Muv-Luv 関東絶対防衛圏   作:八式健吾

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いや~気付いたら1年以上も間が開いてしまいましたね。

今まで書いていた創作物のデータが結構消し飛んで、復旧できずに凹んでました。
仕事もメンタルをガリガリ削る状態だし、平穏が欲しい。

幸い、この話だけは消えなかったんで投稿続けます。
まあ、消えたのはたかだか約60万文字ちょっとですよ(遠い目。


第28話 笠原と東野

 1998年10月19日 09時38分

 帝国陸軍相馬原駐屯地 

 第2機械化歩兵連隊第3中隊事務室

 

「──樽木さ……んそう! 東野と笠原君が喧嘩してます!!」

「……まったく、何時からここは学校になったんだよ……」

 

 殺風景な中隊事務室に喧嘩を知らせに来たのは真木野と高井の二人組。

 呆れながら彼女たちの対応をしたのは、次の訓練で使う資料を取り出していた樽木。

 当然、千葉もいる。

 それに気付くと、息荒く駆け込んできた二人は背筋を伸ばした。

 慌てすぎてて、自分たちが最も苦手とする人物がいる可能性を失念していたが、千葉は気にしていなかった。

 応接用の安物のソファに腰を下ろしたまま、手元の作業に意識を集中している。

 

「原因は?」

 僅かに呆れたような表情のまま落ち着いた声で問い質す千葉に二人は安堵し、高井が事情を説明しようと口を開く。

 千葉を心底嫌っている真木野が進んで説明するはずがなかった。

「……あの、また……」

 高井が言い淀むと、それだけで樽木は理解した。

「組長の件とかで、笠原が東野に絡んだんだろ?」

「は、はい。……そうです」

「全く。ガキどもは何も考えなくて良いから、本当~に気楽だよな」

 嫌みたらしく付き合っていられないという表情を大げさに浮かべる樽木が、椅子の背もたれに体重を掛けると耳障りな音が響いた。

 樽木は千葉に訊ねた。

「どうします? 千葉一曹。喧嘩両成敗で両方とも殴り潰します?」

「そうだな……」

 千葉は答えたが、そこから先の言葉は直ぐに返っては来なかった。

 彼自身思うところがあるようだ。

 

 不意に千葉の手元からガチャンと金属がぶつかり合う音が響く。

 真木野がチラリと千葉の手元を見ると、89式自動小銃を整備している最中だった。

 よく見れば、彼女たちが使っている物と微妙に形が違ったが、彼女は直ぐに視線を樽木に戻した。

 因縁を付けられたら、また殴られるかも知れない。

 些細なことで殴られたのでは溜まらない。

 好奇心、猫を殺す。

 そんな言葉も思い出す。

 彼女が見たそれは、見る者によっては一目で各種カスタマイズが施された八九式自動小銃改だということが分かっただろう。

 

「10時10分から班のMM(ミッションミーティング)を予定していたが、当初二人だけ別メニューにするか」

「──お、直々に潰しちゃいますか?」

 少しばかり楽しんでいるように言う樽木に、高井は微かに眉を顰めた。

 あの血気盛んな少年たちの自業自得とは言え、そういうのはあまり見ていて気持ちの良いものではない。

 一緒に三輪を捜してくれた樽木のことは嫌いではないのだけど、軍人特有というか、徴兵されて以来よく目に映る暴力的な表現や行為が、高井の中で微妙なブレーキとなっている。

 樽木は悪い人ではないし、真木野も三輪も悪い人では無いと太鼓判を押しているけど、及び腰になってしまっている事は自覚している。

 

 その上、昨日の昼食時に誘われたデートの返事もしていない。

 なし崩し的に決まってはいるけども、高井自身はまだハッキリと意思表示していない。

 出来ることなら少人数で──樽木と真木野同伴でまずは少し落ち着いて話しをしてみたいとは思うのだけど、そんな時間もない。

 そういうことも微妙に影響して、高井は何となく樽木と話しづらくなったような気がしていた。

 千葉は微妙な表情を浮かべる高井を横目で確かめつつも、樽木の予想に苦笑を浮かべながら答えた。

 

「それが一番楽な対処策だが、あいつ等がそれで物事を理解できるようになるのは何年も先だ。今回は説教から入る」

 樽木がわざとらしく目を丸くして口元を歪めた。

「どうしたんですか!? なんか悪いものでも食べたんですか?」

「おいおい。ずいぶん生意気な口訊くじゃねぇか? 高井が見ているからって張り切りすぎるなよ」

「ひどっ! このタイミングでそういう切り返しは無しですよ!」

「今さら何言ってやがる」

 

 そう言って千葉が笑い、樽木が戯け、真木野と高井は驚いた。

 千葉としては高井に『さっさと、二人とも付き合いやがれ。高井、樽木の口はこんなんだけど根は悪くないぞ』とでも声を掛けようかと思ったが止めた。

 彼女は奥手すぎるので、周りがとやかく言いすぎても良くないだろうなと考えたからだ。

 とりあえず樽木に喧嘩の対応を伝える。

 

「どうせ、喧嘩自体は坂上が止めてるだろ。樽木。当初、班MMはお前に任す。予定通り、即動に関して教育しろ。俺は東野たちを説教する。まずはあいつ等を事務室に寄越してくれ」

「ういっす。分かりました。先にMMを始めます」

「おう、頼むぞ」

 

 樽木が資料を挟んだファイル片手に立ち上がり、千葉が銃の整備を切り上げて整備道具を片付け始める。

 完全に居ないように扱われている気がして、真木野は高井に目を向けた。

 高井も同じような感想だったらしい。

 さらに、お互い微かに驚いた表情が残っていた。

 二人とも顔を向き合わせて小声で囁く。

 

「……桃さん、こういう場合は何て言ったらいいんですかね?」

「要件終わり帰ります。で、いいと思うけど……」

「──何コソコソ話してるんだよ?」

「──いっ! いえ、何でもないです」

「──な、何も言ってません!」

 

 樽木が気配もなく近付き会話に入ってくると、二人は慌てて態度を改め、取り繕った。

 要がなければ、こんな場所からは一刻も早く立ち去りたい。

 新兵(かれら)にとって教官・助教がいる事務室とは、いつ何時誰から斬りつけられるか分からない首切り場と大差ない。

 真木野の指揮で規則通りの手順で敬礼をして事務室から逃げる

 

「要件終わり帰ります!」

「じゃ、準備しておきます」

「おう、時間になったら始めろ。もしかしたら、俺は行けないかもしれん。その時は一人でやってくれ」

「了解です。さっさと終わらせてしまいます」

 

 そのまま樽木と共に中隊事務室を出ると、他の仲間がいる教場に向けて廊下を歩く。

 事務室に決して声が届かない距離まで離れてから、真木野と高井は大げさに溜息を吐いた。

 その大仰な動作に樽木が目を丸くする。

 

「おいおい、いきなり溜息なんてどうしたんだよ? 訳分かんないぜ?」

 

 溜息吐くどころか、二人とも膝に手を付いてがっくりと背を丸めて立ち止まった。

 さらに一息吐いてから、真木野が樽木を見上げながら心情を吐き出した。

 

「班長の前じゃ、緊張しますよ。それに、……だって、樽木さん。あの班長が普通の会話にしているんですよ!? これが驚かずにいられるわけ無いじゃないですか!?」

「はぁっ? なんだ。そんなことに驚いていたのか!? そっちの方が驚きじゃねぇか」

 

 半ば呆れ半ば本当に驚いた樽木が高井に視線を向けると、彼女も同意を示すように頷いた。

 引き攣った笑顔を浮かべているところを見ると相当に緊張していたらしい。

 事務室の中では上手く隠していただけのようだ。

 

「樽木……さ……ん、それだけで充分驚けます」

 

 高井は物凄く躊躇いがちに『さん』付けで樽木の名前を言うと、微妙に頬に熱を感じた。

『さん』付けに驚いたのか、それとも微かに頬を赤らめた高井に驚いたのか、樽木もまだ驚いたままだった。

 もっとも彼の場合はほとんど表情に出ていない。

 既に真木野の言葉に大げさに驚いていたから余計に目立たなかった。

 

「そんなに驚くようなことか? あの人、結構普通だぞ」

 

 さも当たり前のように樽木が言う。

 彼にとっては、千葉は基本的には厳しいが結構融通が利くベテラン下士官である。

 近頃では、千葉の下に配属になった事は幸運だったとさえ思っているのだが、その千葉から厳しい訓練を受けている──ましてや殴られている新兵たちからすれば、当然その思いは異なる。

 

「──嘘!?」

 高井が思わず大きくなった声を抑えるように口元を手で隠し──。

「……樽木さん、冗談も程々にして下さい」

 真木野に至っては半眼で拗ねた視線を向けた上に、尖らせた唇を隠しもせずに否定する。

「……いや、ね。……ほら、……ね。千葉一曹もあれが仕事なのよ。仕事。二人とも分かるでしょ、社会人なら」

 

 樽木は千葉との約束事もどこへやら、二人の想像以上に厳しい意見と視線に、上官の擁護をしてしまった。

 本当は良くないことなのだが、異性として気になる高井がいる所為か、それとも元モデルの真木野がいる所為か、口が滑った。

 もっとも本当のところは両方なのかも知れない。

 それに加えて、彼自身の状況判断もあった。

 千葉と坂上が衝突したことも、その内容も知っている。

 お互いに言っていることは間違いではない。

 二人の意見の折衷案を採って欲しくもあるが、いかんせん坂上や真木野たちのレベルが低すぎる。

 そうなると樽木としては千葉の意見に偏りたくなるが、それだけでは駄目だという思いもある。

 かといって安易に坂上の意見を取り入れれば、軍人として、また社会人としての自覚と見識がない新兵たちはただの仲良しグループになってしまう。

 特に高校生だった笠原たちには高校の部活の延長線上になってしまいかねない。

 命の遣り取りをどこまで真剣に考えているかで個人差はあるだろうが、いちいちそんな他人の基準を考慮していては、限られた時間しかない現状では訓練が進まない。

 

「私はあの人が怒鳴っているところしか見たことありません」と高井が呟けば──。

「私にとっては殴られた記憶だけ」と真木野が顰めっ面を作る。

 

 顔面パンチをもらって鼻血を流した真木野が、簡単にその恨みを忘れるわけがない。

 樽木もそこはフォローのしようがない。

 

「まぁ、それはそれ。と、置いといて──」

「無理ですね!」

「そうよねぇ……」

 

 きっぱりと言い切った真木野に高井も同意する。

 殴られたこともさることながら、その理由も彼女たちからすれば厳しすぎると言うことだろう。

 普通に暮らしていれば、それが普通だ。

 

「どうしても?」

「どうしても、無・理・ですっ!!」

 

 少し困ったように樽木が再度訊ねるが、真木野の心は変わらない。

 千葉が直接言わない限り、彼女に対して意味は無いだろう。

 だが、その為に千葉が真木野に謝るとか優しくすると言うことはあり得ないし、言葉一つで真木野の心情が変わるわけもない。

 これらの反感も全て織り込み済みで千葉は訓練を行っているのだ。

 坂上とも衝突した。

 今さら訓練方針を変えることなど、あり得なかった。

 樽木も顔を逸らし意固地になって答える真木野には苦笑するしかない。

 そうなると彼の視線は自然と高井に向いたが、彼女としても千葉に対する感情は真木野と大きな違いはない。

 流石に直接殴られたりしていないのが──その分、誰かが身代わりとして酷い目にあっている。

 何も辛くないわけではない。それによる精神的重圧感(プレッシャー)は、それほど強くない──人の和を重んじる、穏やかな性格の高井には相当に辛い。

 たまに、直接殴られた方が楽なのではないかと思ったりするときもあるほどだ。

 

「高井は……聞くまでもないか」

「何をですか?」

 

 樽木の心配をあっさりと天然呆けで返す。

 気を遣うのも馬鹿らしくなってきた。

 

「いや、高井は千葉一曹のことをどう思っているのかなと思ってね」

 

 いつもの明るい口調で樽木が問うと、高井は彼に向けていた視線を微かに下に落とした。

 彼女は少し言葉を選んだ。

 

「……苦手です。悪い人ではないとは思いますが、近付きたくありません」

 

 高井が返す大人の回答。

 言葉は慎重。

 千葉を断定はせず、自分の意志ははっきりと。

 最後はしっかり樽木に視線を戻す。

 この意見を覆すのは容易じゃないなぁ。と、樽木は心の中でぼやいた。

 これ以上、弁明するのは上官の方針に逆らうことになるし、今までの努力も無駄になる。

 上官を庇って、高井に嫌われてしまっても困る。

 ここまで考えるとこの話題は打ち切って、全く別の話題に切り替えた方が得策だ。

 

「まぁ、しょうがないか。それより、俺としてはデートの約束の方が気になるんだけど──」

 露骨に話題を切り替える樽木は正に三枚目といった役どころだったが、真木野と高井はそれを嫌がる様子もなかった。

 振られた話題に微笑みと弾んだ口調で応えて、皆がいる教場へと歩いて行った。

 

 

 

 ──約5分後。

 教場で喧嘩していた東野と笠原は樽木の指示で目の前にいた。

 剣呑な雰囲気を隠そうともせず、お互いに何も喋らずに足を肩幅に広げ両手を後ろに回した“休め”の姿勢で上官である千葉の前に立つ。

 千葉は自分の椅子にいつも通りに座り、片肘を突きながら、目の前1メートルのところに並び立つ二人の顔を観察した。

 

 東野と笠原の顔に目立った傷はない。

 多少頬が赤いような気がするが、医者に診せるほどでも無いと判断する。

 どうせ、パンチが入った程度だろう。

 死んだりするわけ無い。

 本当に痛ければ──何か問題があるほどの怪我だったら、後で言ってくるだろうから、その時でもいい。

 どうやら、思った以上に素早く坂上が二人の喧嘩を止めたようだ。

 彼だけでは腕力的に無理だろう。

 きっと胡桃沢や田淵も協力したに違いない。

 その上、真木野と高井も素早く中隊事務室に来た。

 と、いうことは、結果論的にだが、新兵たちは思った以上に団結し始めていると思って良さそうだ。

 

 良い傾向だと、千葉は口には出さずにほくそ笑んだ。

 

 そうでなくては嫌われ者に徹する意味がない。

 千葉の訓練方針では、部下との心理的な距離は広がることは織り込み済みの事項。

 一週間経たずに、まともな兵士にしろと言うのだ。

 厳しい訓練になることは当然で、さらに言えば、いくら時間があるからといって優しい訓練だけをしてもまともな兵士には成れない。

 結果、どうしても厳しい訓練となる。

 それを今さら変える気など毛頭無く、ならば嫌が応にも生まれる反感を如何に有効的に活用するか、だ。

 坂上や真木野たちには今のところ上手くいっている。

 千葉が班員に課す連帯責任を回避しようと、内心は別かも知れないが協力するようになってきている。

 顔を合わせて一週間ちょっと他人たち──ましてや新兵であることを考えれば、なかなかの成果だ。

 

 残るは、目の前に立たせている二人のガキどもだ。

 懲罰として二人を殴っても、仲良くなるわけ無い。

 今、千葉がしなくてはならないことは二人が喧嘩をして班集中訓練の効率を低くすることを防ぐことだ。

 

「──さて、一応確認するが、どうして喧嘩した?」

 

 千葉がいつもの調子──ドスの利いた低い声で穏やかに問い質すが、東野と笠原は即答しなかった。

 東野はふて腐れたように視線を逸らし、笠原は何か言い掛けたが直ぐに唇をきつく閉じた。

 千葉の対応は単純明快だった。

 

「──がっ!」

 

 突然、笠原が短い悲鳴を上げて膝から崩れ落ち両手を付く。

 

「──な!? ──ぐっぁ!」

 

 驚いた東野が笠原に視線を向けようとして、彼も同じように短い悲鳴を上げて片膝を付いた。

 

「俺が聞いているんだ。答えろ、クソガキども」

 

 苛ついた口調で、千葉がもう一度訊く。

 二人が片膝を付いたのは、千葉が彼らの脛を座ったままとはいえ、蹴り飛ばしたからだ。

 千葉が履いているのは半長靴と呼ばれる軍用ブーツの一種で、安全靴と同じように薄い鉄板が爪先と靴底に仕込まれている。

 靴底は踵ならば厚さ3センチを超える硬質のゴムで、格闘の際に上手く使えば相手の肋骨など簡単に折れ、重さは片足で1キロは優に超える。

 それを適当に──だが、少なくとも青あざが出来る程度の威力で蹴り込んだ千葉は、片膝付いた笠原を見下しながら、再び訊いた。

 

「もう一度、訊く。どうして、喧嘩した?」

「……それは……──くっ」

 

 言い淀む笠原に、千葉は素早いビンタで応えた、モーションを気取らせない、スナップの効いた速度優先の軽い平手打ち。

 苦痛よりも屈辱を目的とした行為。

 それほどの威力はない。

 今まで繰り出したビンタに比べれば撫でたようなものだ。

 

「もう、お前には訊かん。黙っていろ、ボウズ。東野、喧嘩をした理由は何だ?」

 

 理解できない蹴りとビンタで呆然とした笠原を無視して、千葉は既に立ち上がった東野に訊いた。

 澄まし顔で立っている東野だが、時折ズキズキと疼く脛の苦痛で顔が微かに歪む。

 彼が見た目だけでも取り繕うのは、千葉に対しての不良少年らしい意地か、それとも笠原に対する意地か、またはその両方か。

 

 どちらにしろ、千葉には関係ない。

 

 だが、その東野の努力は決して無駄ではなかった。

 千葉の中で東野の方が、やはり笠原よりマシだなという判断がより増したからだ。

 東野は高校の時もそうだったのだろう。視線を逸らしながら答えた。

 

「笠原が喧嘩売ってきたから買った」

 千葉が無言で座ったままの速いだけの蹴りを出し、東野はそれを()()()()()()()()()()()()()

 結果、東野はまた顔を顰めたが、無様な声は上げなかった。

 無論、千葉もそれには気付いた。

 

「てめぇ、殺されたいのか。ハッキリ答えろ」

「笠原二等兵が、俺が組長だから喧嘩売ってきました。だから、買いました」

 

 今度は顔をちゃんと千葉に向けて言った。

 やっとまともな返答が来た。

 まだまだ、東野には“教育”が必要だ。と、心に留める。

 お互いに生きてさえいれば、その時間は充分にある。

 

「東野。最後まで殴り合った場合、勝ったのはお前か? それとも笠原か?」

 

 笠原が怪訝な表情を浮かべた。

 それは今、話すべきことか? 

 

 東野は挑戦と受け取った。

 この俺を試している、と。

 

「俺が勝つに決まっています」

「──なに!」

 

 東野は気色ばむ笠原を一瞥もせずに言い切った。

 スポーツや勉学の勝負なら勝てそうにもないが、喧嘩なら別だと態度と言葉で表す。

 それに対する千葉の反応は、笠原を驚かせ──そして東野を困惑させた。

 

「ならば、良い。負けるんじゃねぇぞ」

「……っ! ──ウイッす!」

「はい、だ。ボケ」

「はいッ!」

 

 一瞬なにを言われているか理解し損ねた東野だったが、分かった途端に威勢の良い返事をした。

 単純なヤツだと苦笑混じりに千葉が注意すると、それにも素直に従った。

 てっきり悪者扱いされると思っていた東野には、まともな扱いだったので正直に言うと嬉しかった。

 中退した高校時代を思い出せば、喧嘩したら相手にどんなに非があろうと喧嘩両成敗で納得がいかなかった。

 あの時に比べれば、千葉の扱いというのはある意味では公平なんだと、ふと気付いた。

 

(……へぇ、こんな軍人もいるのかよ。実は結構、まともな扱いじゃね?)

 

 東野がそう思っても、それに客観的な公平さは無い。

 彼はまだ徴兵されたとはいえ、軍人となって一ヶ月ちょっと。

 それで出会った軍人など、軍隊という巨大組織の中のごく一部だ。

 彼の中では意外な対応した人物というのが、ただ単に千葉が最初だっただけに過ぎない。

 

 そういった点では笠原も同じだった。

 徴兵されて一ヶ月にも満たない彼にとって千葉はある意味、笠原が直ぐに思い浮かべる軍人像そのものになっていた。

 まして、千葉は彼の上官である。

 平等に扱われているとは思えなかった。

 ここは普通──笠原の人生経験上では喧嘩両成敗ではないのか? 

 

「笠原、どうして喧嘩を吹っ掛けた?」

「……東野が不真面目だったから、注意したら口論になり、喧嘩になりました」

 

 問い掛けに不承不承答える笠原は、少し言葉を選んでいた。

 千葉と東野の雰囲気を見るに班長は不良の味方としか思えなかった。

 笠原の心に打算が働き、自分が不満に思っていることは隠して、東野の非を上げることに徹することにした。

 

「不真面目とは、具体的にはどんなことだ?」

 

 驚いた様子もなく千葉は笠原に先を促した。

 ばつが悪そうな表情を浮かべた東野には興味を示さない。

 

「次のMMの準備をせずに作業をサボろうとしていましたので注意したところ、『テメェには関係ねぇ。勝手にやっていろ』と罵倒された上、逃げようとしましたので、肩を掴んだところ腕に打撃を受け、殴り合いになりました」

 

 笠原が真実を少しだけ大げさに──無論、東野にとって悪い方向に誇張して説明する。

 それに反論しようとした東野の口が動きかけて止まった。千葉の威圧感のある視線に負けた形である。

 

「それはそれで反省して貰おう。だが、笠原、お前の不満はそれだけか?」

「いえ、何もありません」

 

 口調もそれほど変えずに千葉が言うと、笠原は半ば本気に半ば演技で怪訝な表情を浮かべた。

 物わかりの良い自分は、上官に不平不満を言うことなどありませんよ。と、言わんばかりの口調。

 千葉はだからこそと言っても良いが、そんな分かり易すぎる演技をする笠原を信用しない。

 それに笠原が気付くことはない。

 時分は上手くやれるし、上手くやっていると思っている人間が自らの行動を顧みることなどほとんど無い。

 

「そうか。だったら、それで良い。今後は東野の指揮下に入り、東野の命令を素直に聞いて、各種作業を実施せよ。東野、午後の訓練準備はお前が仕切れ。出来なければ、新兵全員で血反吐を吐いて貰う。今から、俺と樽木が指揮する時以外は、お前が第一班の指揮をしっかりと執れ。今までのような半端なことは許さん」

「──なっ!!」

「……マジかよ」

 

 事も無げに千葉が命令すると、笠原は情けない驚きと不満の声を上げ、東野は責任を投げ出したくて呻いた。

 

「東野」

 

 千葉がドスの利いた低い声で東野の名を呼ぶと、返事は一瞬だった。

 

「了解しましたッ!」

 

 腕力では絶対敵わない。

 それは単純かつ絶対的なものとして理解しているだけに、こういう点だけは東野の反応は素直過ぎるほど素直だ。

 ただし、その先の事とか、具体的にはどうするかなどに関しては彼の思考は及んでいない。

 

 千葉としては、今はそれでも構わないと思っている。

 どうせ徐々にしか出来ないのだ。

 怒鳴りつける回数は他の新兵より増えるだろうが、それもどうしようもないことだ。

 東野には我慢して貰うしかない。

 嫌ならば、早く成長することだ。

 そうすれば、班集中訓練初日の朝に宣言したとおり、千葉たちが殴ることも怒鳴ることも無くなる。

 

「笠原、不満は無いと言ったな。ならば、実戦で俺と樽木が戦死した際は、東野の下した命令に従え。その命令にお前の命を賭けて戦え。服従しろ。それが、例えお前が嫌いな男の命令であろうとな」

 

 笠原の喉が詰まったような音を立てた。

 命令だと言うことは分かっている。

 理論的にも、組織的にも、法律的にも間違いはない。

 だが、納得できるのか? 

 自分よりも知力で劣り、態度が不真面目で、作業をサボり、やる気の無い者が、戦場で自分の命を左右する命令を下し、それに服従するという現実に不平不満を零すことなく従うことが出来るのか……。

 

「……命令には従いますが、納得できません」

 

 笠原が東野の命令に命を左右されることに我慢できるわけがなかった。

 

「何が納得できない?」

 

 からかうような千葉の口調。

 事実、千葉は笠原が激昂することを期待している。

 見え透いた挑発であろうと、笠原は我慢できない。

 いや、我慢すべきでないと彼は判断した。

 千葉の態度がどうであれ、発言は許可されているのだ。

 実戦で東野の命令で死ぬことに比べれば、千葉に怒鳴られようが殴られようがまだ易しいことだ。

 

「……東野のような不真面目で、自分よりも無能な人間が自分の命を左右する立場に立つことに納得できません!」

 

 あからさまに馬鹿にされた東野が殴り掛からんばかりの表情で笠原の横顔を睨み付けるが、笠原はそれを無視した。

 彼は千葉に視線を合わせて真っ向勝負を挑んだ。

 が、千葉にとっては笠原の内心や思いなど塵芥。

 瑣事に過ぎなかった。

 生真面目な少年が大真面目に言ったことをあしらうように鼻で笑った。

 

「なんだ。いちいちそんなことから言わなきゃならんか」

「私にはどこがおかしいのか分かりません!」

 

 顔を怒りで真っ赤にした笠原が、それでも礼節を守って上官に抗議する。

 

「私が東野よりも劣るとは思えません!」

「だったら、俺にとってはお前が東野より上だと言うことが分からない。お前はそれを俺に何も証明していない」

 

 やれやれと言うように千葉が告げると、調子に乗った東野が尻馬に乗った。

 

「俺がお前に喧嘩で負ける訳ねぇーだろよ」

「──そんな事ないッ!」

 

 笠原は揶揄する東野に間髪入れずに反論すると、逆に挑発し返した。

 

「自分は喧嘩でも東野に負けませんッ!」

 

 なにッ! ──と、逆上する東野を一切無視して笠原は千葉だけを気迫の籠もった双眸で睨むように見つめると、千葉は唇の右端を意図的につり上げて不敵な笑みを浮かべた。

 千葉の視線が鋭くすると、僅かに笠原の上体が反ったように微動した。

 だが、視線は逸らさない。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()……。

 

 千葉は素直にそう思った。

 有り体に言ってしまえば、何も考えずに意地を張るだけの喧嘩は楽しい。

 二人の確執を煽ることを即断した。

 この流れは悪くない。

 むしろ、好ましいほどだ。

 今の自分がお世辞でも良い表情を浮かべているとは思えない。

 その程度のことは千葉とて自覚している。

 だが、隠す気はない。

 むしろ、見せつける。

 

 千葉春久という人物の中にある、狂気にも似た闘争本能を見せつけるように気配が変わった。

 その千葉の殴り掛からんばかりの殺気にも似た気配に素早く反応したのは、意外なことに笠原ではなく東野だった。

 彼の視線は反射的に千葉に向いた。

 何かしらの打撃がくるのかも知れないと、無意識に上官を見た。

 そして気付いたときには、東野の右足は半歩下がっていた。

 原因を一言で言い表すならば、恐怖。

 千葉から放たれるかもしれない打撃を恐れての挙動。

 硬い拳が自分の肉体を抉るように殴る際に生み出される痛み。

 極めて動物的で、反射的な行動の流れ。

 故にそれを押さえ込むことは、その意志の固さを体現している。

 

 笠原は引かない。

 意固地としか見えない持論──自分は東野より有能なので第三組長になるべきだという──その考えを引っ込めない。

 

「自分は絶対負けません!」

 

 笠原が叫ぶように発した言葉が、東野の足を止めた。

 そして、気持ちを切り替えさせた。

 既に二回喧嘩したが、別に負ける気配は微塵もしない。

 笠原は、確かに筋力はある。

 が、今まで殴り合いなどしたこともないような人生だったのだろう。

 東野が危ないと感じたことはただの一度もない。

 初日に千葉に殴られた経験も、その考えを後押しする。

 アレに比べれば大したことない。

 恐れる理由が微塵も存在しない。

 

「俺に喧嘩で勝ってから言えよ! 笠原ッ!」

 

 東野の怒気を無視して、笠原の思考が加速する。

 激情に流され、根拠もなく出た言葉。

 笠原の心の中にあるのは、東野が組長に相応しくないというという思い。

 今までの人生を真面目に努力し続けてきた自分が、東野如き中途半端者に負けているわけがないという意地。

 吐き出した激情。引っ込みはもう付かない。

 

『自分は喧嘩でも東野に負けません!』

 

 根拠はない。

 今までの殴り合いは二戦二敗。

 今日の喧嘩も坂上に止められていなかったら、無様に床を這いつくばっていたのは自分のはず。

 その事実を素直に認められない。

 

『自分は絶対負けません!』

 

 ただの負けん気。

 そう願っているから出た言葉。

 これは東野ではなく、千葉に向けた言葉なのだ。

 上官である千葉の前で宣言した、有るわけがない自分の実力。

 起死回生の一手を求めて、笠原の頭脳がフル回転する。

 宣言したことを証明しなくてはならない。

 それも可能な限り早く。

 出来れば今すぐこの場で証明したい。

 自分が東野に負けていないことを──。

 負けているのは何か? 

 

 ──喧嘩だ。

 

 笠原の頭の中で、何かかがカチリと心の中で填まった()

 

 ()()()

 

 追い詰められて、初めて素直に現実を──負けた事実を受け入れる。

 負けた理由は何だ? 

 一個人の肉体的戦闘能力だ。

 フェイントを掛けられたり、相手の一撃に対応できなかったりして、一方的に負けた。

 これが喧嘩という枠組み(ルール)の中で負けた。

 

 どうやったら勝てる? 

 喧嘩で勝つための確定事項はない。

 そんなものを持っていたとしたら、笠原が東野に喧嘩で負けるわけがない。

 

 だから、再認識する。

 自分は殴り合いで劣っている。

 

 思い出す。

 殴られて負けた場面を。

 

 だけど、それで終わりじゃない。

 ()()()()()()

 同じ勝負事だ。

 相手が勝っていることは良くあることだ。

 そんなことには慣れているだろう。

 

 自らを叱咤激励して、己の心の手綱を持つ。

 感情を抑え、事実の列挙。目的を確認。

 今、必要なことは班長に自らの意見を具体的に示すこと。

 

 野球に例えるならば──。

 

 自分が打者で、東野が投手。

 相手は剛速球で三振を取るタイプ。

 明らかに自分のバットは振り遅れてる。

 試合はまだ序盤。点差は2点。

 リードされたままで、得点圏内にランナーはいない。

 打てない現状。このままだと押し切られる。流れが変わらない。

 

 ──負ける。

 

 それは駄目だ! 

 負けてはならない! 

 だから……──。

 

 まず『()()』を変える。

 

 脳裏に掠める一瞬の閃き。

 笠原の背筋を走る衝撃に似た何か。

 気付く。

 何か、目の前が晴れ渡ったような錯覚。

 答えが見つかれば、決断と実行はあっという間だった。

 

 こうすればいい。

 ただ、それだけ。

 それだけで気が楽になった。

 絶対ではない。

 保証もない。

 だが、何も出来ないより遙かにマシだ。

 笠原の口元がふっと緩む。

 少年は間髪入れずに動き出し、千葉はそれを察して目を細めた。

 

「──東野! くらえ!」

 

 ()()()()()()()()、右拳を大きく振りかぶった。

 分かりきった右ストレート。

 俗に言う、テレフォンパンチ。

 

 東野の反応は迅速だった。

 笠原に生意気なことを言われ、既に彼の方に正対していたのでなおさらだ。

 わざわざ殴られる気はない。万全な体勢ではないが、殴られるよりも先に殴り倒そうと素早く右ストレートを放つ。

 風呂場でも、今日の喧嘩でも、一撃で勝負を決めた右ストレートの正拳突き。

 

 ()()()()()、笠原は叫んでから右拳を振りかぶった。

 

 笠原の左手が乾いた音を立てて、東野の右ストレートを弾き逸らす。

 

(──なッ!!)

 

 驚きに目を見開いた瞬間、東野の視界が衝撃と共にぶれた。

 顎を打ち貫かれ、崩れた体勢を無意識の動作で踏み止まる。

 

 一瞬動きが止まった。

 

 もしも、笠原が喧嘩や格闘技の経験があったならば、そのまま決着が付いたであろう。

 だが、笠原にそれはなく、東野にはそれがあった。

 

「──てめぇ!!」

「──っ!」

 

 踏み止まり上体を起こす反動と動きをそのまま打撃に繋げ、反撃の右ストレートを放つ。

 反射的に動いた笠原の左手が直撃を防ぐが、その衝撃までは無かったことに出来ない。

 東野の腕力そのものに負けた笠原の身体は蹈鞴を踏んで後退った。

 

「──止まれッ! ガキども!」

 

 ()()()()()()()()()()千葉が止めに入る。

 

 様々な理由により止めざるを得ないと推察していたが、その通りになって笠原が小さく笑った。

 それを見て、自分が馬鹿にされたと思った東野がさらにいきり立ち、飛び掛かってきそうなほどの気配を感じさせるが千葉の抑止力は絶大だった。

 もっとも、こうなるように千葉は初日に東野の金的を蹴り上げたのだ。

 機能しなかったら、千葉は東野をまた殴り飛ばすだけのことだ。

 その中で、機先を制する為に笠原は胸を張り高らかに宣言した。

 

「これで証明できたと思います!!」

 

 東野は胸を張って宣言する笠原を睨みながら、少し呆気に取られて首をひねった。

 

 ──こいつ、なに馬鹿なことを言い出しているんだ? 

 

 千葉は一息吐いた後に、笠原の思惑に思い至った。

 それと同時に呆れた。

 

 ──このボウズ、ここまで頑固なのかよ。

 

 クソ真面目な面構え。

 高校野球の伝統とも言うべき丸坊主。

 幼い頃からやり続けているだろう野球で鍛えた細身だが筋肉質の身体。

 日本における真面目を連想させる要素をふんだんに(ちりば)めた外見。

 そんなものが今はただの石か岩にでも見えてきそうだ。

 

 だが、その一瞬後に面白いことを思いつき、千葉は静かにニヤリと笑った。

 

 ──悪くない。

 

 笠原は、千葉のその表情を確認して、自らの思惑が成功したことを確信した。

 その上で、満足げな笑みを浮かべてもう一度宣言した。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「──はぁ!? 何言ってやがる、テメェ!」

「まぁ……。一応、その通りだな」

「──へ?」

 

 詭弁に激昂した東野だったが、その詭弁を認めた千葉の一言に不意を突かれて間抜けな声が漏れた。

 東野としては理解しがたい二人の会話が続く。

 

「そうだな。一応ではあるが、()()()()()()()()()()()()。無論、勝ってもいない」

 

 千葉が小馬鹿にしたように念を押す。

 

「これからも負けません! そして、次は勝ちます!」

 

 ここまでやった以上、笠原としては一歩も引けないと思っている。

 その思いだけで返事する。

 

「……根性だけは認めてやろう」

 

 笠原の企みを見抜いた上で乗ってやる。と、千葉は口にはしないが尊大な態度で示した。

 その一言で、笠原は俗に言う『気を付けの姿勢』──つまり直立不動の姿勢を取った。

 直感的な判断だったが、おおむね間違っていない。

 ここまで上手くいったのだ。

 下手なことをして、千葉の心象を悪くしたくない。

 

 東野は千葉を見つめた。自分の上官が何を言い出すか、何を思いついたのか、彼には想像も出来ない。

 

「東野が組長であることが、どうしても納得できないお前のためにチャンスをやる。一ヶ月後に東野と笠原、お前達を戦技で競わせて、それで勝った方を新しい第3組長にする。それまでは東野が第3組長だ。いいな?」

「──はい!」

 

 笠原は既に博打に勝った気持ちが一杯で、清々しいまでの表情を浮かべ勢いよく答えた。

 野球の試合で考えれば、苦し紛れのセイフティバントが成功して出塁した状況だ。

 これからは足を使って投手を──つまり、東野を苦しめればいい。

 まだまだ我慢しなくてはならない状況だが、今までの絶望的とさえ感じていた事態からは一気に好転した。

 あとは、一ヶ月後の勝負で勝つだけだ。負ける気なんてさらさら無い。

 

「……訳わかんねぇ」

 

 東野は擦れた声で、そう呟いた。

 彼にしてみれば勝ってたはずの勝負で、急に審判から負けを言い渡されたような気分だ。

 正に理解不可能。

 

 千葉とて、その点は理解している。

 彼としては、ここで東野を焚き付けて成長を促したい。

 他に有効な選択肢がないから東野を第3組長にしているのだ。

 結果が出るのはまだ先ではあるが、これも一つの選択だ。

 仮に東野がふて腐れ、負けん気を出さず、また努力もせずに笠原に負けるようであるならば、それはそれで良し。

 笠原が成長して東野を上回るならば、悩むことなく第3組長を変えるだけの話である。

 

「一ヶ月後の勝負は幾つかの戦技を行った総合点で判定を下す。が、俺たちは機械化歩兵だ。当然、格闘技は入れる。東野、喧嘩じゃ絶対負けないって言っていたが、今のままではそれすら危ういな」

 

 半ば茶化すように言ってから、千葉は東野に目を向けた。

 

「……俺、絶対負けねぇすよ」

 

 苛つきを無理矢理に押し殺した東野が、笠原に睨みながらしっかりと答える。

 笠原も負けじと睨み返し、二人の間にはそれなりの緊張感が漂う。

 その間で千葉は椅子の背もたれに体重を掛けたまま、面白そうに口元を歪めた。

 充分すぎる成果だ。

 

「あとそれから、今から勝負の時まで殴り合いの喧嘩は禁止だ。怪我したら、正確な実力が分からなくなる。異論はないな」

「ありません!!」

「……分かった」

 

 勢いよく答える笠原と、渋々と答える東野。

 東野だって、ただの間抜けな馬鹿ではない。

 千葉の魂胆は、あのあからさまな態度を見れば大体は察する事が出来る。

 彼としては組長としての地位など、どうでもいい。

 やらなくて済むなら助かったと思うほど嫌なことだ。

 

 しかし、それ以上に、笠原から馬鹿にされ続けることは嫌なことだ。

 

 両方とも嫌なことで一緒に投げ出してしまえれば楽だったに違いないが、それは出来ない相談だということは彼にも分かる。

 望みもしない勝負事に立たされて、負けても勝っても嫌なことだけで、明確なメリットが見えない。

 だが、意地もある。

 このまま負けるのも、かなり気にくわない。

 負けた場合のデメリット──笠原に馬鹿にされ続けるだろう未来は、特に我慢できない。

 結果、東野は渋々と了承の意を伝えることになる。

 

 笠原は喜色満面の笑みを浮かべ──。

 東野は苛つきと敵意を隠さず──。

 その間で、千葉は一人ほくそ笑んだ。

 

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