原作ゲームの設定ガン無視だったもんな
まあ設定なんて、容易く変化しますがね
一九九八年一〇月一六日 〇九時一六分
帝国陸軍相馬原演習場内 レンジャー訓練塔
第二機械化歩兵連隊第三中隊第三小隊第一班 班集中訓練二日目
昨日の朝、千葉の蹴りから始まった第二機械化歩兵連隊第三中隊第三小隊第一班の班集中訓練は予定を大幅に狂わしながらも二日目に突入した。
前日の訓練は訓練らしい訓練にならなかった。
それはある意味、千葉の予想通りでもあった。
彼が宣言した『出来ないようならば、もう一度殴る』は、その日の午後にはもう実行する羽目になっていた。
朝礼後、田淵と高井を除いた全員が腕立て伏せで腕が痙攣するまでやらされ、その後に銃の分解結合訓練を行った。
今までの彼らは、ただの歩兵となるための訓練だけを受けてきた。
だが、今までの部隊を離れ、新たに第二機械化歩兵連隊に配属された瞬間から、彼ら全員が強化外骨格を身に纏って戦う機械化歩兵となった。
昨日までは六四式自動小銃だけを扱えればよかったが、今日からは違う。
人間の数倍を超える力をいとも容易く生み出す強化外骨格で戦うのだ。
当然、それに装備されている武装は兵士一人では決して扱えない武器も多い。
戦車級を僅か二、三発で撃ち殺す事が出来る12.7ミリ重機関銃は、生身ならば三人一組で運用する武器であるが、強化外骨格では一人に一丁の割合で装備される標準的な武器に過ぎない。
本来ならば――BETA日本上陸以前、強化外骨格は主に下士官達に与えられる装備であり、軍隊の号令や命令、ましてや戦い方自体を碌に知らないような徴兵されたての素人に与えられる兵器ではない。
同じような兵器としては戦術機がある。
この危機的状況にも関わらず徴兵されたての新兵に戦術機が与えられることは絶対に無い。
最低でも六ヶ月の訓練期間が――戦術機の価値を考えればこれでも短すぎるぐらいだが――維持されている。
しかしながら人的損耗が激しすぎ、戦線の構築自体が難しくなっている現状を鑑みれば、手元にある兵器は例え素人であろうが使う方が現実的というものだ。
だが、様々な兵器を与えたとしても、使用者たる兵士が扱えなければ意味がない。
豚に真珠、猫に小判とはという例え。
東野以外の二等兵たちが正にその状況である。
故に第二機械化歩兵連隊第三中隊長である遠藤大尉は班長である千葉に集中訓練の命令を下し、千葉と樽木はその訓練を実施しているのである。
兵器としての強化外骨格は歩兵が扱う武器や道具のそのほとんどを扱うこと、または装備することが出来、白兵戦に置いてもBETA小型種とならば渡り合えるため、戦力の底上げを容易に成し遂げる強みがある。
東野を始めとする徴兵された千葉の新しい部下達は強化外骨格を身に付けた経験が今まで一度もない。
それに装備されている兵器も使ったことがない。
何から何まで、強化外骨格に関する全てを一から教えなくてはならない。
このような状況では、多種多様な武器を扱い、強化外骨格の汎用性を引き出すような技量を彼らに求めるべきではない。
そのため、千葉らは彼らの強化外骨格に装備させる武装を決めてから教育を始めた。
その手始めが12.7ミリ重機関銃であったが教育は難航している。
強化外骨格に取り付け終われば誰でも簡単に射撃出来るが、弾詰まりを起こした際の対応、弾切れした際の給弾の手順、銃身が加熱しすぎた場合の銃身交換の方法等々が出来なくては、戦場では故障一つで命を落としかねない。
それらを一応『やったことがある』というレベルで経験させるだけでも、素人八名が行うと多大な時間が掛かる。
それでも一回の経験で覚えろと、千葉が半ば暴力で脅迫しながらの教育訓練。
東野や坂上などの男でも精神的にきつい状況であり、真木野や高井に掛かるストレスはかなりのものになっていた。
初日の朝は東野が這いつくばり、真木野が泣いた。
その日の午後。またも遅れた田淵が殴られ、別件で言い訳した三輪が千葉に文字通り右腕一つで吊し上げられ、投げ捨てられた。
その結果、千葉の宣告通りに笠原も殴られ、朝の原因を作った高井は坂上と三輪たちから非難されて泣いた。
こうなってしまえば、八人の新兵はお互いに仲の良い少人数のグループだけで会話するようになる。
そんなバラバラな心理状態――千葉と樽木の想定内――で、集中訓練二日目の朝の訓練は始まっていた。
二日目最初の訓練は、強化外骨格を着用しての高所からの着地。
なんてことはない。
言葉だけで言えば、高いところから飛び降りて着地するだけである。
飛び降りる場所はレンジャー塔。
厳しい選抜試験を合格した兵士が、強さの象徴であるダイヤモンドを冠するレンジャー徽章を目指して肉体の限界に挑むレンジャー課程や、ヘリコプターからのリペリング等の訓練で使用される大きな物見台のような塔である。
今回、千葉達が使うのはその中段の広い台で、高さ約一一メートル。
人間が最も恐怖を感じる高さでもある。
その高さから強化外骨格で飛び降り、そのまま着地する。
強化外骨格のセンサーと姿勢調整機構を自動連接させれば、特に問題無く出来る動作であり、また機能的に限界に近い高さからの着地であった。
これ以上の高さから、何もしないで――重力に引かれるままに落下すると、自重と加速の関係で強化外骨格の装着者の背骨や脊椎等に重大な損傷が発生する確率が高くなり始める。
千葉の目論見としては強化外骨格による自動着地の限界を、新兵たちに体感させるための訓練である。
だが、彼の目の前にいる部下八名は誰一人として飛ぶことが出来ていなかった。
レンジャー訓練塔の中段、地上十一メートルの高さにある広場は強化外骨格一個班一〇名が乗ってもまだ余裕がある程の広さであり、一〇メートル四方以上のサイズがある大きなものである。
手本は強化外骨格を装着した樽木が――ただ落ちるだけのことであるが実演した。
その彼はついでにと、見本として跳躍ユニットのロケットモーターで中段の広場に戻ってきた。
既に落ちる順番も指名した。
帝国陸軍の迷彩服を着込んだ千葉は、強化外骨格を生まれて初めて装着した部下たちを指名した順に飛び降り場所に並べたまではよいが、その状態から一分経過したが何も進んでいなかった。
皆が下を眺めては、『高い』だの『無理だ』だとほざいている。
結果として千葉が内心決めていたタイムリミットである一分は、文字通りあっという間に過ぎ去った。
ここからはスパルタ教育の時間だ。
「東野ッ! 飛べ!」
容赦なく怒鳴る。
この第三中隊第三小隊第一班で千葉ら下士官二名を除けば、東野二等兵が最先任者となる。
と、なれば、何をするにしても東野にはリーダーシップの発揮が要求される。
それが先任である者の義務だ。
リーダーシップとは、多くの場合、言葉ではなく行動で伝わるものだ。
当然そのようなことは千葉も承知しており、東野二等兵が兵卒の中ではたった一ヶ月の差とは言え最先任者である以上、東野から実施しなければリーダーシップを発揮できない。
一瞬、東野は怯えた表情で千葉を見た。
無言の問いに対する返答は、怒気だけを込めた鋭い視線。
飛び降りなければ、殴られることは分かりきっている。
が、飛び降りるための一歩がどうしても出ない。
激痛と、死んでしまうかもしれない痛み。
言うまでもなく普通の人は『激烈に痛くても、生きている方を選ぶ』。
東野はもう一度地面を見た。
高さ十一メートルは地上三階建てと大差ない。
昔、通っていた学校で見下ろしたことがある高さ。何気なく見慣れた高さ。
だが、普通に落ちれば人が死ぬ高さ。
死への本能的恐怖が動きを止める。
恐怖が躊躇いを生み、身体を縛る。最悪の結果が脳裏をよぎれば、人の思考は取り止めもなく同じ思考を繰り返す。
動悸は速くなり、呼吸も浅くなる。
手の平にはうっすらと汗が滲み、腰が引け、足に力が入らない。
これが、人が恐怖に震えると言うことだ。
当然、千葉も樽木も経験し、克服済みである。
そんな恐怖に震える東野の視界が急に揺らいだ。
同時に来る背中からの衝撃と僅かな音。
足場を無くす両足。
真下に見える青い芝生。
東野本人の意志に関係なく、宙に浮く身体。
無言で東野を背後から蹴り落とす樽木。
思いもよらぬ光景に声すら出せずに驚愕する七人の新兵たち。
鋭い視線のままの千葉。
「―――ぅ! ああぁああああぁぁぁっっああああああああーーーーーーっ!!!」
直後、響き渡る東野の絶叫は尾を引きながら小さくなり、あっという間にズドンという着地音とともに途切れた。
悲鳴だけを残して落ちた東野だったが、強化外骨格は高度計と連動した自動機構により素人を最適化された動作で強制的に着地させていた。
その結果、膝を深く曲げて着地した東野の強化外骨格が両手を付くようなことは無く、両足で立ち上がる――強化外骨格は特に装着者からの入力がない限り、着地後は基本姿勢である立ち姿になる。
が、それも僅か一瞬。
東野は膝から崩れ落ち、両手を付いた。
「――はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
一向に収まる気配がない東野の荒い息が強化外骨格内蔵の無線機を通じて班員の耳に響き渡る。
配属前は粋がっていたのかもしれないが、最早今さら彼が生意気なことを言ったとしても仲間に広がる悪影響は薄いかもしれない。
そうすることも、千葉と樽木の狙いでもある。
しかし、二人は東野を自分たちに次ぐナンバー3に仕立て上げようとしている。
よって、彼が跪いたままでは意味がない。
そして、他の班員達も己の未熟さを体感して貰わなくてはならない。
時間の無い中でこれ以上のスケジュールの遅延は許されない。
樽木が蹴り落としたことなど忘れたような笑顔で、ヒヨコのような部下達に声を掛ける。
今の出来事は彼にとって記憶しておく価値すらない瑣事である。
「さっさと立ち上がれ、東野ッ! みんな、分かっただろ? 着地を自動にするだけでいいんだ! 次は高井だ! さぁ、行くぞ。強化外骨格があれば絶対に死なないから」
「――で、出来ません!」
反射のように発した叫び声で高井は樽木の指示を拒絶し、その一言で千葉は怒鳴った。
「いいからやれ! 馬鹿野郎が!」
半ば殺気を込めた視線で睨む。
竦み上がり、怖ず怖ずと、逃げるように行き場を探す高井はとても憐れで、そして弱々しく見えた。
無理もない。
普通の人は命令一つで戦うようには出来ていない。
兵士は幾度も訓練を繰り返し、そうなっているだけである。
それなのに、ほんの三週間前まで幼稚園で保母をしていた若い女性が戦えるだろうか?
見た目通り、優しそうで穏和な笑みがよく似合う高井が戦いに向いているわけが無く、何かの物語みたいに都合良くその身に隠れた才能があるわけでもない。
事実、高井桃花に戦いの才能は一切無く、彼女は子供に囲まれて過ごす方が似合う女である。
そして、その方が間違いなく子供たちのためにも良いことである。
母性本能溢れる優しい保母さんと過ごす日々は幼子たちの良き思い出として、色褪せることない記憶となるだろう。
それでも千葉は罵倒と叱責と命令を一つに混ぜ合わせて怒鳴る。
女子供、老人赤子、病人怪我人、誰であろうと容赦できない。
戦場では足手纏いが他人を殺す現実がある以上、訓練の場で無闇に庇うことはただの害悪である。
「む、無理です! 出来ないです!」
懇願にも似た高井の悲鳴を無視して、千葉は冷たく言い放った。
「だったら、お前だけで死ね」
静かに告げた一言は、半ば本気。
足手纏いを助けるために自分が死ぬ気はないし、部下も死なせる気はない。
かと言って、『今は』見捨てる気もない。
訓練は欠点を克服し、技量を向上させる為のものだ。
しかし、一切の遠慮や配慮無しに放たれた鋭い言葉の刃は高井だけでなく、残りの班員たちの心にも様々な傷を付けた。
あまりにも弱者を突き放した物言いに、班員たちが動揺するのも無視して千葉は高井を睨み続ける。
その殺気に怯えた高井がさらに一歩後退ると、さり気なく樽木はその背後に回って千葉に目配せした。
千葉が視線を微妙に逸らして分かりにくい了承のサインを送ると、樽木はわざと張り切っているような声を上げた。
高井の降下順が二番目なのは別に彼女を虐めているわけではない。
ここで少しでも能力的に皆と変わらないことを示しておかなければ、彼女の班内での力関係は最低なものになる。
それは彼女自身のためにも、あまり喜ばしいことではないのだ。
よって、この状況下で樽木が無理矢理にでも高井を降下させるには多少の演技が必要だ。
「はいはいは~い。高井みたいなお嬢ちゃんには、ちょ~っとお手伝いが必要ですよね~、班長」
樽木はそう言いながら強化外骨格の胸部装甲を跳ね上げて素顔を出した。
そのまま陽気な調子で高井の脇に立ち、強化外骨格ごと片腕で抱き寄せた。
その上、彼女に向けてウィンクまでしてみせる。
残念ながら天然パーマの色黒男がしても、それほど様になっていない。
むしろ絵に描いたような三枚目の出来上がりだ。
「……え? あ、あの……」
「好きにしろ」
「――じゃ、遠慮無く」
腰に手を当て溜息混じりに言う千葉と、急な展開――殺気を感じるほどの千葉の視線から、樽木からのナンパのようなウィンクと目まぐるしく変わる状況について行けない高井と、爽やかな笑顔を頑張って作る――そうでもしないとにやけてしまいそうな樽木。
「は~い。じゃ、飛ぼうか」
「はいッ!?」
まともな返事も待たず、樽木は高井を抱き抱えたまま宙に飛んだ。
「ひっ!! ―――いいいいぃっやぁああああぁぁああああああーーーっ!!!」
高井の悲鳴が真木野たちの耳で残響する中、あっという間に二人は着地した。
ドスンと響く低い音とその後に続く無音の数秒。
坂上、三輪、胡桃沢、田淵、真木野、笠原、誰もが一瞬、黙り込む。
そんな部下を無視して、何事もなかったように千葉が高台から下を覗き込む。
座り込んで泣き始めた高井とそれをあやす樽木が見えるが、無事に着地さえしていれば後はどうでもいい。
千葉は残った六名に向きを変えて、顎をしゃくった。
「高井ですら飛んだぞ。――で、お前らはどうなんだ?」
何気ないその仕草と声音は、紛うことなく脅迫そのものだった。
一九九八年一〇月一六日 二二時四五分
帝国陸軍相馬原駐屯地 一三号隊舎5Fのある女性隊員用居室
二等兵 真木野玲および高井桃花と三輪貴子
「玲ちゃん。もう、電気消すね」
「あ、お願いします。桃さん」
ちょっとした遣り取り。
Tシャツとジャージのズボンというラフな服装の高井が壁に在る照明のスイッチをオフにする。
暗くなった居室の中をサンダルで歩き、高井は自分のベッドに潜り込んだ。
それは新兵の訓練期間中にあるような見窄らしい二段のパイプベッドではなく、比較的まともな外見のパイプベッド。
同じようなベッドが部屋の四隅に置かれた部屋に居るのは、真木野と高井、それに三輪の三人の新兵のみ。
彼女たちがたった三人で四人以上は眠れそうな部屋を使っている理由は単純明快。
ここは第二機械化歩兵連隊第三中隊第三小隊第一班に割り当てられた部屋であり、班にはまだ女性隊員が三人しかいないからである。
軍隊の部屋に男女の差はない。
男と同じベッドを使い――つまり女性には大きい――同じロッカーを使う。
強いて違いを探すならば、女性兵士が生活することを前提として建築された隊舎なので女性用トイレが多いとか、シャワールームが大きくなっているとか、そんな程度の差しかない。
一部の中隊では既に二段ベッドを搬入するような満室状態であるが、再編中の第二機械化歩兵連隊第三中隊ではまだそのような段階ではない。
今の戦況でも前線投入が確定的な機械化歩兵部隊に割り振られる女性の数は腕力等の問題から少ない。
そういった観点から見れば、千葉の元に配属された真木野と高井、三輪はかなり運がない部類に入るだろう。
軍隊はよほどの特殊技能か珍しい適性を持っていないとそれらを考慮しないし、特に頭数が要求されるような状況ではそれらの事を考慮しないことは珍しくない。
そうなると、あとはただの運で配属先が決まる。神社のくじ引きで吉が出るか、凶が出るかのような違いで命運が決する。
そんな状況では、数少ない女性隊員同士が仲良くなることは必然ともいえるものだった。
「桃さん、明日は何をするんでしたったけ?」
今にも寝てしまいそうな雰囲気を漂わす声で真木野が問い掛ける。
月明かりで照らされる無機質で飾り気がない部屋。
生活感がない空間は兵士がただ着替えて、寝るためだけに有るような錯覚を生起させる。
消灯まではあと一五分ほど有るのだが、訓練で疲れ果てた身では一分でも多く睡眠時間が欲しい。
三人とも夜の点呼が終わると同時に毛布の中に直行である。
例え、すぐ眠りに落ちなかったとしても、疲れた身体を横たえるだけで大分違う。
もっとも真木野と違い、三輪は既に静かな寝息を立てて眠っている。
さり気なく“我が道を行く”を貫く三輪に真木野と高井が恨めしそうな、ついでに少し不機嫌そうな目を向ける。
世の中、人間関係は常に複雑である。
「実弾を使って、戦闘訓練だって……」
高井も半ば欠伸混じりに答えるが、その口から出た声は暗かった。
「――もう気にしちゃ駄目ですよ! 班長はただの暴力馬鹿だし、坂上もインテリぶってるたけのジジイだし! あんな奴らの言葉を、桃さんが一々気にする必要なんて無いです!」
高井の弱気を吹き飛ばすように
ベッドの上で胡座をかいて真木野が不機嫌を絵に描いたような表情で高井を見る。
月明かりが照らすモデルらしい無駄肉のない四肢に、女性らしい柔らかさが失われない程度に引き締まった腹筋が一際目を引く。
支給品の黒いスポーツブラとショーツだけを身に纏っている姿だったが、真木野には身につける衣類に左右されないような色香があった。
びっくりした高井がゆっくりと上体を起こして真木野を見ると、元モデルの美女はさらに意識して膨れっ面を作って唸る。
その余りにも子供じみた仕草にきょとんとした高井だったが、不意に堪えきれなくなって小さく吹き出した。
穏和な笑みを浮かべて、高井もベッドの上で姿勢を変えて座り込んだ。
「有り難う、玲ちゃん。なんか、大っきな子供みたいね」
そういってクスクスと笑う高井を見て、真木野の表情も自然に緩む。
「桃さんが真面目過ぎなんですよ。どうせ私たち最初から上手く出来っこないんですから、あんな小うるさいおじさん連中なんて放っておいたらいいんです」
「そうなのかな?」
「そうなんです!」真木野がきっぱりと言い切る。
「思い詰めちゃ駄目ですよ、桃さん。絶対生きて、みんなの元に、子供たちの元に帰らなきゃ……。ううん。絶対に生きて帰りましょう」
瞳に強い意志を宿して、彼女は高井を励ました――自らも励ましながらも。
「……そうね。……そうよね。私、約束したものね……」
そう言いながら瞳を閉じる高井。
真木野も声を掛けるのを止めた。
高井の瞼の裏に浮かぶ風景はどのようなものか、彼女は知らない。
だけど、大事な、とても大事な思い出だということは分かる。
テレビもラジオも無い隊舎で兵士の娯楽なんて会話と読書と音楽、そして楽しかった思い出に浸るか、思いっきり羽目を外せる休暇を待ち望む程度しかなく、ささやかすぎる幸福感を壊すほど真木野は冷たくない。
高井桃花の脳裏に浮かぶ多くの人々。
実家で自分を『いつまでも待っている』と言ってくれた祖父母。
『逃げてきてもいいから』と小さく囁いてくれた母。
『実家は俺が守る』と覚悟を決めた弟。
布団の中に潜り込んできて泣いていた妹。
仲の良かった高校の同級生と飲んだ最後のお酒。
今となっては礼も言えない専門学校の講師。
世話になった職場の先輩たちと幼稚園の園児たちが手渡してくれた折り鶴は、彼女の宝物であり、そしてお守りでもある。
不器用に折られたそれらを見れば、オルガンを弾く自分の周りではしゃぎ回っていた園児達と合唱した午後の一時の何もかも鮮明に思い出せる。
大事な人たちと過ごした、大切な一時の思い出。
そうして、彼女は静かに瞳を開く。
視界に映るのは、月明かりの中で毛布を握りしめる自分の両手。
華奢で、細くて、綺麗な指。
ある時はオルガンを弾き、ある時は子供たちを抱き上げた両腕。
彼女だって愚かじゃない。
自分が戦いに向いていないことは分かっている。
自分が強くないことも、不器用なことも分かっている。
それでも高井桃花が逃げ出さない理由。
人類に逃げ場が無いという現実。
戦わなければ殺されてしまう現実。
高井桃花は徴兵されて軍人になったという現実。
自分の後ろに園児たちがいる。
故郷で暮らす家族がいる。
今は人類滅亡という暗い将来しか見えないけれども、遠い未来は再び子供たちが無邪気に笑える、光溢れる場所になるのかもしれない。
辛いけど――。
苦しいけど――。
泣いてしまうけど――。
惨めで――。
見苦しくて――。
無力だとしても――。
逃げ出したら、何もかも無くしてしまうから。
文字通りに、全てを無くしてしまうから。
だからこそ――。
私は――。
「ごめんね。…………ううん。ありがとうね、玲ちゃん。ちょっと、いろいろと、思い出せたわ」
そう言って、高井が微笑む。
戦うために、守るために、生きるために、生きる自分を少しだけ誇らしく。
見かけによらず優しい真木野に、ここにはいない人たちに、自分の
例え、強がりだとしても少しぐらいは胸を張ろう。
「謝らないで下さい、桃さん。こんなこと、お互い様ですよ」
真木野も心からの笑みを浮かべる。
それから高井をからかうネタを一つ思い出して少々意地の悪い笑みを浮かべ、その上クククッなんて一人笑いを始めた。
「……な、なによ、玲ちゃん。その笑いは……」
高井の穏和な微笑みが引き攣った笑いに変化すると、さらにウッシシシシッとオヤジのような笑いを続ける真木野。
若干引き気味な高井に対して、猫のように目を弧状に細めた真木野が問い掛ける。
「ねぇ、ねぇ、桃さん。樽木三曹に思いっ切り狙われちゃっているけど、桃さんはあの人のこと、どう思っているの?」と、言っては、またウッシシシと一人楽しそうに笑う。
「え? 狙われているって……? えっ!? えええぇーーっ!?」
驚いて、最後には悲鳴のような声を上げる高井が面白すぎて堪らない。
どこかの噂話好きのおばさんのように左手で口元を隠した真木野が、右手を団扇のように振りながら冷やかす。
「またまた、奥さん、嘘吐いちゃって~。あれだけ、その巨乳をガン見されてたら、普通に乳首とか感じちゃいません?」
「――やっ! ちょ――ちょっと! う、嘘ッ! 変なこと言わないでよ!」
反射的に毛布を胸元に引き寄せて身を守ろうとする。
なんというか、その仕草自体がごく自然に男を誘うと言っても過言ではない。
「うわっちゃ~。駄目ですよ、奥さ~ん。もう、それ、襲って下さいって、男を誘ってますよ~」
「玲ちゃん! どうして、そんなにオヤジモード全開なのよ!」
真っ赤な顔の高井が、同性でありながらいやらしさを感じる真木野の視線から身を捩るようにして逃げようとするが、当の真木野はそれを気にした様子は微塵もない。
瞬時にオヤジ笑いを引っ込めて、表情を引き締めると流し目で同性を見る。
真木野は掛け値なしの美人なので、ただそれだけで何とも言えない迫力がある。
その彼女が熱い溜息を一つ漏らしながら、自分の人差し指を見せつけるようにして舐めて濡らす。
「……うふふ。もう、桃さんって本当は私よりお姉さんなのに、どうしようもないぐらい
「――れ、れれっ、れいちゃんッ!!!」
本気で怯えた高井が悲鳴を上げると、妖艶な流し目で熱視線を送っていた真木野は再び雰囲気を一変させて、また目を細めて『にっししし』と笑ってから真顔になった。
「やだなぁ、桃さん。本気にしないで下さいよ」
「ほ、本気にするわよ!」
「私、無理矢理は趣味じゃないんで、無理強いはしないですよ」
「ちょっと、……日本語おかしくない?」
「だから、和姦だと容赦無しに超絶絶技でイカしまくりです」
「――もう! そんなこと、真顔で言わないでよ!」
顔どころか首まで赤くした高井が枕を投げ付けたが、いとも容易くそれを受け止める。
「どうです? 本気にしました?」
にやりと笑った真木野が問い掛けるが、高井の方は頭に血が回ったままだ。
「どうせ、私は初心ですよ! 処女ですよ! 玲ちゃんが本気か嘘かなんて分からないわよ!」
「あ~……」
高井がここまで怒るとは思っていなかったので、真木野は苦笑を浮かべたまま、ポリポリと人差し指で頬を掻いた。
「ごめんなさい。そんなに怒らないで下さいよ、桃さん。一応、これでも役者志望でいろいろとやってましたから」
ぷうっと頬を膨らまして拗ねる高井と、冷静な真木野では容姿も相まってどちらが年上か分からない。
「役者志望?」
怒ってはいたけども嫌いになってはいないからか、それとも興味が怒りに純粋に勝ったのか。
はっきりしない微妙な――僅かながらの苛つきと盛大な照れがブレンドされた声音で高井が聞いた。
「私、これでも最終目標は映画俳優なんです。今はまだ駆け出しの劇団員でしたけど、いつかはハリウッド映画に出てみたいんです。――まぁ、流石にハリウッドは夢のレベルですけど。面白いじゃないですか、みんなの前で演技するの――」
真木野が語る言葉に籠もった熱を感じて高井も聞き入る。
「役者って立場で演技して見られるのも楽しいし。これ誰の言葉か覚えていないんですけど、『いろいろな人の人生を役者って立場で経験していける』って役者の特権だと思うんです。これって、人生を何倍にもするような事じゃないですか? そう考えると、余計に役者になりたいなって思うんです」
多少照れくさかったのか、真木野は微かに頬を赤らめて、はにかんだ。
「今はまだ駆け出しだからモデルやって劇団やって……。だけど、いつか必ず映画のオーディションに受かって映画俳優になりたいんです」
そう言ってから、真木野はくすっと笑った。
元モデルの絵に描いたような明るい微笑みに釣られて、高井も微笑む。
BETAに侵略されている現状では叶わない夢。
だけど、この先にある未来まで諦める気はない。
そう、真木野も高井も考えている。
お互い目を合わせて笑い合ってから、真木野は口調と雰囲気をガラリと不機嫌なものに変えて、あからさまな仏頂面を作る。
「だ、か、ら、――私の顔に傷を付けたあの班長は大嫌いです」
確かに映画俳優になるという大きな夢があるならば――それも彼女ならば完全に無理な夢でない。
彼女には生まれ持った美貌というアドバンテージがある――容赦なく顔面に拳を叩き込んだ千葉班長は、“それは、とても憎まれるだろうな”。と、高井も納得する。
真木野は千葉の名字も名前も口にしない。
あくまでも『班長』とだけ口にする。
そのことについては、千葉個人を認めたくないからだろうと高井は推察している。
一頻りムスッとしていた真木野だが、また思い出したかのように表情を変えた。
彼女の表情と雰囲気は本当にころころと万華鏡の光の様に変わる。
それを眺めているのも、高井にとっては面白い。
「で、桃さん。樽木さんと付き合う気はないですか?」
表情だけでなく話題もころころ変えた真木野が、緩い放物線を描くようにして枕を投げ返したが、質問で硬直した高井の頭に柔らかく当たってポトリと落ちた。
それから一拍以上の間を置いてから――。
「え、えええええぇええぇぇー-っ! そんなの考えたことない! 第一、どうして玲ちゃんが、さっきからそんなことばかり聞くのよ!」
再び首まで真っ赤にした高井が喚く。
「だって、樽木さんに頼まれたからですよ。脈があるかどうか、探ってくれって」
あっけらかんと種明かしをする真木野。
いつの間にか、樽木のことも階級を外して『さん』付けである。
「ど、どうしてよ!?」
「いやだなぁ~、もう、分かっているくせに~。樽木さんが桃さんにラヴラブだからに決まっているじゃないですか」
真木野もストレートの直球しか投げ込まない。
一つ年上の高井の方が色恋沙汰に疎いのだからと容赦無しである。
「だっ、だって、だって! ――まだ出会って五日目よ!」
「一目惚れってヤツです」
「わ、私、あの人と碌に話したこと無いわよ!」
「恋に時間は無関係です」
「わたし、何にもしていないし……、泣いてばかりだし」
「男と女は存在するだけで愛に落ちるのです」
何かの悟りを開いたかのように言葉を棒読みにして返す真木野。
演技で無表情を保ちながらもちゃっかり楽しんでいる彼女に、軽く逆ギレ気味になる高井。
「玲ちゃん! 楽しんでないで真面目に答えてよ!」
「やっぱり、男は泣いている女に弱いからじゃないですか? あと、桃さん、巨乳だし」
高井の抗議を軽くスルーして返す真木野の言葉はある意味真実。
そこら辺の事については真木野の方が圧倒的に経験豊富だ。
「むぅ~~。なによ、それ。フォローにもなってないよ。結局、私じゃなくて、おっぱいが好きなんじゃない……」
大きな胸を隠すように枕を抱えて唸る高井は確かに可愛い。
というか、枕ごときでは隠しきれない豊満な胸が形を変えてはみ出て見えるのは反則だ。
女の自分が見ても、何となく卑猥。
と、思ってしまう真木野だけども、この一言で納得がいった。
高井は言い寄られた経験がないのではなくて、言い寄られすぎたから恋愛から逃げていた。
それも大きな胸を目当てに来る男たちに辟易していたのだ。
なに? この分かりやすさ――。
こんな御時世にまともに恋愛したこと無いなんて、可哀想どころか憐れすぎる。
恋愛こそ、女の華。
『命短し恋せよ乙女』
この言葉は嘘じゃない。
女の賞味期限というか、売れ時は短いのだ。
異性との恋も愛も知らないで人生を生きるなんて虚しすぎる。
今まで面白半分で樽木に頼まれてやっていたことが、真木野の中で行うべき事に入れ替わった。
「桃さんッ!!」
「――は、はい!?」
ウジウジといじけるような高井を一喝する真木野の呼びかけで、一瞬で空気が固まるかのような錯覚が巻き起こる。
「樽木さんと付き合いなさい!」
「え――、な、なんで!? どうして命令形なの!?」
狼狽える高井を無視して真木野の説教もどきが始まる。
「いいですか、桃さん。あなたは今まで、いろいろと、様々に、無自覚に、間違いを犯して、自ら貴重なチャンスをドブに捨てていたんです」
「え? え? なに? なんなの?」
「桃さん、いえ、高井さん。いいですか? 古来より延々と続く男女の営み。その切っ掛けは心ではなく、まずは外見から。見た目や仕草から、物語は始まるのです」
「なんで!? いきなり!? 説教モード!?」
「確かに、樽木さんは桃さんの巨乳に惹かれてアプローチを掛けてきましたが、彼に罪はありません。これは男として当然のことであり、桃さんが女性として魅力的であるという事実を裏付けるものなのです!」
「え……。え~~~と、玲ちゃん……。私の声、聞こえてる?」
「樽木さんが桃さんの巨乳に惹かれてきたからといって、門前払いをしては駄目なのです! 人は見た目だけじゃ中身までは分かりませんッ! 心と心でお付き合いするためには、まず会話! 相手を理解するためには会話と時間が必要不可欠なのです!」
真木野の震える拳をグッと引き寄せ、言葉に力が籠もる。
そんな状況に高井の心は置いてけぼり。
「……あ、あの、真木野さん。これって……お芝居の練習? それとも……本気?」
――神様、仏様、この…なんて言うんですか? 独走? 妄想? 大暴走?
高井の目の焦点が遠くに行ってしまうけれども、それよりも遠い真木野の力説。
「スケベだけど優しい樽木さんなら大丈夫です! 暴力班長と違って家庭内暴力の心配はありません! まずは明日の朝から! お付き合いをレッツ・スタート! 命短し恋せよ乙女ッ!! 二四時間フル活用して、一緒に歩いて、一緒に食事して、一緒に飲み明かして、デートして、手を繋いで、抱き合って、キスして、ベッドインしてッ!! それから、やっと、やぁ~~~~っと、心と心のお付き合いがスタートするのです!!」
「玲ちゃん。私の言葉、聞く気無いでしょ?」
すっかり冷めた半眼無表情の高井が問うと、真木野は自信満々に言い切った。
「これが現実! これこそが真実! だからこそ恋愛! 桃さんは明日から樽木さんとお付き合いを始めるべきです!」
月明かりだけが照らす居室に満ちる静寂の時。
すっかり冷静になってしまった高井と、一人で燃え上がるだけ燃え上がった真木野の視線が交わる。
いろいろなものが混ざり合って出来た静寂だけあって、次の第一声はお互いになかなか考えることが多い状況だった。
動きのない二人を再び動かしたのは、第三者の登場だった。
「――二人ともうるさ~~い! 私が眠れないじゃない!」
ガバッと毛布を跳ね上げて、三輪が不機嫌で目付きの悪い顔――当然、眼鏡は外しているので藪睨みの状態で、二人を怒鳴っても当の本人たちには意味はなかった。
「あ、ミワっちが起きた」確信犯的に応える真木野。
「おはよう、三輪さん」天然で応える高井。
二人ともほとんど修学旅行の雰囲気である。
「“おはよう”じゃないし、今深夜なの! 寝る時間なの! それと、私に“ミワっち”なんて渾名付けるな!」
「いいじゃん、可愛いいし」
「子供扱いするな! あなたの方が年下でしょ!」
「年齢なんて無関係。同期の絆ってヤツです。樽木さんの受け売りですけど」
「あ~! もう、ああ言えば、こう言う! 疲れているんだから、勘弁してよ!」
もはやヒステリックな金切り声で喚く三輪であるが、真木野にとってはからかい甲斐があるいい人だ。
三輪も心の底から怒っているわけではないし、この手の会話も嫌いではない。
とはいえ、就寝前は止めて欲しいのだ。
そんな状況で前触れもなく、コンコンと二回扉をノックする音。
消灯寸前の訪問者に訝しげな表情を浮かべた真木野がベッドから降りて、サンダルを引っかけるように履き、部屋の扉を開けた。
「夜分遅くにゴメンね」
そう言って苦笑いを浮かべているのは、この隊舎の当直勤務上番中の五十嵐上等兵。
後ろ髪を纏めて大きめのバネットで止めているが、それが特徴的で後ろ姿なら誰でも直ぐに覚える容姿。
少し細目の眼鏡を掛けて理知的な雰囲気がする上、比較的端正な容姿でもあったが、真木野の前では普通にしか見えない。
「??」
名前も碌に知らない上等兵が『ゴメンね』なんて、どうして言っているのか余計に訳が分からない。
その考えがストレートに顔に出ているのを自覚する真木野であったが、『今さら隠しても……』と思って隠さない。
そんな新兵の表情を見ても苦笑いを浮かべたままの五十嵐上等兵を注視していた真木野は直ぐに気付いた。
――苦笑いじゃなくて、含み笑いを……堪えている?
じゃ、なんで?
そんな疑問が浮くが、五十嵐上等兵が正解を掲示する方が早かった。
「はい。これ、貴女たち宛のラブレター。我が第二連隊女性隊員の話題を独占している人気急上昇中の人物から。羨ましいけど、玉の輿よ」
「――えっ!?!?!?」
こんな状況でラブレター?
一瞬脳裏をよぎるのは、二枚目エリート街道爆走中の凛々しい若手士官からの結婚を前提にしたお付き合いを願う恋文。
――うふふ。地獄の沙汰も金次第。じゃなくて、軍隊生活も
帝国軍も捨てたもんじゃないわね。
なんて思いながら、慌てて小綺麗な封筒を素早く開けて、綺麗に三つ折りに折られた便箋に書かれている文字に目を走らせた直後――若干一九歳の真木野玲は悲鳴を上げた。
「――訓練非常呼集!? 2310までに戦闘服上下、半長靴に着替え、背嚢を持って一一号隊舎前集合。一秒でも遅れたら、死ぬまで腕立て伏せ。――って! 死んでしまえ! あの脳筋暴力馬鹿班長!!」
「えええええええぇーーーーっ!! そんな!!」
「嘘でしょ!! 何考えてるのよ!!」
泣き出してしまいそうな高井の悲鳴に、罵声混じりの真木野と三輪の悲鳴が夜の隊舎に響き渡る。
これから就寝直前だというのに告げられた非常呼集訓練。残り時間はあと一一分。
「桃さん、起きて! 背嚢出来てる!?」
「もう、信じられない! 馬鹿じゃないの、あの人! 中身は大丈夫よ!」
「疲労回復って言葉自体を知らないんじゃないの! 義務教育からやり直せ!」
慌ただしくパジャマ代わりのジャージを脱ぎ捨てる高井と、ロッカーを開けて戦闘服の袖に腕を通す真木野、慌てて起きた三輪は足を滑らせて尻餅をつく有様。
当直の五十嵐上等兵は苦笑したまま、ちょっとした優しさで部屋の電気を付けてから――一分後には軍紀違反となる行為である――声を掛けた。
「――ね? 最高の玉の輿でしょ?」
「嘘吐き!」
「最低!」
「サディスト!」
彼女たちの悲鳴にも似た罵声に、毎日二三時になると駐屯地に響く就寝ラッパの
高井は今まで寝る前に響き渡るラッパはうるさくて、むしろ安眠妨害じゃないかと常々思っていたのだけれども、今はそんなことを思い出す余裕すらない。
慌ただしく準備を進める三人の言葉を軽く流して、五十嵐上等兵は壁に背を預けた。
数分後、声を揃えて千葉を罵りながら着替え、背嚢を背負って部屋を飛び出す新兵たちを見送る。
三人の衣類が脱ぎ散らかった無人の部屋を一通り眺めて、それから電気を消した五十嵐は一人呟いた。
「――お金で命は買えないから、間違いなく本物の玉の輿なんだけどね……」
そう言い残して、部屋を出る。
彼女の勤務の一つである夜間の見回りは始まったばかりだ。
この部屋を走り出た彼女たちが汗だくで戻って来たのは、それからちょうど一時間後のことであった。