一九九八年一〇月一四日 二二時一一分
帝国陸軍相馬原駐屯地 一二号棟
第二機械化歩兵連隊第三中隊男性隊員用廠舎の下士官室の一つ
帝国陸軍一等軍曹 千葉春久 及び 帝国軍三等軍曹 樽木輝元
千葉と樽木に
鉄筋コンクリート製の建物にこれといった特徴がない殺風景な部屋。
白く塗られた壁面と少し汚れた白い天井。
蛍光灯の光を反射するポリッシャーで磨かれたリノリウムの床。
ベッドは三つあるが部屋にいるのは二人。空きがあるのは下士官専用の部屋としているためだ。
一人に対して衣類を入れるロッカーとパイプベッドが一つずつ。部屋の角には安物のソファセット一式が置かれている。
千葉が持ってきた荷物を素早くロッカーに叩き込むが、約半分はFRP製のRVボックスや市販の衣装ケースに入れたままだ。
それをそのまま箪笥代わりにして手間を省いた。
即応用の衣類や様々な小道具を
樽木自身は千葉より三日早く着隊していたため、その手の準備は終わっている。
今日の夕方、中隊長を始めとする上官達との面接を終えた千葉は樽木と合流。
千葉はそのあと身辺整理と関係書類作成のため隊舎内に残り、樽木は班員達を連れての体力トレーニングを行った。
一応、班員との顔合わせと挨拶は千葉も終えているが、大した会話は何もしていないという状況であった。
お互いに明日から残業漬けの日々が始まるわけだが、今のうちに一杯ぐらいはやっておきたい。
ツマミはないが酒はある。
いつもは歯ブラシを立てているマグカップに安酒を注ぐ千葉と樽木。
たった二人しかいない下士官同士の打ち合わせを兼ねたささやかな飲み会だった。
もう半分以上空いたウィスキーの瓶を傾ける――ユーラシア大陸が陥落した今、世界的に麦類を使用した酒類の方が入手しやすい。
千葉は今日のトレーニングの様子を樽木に訊ねた。
「どうだ? ぱっと見た限りでは、
一目見ただけの千葉が歯に衣着せぬ評価を下すと、浅黒い肌と天然パーマが特徴的な――サングラスを掛ければ夏の砂浜が似合う樽木三等軍曹はそれを肯定した。
「もやしというか、根性無しというか、今のままじゃ兵隊としてはクソですね、クソ。道端に落ちてる犬の糞以下。気合いも根性も足りてないですよ。どいつもこいつも金玉付いてないオカマの群れ。明日にでも死ぬ可能性があることを真面目に考えていないんじゃないですかね」
機関銃のように喋り立てる樽木の言葉に、千葉が苦笑を浮かべる。
なかなか口の悪い男らしい。
裏表が大して無くてやりやすいが、これで傷付く繊細な部下がいないことを祈る。
「BETAに殺されるかもしれないことより、軍隊生活の方がキツイと感じているんだろ。人間は辛ければ辛いほど、目の前のことしか見ないからな」
「まったく、そういっちゃ、そうなんですがね。モノには限度ってもんがあるってもんですよ。ヘタレはヘタレで、こっちが言うこと黙って聞いてりゃ良いんですが、愚痴だけは呟きやがるんで、ちょっと切れそうですよ」
そういって樽木がストレートのウィスキーを煽るようにして飲む。
なかなか酒も強い。
千葉もペースを合わせるように飲み干すと、樽木が素早く千葉のマグカップに酒を注いだ。
無論、片手で注ぐような無礼な真似はしない。両手で丁寧に注ぐ。
「誰だ、そんなボケは? とりあえず、そいつから締めちまうか」
そう言った千葉の目が怪しく光るのはウィスキーの所為じゃなさそうだ。と、樽木は新しい上官を観察する。
「ほとんど全員ですよ。締めるのは、まず生意気な東野ですかね。どうします? 手っ取り早く
「確かに手っ取り早いが、一々
そう言って笑う千葉の表情は猛獣の類を彷彿させる。
悪乗りが分かる上官だと樽木も楽しくなってくる。そうですね。と相槌を打った。
「樽木、そのタイミングは俺もお前もチャンスだと思ったら直ぐさまやろう。東野なら一日ぐらい医務室のベッド寝ていても構わん。ボケどもに気合いを入れる方が重要だ」
「了解しましたッ! 任せて下さい! ……ですが、千葉一曹の方が先に殴るんじゃないですか?」
そう半ば茶化すように樽木が笑うと、千葉も笑って肯定した。
「その時はしょうがない。お前は後から別の理由で殴れ」
そう言ってお互いに笑い合う。
ひとしきり笑うと彼らは話題を変えた。
「何か目に付く奴はいたか?」
「いや~、なんたって真木野ですよ、真木野。美人、めっちゃくっちゃ美人! さっすがモデルしていただけはありますね。眼福眼福」
「――で?」
「まぁ、真木野は真面目……い、いや、今のは駄洒落じゃないですよ、真面目に話してますよ、本当に真面目に話してますよ、千葉一曹。今、班の中で一番真面目じゃないですかね。よくあるパターンですけど、女の方がこういう時は真面目ですから。ただ、体格通り体力なさ過ぎです。強化外骨格を着用していようがいまいが、長時間の活動に耐えられるように思えません」
「こういう時は本当、女の方が真面目だよな。ヒステリーと我が儘だけは勘弁して欲しいがな」
そう答えながら視線で次を促す。
「ほんと、そうですよね。ああ、あと高井なんですけど、写真より美人ですよ、なんつーんすか、そこはかとなく女を感じさせるタイプですかね? 胸は真木野よりデカイ! 巨乳! そう巨乳ってやつですよ! あれ自体が犯罪ですね、犯罪ッ!」
「お前、彼女いないんならさっさと手を付けろよ。早い者勝ちだぜ」
「それも考えてます。ですけど、やっぱり体力はないですね。真木野、高井、三輪、坂上、胡桃沢は今日の持続走でよく分かりましたけど、ヤバイですね。こいつらは体力なさ過ぎです。東野は生意気以外、大きな問題なし。笠原、田淵はこれから鍛えるしかないでしょう」
そこで一区切りつけて樽木は酒精で喉を潤した。
「やっぱり一番やっかいなのは、坂上・三輪のインテリコンビですかね」
「頭でっかちか?」
そう言って千葉も酒を煽る。
「大卒なのに士官になれなくてイマイチ納得出来ていない坂上に、大学生だから士官になれると思っていた三輪ですからねぇ。高校中退の東野より下に扱われることは、彼らのプライドが許さないんでしょう。全く、諦めが悪い」
「そんなプライドを持つほど、上等な大学を卒業しているのか?」
二人の学歴までは覚えているが、どんな大学だったかまでは覚えていなかった。
「二人とも国立大学ですよ。東北大学の学生と福岡大学卒業の教師。まぁ、確かに頭は俺よりは良いんでしょうけどね。体力がない中年を士官学校に入れるわけがないし、今まで大学生やっていた文系野郎にこの期に及んで甘い汁を吸わせる理由はないですからね」
「ただの教師が今さら士官になれるわけもなく、かといって教師には戻れない。時代の所為とはいえ憐れだな」
「何か特技があったり、機械とかに強ければ、整備兵とかになれるんでしょうけど、国語の先生と文学少女じゃ、救いようがないですよ。まぁ、三輪は結構美人なんですけどね、なんかインテリぶっているんで俺はあまり好きじゃないですね」
そう言った樽木が、いたずらっ子のように白い歯を見せて笑う。
確かに樽木の学生時代を想像すると、教師が好む生徒だったとはとても思えない。
そう思う千葉も、とてもじゃないが教師に好かれるような生徒ではなかった。
「俺にとって面倒臭いのは女どもの世話だがな。さっさと教え込ませて自力でやらせないと、手間だけ増える」
「ああ、生理用品の調達だったら俺がしますよ。つーか、俺がやります。やります。やらせて下さい」
「好きにしろ。高井を狙うなら会話の機会が少しでも多い方が良いしな。ついで、だ。補給関係はお前に任すぞ」
苦笑を浮かべて千葉が言うと、損得勘定を素早く済ませた樽木は笑顔で了承した。
「任せて下さい、千葉班長。ガッツリと員数確保しますよ」
右腕に力こぶを作って、やる気をアピールする樽木はなかなかの役者とも言える。
結構いいムードメーカーになりそうだ。
こういうのはセンスの問題で鍛えることが出来ないので、樽木のような男の価値は本当に高い。
「任せた」
上機嫌の樽木を横目に、千葉は脇に置いておいた書類入れを手元に寄せると数枚の書類を取り出した。
それをそのまま樽木に渡す。
「――それは?」
「細かい事は省いてあるが、これから五日間の訓練計画だ。目を通しておいてくれ。不都合な点があれば、明日の九時までに伝えろ。一一時には中隊長に提出する」
樽木が興味深そうにパラパラと数枚しかない用紙を捲る。
訓練計画と言っても今はまだ御大層なことが書いてある訳ではない。
その日の時間割と訓練内容が書いてあるだけのものに過ぎないが、一通り目を通すと樽木は真剣な表情で千葉にそれの所見を述べた。
「千葉一曹、この訓練計画だと相当な不満が出ますよ」
樽木の忠告ももっともだ。
千葉自身もその問題点は理解しているので、その言葉に大きく頷いた。
だが、千葉には訓練内容を大きく変える気はなく、変えることが許されるような状況でもない。
荒療治でも何でも良いから、班員をまともな戦力にしなくてはならない。
「俺が鞭で、お前が飴だ。不平不満は陰で言わせろ。それをお前が汲んでやれ」
そういう事まで決めていたのか。と樽木は内心唸った。
着隊してからまだ半日も経っていないが、ここまで考えているとは思っていなかった。
「分かりました……。失礼ながら、器材と訓練場の調整は大丈夫ですか?」
樽木はいくら何でもそこまで手が回っているとは思えなくて確認を取った。
「武器と訓練場に関しては問題無い。射撃訓練に関しては明日、補給幹部と調整する。ということで、明日の朝礼後は昼間までお前一人で奴等の面倒を見てくれ」
「問題無しッ! 計画じゃ午前中は武器の分解結合訓練ですけど、何か特にさせておくような事はありますか?」
「そうだな、銃の分解結合に問題がないようなら、血反吐が出るまでハイポートさせとけ。いきなり暗闇で分解結合出来るようなレベルまで鍛え上げなくて良いぞ。とりあえずの目標は、ちゃんと言うことを聞く素直な兵士に育てよう」
「了解しました。精神要素に重点を置いてシゴキますが……」
そう言いかけていた樽木の言葉が言い淀み、少々躊躇いがちに述べた。
「……本当にこれぐらいしか、手はないんですかね」
「これしか方法はない。……たった一週間で一人前になれる職業なんて、この世にない。どこかで無理させるしかないだろう」
「分かりました。俺も全力を尽くします」
「頼むぞ」
そう言ってから盃代わりのマグカップを打ち合わせると、二人とも残っていたウィスキーを綺麗に飲み干した。
それから千葉は事務室に書類作成に向かい、樽木は班員が脱走していないかを確認しに行った。
一九九八年一〇月一五日 〇七時四六分
帝国陸軍相馬原駐屯地 一一号隊舎前
第二機械化歩兵連隊第三中隊 朝礼場
澄み切った青い空と遠くに見える白い雲。
遠くに見える蒼い稜線。
近くには紅葉の彩りが鮮やかになり始めた榛名山の麓。
綺麗な秋晴れの空と、都会にはない清浄な空気。
山から吹き下りる爽やかな風が気持ち良い。
それが山の麓に位置する日本帝国陸軍相馬原駐屯地を吹き抜ける心地の良い朝。
そこに駐屯する各部隊の朝礼場と言っても特別なものがあるわけではない。
中隊の人間が整列できるだけの場所があり、中隊長が上がるちょっとした朝礼台が有れば事足りる。
今、相馬原駐屯地には多数の――その半数以上は徴兵された軍人が溢れるほどいて、各中隊の朝礼場にすら困る有様だ。
朝礼時は大体戦闘服を着込み、その後の作業や訓練に適した服装で来るのが普通。
だから、徴兵された新兵もほとんどが迷彩柄の戦闘服を着込んでいた。
その朝の清々しい雰囲気全てをぶち壊すように響いたのは千葉の怒号だった。
「――馬鹿野郎ッ!! テメェら、一体、今何分だッ!!!」
今にも殴り掛かりそうな剣幕と誰もが振り向いてしまう怒号に鬼気迫る形相。
朝礼場に集まっていた新兵どもが一斉に千葉を見て、そして目を逸らした。
千葉の目の前には、彼の部下となった八人の新兵が硬直したように直立不動の姿勢を取っていた。
その彼らに逃げ道がないということを誇示するように樽木が侮蔑の表情と共に周りをゆっくりと歩く。
「俺は昨日、ここに〇七四五に集合完了と指示したよな!? どうして、たったそれだけの事が出来んッ! 幼稚園児以下だな、貴様ら!! 三歩歩けば記憶を無くすか!? それとも最初から覚える気が無ぇのか!? どっちだ! この屑ども! 答えろッ!!」
彼の班員は誰も答えない。
むしろ答えると、どんな目に遭わされるか分からないので怖くて喋れない。
だが、答えなければ、さらに悪い結果になる。
そう分かっていても、あまりの千葉の剣幕に新兵どもは唇を真一文字に締めていた。
千葉が全員の顔を舐め回すように睨み付けると、その反応は三つに別れた。
先に――つまり時間内に来ていて自分は怒られる筋合いはないという表情を浮かべる東野、笠原、胡桃沢。
時間内に来ることが出来なかった遅刻組は俯くようにして視線を逸らすか、怒られてどうしようかという表情を浮かべる田淵と高井。
さらに遅れていないが、遅刻はそんなに怒られるような事ではないと不満顔をしている坂上、三輪、真木野。
どうやら基本的な躾が出来ていないらしい。
怒鳴りながら各人の様子を分析した千葉はまず全員を横一列に並べた。
「――東野ッ!! テメェ、先輩としての自覚あるのか!?」
「はいッ! 有りまッ――!?」
突如、骨がぶつかり肉を打ち付ける鈍くて低い音が響く。
東野の口元を打ち抜く鋭い千葉の右正拳。
あまりにも自然に、そして視認できないほどの速さで殴るので何も対応出来なかった。
訳が分からず呆然とし、打撃の痛みに痺れ、殴られた口元を押さえながら崩れ落ち始める東野二等兵。
だが、前のめりに崩れる東野の膝が地面に付くことはなかった。
千葉が彼の頭をまるで足下に飛んできたボールのように真横に蹴り飛ばす。
背筋が凍るような鈍い打撃音とともに、人が人形のように転がった。
今までの常識からは信じがたい光景に、大きく目を見開く千葉の部下たち。
他の部隊の新兵たちも目を見張る中、その光景を下士官達がニヤニヤしながら楽しそうに眺め続けた。
千葉の足下で意識朦朧と「あ…あぁ……っ、…がっ」と呻く東野をつま先で転がしながら言い放つ。
「クソガキ……。何が、『はい』だ。先輩であるテメェが何で後輩を指導していねぇんだよ! それを全然理解をしていないから、こんなに遅れるんだろうが。この、役立たずがっ!!」
罵声を浴びた東野が睨むように千葉に視線を向けた瞬間、彼は「――うぎゃ!!」と小さい悲鳴を上げて再び転がった。
東野が両手で股間を押さえながら悶え苦しむ。
金的への容赦無いつま先蹴り。
声さえ出せないほどの激痛ですすり泣きと苦悶の呻きが重なる。
それを見て東野を助けようと動いた三輪を、樽木は何も言わずに軽く蹴飛ばした。
女だから手加減したとはいえ、蹴りを受けてたじろぐ三輪をさらに押すように蹴り飛ばして――文字通り芝生に転がしてから、樽木は静かに言った。
「勝手に動くんじゃねぇよ、ボケ。次はお前をああするぞ」
静かな
今まで通っていた大学では想像出来る訳がない光景。
彼女にとっては商店街の裏路地で運悪く犯罪現場に出来くわしてしまったかのようなものだ。
そんな周りを完全に無視して、千葉は股間を押さえてうずくまる東野の襟首を両手で掴むと、力任せに引きずり起こした。
「なに生意気に睨んでんだよ、クズ。さっさと立てよ、クソガキ。俺はまだ寝ろと命令してないぞ。なんだ、根性無し。このまま完全に金玉潰してやろうか? 童貞野郎」
突然振るわれた容赦ない暴力。
さらに生命の危険すら感じる急所攻撃を受けた東野に反撃の意志は既に無い。
もっとも、これが彼に出来る最善の行為だった。
仮にまだ反抗の意志有りと示せば、千葉は
新兵への教育は教育であって教育ではない。
実際は犬をしつけるのと変わらない作業だ。
一方的に暴力を振るわれた東野は泣きながら口と鼻から血を流して股間を押さえたままで、生まれたての子鹿のように両足の力が入らない。
急所を蹴られた東野が立つことなんて出来るわけがなく、千葉が手を放すと彼は再び頭から芝生の上に崩れ落ちた。
まるでゴミを捨てるような千葉の動作に班員の視線が集中し、直ぐさま離れた。
余計なとばっちりなど誰もが受けたくない。
樽木に蹴り倒された三輪も慌てて立ち上がり、直立不動の姿勢を取った。
その程度は千葉も樽木も待つ。
それから千葉はまず坂上の正面に立った。
身長は千葉の方が高く、体格に至っては言わずもがな。
体重はおそらく二〇キロ以上違うだろう。
千葉は威圧するように見下ろし、視線を合わして聞いた。
「なにか言いことはあるか?
わざとらしく強調したその一言で、坂上の顔色が変わった。
気色ばんで異を唱える。
「東野君には殴られるような理由がない! いくら何でも、これはやり過――」
そう言っている坂上の顎先に、千葉は右裏拳を叩き込んだ。
先ほどとは全然威力が違う――かなり手を抜いた一撃ではあったが、脳震盪と体格差のため坂上は崩れるように尻餅をついた。
「東野は先輩でありながら、
呆然と見上げる坂上を見下して、次に千葉は三輪の前に立った。
負け犬のように千葉から視線を逸らした三輪の足下に唾を吐き捨てる。
目を逸らしたのは彼女にとっては自然すぎる、いや本能的な動きだった。
立場も、権力も、腕力も何もかも勝てない、暴力的で危険な上官。
一刻も早く、この状況が終わらないかと願わずにはいられない。
その内心を見透かしたように、千葉は小声で「屑だな」と言い渡す。
言われたことなど無いだろう侮蔑の言葉に、身を小刻みに震わせた彼女をしっかりと確認してから四人目に向かう。
次の田淵は既に顔を引き攣らせて脂汗を浮かべていた。
ぽっちゃりした顔と同じように贅肉のついた腹。
身長一七〇センチほどの丸っこい体格。
普通にしていれば愛嬌があるのかもしれないが、今はガクガクと痙攣を起こしたように震えている。
明らかに先ほどから振るわれている暴力に怯えている。
無理もない。
遅刻した張本人の一人はこの少年だ。
千葉は敢えて田淵を無視した。
何も言わず、殴らず、表情すら変えない。
何もないことが信じられないように目を見開いて驚く田淵を無視して、次に進む。
千葉は彼の存在すら無視して、事を進めた。
その事実の行き着く先を素早く理解したのは坂上と三輪だけだったが、千葉の冷酷な部分をはっきりと感じて認識を改めた。
時間に遅れる人間などいらない。
そんな部下は元々存在しない。
ここは学校ではなく、軍隊。
千葉は教官ではなく、指揮官なのだと――。そう二人に知らしめる。
胡桃沢の前に立つ。
元公務員は緊張した面持ちで全身を強張らせながら直立不動の姿勢を保っている。
今までの流れを見て考えたのか、胡桃沢が千葉と恐る恐る視線を合わした。
――だが、次の瞬間。
千葉は胡桃沢の首が折れるのかと思うほどの勢いで、その左頬に平手打ちを叩き込んだ。
無様に――まるで回転が止まる直前の駒のように、よろめきながら倒れる胡桃沢に対して千葉は吐き捨てた。
「――気合い入ってねーんだよッ! 根性無しが!!!」
理不尽極まりない一撃に部下達――樽木以外の全員が凍り付く。
胡桃沢に至っては、酷い仕打ちに衝撃を受け、激痛で泣きそうな表情のまま千葉を見上げるだけだ
だが、その程度では千葉の暴力は止まらない。
「笠原! どうしてお前は
千葉が野球少年の前に仁王立ちとなり睨みを利かすと、それでも笠原は声を張り上げて答えた。
「はい! 準備を手伝って、全員で早く集合すべきでした!」
徴兵されて一月も経っていない新兵としては上出来すぎる受け答え。
必死になって声を振り絞る笠原の額に脂汗が浮かぶ。
東野と胡桃沢の惨状が、自分の未来の姿とダブって怯える。
必死になってそう答える笠原の姿に満足した千葉は、不気味な笑みを浮かべ、皆の生け贄となった少年に宣告した。
「ならば、次からは必ずそうしろ。そうでなければ、次はお前の番だ。お前が失敗しようが、成功していようが関係ない。この班の新兵の誰かが失敗したら、必ずお前を殴る。いいな?」
「――え!?」
笠原には一瞬、言葉が理解できなかった。
無理もない。
他人が失敗したら、自分が殴られるなんて聞いたことがない。
「――え!? じゃねぇよ、クソガキッ! 今度からお前が手伝うのだろ!? テメェ、さっきの言葉は嘘か!? 答えろ!!」
「う、嘘ではありません!」
そう返事はしても、笠原の声は震えていた。
千葉がその言質を意地悪く悪用する。
「お前が失敗しないように手伝うのなら、誰も失敗しないよな? 失敗するってことはお前が仲間を見捨てたからだよな? 違うのか?」
「…………」
「なんだ、返事をする気も無いらしいな、クソガキ――殺すぞ」
「――ヒッ!」
静かに響く死刑宣告に、息をのむ音が隣にいる者にさえ聞こえる。
屁理屈で脅す千葉と青ざめる笠原。
班員の後ろに立つ樽木は、必死になって笑いを堪えた。
ここで笑ってしまっては、千葉の演技が全て水の泡となってしまう。
「返事はどうした! 笠原ッ!!!」
「はいッ! 手伝います!!!」
ここまでくれば、ただの脅迫である。
野球少年が涙目で答えてから千葉は移動した。
残った二人は女だったが容赦しない。
「真木野、テメェは何で遅れた?」
「私は遅れてません!」
そう答えて真木野は気丈に千葉を睨み付けた。
どうせ目を逸らしてもビンタが来るなら、睨んだ方がマシだと腹を括っての行為だった。
千葉は内心、真木野の評価を上げた。
実はこいつ、
「――あぁッ!? お前ここに何分に来たと思っているんだよ、答えろッ!」
「七時四五分です!」
実は彼女たち全員が揃う前から、千葉と樽木はこの朝礼場で新兵達を待ち構えていたのだ。
下手な嘘は吐けないので真木野は素直に答えたが、それに対する千葉の言葉は彼女の想像外だった。
「七時四五分
――え?
真木野は余りにも思いがけない反論に呆気にとられた。
思わず唇が動きかけたが、それよりも千葉が繰り出した右手の方が遙かに早い。
「――きゃっ!」
バチンと頭の中にまで響く衝撃と空気が破裂したような打撃音。
揺さ振られる視界と顔の左側面全体から広がる痛み。
千葉に平手で叩かれた所為だと思う間もなく殴り倒された。
一気に広がってくる痛みと鼓膜にまで響く衝撃で耳鳴りがする。
耳と頬に強烈な一撃を食らったのだと理解するには少し時間が必要だった。
叩かれたところを押さえながらも、必死になって零れ落ちそうな涙を堪える。
屈辱感と敗北感、そして何よりもその理不尽さに耐え切れない。
「――このッ、……!」
と、言って、真木野が腰を落としたまま抗議し掛けて――息を飲んだ。
驚きのあまり、動きかけた桜色の唇が止まる。
音もなく同じ視線の高さまで腰を下ろし、凄まじく不機嫌な表情のまま睨み付ける千葉。
何か言おうとしたが、本能的な危険を察して口を噤むが遅かった。
一瞬、黒い影が霞んで見えた。
顔のど真ん中に食い込む千葉の右拳。
そのまま吹き飛ばされて後頭部を芝生にしたたかに叩き付け、彼女の視界は青い空で一杯になった。
その衝撃と暴力に意識が打ちのめされ呆然としていると、鼻の奥から鉄の匂いが漂い始め、どろりとした血が真木野の喉に流れこんだ。
あまりの出来事に疑問と困惑が頭の中を駆け巡り、身じろぎ一つ出来ず空を見上げた。
――なんで…、どうして? 私、……何か、した?
ただ、訳が分からない。
「一四秒も遅れて、よくもそれだけ生意気な口が叩けるな、この売女。娑婆の常識、
――私が何をしたっていうの?
どうして殴られなければならないの?
「さっさと起きろ、間抜け。拳でその顔、整形するぞ」
――まだ、四五分だったでしょ? なのに、どうして……!?
理由が分からない。
納得が出来ない。
殴られる理由が分からない。
耳鳴りがする。
口の中を切った。
鼻と眉間が痺れて痛い。
今、顔がどうなっているか鏡を見るのも怖い。
「所詮、口だけか……。殴って整形するよりも難民街に裸にして捨てた方が、物覚えがよくなるか?」
鼓膜に響く、その言葉の意味に寒気がした。
そして、この新しい上官は本当にそういうことをしかねないと戦慄した。
千葉が真上から無理矢理、真木野の襟首を両手で掴んで引き上げると、彼女は男が発する怒気に耐えきれなくて悲鳴を上げた。
「――ひっ! や! いやッ!」
おぞましさに目を逸らし、無我夢中で身を捩った。
だが、そんな行動すら千葉は嘲笑うように鼻を鳴らして、真木野を放り捨てた。
「悲鳴だけは一人前か、このドブス。もう一度、俺に生意気な口聞いたら二度と鏡を使う必要がない顔にしてやる」
恐怖に打ちのめされて呆然と涙を流す真木野を無視して、最後の一人である高井に向き合う。
ここまで来ると、千葉が振るった暴力の数々は十二分に効果を表していた。
顔中に浮かぶ脂汗、表情を引き攣らせ、それでも必死になって直立不動の姿勢を取る高井。
きっと彼女にしても、千葉が女にここまで暴力を振るうと思っていなかったに違いない。
普通の男は美人に弱い。
女の顔にビンタは普通の男でも出来るが、拳で殴る男はそれほど多くない。
出来る人間は、ほぼ間違いなくサディストか格闘経験者だ。
たった一四秒遅れて、一言二言言い掛けた真木野でさえ、あれだけ理不尽に殴られたのだ。
一分も遅刻した自分が、真木野より軽い処罰だとはとても思えず高井は怯えていた。
目を合わせるのが怖い。
合わせなければ、胡桃沢のように平手打ちを食らうのかもしれないが、真木野が顔面に打ち込まれた拳よりはまだマシ。
そんな事よりも何よりも、高井は純粋に千葉に対して恐怖が湧いた。
千葉は間違いなく自分が皆より強いことを自覚している。
その上で手加減無く暴力を振るっている――これは高井の勘違いであるが、だがしかし、高井にはそうとしか見えない。
僅かな遅刻を容赦なく
嫌われる軍人像そのものが目の前で暴力を振るっている。
そして、次にそれが自分に来る。
どのような痛みが来るか、どんな風に殴られるかと、嫌な想像が高井の脳裏を駆け巡る。
元モデルの真木野でさえ殴られたのだ。
自分がどのように扱われるか、想像出来ない。
そう、怯える高井。
そして、その高井の顔色が面白いぐらい青くなるのを、しっかりと確認した千葉は田淵と同じように高井を無視した。
ただ、少しだけ理解しやすいように一言だけ付け加えた。
「お前は怒鳴る価値もない小心者だ」
ぼそりと言い捨てて列の中央――並べた部下達が一瞥できる地点に立つ。
怒鳴る価値すらない人間という宣告に高井が衝撃を受けているが、そこは敢えて無視する。
叩き潰しすぎて新兵どもが這い上がってこないようでは、それはそれで千葉たちが困る。
樽木がさり気なく、殴られた者達を立ち上がらせる中、千葉は再教育を兼ねて宣言する。
その一つ一つの動作に周囲の新兵――ほとんどが徴兵された者たちが注視し息を飲む中、千葉の低く、そして、よく通る声が朝礼場に響き渡った。
「良く聞け! 二度も三度も言わん! お前達は軍人だ! そして俺の部下だ! 俺に言われたことは言われたとおりにやれ! 示された時間までに朝礼場に集合する
凛とした態度。
毅然とした口調。
迷いの無い信念。
先ほどの怒気を嘘のように消し、そう言い切る千葉。
彼は暴力を振るうことを恥と思わない。
軍人として、最低限のことを出来ないことの方が恥なのだ。
「――返事はどうした? 声すら出せんか?」
「はい」「……わかりました」「――はいッ!!!」
はっきりとした声で返事を返したのは笠原のみ。
少年は必死になって声を張り上げた。
この班での失敗は、全て彼の責任になってしまう。
そう彼の班長が決めて、宣言したからだ。
無論、笠原以外も返事はしているのだが、口籠もるような返事や呟くような声では大した意味はない。
それをかき消してしまおうと笠原は声を張り上げたのだが、残念ながら少年の意図は空回りに終わった。
「樽木、残念だが俺が言ったことをちゃんと理解しているのはごく少数のようだ。まぁ、言われた事を今すぐ治せるような優秀な奴等でもない。朝礼が先だ。整列させろ。朝礼終了後はお前が優しく指導してやれ。今日の昼までに結果が出ないようならば、また俺が手を出すだけだ」
「了解。――朝礼隊形に整列! 急げ!」
樽木は先ほどまで噛み殺していた笑いが嘘のように真面目に受け答えると、キレのある敬礼を行った。
彼は痛みと恐怖で泣く真木野や東野を手慣れた手つきで立たし、背の高い者から縦一列に並べてから、少し離れたところに立つ千葉の元に駆け寄った。
並ばせた班員達には見えないところで、顔を寄せてひそひそ話を始める。
「昨日言ったことと全然違うじゃないですか! 初っ端から飛ばしますね~! 俺も飛ばしちゃって良いですか? 良いですよね? いや、でも、俺、あんな真似出来ないですけど。マジ、真木野の顔面にグーパンかますなんて、超鬼ですね! メッチャ鬼ですわ!」
言葉も口調もどこか楽しそうな樽木。
同期達と経験したシゴキでも思い出したのだろうか。
その艱難辛苦な経験を他人に味合わせるのは一種の快楽だ。
「まぁ、……なんだ。その場の流れってヤツよ。――とか、言う割には楽しそうだな、お前。俺が鞭なんだから、ちゃんと飴になれよ」
「今さら飴なんて必要なんですか? あれだけやっておいて。もう飴なんて無くてもどうにかなるんじゃないですか?」
「お前なぁ。これでもお前に飴役をさせるから、わざと高井は殴らなかったんだぞ。しかも、あれだけ
「悪い冗談止めて下さいよ。こんな美味しいチャンスを逃すほど、女に恵まれちゃいませんよ」
「だったら、俺らも並ぶぞ。もうすぐ中隊長が来る」
「ういっす。あとでキッチリとケアしてから、
一体、あいつらをどこまで戦力として仕上げられる?
何時まで、出撃しないで訓練が出来る?
俺と樽木と部下達が生き残る可能性を、どこまで引き上げることが出来る?
負けるわけにはいかない。
死ぬことも許されない。
今の俺は戦友達の骸の上で生きている。
誰がなんと言おうと戦わなくてはならない。
どんなことがあろうと勝たなくてはならない。
これは生き残った代償ではない。
これが俺の責務だ。
絶対に投げ出してはならない運命だ。
とりあえずのリミットは五日間。
残り約一一二時間。
――余裕がないな。
そう、千葉は小さく呟いた。