※いま投稿している作品自体は、クロニクル4発売の半年以上前に書き終えていますので
一九九八年一〇月一七日 一九時〇四分
帝国陸軍相馬原駐屯地内 第二機械化歩兵連隊第三中隊事務室
「私たちをちゃんと人間扱いして欲しい」
「――はぁ!?」
中隊事務室に訪れた坂上の開口一番の言葉に千葉は素っ頓狂な声を上げた。
よくある事務机で各種書類と格闘していた千葉が椅子を回して、初めて直立不動の姿勢で言を発した坂上を見た。
坂上は教えられた通りに千葉から二歩離れた位置で直立不動の姿勢を取り、千葉が「どうした?」と発言を促してから会話を始めた。
ここまでは問題ない。規則通りである。
ただし、坂上が言った内容が“ぶっ飛んでいる”。
千葉は何も言わず視線を外して、こめかみを右手で軽く揉んだ。
千葉から溜息が自然に漏れた。
どこから言えばいいのやら――そんな言葉が脳裏を
思わず怒鳴りたくなる衝動を抑えて、質問から始めてみる事に決める。
今の言葉を言ったのが東野や笠原なら問答無用で鉄拳を振るうところだが、言い出したのは坂上だ。
規則上のことはきちんと守った上で、わざわざ他の隊員――無論、新隊員など居らず千葉のようなベテランや他の班長、中隊本部要員数名いる事務室内で言いに来たのだ。
当然、それなりの考えがあって来たはずで、自暴自棄でも何でもないだろう。
確たる考えがあって来た。だからこそ厄介で苦労するからこそ、皆の笑い話になるのでもある。
「どうした? 何か重大な問題があったのか?」
こちらとしては十二分に人間扱いしているので、どこが問題なのかが分からない。自然と、不明瞭な点を明白にする事から話は始まる。
「とても……今の状況と扱いはまともだと思えません」
始めは言い淀みながらも、ハッキリとした口調。
躊躇いのない判断故にここの来たのだと、聞く者に訴えかける声音と分かり易い言葉。
「それが、俺にはよく分からんな」
視線を戻して千葉が問う。
彼には新兵たち八人に不満が貯まること自体は理解出来るが、軍隊は娑婆より自由が無くて当然の職場であるという認識があるため、坂上が言う『人間扱いしていない状況』とやらが、はっきりと確信を持って理解出来ない。
千葉としては、これでも手心を加えて教育訓練しているのだ。
彼が今まで経験してきた訓練――レンジャー訓練等を新兵の八人に無理矢理実施させたら、冗談抜きに一週間と経たずに半数が
四日間一睡もせずに山中を行軍することなど当たり前。
その四日間で一〇キロ近く落ちる体重。
背負った荷物は六〇キロを越え、水も飯も碌に無い。
それを何週間も繰り返す日々。
月の明かりすらない闇夜の山中で、藪の中を歩き、崖を登り、沢を渡る。
潜入、偵察、待ち伏せ、襲撃、離脱の一連の行動を不眠不休で行うレンジャー訓練では、選抜された軍人でも滑落等の事故や脱水症状で死者が出るほどだ。
千葉とて新兵たちのレベルは理解しているので、そんな無茶をする気はないし、行っている気もない。
それほど意地悪なこともしていないし、厳しすぎることもないと思っている。
それだからこそ、坂上の言葉は理解できなかった。
対する坂上も直ぐに答えるような真似をしなかった。
慎重に言葉を選んで、千葉の問いに答える。
「私たち八人は今までただの一般人でした。私たちが徴兵された理由は理解しています。日本と人類が危機的状況な事も当然理解しております。人類の一人として、戦うべき時であることも分かっております。ですけども……」
そこまで言って坂上は言葉を切った。一瞬だけ言葉を詰まらしたが、意を決して口を開いた。
「私たちは命令されたからと言って、急に何でも出来るようにはなりません。幾ら頑張らなくてはならない状況であっても、突然には出来ません。子供たちは体が出来ていませんし、女性は元々力仕事が向いていない。筋肉ですらそのような状況なのに、覚えなければならない武器の取り扱い方法も多岐に渡っています。しかし、覚えることの内容と比べれば、訓練の内容は厳しく、時間的にしっかりと覚えることが出来ない状況です」
もう一度言葉を切った坂上を、千葉は無言で促した。
「やれと言われても、出来ないことは出来ません。それと女性に対する指導は、体罰が行き過ぎていると思います」
坂上は背筋を伸ばしたまま、きっぱりと言い切った。
「それは八人の総意か?」
冷め切った眼差しで千葉が問う。
「いえ、あくまでも個人的意見です」
坂上の即答。
「話にならんな。帰れ」
怒気を押さえ込んだ千葉の声。
苛立ちを隠さずに眉間にしわを寄せて、坂上を睨む。
「――このままでは戦う前にみんなの心が潰れてしまう!」
思わず荒げた自らの声にハッとなって、坂上は口を噤んだ。
彼とて、自らが置かれた立場を全く知らぬような馬鹿者ではない。
「今のままのペースでは、覚えられることも覚えられずに、団結も仲間意識も無くなってしまう。今のままで、良い訳がない……」
最後の一言はは消え入りそうな声だったが、しっかりと千葉の耳に届いた。
だが、その上で千葉は断言した。
「お前の話は聞くだけ無駄だ」
何もかも否定した答え。
その上、話し合う気もないその対応にもう我慢が出来なかった。
「このままで私たちが戦える訳が……! ――信頼し合うことが出来る訳がない!」
「お前たちの信頼などいらん」
坂上の言う『私たち』は千葉を含めてのこと。
一致団結。
戦闘能力が低い新兵が生き残るために、お互いに助け合う信頼関係を構築すべきだと考える坂上。
戦技向上。
一人一人が生き残るためには戦う能力自体が無ければ、団結しようが意味が無いと考える千葉。
十分な時間があれば、お互いの考えは両立できるだろう。
だが、今は日本帝国滅亡の危機。
いや、BETAによる人類滅亡の危機がそれすら許さない。
「私たちは共に戦う仲間ではないのか!?」
坂上が問い詰めるように声を荒げる。
「違う。それ以前の問題だ」
千葉はただ端的に、そして冷徹に告げる。
「――何が違う!? 私も貴方も同じ日本国民で共に戦う仲間ではないのか!?」
「同じ日本帝国国民であるが、同じではない。お前は既に軍人で民間人でない。良いか?もう一度言うぞ、お前は軍人だ。そして、お前は俺の部下だ。俺の命令にたった一つの命を懸けろ。それが義務だ」
「貴方は私が上官だったら、死ぬような命令に従うのか!?」
「自殺はしないが、飛びっ切りに死ぬ可能性が高い命令には当然従う。残念だったな、俺の部下で」
坂上の皮肉混じりの言葉にも、何の感慨も湧かない。
千葉にとっては今さら考える必要もないことなのだから。
「そんなのは詭弁だ!」
激しく食い下がる坂上に堪忍袋の緒が切れそうで軽く目を瞑り、ボリボリと頭を掻いた。
こうでもしないと、一瞬で切れてしまう。
だが坂上は、それを千葉が図星を突かれて視線を逸らしたと考えた。
「あのなぁ……俺にこれ以上、お前との無意味な押し問答に付き合う暇が有ると思うか? お前と俺の立場が平等の訳ないだろ。お前はゴミ以下のくそったれの口だけ達者な使いよう無いクズだ。これ以上喋るなら、いい加減殴るしかないな」
「そんな脅しで――!!」
その先の言葉を坂上が言えるわけがなかった。
今まで部下を殴っていたことは全て手抜きだったと、坂上の身体に本能として教え込む一撃。
反射的に身を守ろうと上げた腕ごと打ち貫く右拳。
殴られた当人が視認することなど許さない速度。
殴られた事を認識すら出来ないうちに蹈鞴を踏む足。
思考する能力を根刮ぎ奪う衝撃が坂上の視界を揺らして、激痛と恐怖を臓腑に刻む。
素早く椅子から立ち上がった千葉が坂上に放った、有無を言わせぬ打ち下ろしの右正拳。
「おいおい、これでも本気じゃないんだぞ」
そう。
千葉が本気で殴りかかれば、坂上は絶対かつ確実に素手で殴り殺せる。
反撃など許さない。
現に本気でない今ですら坂上はガード一つ出来ていない。
だから、今の一撃でも千葉は大怪我をしないようにと手加減しながら殴っているのだ。
余りの痛さと衝撃で床に片膝を付いた坂上が、驚きと苦痛と恐れと失望を混ぜ合わせた顔を上げて千葉を見た。
「言っただろ。まだ喋るなら、殴ると――」
「――……っ!!」
見下ろす千葉の瞳はただ冷たく、苛つきと怒りだけが垣間見える。
坂上にはそれが何かが分からなかったが、身体の芯まで響く打撃が千葉の答えであり、絶対に相容れないものであることだけは顔一面に広がる苦痛で察した。
殴り飛ばされた坂上に向けて千葉が静かに一歩踏み出すと、坂上の体はビクリと反射的に――勝ち目がないという事を本能的に察した身体的な反応で震えた。
それでも、坂上とてこうなるだろうということは半ば予想して千葉への直談判に来ているのだ。
千葉の右拳で痺れる口を何とか動かして喋る。
そうする口元からは本人も知らぬうちに血が流れ落ちる。
それにも構わずに叫ぶように訴える。
「だったら!」
みっともなくても構わない。
臆病に手足が震えても構わない。
声音が震えていても構わない。
どうしても言いたかった。
徴兵されて自分たちは出会った。
高校中退の東野と公務員の胡桃沢はこんな事が無ければ出会わない。
高校生だった笠原と田淵だって、お互いに顔も知らない者同士だった。
元モデルの真木野と保母だった高井、それに大学生だった三輪だって顔を合わせることもない。
職業軍人の千葉と樽木に、教師だった自分。
普通だったら皆、出会うわけがない。
それが必然であれ――。
たとえ偶然であれ――。
出会って協力し合うのならば――。
協力しなければ生き残れないのであれば――。
人は一人で生きられないから『人』なのだ。
だからこそ共に戦うのではないのか!?
その為に集まったのではないのか!?
「団結も信頼も必要ないなら、――何で私たちは一緒なんだっ!!」
「ただの偶然だ。そんな無意味なことを、俺に聞くな」
腹の底から絞り出すような坂上の叫びに似た問いに、千葉は眉一つ動かさずに突っぱねた。
まるで渾身の力を込めて投げたボールが壁に当たって跳ね返ってくるような錯覚。
呆然とした。その温度差に。価値観の相違に。
千葉の歩みが変わるわけもなく。
その苛つきが消えるわけもなく。
坂上は、再び彼を殴ろうと千葉が指を鳴らしながら近付くのをただ見上げた。
その時間は僅かな時間であったけれども、二度と忘れないだろうと坂上は確信した。
千葉が今も片膝を付いたままの坂上の一メートルほど前に立ったとき――。
「ち~~ば~~、お前もなかなか忙しい男だねぇ~」
そう、わざとらしく間延びした大きな男の声が中隊事務室に響くと、千葉は特に驚いた様子もなく声の主に視線を向けた。
「すいません、先任。お騒がせしました。すぐに場所を変えます」
「いや、むしろその方が拙いだろう。ここでいい。教育熱心なのは良いが、ほどほどにな」
いつの間に入ってきたのだろうか。
わざとらしく間延びしたまま受け答えたのは、第三中隊先任軍曹である門倉曹長。
白髪交じりの角刈り。齢四〇を越えたのにも係わらず贅肉のない身体。
身長一七〇半ばほどなのだが、そのような事を感じさせない肩幅。
小麦色の肌に刻まれた深い皺。がっしりした顎。
雰囲気は古き良き頑固親父っぽいが、その顔に浮かぶのは飄々とした表情。
何もしていなくとも下士官の長に相応しい風格が滲み出ているが、それは長きに渡る研鑽の賜物か。
その門倉であるが、今は上下のジャージ姿と首にバスタオルを掛けた格好。
手に持っているのは風呂道具が入った洗面器。
一目で風呂上がりだと分かる出で立ちだった。
そんな彼にとって、目の前の出来事は些事であった。が、完全に無視出来ないだけの理由もあった。
「それとな、千葉。樽木にはもう言ってあるが、お前の班員が風呂場で殴り合い始めたんで仲裁しておいた。原因は知らん。そいつの後でいいから、ケアしてやれ」
「有り難う御座います。しっかりとケアしておきます」
千葉が軽く頭を下げて礼を述べると、門倉は背を向けたまま「気にすんな」と左手を鷹揚に振りながら、事務室内の自分の事務机に向かった。
彼にとって千葉と坂上のことは大した問題ではない。
それ以上の問題が山積みで残業の毎日である。
その後ろ姿を見送りながら、千葉は両目を瞑り、自らを落ち着かせようと深く息を吐いた。
門倉がいなかったら、盛大に舌打ちをしていただろうことを自覚する。
今も苛立っているし、深呼吸一つで急に無くなったりする訳ではない。
かといって、無分別に当たり散らすことはしたくない。
その八つ当たりは餓鬼臭い。
千葉は坂上に一言だけ言うことを決めると、坂上の胸倉を掴んで左手一本で力尽くで立ち上がらせた。
いや、それはもはや吊し上げたといった方が正しい。
千葉が襟首を掴んだまま、苛立ちも怒りも隠さず、至近距離で坂上を睨む。
一瞬怯んだ坂上だったが、それでも次の瞬間には意を決して千葉から視線を逸らさない。
むしろ、その双眸に宿る意志の強さは増したようにすら感じる。
千葉には、坂上がそうする理由が分からない。
坂上をそう駆り立てる考え自体が分からない。
そうではあるが、坂上を理解するつもりもない。
だから、千葉は苛立ったまま吐き捨てるように事実を告げた。
「坂上、忘れるな。お前たちは
それから無言で、坂上の顔を右ストレートで打ち抜いた。
一九九八年一〇月一七日 二二時四八分
帝国陸軍相馬原駐屯地内
第二機械化歩兵連隊第三中隊 営内隊舎3Fの非常階段に設置された喫煙所
東野二等兵 及び 坂上二等兵
帝国陸軍では消灯は二三時と決まっている。
この時間になれば特に許可されていない限り、居室等の生活区域は消灯しなければならないし、それ以外の場所でも特に必要がない限り消さなければならない。
夜の点呼が終わり、消灯するまでの三〇分に満たない僅かな時間は、後はもう寝るだけの兵士たちにとって、何も考えることなく気を抜ける貴重で有り難い時間である。
そして、その貴重な時間は大概の場合、仲間と何かを飲みながら僅かばかりの煙草を吸い、雑談を交わす
「先生、アンタ、本当は馬鹿だろ?」
「――?」
非常階段の踊り場に設置された喫煙所で突然、東野から言われた一言。
余りのも唐突すぎたので、坂上は何を言われたのか理解できずにポカンとした表情を浮かべた。
そんな事を無視して、戯けたような口調で東野は一〇歳以上年上の“後輩”に向けて喋った。
東野だけは他の新兵七名に比べ一月ほど早く入隊しているため、年齢など関係なく“先輩”である。
「いや、絶対馬鹿だって」
そう言いながら、人差し指で坂上の顔を指差す。
坂上の顔は中隊事務室で千葉に殴られたため、左頬が大きく腫れている。
それを見ながら心底面白そうに笑って、煙草を一本口に咥えた。
「――未成年が煙草を吸っては駄目だ」
どうして馬鹿だと言われるかが分からなくて半ば呆然としていた坂上だったが、未成年が煙草を咥えると生真面目な性格らしく直ぐに教師だった頃のように注意する。
が、喋った弾みで、殴られて出来た口内の切り傷が痛んで顔を顰めた。
「ほんと、……先生だわ」
その様子を眺めながら東野は苦笑いを浮かべ、特に気にすることなく咥えた煙草にオイルライターで火を付けた。
坂上の腫れた顔を指差しながら笑っていた東野だが、本人の顔も腫れている。
彼の左まぶたの上に出来たたんこぶは、千葉の“指導”で出来たものだ。
千葉は東野と笠原の喧嘩に対して訓練時に比べれば、それほど怒らなかった。
一発ずつ“指導”した後は、腕立て伏せを三〇回――当然、背中には同期を座らせて、実施させただけだ。
最後は潰れた二人に言った言葉は『今のうちに喧嘩しておけ』という、意味深の一言。
正直、その光景に新兵たちは拍子抜けをした。
てっきり、いつものように連帯責任を取らされると思っていたからだ。
その当事者である東野はそんなことは無かったかのように深く紫煙を吸いながら、遠くの夜景を眺めた。
当然、喫煙所に来るような人間は、そのほとんどが喫煙者なので東野の行動を咎めるような者は坂上だけだ。
今のご時世、そんなこと気にするのは娑婆の世界だけだ。
軍隊の中では誰一人気にも止めない。
その坂上も流石に火を付けた煙草を取り上げるようなことはしない。
今の日本では煙草は高価な嗜好品だ。
何よりも自身が愛煙家であるため、それ以上の行動は止めた。
それよりもジャージのポケットに手を突っ込み、クシャクシャになったケースから湿気かけた煙草を一本取りだして口に咥える。
すると見計らったように、東野がライターを付き出して火を付けた。
「……ありがとう」
苦笑いを浮かべながら、坂上は火を灯した。
注意しておきながら火を付けて貰うなど、なかなか皮肉が効いていると言わざるを得ない。
もっとも東野の行動には皮肉という意味はない。
ただ彼はにやりと笑った。
悪いことを一緒にして、秘密を共有した仲の良い子供たちのように。
それから、千葉という同一人物に顔面を殴られた二人は無言で遠くに見える夜景を眺めた。
帝国陸軍相馬原駐屯地から見えるのは、高崎や前橋など街の光。
それは以前に比べれば、かなり
人が減り、明るい話題も、娯楽も禄にないご時世だが、BETAとの戦いは物量戦の様相を示しており、生産性向上の為に昼夜稼働し続ける各種工場の光は一日中消えることがない。
ましてや、西日本陥落により九州・瀬戸内海・阪神地域の重工業地帯は壊滅している。
嫌が応にも、日本国中の無傷で残っている全ての工場――特に軍需工場では二四時間での増産体制が取られていた。
そんな中、不意に東野が口を開いた。
「……俺だって、あの班長に歯向かえばやられちまう。って、ことは見ただけでも分かるぜ」
坂上としては千葉のところに直談判に行ったことは一言も漏らしてはいないのだが、隠せるようなことでもない。
そんなことにも考えが至らなかった自分に坂上は再度苦笑を浮かべた。
今日の自分は苦笑しか浮かべていないような気がする。
「だけど、あれだけ強いヤツが俺らの頭を張るなら、俺たちが生き残れる可能性が高いってことも分かるだろ。逆らわずにハイハイ言って、やることやってりゃ、済む話じゃねぇか」
「君でもそう思うかい?」
「当ったり前だろ。先生、人を馬鹿にしすぎだぜ」
そんなこともちゃんと考えていたのか。
と、素で驚いた表情を浮かべた坂上に少々憤慨気味に東野が応ずると、彼は素直に詫びた。
「失礼だった。僕もそう思うよ。だけどね、世の中には譲れないものもあるんだよ」
遠くの光を見詰めたまま零れた、はっきりとした強い意志。
子供ではなく、社会人として扱う口調。
東野はそれに驚き、一瞬目を見開いて、それから納得した。
坂上は厳格な上下関係が存在することを知った上で――無論、殴られることも覚悟しての行動であるが、それでも直談判に行くような人物だ。
当然、その程度の気合いは軍隊に来る前から持っている。
東野はそうであるからこそ、喫煙所で会話していることに気付いた。
こうやって『元』ではあるが、教師と会話するなんて小学生低学年以来であることも思い出した。
あの頃は何も考えずに笑っていた。毎日が意味もなく楽しかった。
大きくなればなるほど下らなくなっていった。
やりたいと思ったことが出来なくて、面白くなかった。
身体が大きくなるにつれて、それと同じように不満だけが溜まっていった。
だから、教師は嫌いだ。学校も下らない。日常も退屈だ。
BETAって何だよ。
俺が生まれる前に地球にやって来た化け物って何だよ。
世界中のお偉い学者や先生が束になっても一体何なのかが分からない化け物。
ただでさえ面白くない現実なのに、そいつらの所為で夢も希望もありゃしない。
一部の人たちが念仏のように繰り返して言い散らす、人類滅亡の危機。
節制、節制、また節制。全ては戦争の為。全ては生き残るため。
『欲しがりません、勝つまでは!』
半世紀近く前のスローガンが大新聞に再び踊る。
大人たちの多くは徴兵され、子供たちがこなさなければいけない雑用だけは増えていく。
苛立ち混じりに煙草を吸った。
酒も飲んだ。
そうすれば子供でも大人と同じだと、すぐに大人になれると思った。
そんな中学の頃に覚えたのはバイクの運転。
当然のことながら、無免許の違法運転だった。
警察に捕まって説教食らったりしたのは、一度や二度では済まない。
教師はヒステリックに怒鳴り散らすし、母親は泣き出した。
だけど、どうしても止められなかった。
あの風を切って進む爽快感。
エンジンの振動を身体で感じながら操る一体感。
何もかも忘れてスピードの世界に埋没して感じる充実感。
あっという間にバイクの虜になった。
それが大好きで、工業高校を希望した。
入学から一月もしない内に、夢は徐々に崩れ始めた。
確かに機械関連の授業は多い。
実習も多い。
クラブ活動だって機械弄りが多い。
最初は内燃機関の実習でディーゼルエンジン。
次はガソリンエンジン。
そのまま順調に進むかと思われたが、急に銃の整備が授業に入ってきた。
それからは次第に武器を整備する授業が増えた。
面白くなかった。
高校を卒業したら徴兵されると噂されているのに。
人生で最後の自由時間を台無しにされたようで悔しかった。
だから、止めた。
高校を中退した。
自分の我が儘を出来るだけ、やってみようと思った。
一八歳になれば、本人の意志に関係なく男は徴兵されてしまうのだからと開き直った。
そうやって生きてきたのだから、教師と話すことが久しぶりなのは当然過ぎることだった。
「考え事かい?」
煙草を咥えたまま無口になった東野に坂上が声を掛けると、まるで夢から醒めたように応えた。
「……ん、ああ、まぁな。昔のこと思い出してた」
長くなった煙草の灰がポロリと落ち、指に当たると砕けて散った。
「大したことない思い出、思い出してた」
「そうか……」
お互いの微妙ないたわり。
無言の間。
「先生の譲れないものって何だよ?」
また、唐突に東野が坂上に問い掛けた。
千葉に殴られても譲れないと言ったものは何なのかと。
「信念」
たった一言の力強い即答だったが、東野が理解するには言葉足らずだった。
「……正気かよ? 命掛かってんだぜ。何の得にもならねぇよ」
東野が信じられないものを見るように、目を剥く。
それには即答せずに、坂上は煙草の灰を灰皿に落とした。
一拍の間を置く。
「人はただ生きているだけじゃ駄目なんだ。生きる目標と未来があってこそ、人は生きていると言えるんだ」
「口先だけじゃ話にならねぇよ。今は生き残るのが最優先だろ」
東野自身、坂上の言葉で湧き上がった感情を上手く説明できないので、そんなことしか言えなかった。
「それも大事だけど、これも大事なんだよ」
坂上の一言に、自分の何かが引っ掛かる。
それが分からなくて、彼は何かを放り上げるように上を向いた。
「……訳分かんねぇよ……」
澄み切った空気に満たされた、雲一つ無い秋の夜空。
煌々と輝く憂愁の満月。
視界一面に散りばめられた無数の星々。
その空に、二人の紫煙は立ち上ると、不意に吹いた風で掻き消えた。