
同じ空、同じ
一筋の流れ星が、夜空に流れて消えた。
それは東野と、樽木と、神流の視界に焼き付くように軌跡を残して消えた。
幻のような一瞬の煌めき。
それが彼らの心に残る。
「流れ星か……」
東野が訳もなく呟く。
「何か祈るかい?」
坂上は煙草を揉み消しながら聞く。
「先生こそ、何を祈るんだよ?」
東野に質問を質問で返されたが、坂上は即答した。
「世界平和」
はっきりとした口調。
東野には嘘くさい、信じるだけの価値を見いだせない単語。
自分には信じられないが、だが坂上の言葉に嘘を感じることもない。
だから、彼は何も考えず相槌を打つように呟いた。
「そっか──」
東野はそのまま流れ星が消えた夜空を見つめ続け──。
「──お、流れ星! 千葉一曹なら、何を祈ります?」
ちょうどいい話題のネタが天から降ってきた。と、言わんばかりに樽木が千葉に問い掛ける。
『何を祈ります?』
思いもよらぬ問い掛けに、千葉は言葉に詰まった。
走馬燈のように思い出す、さまざまな顔。
中国大陸で共に戦った戦友たち──無数の同期、先輩、後輩、上官、部下。
新潟で散り、新潟で分かれた戦友たち。
舞鶴攻防戦で戦死した弟夫婦。
妻の故郷──舞鶴で死んだ義父母と姪たち。
京都撤退戦で文字通り、塵一つ残さずに蒸発した弟。
自らの決断で突き放した
そして、舞鶴から戻ることが出来なかった最愛の妻と幼い娘。
だが、千葉はそれを自覚していながらも殺意と憎悪でねじ伏せる。
「──さぁな。今さら流れ星に祈ることなど、何も無ぇよ」
千葉は、今は亡き最愛の妻子に復讐だけを誓い──。
千葉のことを考えてた神流は、感傷に浸るように思いを馳せた。
あの万代橋爆破の少し前に、千葉は神流に告げた。
『直江。今の俺には女房も子供もいないぞ。二人とも先に逝ってしまった』
──あの人には、きっとこの温もりすらない。
神流を包み込む、家族の温もり。
今も忘れていない最愛の奥さんと子供さん。
きっと、あの人が一番大事にしていて、護りたくて、失ってしまったもの。
二度と見ることも、触れることも、叶わない現実。
例えようのない喪失感。
千葉と神流が共有する、悲しみの感情。
千葉のそれを思うと、とても悲しくて、切なくて、涙が溢れた。
夜空に現れ、
もう見えぬ流れ星に神流は祈った。
どうか、あの人に──。
あの人にもう一度、逢えますようにと──。