竜殺しっぽい誰かの話。 作:焼肉ソーダ
───背後に付き従うのは五つの魔剣。射抜くような視線は、真っ直ぐにグレン=レーダスへと向けられている。
学院に来る前に彼を仕留めるはずだった、一撃必殺を旨とするキャレル。少々快楽を優先する傾向にあるものの【ライトニング・ピアス】の早撃ちにかけては並ぶ者のいないジン。
それらを無力化してみせたグレンという魔術師への評価は、もはや取るに足らない三流魔術師ではなく、れっきとした障害であると認識するまでに至った。
故にダークコートの男───レイクは、万全を期してこの場へ臨んだ。
推定される敵の切り札を警戒し、魔導器を先んじて起動し、わざわざ魔力を割いて大量のボーン・ゴーレムを向かわせ、消耗させた。想定ではボーン・ゴーレムの物量だけで殺し尽くせたはずだったのだが、【イクスティンクション・レイ】の存在でその予想も覆された。
「とはいえ、さすがに品切れだろう。いささかただの三流魔術師と呼ぶには過ぎた代物を隠し持っていたようだが、それもその様子では二度も使えまい」
加えて、グレンのそばには二人の生徒───片方はジンが確実に殺したはずの人間であることが気にかかったが、いずれにせよ彼らがグレンにとっては足手まといである可能性は十二分にある。
つまり、詰み。
グレンがまだなにか切り札を隠し持っているか、生徒二人が驚くべき戦闘適性でも持っていない限りは、レイクの勝利は揺らがないものとなっていた。
「……けっ。俺みたいな三流捕まえて物々しい警戒だこと」
一方、憎々しくつぶやくグレンもまた、現状での勝ち目は限りなく薄いと認識していた。
帝国式軍隊格闘術───自分のものよりさらにアレンジが加わったそれを揮うアシュリーはともかく、白兵戦闘を強いられる剣の魔導器が相手となると、そういった心得がなく、さらにここまでの戦闘で魔力を消耗したシスティーナでは分が悪い。
逆に言えば、レイクのあの魔導器さえなんとかできればこちらにも十分勝ちの目がある───ということでもあるが、魔力増幅回路が組み込まれた魔導器の解呪を行うには、グレンの魔力量では困難だった。父親から手習ったというシスティーナならばあるいはといったところ。
「……おい、白猫。お前はあの剣をディスペルできそうか?」
故に、要点のみをシスティーナから聞き出す。返ってきた言葉は『ノー』。そもそも、【ディスペル・フォース】を素直に唱えさせてくれるほど相手も馬鹿ではないだろう。
システィーナは確かに優秀な生徒ではあるが、まだまだ発展途上な上にここに至るまで魔術を連発してきた。当然、ディスペルに必要な魔力全てを一人で賄うことは不可能だ。アシュリーはまず【ディスペル・フォース】自体使えないだろう。この年齢で使えるシスティーナがある意味異常なのだ。
ならば、ここでグレンが取るべき行動は───
「なら、よし」
軽い声と共に、とん、と、グレンがシスティーナを壁に向かって突き飛ばす。正確には、つい先ほどまで壁があったところに向けて。
グレンの【イクスティンクション・レイ】で吹きさらしになった壁の外は、当然。
「え? ……わ、きゃああぁぁぁぁぁ!?」
四階もの高さから突然突き落とされたシスティーナが悲鳴を上げる。
なんだか呪文と草木を掠める音に混じって恨み言が聞こえた気がするが、気がするだけだとグレンはすっぱりさっぱり聞こえなかったことにした。
「……逃がしたか」
「さすがに、お前相手じゃ庇いながらはキツそうなんでね」
これで布石は打った。
後は、とグレンは残るもう一人に目を向ける。
「アッシュ。お前は協力してくれ。……正直、どこで身に着けたんだか知らんが……お前の
「……そう言われちゃ、断れませんね」
第一、俺が落っこちてもなんとかなるビジョンが見えないし……と、苦笑交じりに肩をすくめた。
そう考えると、突然の出来事にも関わらず【ゲイル・ブロウ】で減速したシスティーナの反射速度は素晴らしいと言える。
───さあ、これで舞台は整った。
ついに敵の元から飛び立った刃が、踊るように空気を切り裂きながら獲物へと喰らい付いた。
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防戦一方。戦いの様子を一言で表すなら、そんな単語が相応しいだろう。
「はぁ、あ───!」
ただひたすらに、迫る剣を打ち落とし、時折苦し紛れに反撃する、そんな自動機構。
数少ない有利な点は、グレンの【愚者の世界】を警戒した相手がほとんど魔術を使わないこと。そして、単純な頭数の差による戦力の分散だった。
レイクの武装は、三本の自動剣と二本の手動剣から成る。
正確無比な自動剣で相手を翻弄し自動化されたが故の隙を手動剣で断つ───それが、レイクという男が導き出した『最も効率の良い殺し方』だった。
そしてそれは真実だった。一本の自動剣をアシュリーに割いているとはいえ、縦横無尽に走る剣閃にグレンは確実に追い詰められている。アシュリーもまた、そこそこ程度に格闘術を修めているとはいえまだ学生、潜った修羅場はグレンに比べれば圧倒的に少ない。
練り上げられた殺戮技巧と、致命的な経験不足。それが足を引っ張り、少しずつ二人の身体には決して無視できない傷が積み重なっていく。
「くそ……《猛き雷帝・極光の閃槍以て・───」
「《霧散せよ》」
ごくわずかな隙を縫ってグレンが【ライトニング・ピアス】を詠唱するが、相手の一節詠唱で紡がれる【トライ・バニッシュ】に打ち消される。
こういうとき、基本三属の三節詠唱は不便だ。いくら魔力効率が良くとも、発動できなければ意味がない。
だが、グレンが使える魔術といえば残りは切り札の【イクスティンクション・レイ】か、確実に仕留めてしまうか的確なサポートがなければただの自殺行為になってしまう【タイム・アクセラレイト】など揃いも揃ってクセが強いものばかり。
【愚者の世界】を警戒して魔術こそ使われないという利点こそあるものの、それは『
(……くそ、手が足りねえ……! せめてもう一手……あいつに隙を作れるだけのなにかがあれば……!)
だが、それはないものねだりというものだ。
ただでさえ生徒を二人巻き込んでの戦い。そこで更なる一手を望んだとて、返ってくるものは忌々しい魔導器のみ。
一人、この場に残した生徒を見る。どう見たって戦況はギリギリだ。なにかをする余裕など到底ない。
むしろ、ただの生徒の身でよく持ち堪えているものだ。
彼がいなければ、もっと苦戦したことは想像に難くない。
しかし打破できなければどの道未来はない。ある程度は捌けているとはいえ、傷は決して浅くない。分が悪い賭けはしているが、それをするにも隙がない───
「───……なるほど、ね」
不意に、そんなつぶやきが聞こえた気がした。
何度繰り返したかわからない攻防の果て。グレンの生命線である【ウェポン・エンチャント】が尽きかけようとしていたそのとき。一瞬だけ廊下の奥に目をやったアシュリーの手が、ズボンに縫い付けられたポケットに伸びる。
今までと違う展開───だが自動で動く魔導器には、様子を見るという選択肢はない。機械的に、無機的に、少年の命を狙う剣が走る。だがそれは少年を仕留めるには至らない。少年の技量でもなんとか避け続けられるくらいには、自動化された剣技は死んでいた。
生存の代償にお互いが釘付けになる。それが決まった筋書き、どちらかの体力が尽きるまで行われるはずだったチキンレースだ。
───しかし、今この状況で必要なのは、そんな予定調和を覆すこと。
膠着状態が続けば、不利なのは魔力も体力も消耗したこちらの方だ。
だからこその一手。
希望を託す捨て身の手。
「───なんだと?」
困惑は誰のものだったか。
本来ならば剣を避ける代わりになにもできない少年の拳が、なにもないはずの宙を穿つ。
選択したのは防御でも迎撃でもなかった。どすり、と、その代償が深く肉を抉る。筋肉は断裂し、内臓にまで至った傷にがぼりと血を吐いた。───それに紛れて、なにかを殴りつけるような音が響く。
飽きるほど繰り返したように剣を弾くのではなく。アシュリーは、己の身を守るための拳をもって、唯一残っていた切り札───何の変哲もない短剣を
出所も不明。狙いも不明。だが唐突であったが故に完全に意識の外から行われた奇襲は、真っ直ぐにレイクの喉笛を切り裂かんと空を裂く。
しかしそんな一手ごときで殺されるレイクではない。即座に一本の手動剣を操り、叩き落とす。突如飛来した銀色の刃は地に伏し、役目を果たすことなく砕け散った。アシュリーのただ一度の反撃は、彼に深い傷を負わせたにも関わらず状況を打破することができなかったのだ。
だが、注目すべきはそこではなかった。事ここに至るまで、切り札を隠し持っていたのか、とレイクは歯嚙みする。
───ここは確実に仕留めるべきだ。一瞬のうちにそう判断して手動剣の切っ先を少年に向け、その心臓を狙って凶器が飛び立つ。
その判断は正しいが、同時に失敗だ。
「《~~~・───……ッ!」
自分の近くから剣が一本退いた瞬間、口元を覆い隠しながらグレンが迫る刃の間を縫って突貫した。
アシュリーの捨て身の攻撃で、グレンを押し留める包囲網が緩んだからこその疾走。
もしもレイクが最初から手動剣だけでアシュリーを攻撃していたら、この一秒は生まれなかった。アシュリーという雑兵への侮り、否、グレン=レーダスという強敵への敬意が生んだ最初で最後の隙だった。
「───任せた、先生───ッ!!」
脇腹に突き刺さった剣を逃がさないよう押さえつける。肉が裂ける感覚と傷口から走る熱に浮かされたように、ひた走るグレンを見送る。
あまりにも大きな傷は、痛いというより熱いのだと、久しぶりに思い出した。今にも少年の腹を両断し、主の敵を殲滅せしめんとする魔剣を必死に捕まえて、それだけでは飽き足らず確実に絶命させるべく目の前に迫る魔剣を見据えながら、少年はそれでも笑う。
それを通り過ぎながら、グレンが走る。今だけは、どんな傷を負おうと構わない。
無関係だった子どもが
「───均衡保ちて・零に帰せ》───!!」
そうして生まれた隙でグレンが完成させたのは、
淡い魔力の輝きが、魔術によって駆動する魔剣とぶつかって白熱する。
「なっ……馬鹿な、この局面でディスペルだと!?」
レイクが困惑するのも無理のない話だった。
本来、魔術師との戦いにおいて魔導器に【ディスペル・フォース】で対応するなどというのは下策中の下策として知られている。消費する魔力量に対して得られる効果は魔導器の一時的な無力化と、まったく労力に釣り合わないためだ。
元より、グレンの魔力容量は多くない。ましてや、今は【イクスティンクション・レイ】をぶちかまし、レイクとの戦いもあってマナを大幅に消費した後。
グレン一人での【ディスペル・フォース】は、魔力増幅回路の組み込まれたレイクの剣を完全に封殺することはできない。
故に、五本の剣はその魔力を減退させながらも、ほとんど揺らぐことなく敵を貫かんと空を斬る。万策尽きた。正面から、背後から、それぞれ迫る刃に彼らにもはや成す術はなく。
───
「《力よ無に帰せ》───!」
「───ッ!?」
予想だにしない方向から飛んできた
───システィーナは確かに優秀な生徒ではあるが、まだまだ発展途上な上にここに至るまで魔術を連発してきた。
当然、ディスペルに必要な魔力全てを
───剣の無力化に挑むのが、たった一人だけならば。
「う、ぉ、ぉぉおおおおおおおッッ!!」
「しまっ……《目覚めよ刃───」
「却下だ、ンなもん!!」
愚者のアルカナを引き抜き様に【愚者の世界】を起動し、用済みとなったカードを即座に投げ捨てる。
無手となった手に、獲物を貫く力を失い地に落ちる剣を掴み取る。
慣性を殺し、傷付いた腕を動かして、グレンは反撃の刃を振るう。
「───返すぜ、クソ野郎」
その言葉が聞こえたのかどうか。
レイクは微動だにせぬまま、勝者を告げる斬撃を受け入れた。
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ぴしゃり、と自分たちのものでない血が床に撒き散らされるのと同時、目の前でぴたりと魔剣が止まる。正確にはグレン先生がトドメを刺したのが後だろうが、コンマ数秒の違いでしかない。
どちらにせよ、俺たちは勝ったのだ。あの馬鹿みたいに強い男に。
それを認識した瞬間、腹にドデカい剣がぶっ刺さってるのを思い出した。
そういえばなんか血反吐を吐いていたような気もする。
そして戦闘が終わったとわかると一気に疲れが押し寄せ、脳がスイッチを切り替える。
「───いっでぇ!?」
で、そうなるとアドレナリンで誤魔化してた激痛がこんにちはするわけだ。ははは、知ってた。でも知っていても痛いものは痛いのだ。
フィーベルの姿が見えたから、奴さんの気を引くために虎の子を出したけどうまくいってよかった。その代わりにこのザマだが。
燃えるような熱さと痛みの中、唯一冷たさを主張するうざったい剣をさっさと引っこ抜いてしまいたいところなのだが、場所が場所なだけにたぶん抜いたら大量に血を吐き出して死ぬ。
なので、ぶっ刺さったままにしておくのがおそらくきっと最適解。引き抜いた後に治す、という手もなくはないが、ぶっちゃけ治癒魔術は不得手だった。……あー、けどまあ、よくよく考えたら俺は他の二人に比べれば魔力は残ってるし、多少の無茶なら許されるか。
というわけで引っこ抜こう。死ななきゃなんとかなる。……案の定一気に血が噴き出してきて、一瞬なんて馬鹿なことをしたんだと自分を責めたくなったが、鼓動に合わせてドクドクと溢れる血を押さえつけるようにして傷口を塞ぎ、飛びそうになる意識で【ライフ・アップ】を唱える。治った気が微塵もしない。
が、そもそも【ライフ・アップ】は一瞬で傷が治るような便利なものではなく、継続的にかけ続けることでじわじわと回復していく……いわば、長く、多く魔力を使えば使うほど回復していく魔術だ。
もちろん制約も限界もあるが、その回復力は被術者の生命力に依存すると言うし、たぶんこの調子で血と一緒に魔力を垂れ流していればなんとかなるだろう。実は自慢じゃないけど魔力容量としぶとさには自信があるのだ。
と、冷えた床に座り込みながら景気よく色んなものをこぼしていると、あっちも応急処置が終わったのかグレン先生が近付いてくる。
俺もグレン先生も、どっちも体力は消耗しているが……俺がデカい傷一発が主なのに対してグレン先生は細かい傷が無数についていた。無論無視できるほどのダメージではないのだろうが、より確実に行動が続行できるのはグレン先生の方だろう。
「……ども、お疲れさまでした」
「おう。そっちは大丈夫か? ……いや、悪い。どう見ても大丈夫じゃねえよな」
「大丈夫……って言いたいところなんですけどね」
さすがにこの状態で『大丈夫!』はやせ我慢にも程がある。少なくとも大丈夫な人間は治癒魔術をかけ続けたりなんてしないのだ。
「俺はこれからルミアと、この騒ぎを起こしやがった残りの敵を探しに行く。……お前は白猫と一緒にいろ」
「アテはあるんですか?」
「ない。けど、なにがなんでも連れ戻してきてやる。だから安心しな」
「はは……頼もしいや」
ぽんぽん、と不安そうなフィーベルと笑った拍子に傷にうめいた俺の頭を軽く撫でて、グレン先生はどこぞへと駆け出して行った。まだ解決したわけじゃないのに、これで大丈夫だという安心感にほっと息をつく。
「……お疲れ」
「ん? ああ……」
横に座り込んだフィーベルが労いの言葉をかけてくる。少し前までは時々話す程度の仲だったのに、今はこうして同じ困難を乗り越え、ともにそれを喜んでいる。不思議なものだ。
ここにティンジェルがいればもっと和やかな空気になったのだろうが、あいにくとそのティンジェルは白馬の王子様が救出中だ。その幸せな予想図は未来にとっておこう。
「えっと……」
「なに?」
しかしフィーベルはなにか言いたげにもじもじとしている。あれか? 血の匂いに酔ったとか……いや、それなら最初からこっちにはこないか。
はて、ではなんだろうと首をひねると、フィーベルはちらっとこっちを見てからようやく口を開いた。
「……その。あの人たちに、殺されたって聞いてたから……無事でよかった」
「──────おう」
……不意にふわりと微笑まれ、フィーベルはそういえば美少女だったと思い出した。
にしてもあんにゃろう、死亡判定詐称してやがった。まだ死んどらんわ。まあ、あれは俺も死ぬかと思ったけど。死んでないから。
しかしあまり接点のないフィーベルに心配されていたとは思わなかった。
クラスメイトなら当然、というコトかもしれない。
「ま、いいけどさ。その言葉はティンジェルにかけてやれよ」
「減るもんじゃないんだから、素直に受け取っときなさいよ」
そんな軽口を叩きあう。
死闘の直後とは思えないほどほのぼのとした時間は、グレン先生がティンジェルを連れて戻ってくるまで続いたのであった───
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そうして事件は幕を閉じた。
事件の首謀者……というと少し違うが、犯人グループの一人はなんと前任のヒューイ先生だった。
先代の担任の起こした問題を今代の担任が片付ける形となった今回の事件は、やっぱりというかなんというか、ティンジェルを狙って起こされたものだったらしい……と、なんか偉そうな、というか実際偉いのだろう人たちに説明された。
そのときにティンジェルが元・王女様だったとかいう話を聞いた気もするが、正直興味がなかった。強いて言うならあのお姫様オーラの正体が判明したくらいのものである。
で、グレン先生は今回の件で思うところがあったのか、正式にうちのクラスの担任になったらしい。
もっとも、だからなにが変わったというわけでもない。相変わらずわかりやすい授業はしてくれるし、クラスの全員の面倒も見てくれるし、相変わらずフィーベルはおちょくられている。
変わったことといえば、せいぜい学内のグレン先生の評判に『テロリストから生徒を守った実力派』という文言が加わった程度だろう。
そんでもって、俺はちょっとだけクラスのみんなに囲まれるようになった。
といっても本当に少しだけだ。普通に登校しただけなのに『生きてたのか!?』の大合唱をくらったときにはどうしてくれようかと痛む頭で考えたもんだが、それも今じゃ懐かしい話。
何事もなかったかのように戻ってきた日常を、今日も俺は満喫している。
「いらっしゃいませ」
「失礼いたします……あら、なかなか良いお店ですのね」
「おやおや、お目が高い。フェジテの隠れた名店と噂の当店へようこそ、お客様」
「ええ……ふふ、仕事のついでに立ち寄っただけでしたが、なかなかどうして……」
黒髪を短く切り揃えた女性がころころと笑う。店内に立ち込める匂いは下町の古びた店にしては芳醇で、舌の肥えた貴族でさえもついつい立ち寄ってしまいそうなほどに魅力的だった。
ここに立ち寄ったのは本当にただの偶然だったが、たまにはこんなことがあっても良いだろうと席の一つに腰かけた。
歳の頃は二十代半ば。どこか使用人めいた衣装に身を包む彼女は、その物憂げな黒瞳をメニューに向ける。
貴族に仕えるメイドなのだろうか。所作の一つ一つからは隠し切れない気品が滲み出ている。
「……では、これとこれを」
「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」
「そうですわね……あら?」
と、そこで女の視線がメニューから注文を取りに来た少年へと滑る。
そして何を思ったのか、女はほう、と微かな吐息を漏らすと、
「……では、せっかくですのでリュ=サフィーレを一本。それから───」
相手が相手なら一瞬で蕩けてしまいそうな特上の笑み。
店内の男性客をことごとく魅了した彼女は、唯一己の美貌に酔いしれずに次の言葉を待つ少年を見つめながらうっすらと頬を染める。
「素敵な出会いを記念して、貴方様のお名前を教えていただけると……嬉しいのですが。如何?」
少年はそこでようやくきょとんとした顔になって、ぼそりと口を開いた。
「……アシュリー=ヴィルセルト」
「まあ。素敵なお名前ですのね……ああ、名乗っていただいたのだから、こちらも名乗らなければ不作法というものですね」
女は微笑みを崩さない。
男を蕩かしてしまいそうな───いいや、なによりも自分自身が蕩けてしまっているかのような、そんな微笑みを浮かべた女は。
「───エレノア、と。そうお呼びくださいな」
火照った吐息に乗せて、自身の名前を少年へと告げるのだった。
エレノアさん「素手でゴーレム粉砕するやついるって聞いたけどこいつやん。ウケる」