ミュージカルをアニメで無理なく破綻無く描写しただけでも、クッソマジにスゲーと思った(小並感
一九九八年一〇月一七日 〇九時〇九分
帝国陸軍相馬原駐屯地 相馬原演習場内 実弾射撃場D地区
第二機械化歩兵連隊第三中隊第三小隊第一班一〇名
帝国陸軍相馬原駐屯地には隣接地域に実弾射撃が可能な演習場が存在する。
その事を幸運と取るか不幸と取るかは人による。
ただ千葉の元に配属された八人の新兵たちにとっては間違いなく不幸だろう。
山間部特有の冷え込みを感じる早朝から始まった訓練は、いつもの起床時間よりも早い時間から始まった。
昨夜の非常呼集を全く考慮せずに始まった早朝からの非常呼集訓練も遂に
ただし、そのことは訓練を行っている真木野たち八名には一言も知らされていない。
彼らは昨夜の就寝直前から始まった非常呼集訓練で深夜一時まで腕立て伏せや持続走を行い、やっと寝れたと思ったら朝の五時から再び非常呼集訓練で叩き起こされ、またもや八九式自動小銃を手に走らされて疲労困憊だった。
だが、それも無理もないことだ。
睡眠時間は容赦なく削られ、朝食は白飯が詰まった缶詰とたくあんの缶詰が二人に一つずつ。
水だけはたっぷりと用意されていたが頻繁に飲むような暇はない。
訓練スケジュールは一切知らせずに、その場その場で千葉が命令を下し、それを実行する度に皆が倒れ込んだ。
無論、比較的体力がある東野や笠原らには、出来ない真木野や高井、三輪ら女性陣の分までも肉体的負荷を掛けさせ、連帯責任で追い詰める。
それでも彼らは簡単には膝を着かなかった。
普通の男は女が見ていれば、無理してでも頑張る。
そう言った意味では結構粒ぞろいな女性が揃っているこの班では、若い少年たちが実力以上に頑張るのも無理からぬことだ。
この点だけは千葉と樽木にとって嬉しい誤算だ。
しかし、非常呼集から始まった訓練も既に四時間を越えると明らかに皆疲労が表に出てきた。
千葉が大声で怒鳴っているにも関わらず、意識朦朧で聞こえていない胡桃沢や高井。
虚ろな目でふらふらと立ち上がる田淵と胡桃沢。
四つん這いのまま嘔吐を繰り返すが、もはや出すものがない真木野と三輪。
他の者達も五十歩百歩で大差がないが、笠原と東野、そして意外なことに坂上だけが違った。
笠原は今まで運動部でのシゴキの経験からか、まだ十分に生気があり、東野はもう既に体力は尽きているはずなのだが不良少年として突っ張ってきた意地なのだろうか『クソッタレ!!』と悪態を吐いては幾度となく立ち上がる。
坂上は坂上で何かが終わる度に苦しげに呼吸を繰り返し、号令があれば何とか立ち上がろうとする。
が、残念ながら彼の定位置は男性陣の中では最下位。
女の真木野――彼女は劇団で真面目に演技を磨いていただけあって、女性陣の中では体力的に抜きん出ていた――に負けていた程であるが、それでも何かの執念なのだろうか必ず立ち上がろうとする。
だが、千葉が仕掛ける訓練はそれらを嘲笑うように彼ら新兵たちを追い詰めていく。
特に訓練が何時始まり、何時終わるのかが全く知らされていない状況で肉体的に追い詰めた場合、精神的に掛かる負担は想像以上である。
終わりが見えないマラソンを続けさせられるような、絶えることのない絶望感に似たものが新兵たちの心を襲う。
さらに加えて、千葉も訓練に『参加』している。
それは文字通りの参加だった。
千葉は見せ付けるように新兵たちよりも重い装備を身に付けたまま、真木野たちの腕立て伏せを、より早く、より多く行い、同じ距離を速く走り、怒鳴り、叱責して、追い立て続ける。
千葉とて生身の人間である以上、汗もかくし呼吸も荒くなる。
だが、誰の目にも明らかなほどの余裕があり、真木野たちが弱音を吐くような状況で、時に笑顔を浮かべながら罵声と怒声と暴力で追い詰め続ける。
同じ訓練の中で純粋なまでの身体能力の差を徹底的に見せ付け、さらに追い詰め続ける中でも余裕綽々と同じ内容をこなしていれば、嫌が応にでも、軍人として誰が優れているか誰の目にも分かろうというものだ。
正に、誰が誰の部下なのかを無意識下に教え込むための訓練参加である。
そんな訓練を延々と小休止を挟みつつも四時間あまりも繰り返し、それでも何とか脱落者無しで始まった最終訓練は運動しながらの実弾射撃訓練――前進しながら射撃場にある窪地や倒木の影に身を隠して、伏せ撃ちで戦車級の形をした的に向かって射撃するという訓練である。
意外なことに思えるだろうが、千葉たちにとってはこの射撃訓練が一番気を遣わなくてはならない時だった。
集中力が大幅に低下した新兵など、ごく簡単なことすら忘れてしまう。
疲れたからと言って、自分の銃口がどこを向いているか碌に確かめもせずに引き金を引こうとする。
それもこれも苦しい訓練が一刻も早く終わって欲しいという苦痛からの逃避に、何も考えずに向かってしまうためだ。
千葉らは決して優しい言葉で指導しない。
実弾一発で人は死ぬ以上、一瞬たりとも気を抜かせてはならない。
訓練中の誤射で死者など決して出してはならない。
「早駆けに――!!」
小高い丘に設置された戦車級の形をした的までの距離は約二〇〇メートル。
秋もそろそろ本格的になろうかというこの季節、紅葉の色が戦車級と同じに見えてしまい、もう秋の紅葉を素直に楽しめない――そう、漠然と樽木が思う中、千葉の号令が澄み切った秋空の下で響く。
千葉の号令で伏せていた真木野ら八名は左腕を胸元に引き寄せ肘を立て、膝を横に突き出すように曲げて、前を――これから走って向かう先を確認する。
正直、樽木や千葉らの職業軍人から見ればその動作は全くなっていないのだが、そこはそれ。
BETAと戦う新兵である以上、それほどこの戦闘技術の習得を重視していない。
むしろキツイ全身運動で締め上げ、彼らにとって身体的能力的に限界寸前の状態での射撃を経験させることが目的である。
戦場ではこちらが限界でも、BETAは一切斟酌しない。
それでも戦わなければならない状況は頻繁に生起する。
それでも戦おうとするならば、自らの限界はまだまだ先にあるようにしなければならない。
何があろうとも諦めずに戦わなくてはならない。
千葉の目的は簡単だ。
実戦に出る前に、自らの限界を超えることが出来たという成功例を『この訓練』で経験させることだ。
だから、訓練メニューは先に明示しない。
敢えて、ゴールが見えないようにした。
この訓練に関しては、戦闘技術の向上ではなく精神修養が主目的である。
「――前へッ!!」
一拍おいて発せられた千葉の号令で八人が右膝を立て左腕を伸ばして上半身を起こすと、右足で大地を蹴って走り出す。
……が、その姿と動作には素早さの欠片も無い。
高井は起き上がったのか、それとも立ち上がったのか区別が付かないほどノロノロとした動きで立ち上がり、田淵は起き上がろうとして足を滑らせ頭から倒れ込んだ。
一番元気な東野も走り始めて数歩もいかないうちに千葉に転ばされて、『銃を左右に振って走るな! 銃口を仲間に向けるんじゃねぇ!』と木刀で頭を――無論ヘルメットは被っているのだが、容赦なくブッ叩かれている。
三輪は意識朦朧の状態で八九式自動小銃を胸に抱き抱えて歩く始末だし、笠原は安全装置を掛け忘れていたので樽木が素早く止めて指導する。
射撃地点になんとか辿り着いても、坂上は安全装置を外し忘れたまま射撃しようとし、真木野はその細い二の腕が限界に達して突っ伏したまま小銃を構えることが出来ない。
胡桃沢に至ってはただ荒い息を吐き出すだけだ。
新兵たちの泣き言と涙声と浅くて早い荒い呼吸が聞こえる実弾射撃訓練場。
そこに千葉の怒号が響くと、思い出したように小銃の銃声が散発的に響く。
最終目標地点まで約一五〇メートルほどなのだが、足場の悪い訓練場の中で素早く起き上がり走って伏せて射撃するという連続的な行動は思った以上に体力を奪う。
それを理解していながらも、千葉たちは怒鳴り続ける。
三輪が射撃した直後、千葉が目聡くミスを見つけて罵声を飛ばす。
「目を瞑るなッ! 撃っている間にもBETAは接近してくるぞ!」
「――は、はい」
「ビビってんじゃねーぞ! このッ眼鏡ブス!」
侮蔑の言葉に唇を噛み締めて三輪は耐えるが――。
(BETAと戦うならいざ知らず、どうして私がこんな暴力馬鹿に怒鳴られなければならないのよ――!!)
悔しくて、悔しくて、堪えきれない涙で視界が滲む。
だけど、ここで何もかも投げ出して泣き出してしまったら、いけ好かない千葉春久という暴力上官に完全に屈服してしまう。
そう思って歯を食いしばって、また立ち上がって走る。
あまりの疲労に首に力が入らず、一歩踏み出す度に左右に大きく揺れる三輪の視界。
酸欠気味で朦朧とする意識。
絶え間なく流れる汗で張り付いた泥まみれの前髪。
彼女は今までの人生でこんなにも運動した経験がない。
いくら休憩があったとはいえ、もう四時間以上も続く運動。
もともと幼少の頃は、運動が嫌いで読書ばかりしている子供だった。
小中高と彼女は一度も運動部に所属したことがない。
やけに大きく早鐘を打つ心臓の鼓動も、汗と泥で重たくなった衣類も何もかも彼女にとっては初体験に近く、とても不快で嫌だった。
端正な顔には疲労の色しか見えず、眼鏡に付いた泥を拭き取ることすら考えられない。
(あ…と……、もう、す、こ……し)
揺れる視界の中に写る、人が隠れられそうな倒木。
そこに辿り着き、残りの実弾を五発撃って、この弾倉を空にすれば訓練も終わるはず――と、その一心だけで足を引き摺るように前に動かす。
涙で滲む景色に足元は何も映らず、疲労でふらつく足は必然のように縺れてバランスを崩した。
(―――あ!)
今まで経験したことのない激しい疲労で、もはや呼吸のためにしか動かない喉と肺から声など出せるわけが無く、また慌てて手を付こうにも三キロを越える八九式自動小銃で塞がれた両手に自由など無い。
彼女は為す術無く左肩から倒れ込んだ。
両腕を中途半端に動かした所為で手から離れた小銃が――つまり三キロもの鉄の塊が、三輪の口元に直撃すると唇は容易く切れて口元から痺れるような激痛が広がった。
「……うっ……くっ……」
八つ当たりする相手もいない、自業自得の結果。
どうしようもない苛立ちに癇癪を起こし掛けた瞬間、突如感じた人の気配でハッと息を飲んで視線を上げた。
逆光で表情は分からないが、威圧するような視線と雰囲気で否が応でも千葉だと分かる。
反射的に身体が強張る三輪。
だが、少しだけ安堵していた。
彼女はいくら小さい怪我とはいえ、転んだばかりの“怪我人なら怒鳴られることもない”。
そんな考えが一瞬だけ脳裏を
「さっさと撃て! このド間抜けが!」
「――――っ!!」
その一言が、三輪はどうしても信じられなかった。
どうしてこうも人を罵倒できるのか、理解できない。
千葉春久という人物の
余りにも今の言葉と出来事が信じられなくて、彼女は見開いた目で上官を見た。
千葉とて、呆然と自分を見上げる三輪の表情を見れば、どれだけ傷ついたか十二分に分かる。
だが、今は無視する。
彼女の心など、この世に存在していないように振る舞う。
この僅かな数秒が実戦での生死を決める以上、安易に優しくできない。
否。
絶対に優しくしてはならない。
「構えろ! 引き金を引け! お前もBETAに喰われて死にたいのかッ!!」
叱責と共に彼女の頭を――一応、怪我をしないように三輪が被っているケブラー製のヘルメットごと踏み付けた。
「――ひぎっ!」
踏まれた衝撃で喉から噴き出た呼気と短い悲鳴が混じり合って、言葉にならない悲鳴が三輪の口から出た後、彼女の動きはピタリと止まってしまった。
「……うっ………く……っ……」
地面に端正な横顔を付けて突っ伏したまま華奢な肩が震え出すと、小さな嗚咽が三輪の口から漏れ始めた。
先ほどの千葉の一撃は、彼女の意地を完全に叩き折ってしまった。
(――こんな人と戦えるの!? BETAと戦えるの!? こんな事が共に命を懸けて戦う
「……や…だ……」
小さく聞こえた三輪の呟きを、千葉は徹頭徹尾無視する。
そんな弱音はいちいち聞いていられない。
言ってもしない。
踏んでもしない。
ならば手取り足取りしてでも、撃たせるだけだ。
今も嗚咽を漏らしながら伏せている三輪と銃を挟んで正対するように千葉も伏せると、突っ伏している彼女の頭を力任せに上げさせる。
泣いてぐしゃぐしゃになった三輪の顔。
訓練中は泣いてもいい。
だが、戦闘中に流す涙に意味はない。
千葉は右手で三輪の左手を、左手で右手の上から銃ごと握り、首を振って嫌がる三輪を無理矢理伏せ撃ちの姿勢に持っていかせて再び怒鳴った。
「撃てッ!」
引き金だけは自分で引かせなくては意味がない。
引き金を自分で引いて撃ったという経験が重要なのだ。
三輪にだって分かっている。
ここで銃弾を撃ち尽くさねば、この訓練は終わらない。
この苦痛と屈辱はずっと続く。
そう思ったら今の状況から素早く逃げるための行動を起こす。
彼女は碌に
今の状況から逃げ出したい一心で身体を動かす。
千葉はそれを分かっていながら、注意するのを止めた。
身体で、
乱雑に引かれた引き金。鼓膜を突き抜ける銃声。
そして反動で跳ね上がる銃身。
「――っ! ……くっ……ぁ…………」
三輪の右頬を勢いよく打つ八九式自動小銃。
その思いがけない衝撃に顔を
ライフル等の銃は狙いを付けて射撃する際には、銃本体にしっかりと頬を付ける。
そうしないと、狙いを付ける照星――銃身の先にある突起――を、照門――銃の後方にある照星を覗き込むための小さな穴から見ることが出来ない。
その際、しっかりと銃本体に頬を付けていなければ、火薬の反動で跳ね上がった銃が射手の頬を打つ。
当然、千葉はそれを知っていながら注意しなかった。
この痛みで三輪は二度と同じ失敗はしないだろうと思ったからだ。
そうとは知らない三輪は堪ったものではない。
格闘技の経験のない彼女には分からないが、至近距離からのちょっとしたジャブの様な痛みだ。
痛みに慣れていない者にはかなりの痛みであり、崩れかけた三輪の意地を壊すには十分すぎた。
「……も……う、やだ……撃ちたく……ない」
涙とともにこぼれ落ちるその言葉に千葉は何も言わずに無視するだけだ。
彼は先ほどと同じように手取り足取り小銃を構えさせると、再び威嚇するように大きな怒鳴り声で命じた。
「――撃て! 撃たなければ永久に続くぞ!」
永久という単語に三輪がビクリと震えた。
恐る恐る伏せていた顔を上げれば、烈火の如く噴き出る怒気を纏わせた千葉が彼女を睨み続けている。
挫けた心。
だが、完全に粉々にしたわけではない。
性根の部分はまだまだ余裕を持って残っている。
ただ、彼女は今までこのような経験がないから、自分で自分を負けさせているだけだ。
千葉はそう判断している。
太陽と北風の童話ではないが、どんな方法が最善なのかは個人によって違うだろう。
だが、教育者という立場である場合、千葉は今の方法しか知らないし、経験上最も効果がある方法だと自らが経験している。
それよりも何よりも、彼らには時間がない。
ゆっくりと手取り足取り教える時間はない。
何度も見本を見せてやることも出来ない。
既に、あと約六三時間しかない。
彼ら第三中隊第三小隊第一班が実戦や実働任務に駆り出されずに訓練に集中出来る時間はたったそれだけしか残されていないのだ。
この中には睡眠時間や食事の時間、さらには訓練で使用した武器の整備時間等もあり、どうしても削ることが出来ない時間も存在する。
さらに言えば、徴兵されて碌に体力の無い新兵の八人にはちゃんとした休養時間も必要だ。
今ここで出来るようにならなければ、戦場でも出来ない。
訓練で出来ないということは、実戦の場でも出来ないということと同じであり、出来ないと言うことは碌に戦えないということである。
そして、碌に戦えないということは彼らが死ぬということ――つまり圧倒的物量を誇るBETAに喰い殺されるということと同義である。
無論、こういった事実は三輪や真木野たちには知らされていないし、想像だにしていない。
今の三輪に分かることは残った四発を撃ち切らなければ、永遠に千葉に怒鳴られ続け、殴り続けられるという確たる未来だけだ。
しかし、それだけで彼女には十分だった。
涙を流しながら、まともな狙いも付けずに、ただ闇雲に人差し指で引き金を引いた。
上半身が揺さぶられる衝撃とともに、鼓膜を突き抜ける銃声。
眼鏡に付いた泥と涙で歪んだ視界に一瞬だけ火薬の閃光が映り、彼女は本能的かつ反射的に目を閉じた。
「目を開けろ! ドブス!」
「――――アッアアアアアアアッ!」
まともな言葉にならない三輪の声。
それは大した音にならず、遙かに大きい銃声に掻き消された。
だが、叫び続けた。
追い詰められて、絞り出した彼女の本音。
上手く言葉に出来ない感情の爆発。
それに突き動かされ、何も考えずに人差し指を動かす。
その心を埋め尽くすのは、理不尽な仕打ちを繰り返す千葉への憎しみ、理不尽な今を打破できない自分の不甲斐なさ、困難な状況から逃げ出したい自分。
それら全てが彼女に引き金を引かせた。
二度、三度、四度――。
弾倉内の実弾全てを撃ち尽くし、静寂が戻っても彼女の指は止まらなかった。
もう引けなくなった引き金を懸命に何度も引こうとする三輪の人差し指。
千葉はただそれを見届けると三輪から手を放して、彼女が現実をちゃんと見るようにと、右肩を二度ほど強く叩いて破顔した。
「――よしッ! やれば出来るじゃないか! 今のを忘れるな!」
そう言うと千葉は三輪がどんな表情になったか確認しないで立ち上がった。
彼女は今とても複雑で何かやり切れないような表情をしているだろう――と、想像はしていた。
だが、彼は確認しない。
一瞬だけの躊躇い。
千葉は無言で立ち上がる。
皆に視線を巡らせば他の七人も実弾を撃ち終わり、
疲れ切って生気のない高井の目。
睨み付ける訳でも無く、ただこちらを確実に捉えている真木野の瞳。
こちらを向いているだけの田淵の目。
片目を瞑ったまま、こちらを見ている東野の目。
恨みがましく視線を向けているのは胡桃沢。
理由は分からないが何故かある種の生気がある坂上の目。
そんな一人一人様々な感情が籠もった瞳が八人分、全てが千葉を見ている。
それは、千葉にとっては十分すぎる
実は千葉にとって、部下がどういった理由で己を注視していたかはどうでもいいことだった。
どんな感情でこちらを見ていようがどうでもいい。
尊敬でも、敵意でも、殺意でもどうでもいい。
それぞれにそれなりの対応策というものがある。
部下がいつ
それこそが、部下が指揮官の掌握下に自ら入るために必要な最低限なことなのだから――。
今回の非常呼集訓練最終段階である実弾射撃も遂に終わった。
だから、最後にと用意しておいた締めくくりの言葉を伝えることに決めた。
「いいか、今日の訓練で良く認識しろ! お前たちは弱い! 弱すぎる! 徴兵されて武器を手に取ったが、
この言葉で午前中の訓練は締めくくられた。
一九九八年一〇月一七日 一九時〇〇分
帝国陸軍相馬原駐屯地内 男子隊員浴場
「――くっううう~~~~っ!! 染みるぜ、馬鹿野郎!」
巨大な銭湯を連想させる大きな隊員浴場の一角で、勢いよく頭からお湯を被った東野は戦闘訓練により体中に出来た擦り傷にお湯が染みる痛みで、誰とも無く悪態を吐いた。
「東野さんって本当に、何も考えてないんだね」
「うるせぃ! 考えても出来ねぇ奴が生意気な口、聞くんじゃねぇよ!」
その隣で風呂椅子に座って、カランから出るお湯をたらいに入れた田淵は半ばぼやくように間延びした口調で言うと、反射的に東野が怒鳴った。
口調は悪いが本気で苛ついてはいない。
元々品がよいとは間違っても言えないのだから仕方がないのかもしれない。
対する田淵は特に驚いたり、怯えたような様子はない。
見ようによっては実は芯が強いとかそういったこともない。
東野と田淵の関係はある意味では相補性であり、ある意味では舎弟関係でもある。
軍人として僅かに先輩である東野とそれに結構素直に従う後輩の田淵は、出会ってから日が浅い割には結構馬が合っているコンビだった。
「あの班長に勝てない八つ当たりだから気にするなよ」
皮肉に満ちた口調で東野をこき下ろすのは、見た目は純情、中身は猛毒の野球少年の笠原。
ほとんど誰もが騙された――当人にその気はもちろん無い――が、毒舌と皮肉に満ちた少年だ。
彼は自分の見た目の印象を効率よく利用するために、相手によって露骨なまでに接する態度を変える。
「気にいらねぇんだよ! 口だけ野郎が! はいはい言って尻尾振っている負け犬だろうが、テメェはよ!」
先ほどとは違う怒気。
明らかに押さえ込んだ衝動で苛ついているのが誰にでも分かる声音。
「俺は君みたいに馬鹿じゃないから、無駄なことはしないだけさ。ああ、そうだ、君は自分が馬鹿だと言うことも知らないんだっけ?」
「ああっ!? ガキが! 生意気な口きいてんじゃねぇよ!」
田淵を挟んで言い合い、睨み合う。
そんな笠原の隣では、時と場所を考えず幾度となく繰り返されるこのやり取りにウンザリしたように胡桃沢が顔を顰めた。
彼としてはゆっくりと静かに風呂に浸かりたいところではあるが、千葉の命令と示された時間がそれを許さない。
入浴という他愛もない安らぎの一時すら管理する千葉に苛つくが、入浴という貴重な時間でも五月蠅く騒ぐガキどもにも苛つく。
とは言っても、同じように喧嘩するのも馬鹿馬鹿しく、注意するのも無駄だと思うと阿呆らしい。
一緒になって何かをやっていく気にもなれないし、一緒に何かをする気もない。
結果、彼は顔を顰めたまま体を洗い、湯船に浸かることだけを考えて、苛つきながらも無口となる。
大して仲の良くない彼ら四人が一緒に入浴している原因は千葉にある。
実は千葉が彼らに教育を始めるとき、最初に命令したのだ。
『食事、風呂は全員揃って行くこと。例外は認めるが、その判断は全て、俺と樽木が行う』
その瞬間から、彼ら八人の朝昼晩の三食と入浴は団体行動となり、それは実質的には個人が自由に出来る時間の大半が自由であって自由でない時間になった。
それ以外の時間は千葉が彼らを扱き上げているため、彼らが自由に出来る時間は一日に二~三時間しかない。
その時間内に洗濯や装具の手入れ、共用スペースなど公共場所の清掃などが入れば、自由時間など無きに等しい。
かといって、好き勝手に動くのもなかなか気を遣う。
バレれば、千葉が鉄拳制裁を下すのは確定的である。
初日にあれだけ叩きのめされると、何事にも反抗的な東野とてそう安々と出来るものではない――彼とて無闇に痛い目を見たくはない。
「ケッ! テメェみたいなヤツは誰も助けねーよ。さっさと喰われちまえよ!」
「フン! 君みたいなヤツの助けなんて、必要ないね! むしろ田淵君に助けて貰えるように頼んでおいたらどうだい?」
「……いい加減、止めなよ。二人とも」
田淵が仲裁に入るが、その言葉は無視したまま東野と笠原は体を洗うことに集中し無言となった。
ようやく静かになったのを見計らい、胡桃沢は聞きたかった質問を田淵に聞いた。
「田淵、センセイは結局行ったのか?」
何気なく聞いた言葉に三人の少年は次々と表情を変えた。
なお、センセイとは坂上の渾名だ。
教師をしていただけあって、彼の呼び名はあっという間に誰が言うともなく決まっていた。
「センセイは班長のところに行きました」
もう、何か諦めたような寂しげな表情を浮かべる田淵。
「か~~~~ッ! 物好きだねぇ!」
『本当かよ』と言わんばかりの表情を大げさに浮かべた東野。
「まぁ、何とも言えないけど……」
微妙に気難しそうな表情で口を噤んだ笠原。
「正直、無駄としか思えないんだけどねぇ」
そんな彼らとは無関係に胡桃沢は言葉を続けた。
彼は特に裏表があるというような性格ではなく、自分に関係ないことには無関心な性格であり、坂上の行動はあまり自分に影響があるような行動とは思っていなかった。
仮に坂上の行動で自らにも何らかの被害等が想定される場合には、彼もあたふたといろいろ騒がしかっただろう。
「――自分は、センセイは凄いと思います」
意外なことに、笠原が悔しそうな表情を浮かべて言葉を続ける。
その言葉に田淵と胡桃沢は少し驚いたような表情を浮かべ、東野は無言のまま小馬鹿にした表情を浮かべた。
「あれだけ女性を泣かしていたら、誰だって文句の一つも言いたくなります」
「今日は三輪さんが大泣きしていたからなぁ……」
笠原の言葉で実弾射撃訓練後、『……もう、無理……』と呟いた直後に大泣きした三輪を思い出して胡桃沢が渋い表情で言うと、田淵も今までの光景を思い出したのか、ぼそぼそと言い出した。
「真木野さんも、高井さんも、みんな泣いてますよ」
しんみりした田淵の口調。
「女性陣は美人揃いなのに容赦無いよね、あの班長」
自らも殴られたことを思い出して、嫌悪感に満ちた表情を作る胡桃沢。
自業自得の面があるとはいえ、些細なことで執拗に責め立てられ、殴られるのは決して思い出したい記憶ではない。
「――自分も我慢できません! 女性は普通、護るものじゃないですか!?」
笠原の言葉に力が籠もる。
いつもの毒舌に似合わぬフェミニスト振りは、他の三人にとっても意外だ。
その勢いに押されたのか、田淵と胡桃沢が「うん」とか「そうだねぇ」と相槌を打ったが、東野だけは冷笑を浮かべた。
それでも独白のように笠原の言葉は続く。
「何でもかんでも言われたとおりに出来る訳無いじゃないか! まだ徴兵されて一ヶ月しか経っていないんだ!」
「なんだ、お前、童貞かよ?」
唐突な東野の一言で、三人の間に一瞬の間が出来た。
驚きで田淵と胡桃沢の口はあんぐりと開き、笠原の口は上手く呂律が回らなかった。
「――なっ!?」
東野は自分の一言で衝撃を受け呆然とした表情を浮かべた三人を見て、満足げな笑みを浮かべ少々饒舌に――まるで演技をするかのように言葉を続けた。
「お前さ、やたら、女性陣の肩持つからよ。格好付けて、モデルの真木野か、巨乳の高井さんと一発ヤラせて貰いたいだけだろ。いやいや、お前ならインテリの三輪かぁ~? 全員美人なんだから、別に誰でもいいだろ?」
「なに言ってるんだ!? 今の言葉を撤回しろ!!」
笠原が激高して噛み付かんばかりの勢いで怒鳴り、笠原と東野に挟まれた格好の田淵は腰を引いて二人の視線の間から逃げた。
自分の一言で優等生面の笠原が感情を露わにしたことが楽しくて、優位に立ったような気がして高揚する東野の感情。
――ハ、なんだ。こんなことで怒るのかよ。コイツ、チョー単純。
明日死ぬかもしれないのに、何いい子ぶってんだよ、このバカ。
「今さら格好つけんなよ。土下座しながら頼み込めば、一発くらい出来んじゃね? 頼むは一時の恥、童貞は一生の恥だぜ」
この一言で笠原が切れかかった。
――これから共に命を懸けて戦う仲間を何だと思っているんだ!?
こういう奴が取り返しの付かない犯罪をしでかすんだ!
「あの人たちを侮辱するな! 共に戦う仲間なんだぞ!」
笠原の剣幕に怯えた田淵が風呂椅子から転げ落ちるかの様に逃げ、胡桃沢も無言で少し距離を取った。
「バッカじゃねぇの? 童貞のまま死ぬ気かよ」
この期に及んで他人の事ばかり考えて、何の意味があるんだよ。
別に何かしたわけでもないのに、急にいきり立ちやがって。
コイツ、本当のバカだ。
侮蔑と嫌悪を混ぜた視線で約一メートル横にいる笠原を見下すように横目で見る東野。
「そんな事は問題じゃない!」
殴ってしまいそうな衝動を必死になって笠原は止めた。
こいつは本当に自分のことしか考えていない。
一人ではどうしようもないBETAとの戦いでは一致団結することが絶対必要なのに、自分のことしか考えていない!
本当になにも考えていないじゃないか!?
「何が問題なんだよ、バーカ! テストしか出来ない坊ちゃんがよ」
東野の価値観と笠原の価値観。
両極に近い二人の考えが、お互いに言葉足らずのままぶつかる。
「お前みたいに何も考えてない奴が、人類をここまで苦境に追い込んだんだ!」
「何言ってんだ。バッカじゃーねの? 俺は関係ねーよ」
笠原の堪忍袋の緒が完全に切れた。
――そうさ! お前個人は関係ない!
だけど、お前みたいな奴を見過ごしていたら、どんどんみんなは――人類はバラバラになっていくんだ!
それでも、たった一つの命を懸けなければならないのに、どうしてお前はッ!!
次の瞬間――。
激情に駆られた笠原が振り上げる拳より速く、東野の拳が笠原の顔面に打ち込まれた。