一九九八年一〇月一〇日 一三時二〇分
新潟県村上市某所
遠くに見える蒼い稜線とその近くに漂う白い雲。
遙かな高見から地を照らす太陽はまだ高く、その光を楽しむように小鳥の群れが飛ぶ。
収穫の終わった田んぼの上では蜻蛉たちが踊るように飛び、森を眺めれば紅葉を始めた木々が美しい景色を作り出す。
山々を流れる風は穏やかに吹き、時折枯れ葉が宙に舞い、優しい日の光に包まれた平和な田園風景。
そんな中、紺のスカートと白いブラウスに青い淡色系のカーディガンを着込んだ神流が、田舎町を走る市営のバスから降り立ち、見慣れていたはずの景色を一瞥する。
彼女は入院していた村上市の病院から母親に付き添われ、生まれ育った故郷に約二ヶ月ぶりに戻ってきた。
神流の目に映る故郷の景色は何も変わらず、移り変わったのは季節だけ。
もう最後だと思って故郷を見たのは、夏のある日。再び戻ってきた今日の季節は秋。
生まれてから幾度となく過ごしたはずの故郷の景色は何も変わっていない。
なのに、何かが違うと感じる。
その違和感の正体を神流ははっきりと言葉に出来なかった。
どうしても思い付かない。
もしかしたら、思い出したくないのかもしれない。
そう考えながらも次第に考えるのを止めた。
そんな神流の鼻腔を刈り取られた稲穂の匂いがくすぐる。
無意識に神流は一息吐いた。意識よりも体の方が、緊張感を先に抜いた。
非日常的な戦場から、日常的
彼女の心はその事実を正しく認識していなかったが、その変化は劇的であり、そして、その可能性は有り得ないはずの出来事だった。
娘を追うようにバスを降りてきた神流の母親――直江君江が、幼子を連れて歩くように神流の左手をしっかりと握った。
半ば無意識の動作では会ったが、母親である君江はもう二度と愛娘の神流を戦場に送りたくないと心底思っている。
それは無理もないことだったが、彼女――君江には別の心配もあり、それが彼女にそのような行動を取らせていた。
君江はつい先ほどまで居た村上市の病院で、幾度となく精神科の医者から釘を刺された注意事項を思い出す。
彼女の娘――神流は重度のPTSDにより、戦場にいた間に記憶の欠落または混乱や錯乱等の症状が確認されており、特に酷い場合は周囲の状況を全く認識せずに過去の出来事を思い出してパニック状態になるという。
君江は神流のパニックを見たことはない。
その目で見たことがあるのは入院中に凄惨な出来事思い出した――君江は経験した出来事を具体的にはまだ何も聞いていない――神流が全身に脂汗を浮かべて嗚咽しているのを何度も見ている。
心配した彼女が娘の背をさすりながら励まし手を握ると、アザが残るのではないかと思うほど強さで握り返された。
何もかも拒絶したように娘が毛布にくるまり、誰かに詫びながら泣き続けるのも繰り返し見た。
深夜に悲鳴を上げながら飛び起きたのは一度や二度ではない。
身も心もぼろぼろに傷つき、それでも確かな自我を保って生きているのは、不十分とはいえ比較的早い段階で強制暗示を受けたお陰ではないかと医者からは説明されていた。
そして、その医者が囁いた忠告は母親である君江を恐れおののかすには十分すぎた。
もう一度神流が戦場に行ったら、命尽きる前に精神的なストレスで廃人になりかねないと釘を刺された。
それと同時に医者は無情な現実も母親に伝えた。
重度のPTSDではあるが、彼女の娘はまだ完全に実施していない強制催眠暗示等で『ある程度』日常生活に支障なく過ごすことが出来るようになる可能性が極めて高い――つまり、具体的には錯乱して銃乱射等をしない程度まで回復すれば、間違いなく帝国軍は復員候補者リストに載せると言い切った。
この一言が、母親を震え上がらせた。
戦場に行ったことのない君江にはどのような事が起きたのか、経験したのか、想像しか出来ない。
まして、娘が廃人になりかけてしまうような凄惨な出来事を具体的には想像できない。
だが、共感は出来る。
想像も出来る。
医者が分析する限り、神流のPTSDは友人や知人など大切な人を失い、さらに生命の危険が連続して経験した為のものと聞いている。
君江は徴兵されたことはないが、大陸に出兵した夫がBETAより殺された過去がある。
さらに言えば、今年の夏に起きたBETAの日本侵攻では三人娘の長姉である智美も戦死した。
その悲しみを思い出す度に泣きそうになるが、その経験が残された三人の娘のためになるならば何度でも思い出そうと、彼女は覚悟していた。
そんな母親の決意とは無関係に、神流は右手を誰かに向けて降ったのち、はっと何かに気付いたように動作を止めた。
「……? 神流、どうしたの? 誰か来たの?」
少し緊張しながら君江は神流に問い掛けた。
素早く、だがその動きを悟られぬように目を左右に走らすが、辺り一帯には誰もいない。
真っ昼間に時間を持て余しているような人は今の日本にはほとんど居ない。
健全な者は戦場に向かうために軍に入り、何かしらの技能を持つ者は忙しなく働き、子供は将来の為にと疎開先の学校に通う。
誰もいない中での神流の行為も、この現象も、既に予想された事象の一つ。
ゆっくりと娘の正面に立ち、その瞳を覗き込む。僅かではあるが母親より娘の方が背が高い。
君江の視線は少しだけ上を向いた。
「……うん……。ごめん。見間…違…い」
ぼそぼそと言葉を零す神流を見た君江は有無を言わせず、繋いだ手を引っ張ってバス停のベンチに向かった。
娘をそこに半ば強引に座らせてから、血の気を失い青ざめた娘の頬を両手で優しく包んで、その瞳を覗き込んだ。
彼女が恐れていたとおりに娘の瞳には生気が無く、虚ろな眼差しを母である自分に向けていた。
それから数秒後。神流は何も言わず、ゆっくりと下を向いた。
何も言わぬ娘に掛けるべき言葉が出てこない。
話しかけることを躊躇う自分に、どうしようもない苛立ちが生まれる。
それでも一瞬たりとも娘から視線を放さない。
「どうしたの?」
深呼吸1つ挟んでの母の問い掛け。
遠い昔、神流がなかなか泣き止まない子供だった頃のように優しく落ち着かせる声で訊ねる。
神流はその声で不意に溢れかけた涙に、はっとなって素早く指先で拭った。
躊躇う。
――言って良いのだろうか?
そんな戸惑い。
下唇を噛み締めて、溢れかけた嗚咽を堰き止める。
君江は神流の癖で何か意地になった時は下唇を噛み締めることはよく知っている。
そして、早くも主治医が告げた起こりうる現象が生起している。
だから、君江は静かに深呼吸した。
逃げてはいけない。
娘を救うためならば、母親は逃げてはならない。
だから、一言で核心を突いた。
深く、途方もなく深く――娘の幸せだった日常と思い出を掘り起こして抉る。
何もかも吐き出させるために――。
「神流が見たのは、佐知子ちゃん。――でしょ?」
優しい言葉を並べて見て見ぬ振りをするのは容易い。
その後のこと考えなければ、誰もが選ぶだろう選択肢の一つ。
その一つである誤魔化すという行為を、神流の母親である直江君江は投げ捨てた。
言葉の刃で間違いなく愛娘の心を抉ったことを、握りしめた娘の手の震えから感じ取る。
本当は母とて怖い。
何も知らない自分が、娘に再び地獄を思い出させて苦しませるのだから。
それでも娘に辛い思い出を話させなければならない理由がある。
このまま、神流の
――心の中で猛毒のような記憶が消えることも薄まることもなく。
思い出すたびに健全な心を削っていったら、娘の
主治医が君江にしつこく注意していた点はそこだった。
何が何でも悲しい思いを口に出させなくてはならない。
そして、ごく僅かでも良いから精神科医のカウンセリングがまともに機能するようにしなくてはならない。
下手にまごついていたら、娘は強制的に『催眠療法』を実行され『戦場に再び立たなければならなくなる』可能性が高い。
それが何時なのかは分からないが、精神科医のカウンセリングが意味を為さないと判断されてしまったら、神流に対する『治療』は打ち切られ、戦場に立たせるための『処置』に切り替わってしまう。
ならば――。
道は一つしかない。
どうにかしてでも、たっぷりと
直江君江は病室で愛娘と再会した日の事は今でも鮮明に思い出せる。
あのとき正直に言えば再び愛娘と抱き合えるという幸運が、現実のものだとは信じることが出来なかった。
始まりは、九月二八日の深夜に掛かってきた一本の電話。
その電話の音で布団に入ったばかりだというのに叩き起こされた、あの瞬間。
なぜか予感があった。
虫の知らせと言うものだろうか。
やけに電話が気になる日だったことを覚えている。
電話が鳴った瞬間に跳ねるように飛び起きて、慌てて電話を取った。
『夜分遅くに申し訳ありません。帝国陸軍の者ですが、直江君江さんはいらっしゃいますでしょうか?』
落ち着いた男の声――それも明らかに二十歳を超えていそうな男性の問い掛けに、君江の体は堅くなった。
その瞬間、母の脳裏に掠めたのは、どこかの見知らぬ戦場でボロボロの戦闘服を身に纏い、四肢を食い千切られ、虚ろな瞳のまま、血の海の中で物言わぬ骸と成り果てた三女――神流の姿。
背筋を走る悪寒に体が震えた。滑り落ちかけた受話器を慌てて掴み直すと、どもりながらも必死になって言葉を探した。
まるで縋り付くように、離さないように、受話器を両手で握り、耳を澄ます。
あっという間に乾いて張り付いてしまった唇の皮を、剥ぐかのようにして声を絞り出す。
『――は、はいっ! わ、私が直江君江ですけども……。どちら様でしょうか……?』
そこから話が進まない。
いや、進ませることが怖い。
脳裏に掠めた不吉な想像が現実のものだったとしたら、もう耐えることが出来ない。
そんな考えがその身を浸す。
夫は満州で死んだ。
長女も対馬海峡で死んだ。
次女は無事だが、今日も太平洋側のどこかで戦術機を操り戦場を駆け巡っている。
そして三女はこの数日間、全くの音信不通。
またも脳裏を掠めるあの想像――愛娘の死。
早鐘の様に鼓動を刻む心臓が痛い。
あまりの緊張に胃が締め付けられるように痛み出す。
そんな事は夢にも思わないのだろう。
電話から聞こえる男の声は、あくまでもいつも通りという感じだった。
喋り出しに力みもなく、初めての相手でも動じた様子は全くない。
それが訳もなく――否、自分が娘のことでこれほど苦しみ、心配し、怯えているのに、全く関係なく喋る様がとても心を苛立たせる。
『初めまして。自分はご子息の直江神流上等兵の上官だった千葉春久と申します。直江上等兵に関して緊急かつ重大な事態が発生しており、電話致しました。メモ帳など筆記用具の用意をお願い致します』
『――なにがあったのですか!? 神流に何があったのですか!? あの子は無事なんですか!? 生きているんですか!!』
千葉に対する返答よりも、メモ帳の準備よりも、矢継ぎ早に叫び声に近い言葉が出た。
『教えて――』
『――生きています』
性急に返事を求めるあまり続けて喋ろうとする君江の声を、千葉の落ち着いた力強い声が遮った。
はっきりと事実だけを述べたその一言が、君江の動きを何もかも――心臓の鼓動さえもまるで一瞬だけ止めたようだった。
そして再び心臓が鼓動を響かせたとき、涙と共に感情が溢れた。
――歓喜。
たった一つの感情が母親の身も心も埋め尽くす。
生きている。
その一言だけで涙が出た。
娘が生きている。
その事実を胸の中で反復するだけで、涙が溢れて止まらない。
今まで意識しないようにしていた不安がもたらす緊張は、本人の想像を遙かに上回っており、それが切れた反動は激しかった。
体が震えて、声は嗚咽に変わった。
それが聞こえないようにと片手で口を塞いだが、大した意味はなく、その声は千葉の耳によく残った。
ありがとうございます。ありがとうございます。
と、言葉にならない言葉で、ただ娘が生きていると伝えてくれた人物に何度も繰り返した。
正確に言ってしまえば、君江は千葉という存在を忘れかけていた。
止めどなくこぼれ落ちる涙で歪む視界には、薄暗い室内も電話器も映っておらず、脳裏に浮かぶ神流が幼子だったときの姿しか見えていない。
その情景――幼稚園帰りの神流が、母親である自分に気付き『おか~さぁ~ん!!』と無邪気に大声で上げてはしゃぐ姿。
夫を失い、それでも四人の娘を育てねばと日夜の別無く働いていた、精神的にも肉体的にも辛い日々。
それでも耐え切ったのは亡き夫と交わした約束と一重に娘達の笑顔と愛情の賜に他ならない。
夫との愛、親子の愛、家族の愛。
直江君江にとって、己の全てと感じていたほどの大事なもの。
だが、それは最早、彼女には決して取り戻せない。
昔、君江のすぐ側にあった家族の団欒という幸せは、既に修復不可能なほど壊れている。
夫は満州で喰い殺された。
愛した男の体は、肉片一つ髪の毛一つ異国の地から帰ってこなかった。
長女は対馬海峡で戦死した。
陽気で母親思いだった娘は、対馬からの光線属種の攻撃で乗り込んでいた軍艦ごと海の藻屑になった。
次女は京都防衛線を生き延び、今も五体満足で生きているが、人が変わってしまった。
神流と遊びながら、妹たちの面倒を見ていた次女は二度と笑わなくなってしまった。
三週間前に突如帰郷し、自室に残っていた全ての物を形見分けして処分すると、座敷の机に書き上げたばかりの五つの遺書を茶封筒に入れて置き、静かに口を開いた。
『お母さん、御免なさい。これから私は復讐の為に戦います。だから、私は――直江律子はもう死んだと思って下さい。神流が無事に帰ってこれるように、私が今までよりもっと、もっとBETAを殺します。必ず、日本を守ります。だから――。だから――。どうか、三人で仲良く暮らして下さい』
それだけを告げると次女は振り返りもせず戦場に向かった。
それ以来、手紙も電話も一切無く、完全に音信不通である。
四女はまだ中学生だ。
まだ疎開していないため今は一緒に暮らしているが、次々と姉を失い、本来の無邪気さは影を潜めた。
そんな日々を過ごしていた君江は無意識に三女の神流が生きているという可能性を諦めかけていた。
その様々な悪い予感を否定した、神流の生存という確固たる証言。
まるで低く立ちこめた雨雲が瞬く間に消え去り、辺り一面を眩しい太陽が照らしたかのような錯覚。
それはある種の幸福感にも似たものを君江にもたらしたが、続いて千葉が発した言葉はそれをいとも容易く半壊させた。
『直江上等兵を重度の精神疾患等により強制的に一時除隊させます。お母さんである貴女には申し訳ありませんが、
『――重度の精神疾患って! 何があったのですか!?』
『重度のPTSDです。詳しく説明する時間はありません。メモの用意はよろしいですか? 直江上等兵が入院している病院と部屋番号を言いますよ』
少しでも細かく知りたいと食い下がる君江に対して、千葉は素っ気なく応じた。
それに得も言えぬ不気味さを感じて、慌ててメモ帳を手探りで探す。
この僅かな会話で君江の中での千葉の心象は最低に位置するものとなった。
無論そんなことは一言も言わず――もう四〇年近い人生経験があるのだから当然でもある――準備できた旨を伝えると、千葉は村上市内の総合病院の名と部屋番号を念のためにと二度繰り返した。
君江も書いた後、二度確認を取った。それから千葉は最後に、と付け加えた。
『
『……? 貴方は一体、神流に……何を、したのですか?』
真意と真実を隠した訳の分からない言葉に胸がざわつき、思わず眉間に皺が寄った。
そうして発した言葉にすら、千葉は無関係のように応えた。
『害を為す様なことは何もしておりません。強いて言えば、ただの自己満足です』
その言葉で君江の眉間にさらに深い皺が出来た。
何もないならば言うような言葉でもない。
さらに問い質そうとする気配を察したのか、千葉はそれを無視して言葉を続けた。
『病院の当直には一報入れておきましたので、今からでも面会は可能です』
『――分かりました。すぐ病院に行きます』
千葉の一言で君江は病院に駆け付けることに決めた。
神流がどの部隊に所属しているかは既に知っているので、この上官に詳しいことを問い質すのは夜が明けてからでもいい。
駐屯地に電話を掛ければ済むことだろうと即座に判断する。
深夜なので交通手段は限られるが、通勤用のスクーターなら問題無い。
ガソリンが配給制になったため納屋に放置しているが、燃料タンクにはまだ残っている。
そう決断すると一言だけ礼を述べて電話を切った。
それから三〇分後――もうすぐ日付が変わる頃に、君江は麻酔で寝たままの神流と深夜の病室で再会を果たす。
次の日の昼に娘が所属していた部隊に電話を掛けたが、応対した軍人には千葉と名乗った人物は確かに居たが、数日前の戦闘で行方不明になったと告げられた。
不可解に思う君江ではあったが、男が言ったとおりに神流は入院しており、様々な書類が入った大きな封筒も二日後には彼女の家に届いた。
封を開き、その書類を見て最初に感じたことは、千葉という男への嫌悪と侮蔑。
いかがわしい男で本当に実在の人物なのかとも疑ったが、書類の存在自体が千葉が実在していたことを確固と証明している。
今となっては、あの男が生きているのか死んでいるのかは分からない。
目の前の愛娘は、今も悪夢に苦しんでいる。
神流に実在するかどうかも怪しい男との関係を問い質したい気持ちもあるが、PTSDに苦しむ様を見れば、聞くのも躊躇ってしまう。
千葉が行ったことに関しては嫌悪もするし侮蔑もするが、彼自身は少なくとも悪人ではないと感じている。
間違っても、娘の命を危険に曝すようなことはしないだろう。
その証拠に神流は君江の元に生きて帰ってきて、さらには一時除隊――予備役扱いになっている。
これらの現実の前では、出会ったことも無い男の詳細など気にする程の余裕も無く、また必要性も高くない。
その結果、次第にそのこと自体を忘れてしまうこともある意味、無理のないことだった。
そうして、直江君江は神流の前に居る。
だが、なぜか目の前にいる三女が幻のように感じた。
霞か霧か、まるで掴みきれない何かのような気がする。
再会してから二週間近いのに、君江は神流がどこかに行ってしまったかのように感じることがある。
なぜなら――。
生んでから、つい二ヶ月前まで、自分の傍らにいた愛娘は明らかに変わっていた。
その間にも、神流の震えは次第に大きくなり手から腕に、腕から足にと広がり、顔からは血の気が失せ、額には見えるほどの脂汗が浮かび上がった。
泣き出しそうに
そう、直江君江の三女――神流は怖がっていた。
心をじわじわと締め付けるように増え続ける恐怖で考えが纏まらない。
少しでも気を抜けば意識が遠のきそうになる。
訳もなく叫びたくなる衝動を必死に押さえ込むと、胸が文字通りに締め付けられるような痛みを発した。
勘違いでもなく、幻想でもなく、本当に胸部の中央が押し込まれ、締め付けられるように痛い。
それで意識が途切れてしまえば楽なのかもしれないが、意識を失うことも、目を閉じて暗い闇に落ちることも、
BETAが此処にいるわけがないのに、根拠のない被害妄想のような恐怖がどうしても拭えない。
(言っていいの? 本当に全て話していいの? 私は――)
神流はただ純粋に怖かった。
無条件に自分を癒そうと努力して、毎日介護してくれる優しい母親。
戦場で過ごした日々の中で忘れかけた暖かな温もり。
それらを感じながらも、それに縋り、頼り切ることが出来ない。
(私は――!!)
神流は母親の視線から逃げるように顔を伏せて下唇を噛み締めた。
泣き叫びそうな自分を、下唇を噛み締めて必死になって抑える。
いつも――高校に進学して徴兵されるまでの二年半の間、ほぼ毎日ここのバス停から通学していた。
朝に中学一年生からの友人である横山佐知子と待ち合わせてで乗り、夕方にはここで共に降りる。
そうして他愛もないことを少し――時には長時間――話し込んでから、ここで「バイバイ」と別れて家族が待つ我が家に帰る。
二ヶ月前に途切れた、もう二度と繰り返すことがない日常。
理由なんて特にない。
原因なんて分からない。ただ
バスを降りた神流には、友人の佐知子がいつものように「バイバイ」と手を振っているのが見えた。
その一瞬後、佐知子は消えた。
まるで死んでいることを神流に見せつけるように幻と消えた。
神流にも分かっている。
今見えたものは幻。
自分が見たのはただの幻影。
その証拠に儚く音もなく消え去り、痕跡一つ残さない。
あの初陣の日、いつも隣に居て、そして戦車級に喰われて死んだ友人が生きているわけがない。
頭から飲み込まれた佐知子が肉片と成り果てた、あの一瞬は今もこの目に焼き付いている。
戦車級の口から噴き出た佐知子の生温かい血を全身に浴びたことは忘れられない。
呆然とする自分の唇を濡らしたドロリとした赤い血。
髪を濡らし、滴り落ちた鮮血は神流の戦闘服にさらに深く染み付いた。
耳を
二度響いた絶叫の一つはハッキリと、そして二つ目は戦車級の口の中から聞こえた。
佐知子は飲み込まれる直前、恐怖で悲鳴を上げた。
甲高く、鼓膜を破りそうなほどの悲鳴。
戦車級に頭から一口で飲み込まれた佐知子は、足首だけを残して、神流の視界から消えた。
そして不幸にも、即死出来なかった少女は戦車級の奥歯で噛み砕かれた時、激痛と逃れられない死により二度目の悲鳴を上げた。
ばりぼりと骨が噛み砕かれ磨り潰される乾いた音と咀嚼音、そして絶望の、声にならない泣き叫ぶ悲鳴。
それは神流の耳にはくぐもった音で聞こえた。
戦車級の口の中から響く友人の絶叫は、その口が咀嚼で開く度に大きく聞こえ、噛み砕かれる度に小さくなり、瞬く間に聞こえなくなった。
ただ、不気味な口が友人だった肉塊を咀嚼する間、骨がボキリと折れる音が途切れることが無く、筋繊維が切れながらブチンブチンと微かに不気味な音を発した。
咀嚼の回数が増える度に、佐知子だったものから絞り出された赤い液体が、強大な口から溢れ出て大きな水たまりを作った。
神流の友人であった横山佐知子は、戦車級の中で生きたまま噛まれ、砕かれ、磨り潰され、骨を砕かれ、苦痛を味合わされたあげく、絶望のまま絶命した。
その時、神流には絶叫したような記憶がある。
なんと叫んだのかは分からない。
言葉になっていなかったのかもしれない。
ただ叫んだような気がする、曖昧な記憶。
目の前の光景だけが脳裏にこびり付いて、それ以外のことが曖昧になっている。
おそらく、その直後に手に持っていた小銃を撃ったはずだった。
そうでもしなければ生きてはいないだろう。
結局のところ、友人の死の直後から神流にはハッキリとした記憶がない。
思い出したくない。
きっと思い出したくないから無意識に封じ込めた記憶。
本当ならば、友人の死すらも忘れ去りたい。
だが友人の死に様は、それ自体を忘却することを決して許さない。
千葉たちと共に過ごしていた間は滅多に見なくなっていた悪夢の一つを、郷愁漂う生まれ故郷で見ただけのことに過ぎない。
その事実が、神流の心に軋みを上げて苦痛を生む。
その事実に、少女の心が恐れおののき恐怖で満ちる。
(――いつまで私は正気でいられるの?)
消えぬ思い出と、それが心身を蝕む恐怖。
今だってそうだ。
真っ昼間から幻覚を見るような自分がまともだとは思えない。
自分は大した自覚症状もないまま、徐々に壊れていっている証拠ではないだろうか。
そう考えると、背筋を走る戦慄で思考が凍る。
皮肉な事に、神流は自らの状況を半ば客観的に眺めるように努力していた。
それ自体は神流自身が無意識に死にたくないと考えているからに他ならないが、その考えが行き着く先の治療方法や対処方法までには少女の思考は達していなかった。
彼女自身で出来たことは付け焼き刃の自己暗示だけだ。
それでも、その努力のお陰で、戦場でBETAを見た途端に狂乱するようなことも気絶するようなことも無かった。
否。死の恐怖が、過去の恐怖を上回っただけかもしれない。
正気を失うかもしれない恐怖が少女の心身を蝕む。
まるで鉄に浮く錆の様に、食べ物に浮かぶカビのように侵食して、神流を形作る有形無形のものを音もなく、ゆっくりと、だが確かに蝕み続ける。
神流は戦場での出来事を思い出しては、心身共に疲弊していく自分をはっきりと自覚していた。
そして最終的に行き着く先は、発狂して正気を失うであろう事に恐れおののいている。
目眩がして、視界が霞む。
恐怖で萎縮した体が勝手に震え始めて、神流は縋るように母の腕を掴んだ。
それに応じて母の手が背中に優しく慰めるように撫でてくれるが大した効果はなく、怯えた自分の指先が母の腕に食い込んでいく様を知りつつも、それを押さえることが出来ない。
優しく抱き締めてくれることに縋りつつも、泣き出しそうな顔を見せられなくて、顔を上げることが出来ない。
サチが死んだことは理解しているのに!
人が生き返らないことは知っているのに!
今、目に見えたことは幻にすぎないのに!
――怖い!!
神流の心が悲鳴を上げた。
母親をこれ以上心配させたくなくて、下唇だけは噛み締め続けて嗚咽を消す。
溢れ出す涙は出るに任せた。
瞳を閉じれば闇が出来る。
それすら、怖い。
私は怖い。
BETAが怖い。
いつも私のすぐ側や物陰にあの異形の怪物達が潜んでいるような気がして、疑心暗鬼になる。
いつかどこからとも無く現れて襲いかかって来るような気がして、目を凝らす。
あの異形を思い出すだけで殺された人たちの最後を思い出して、身が竦む。
いなくなった人たちとの何気ない会話を振り返っては、二度と戻らないと虚無を感じる。
この先の人生で、未来を感じることが無く生きていることに意味を感じられなくて、何もかも投げ出したくなる。
不意に友人だった佐知子の悲鳴や幼馴染みだった智美の死に様を思い出せば、理由もなく殺される恐怖で周囲を見回す。
何にでも恐怖する自分。
理屈や理論で、説明も解決も出来ない本能的な死への恐怖。
徐々に自分が正気を失っていくのではないかという恐怖。
だが、それだけが神流を苦しめているのではない。
(サチを助けられなかったのに――……)
そう。
あの状況下で、神流は友人を助けられなかったと悔やんでいる。
自分は助けることが
絶命の悲鳴が鼓膜を劈いたあの数秒間で、救出出来たはずだと考えている。
確かに理論的には不可能ではない。
だが、あまりにも非現実的でもある。
皮肉な事に生き残るために有効に機能していた彼女の冷静すぎる思考の一部が、まるで自らを罰するかのように考えている。
その上、その思考はまるで駕篭の中のネズミが風車の中を走り回し続けるような堂々巡りから抜けられない。
サチが襲われる直前、あの戦車級を見て二人とも硬直してしまった。
神流はサチが戦車級の口の中で二度目の悲鳴を上げる前に、あの戦車級を殺すことが出来なかった。
あの時は
そう、悔やんでいる。
富山での初陣で半ばパニック寸前に陥った神流と佐知子は、戦いの最中同時に弾切れを起こした。
無理もない。
今まで見たこともない異形の怪物たちとの生死を賭けた戦い。
まるで砂浜に押し寄せては引く波のように延々と続く攻撃。
時速五〇キロ以上の速度で突進してくる戦車級の群れ。
それらは彼女たちが装備する六四式自動小銃の一発では絶対に倒せない。
必然的に連射が多くなったが、素人に毛が生えただけの学徒兵では無駄弾も馬鹿にならない。
狙った敵に弾を当てる事も、本当は簡単なことではないのだ。
ほんの二週間前まで、学校の教室の中でときには将来を語り合い、ときに他愛もないことで笑い合っていた一八歳にもならない学徒兵達。
命令一つ、葉書一つ。
意思の確認など一度もなく、国家と人類と家族のために命を賭けろと徴兵された。
神流も見も知らぬ厳つい軍人達に迎えられ、手荒く戦闘服などの個人装具を渡されると、腰まであった自慢の長い髪は乱雑に切り捨てられた。
たった一〇日間の訓練。
その内容は六四式自動小銃の分解と結合、そして射撃訓練。
それですら最初は怖かった。
耳栓をしていなければ難聴になるほどの銃声と、その体を貫く火薬の反動。
それらが怖くて反射的に目を瞑れば教官に怒鳴られた。
短い訓練期間で教えられた号令はごく僅か。
教えられたのは『射撃用意』『撃て』『撃ち方止め』『伏せ』『突撃』『着剣』程度の号令――基本的な集団行動の号令は、教育基本法の改正により小学生の頃から教え込まれている。
短い訓練の間で特徴的だったのは、初めてBETAの映像を見たことだった。
初めて画像ではあるがBETAを見たとき、現実感がなかった。
いや、正確にはそれらは失せていた。
異形としか言いようのない生物たちの群れが、市街地と人々を襲う記録映像はおぞましすぎた。
徴兵された学徒達は、大型種のようなサイズの生き物が実際に存在できるのだろうか、まず自分の目を疑った。
四階建てのマンションがそのまま走ってくるような突撃級の迫力。
蟹のように巨大な両腕――全幅は約三〇メートルを超える黒い前腕部を振り回してビルを打ち砕く、人の顔のような感覚器を付けた四本足の要撃級。
巨大な目玉に人の足が二本だけ付いたような重光線級は全高約二一メートルを――つまり七階建てのビルに相当する高さ。
一番大きいと言われる要塞級至っては全高約六六メートルと二〇階建てのビルを超える高さともなれば、それが進撃する様は山が動くのと大差がない。
小型種が小型とか言われても、それは嘘だと思った。
言葉こそ小型だが、それは大型種と比べてのことであり全高約三メートルといえば、建築物で言えば二階の高さと大した差異はない。
至近距離なら見上げねばならないほどの大きさ。
赤い体躯で人と同じような歪な腕で襲い掛かり、人と同じような形をした巨大な――開けば一メートルは優に超える口で兵士や兵器を噛み砕く六本脚の戦車級。
多少はボカされていたが、人が喰い殺されるという衝撃的なシーンでは、ほとんどの者が気分を悪くし――神流もその一人であり、吐き出す者も結構いた。
さらに
巨大な白いキノコのような歪に膨れた頭部と人の顔を模したとしか思えない顔が生理的嫌悪感をもたらす兵士級に至っては、その姿を正視することすら苦痛だった。
生々しくも凄惨な記録映像を見せられた夜は、徴兵された少年少女たち全員が不安に駆られて深夜まで話し込んだ。
そして、それが目的だったのだろう。教官達はこの日だけは深夜一二時まで、それを許可した。
その結果、次の日の訓練から誰も不満を言わなくなった。
元々表立って言うことなど無いが、影で言うことすらなくなった。
訓練で強くなって生き延びなければ、数日後にはBETAに喰い殺されてしまう現実を映像で見せつけられたからだ。
それら僅か六日後。
神流たちの初陣は、帝国本土防衛軍が富山市街地外縁に急遽構築した即席の塹壕での迎撃戦となった。
市街地を阿鼻叫喚、死屍累々の餓鬼道地獄に作り替えたBETAどもが、新たな獲物へ目掛けて――つまり迎撃しようとしている神流たちに目掛けて突進してきた。
神流たちが数キロ離れたところにいるにも関わらず、視界を埋め尽くし、砂煙を立て、地響きを響かせて迫り来る大小様々な異星から来た怪物たちの群れ。
人類を喰い殺し、地球を食い尽くすために到来した異形の怪物達が、神流たちを喰い殺そうと迫り来る。
それは遠近感が失せ、現実感が消失する、あまりにも非日常的な光景。コマ送りのように迫る地獄からの使者。
いや、BETAなら地獄すら食い尽くすだろう。
そう思わせるような信じがたい世界。
これが神流が生きている世界だという現実。
事前に見せられた映像など嘲笑うかのような現実の恐怖と絶望。
銃を生まれて初めて手にしてから、僅か一二日目の初陣。
六四式自動小銃の弾倉交換が素早く出来なくて視線を手元に落としながら――小銃を見ながら、必死に新しい弾倉を交換し終えたとき、佐知子の目の前には覆い被さるように一匹の戦車級が大きな口を開けていた。
薬室に初弾を送り込むために
何もかも凍り付かすような佐知子の甲高い悲鳴は、最後まで言うことすら叶わず異形の怪物に飲み込まれて途中で途切れた。
もう一度、くぐもって響く友人が発する絶命の悲鳴。
噛み砕かれる骨の乾いた音。
生きながらにして肉が噛み切られ、肉片に変わり続ける形容しがたい重く湿った音。
巨大で汚い歯の隙間から噴き出た鮮血。
それを全身に浴び、髪の毛からはまだ温かい血が滴る。
歪な口元から絞り出されるように血が滴り落ち、鉄の臭いを充満させる。
浅く掘った塹壕内に充満する血の臭いが鼻を突いた。
それはまるで友人の血肉を飲み込んだかのような錯覚を神流にもたらし、瞬時に込み上げた吐き気を押し止める。
神流の意識がどこかに飛んだ忘我の一瞬。
ただ、その瞳と耳は目の前の出来事を何一つ見落とすことは無かった。
(怖い――!!)
あの時を思い出して怖い。
手足が震え、呼吸が浅くなる。
心臓が早鐘を打ち、意識が朦朧となりかける。
(お母さんは……。本当にお母さんは私を責めない? 私を軽蔑しない? 蔑まない?)
私は助けられなかった。
大の親友であった横山佐知子を助けることが出来なかった。
母も彼女のことは知っている。神流も佐知子の両親を知っている。
この真実を告げたら、母は自分を責めないか?
そんな事すら考えてしまう。
(サチは私の隣で死んで――、私はサチの隣で生きていて――。……一体、何が違ったの?)
それは運命のいたずら。
そうとしか言いようのない戦場の現実。
それを神流は知らない。
知っていたとしても納得出来ない。
結果、神流がどんなに考えても、その事を理解出来ない。
だが、これこそがこの世の理。
歴然たる事実。
不変の真理。
サチの両親のことを思えば、心が痛む。
自分の母がそうであるように、サチの両親だって娘の無事を願い、無事の帰還を待ち侘びていたことは間違いない。
彼女の両親や幼馴染みの両親も、神流の母親と共に徴兵された自分たちを見送ってくれたのだ。
あの徴兵された日、駐屯地に運ばれるバスの中で神流とサチ、それに由利香はもう二度と両親を見ることが無いだろうと泣いた。
両親達も泣いていた。
誰が愛する家族と死に別れたいと思うものか。
そうして、潜り抜けた数え切れない実戦。
あの時、同じバスに乗った友人知人は誰一人生き残っていない。
あのバスで生き残った者は――全員が同じ部隊の配属ではないため――神流の他にも居るかもしれないが、ごく僅かであることは疑いようがない。
少なくとも神流が生まれ育ったこの村で生き延びた学徒兵は彼女一人しかいない。
(もしかしたら、助けられたかもしれなくて――)
そう思うのが自然かもしれない。
だが、これは神流の錯覚。
戦場で生き延びた者たちの多くは死んだ者たちのことを思い出し、その当時を様々な角度から思い返し、考え抜き、ひょっとしたらどうにか出来たかもしれないと悩み、悔やむ。
それはある意味、正常な精神の働き。
だが、一人は非力。少女一人でどうにか出来る事は限られている。
死の因果をやり直すことなど出来やしない。
(どうして――、どうして私は生き残ったの!?)
戦場で生き残った者たちは様々な場面でそう己に問い質す。
それは人と戦おうが、BETAと戦おうが変わらない。
(喋ったら、喋れたら――!!)
もしかしたら、気が楽になるかもしれない。
もしかしたら、叱責を受けるかもしれない。
自分の母親がそんな事を言うわけ無いと理性では信じていても、生き延びるためにエゴを剥き出しにした人々の中で生き抜いた神流はそれすらも疑うようになっていた。
あの僅か数日間で何人の女性が強姦された?
輪姦をされて殺された?
犯されるのが怖くて毎晩毎晩、学徒兵や女性が身を寄せて寝ていたのは己の身を守るためだ。
その後、何人の男達が処刑された?
憲兵は手っ取り早く規律と風紀を維持するため、犯人達を逮捕すると三日もしないうちに公開処刑にした。
犯人の多くは徴兵されたばかりの普通の男たちだった。
もう明日がないと思った彼らは他人を傷つけるだけ傷つけ、最期まで身勝手に死んでいった。
最も彼らのような者は生きているだけで軍隊の部隊活動に悪影響を及ぼすので、素早く処刑した憲兵たちの判断は正しい。
事実、その直後から部隊の規律は目に見えて良くなった。
神流がそんな心配をせずに眠るようになったのは千葉に拾われてからのことだ。
千葉に拾われた直後、どのような暮らしをしていたかと聞かれたことがある。
彼としては補充兵である神流が、どのような事を経験したかを確実に理解し、善後策を立てる為の質問だったが、神流がさめざめと泣き出すと問い質すことを止めて優しく頭を撫でてくれた。
悩みを打ち明けたのはそれから三日近く経ってからだったが、母親があの戦場の心理と現実を理解してくれるだろうか?
千葉にあって母親に無いものは、戦場という極限状態で築き上げた信頼関係。
母の愛情はきっとそれよりも深いと思いつつも、それに裏切られたら本当に気が狂ってしまうと神流は恐れていた。
今はまだ話し出すことが怖くて堪らない。
(結局……私は、自分の事だけを考えてる……)
母親すら信じ切れない自分を心の中で嘲笑いたくなる。
私はいつの間にこんな人間になってしまったのだろう。
惨めで――。
愚かで――。
悲しくなる。
私は本当に運が良かっただけなの?
本当にそれだけだったの?
そんな疑問が渦巻き続ける。
悲鳴と血の香りを思い出す度に、その渦は大きくなる。
在りし日の幸せの断片を夢想すれば、それを無くした悲しみに打ち拉《ひし》がれる。
だから神流は悩み苦しむ。
身を引き裂くような悲しみと溢れ出る涙と嗚咽を漏らし続ける。
―――私は
そう、ここは神流の幸せだった頃の記憶がある故郷。
それは決して元には戻らない大切さを今まで感じる事がなかった幸せだった日常と、当たり前のように側にいると思った友人と、自分をいつも導いてくれた姉との、幸せだと感じた記憶があった場所。
だが、しかし――。
少女の故郷にその幸せは何一つ残っていない。