この日のために準備してきた。
手にした小烏丸の抜き身を構え、切先をぴたりと静止させた。これならば外すことは絶対にない。自身の使命と刀使であることを選ぶことは同一ではなかった。母の御刀を手にすることになったあの日から、誓いを果たすために一年を誰にも意を介さず過ごした。余計な人間関係を持てば、その人に迷惑がかかる。
静かに鞘に戻された小烏丸をしばし見つめ、尾を返して部屋を出た。
彼女の名前は十条姫和、
約束されたこの日からを始める一人である。
午後二時半、観客席にはチケットを入手できた一般客、各校から希望で見学に来た生徒。関連組織からの招待客が来ていた。高覧席には未だ紫は来ていないものの、学長たちが続々と到着し始めていた。
美濃関の学長羽島恵麻は招待客の一人の元を訪れていた。
「そうですねぇ、私としては是非に可奈美ちゃんに優勝してもらいたいです。そうでなくては去年みっちりと稽古に付き合ってあげた意味がありませんから」
陸上自衛隊の制服に一等陸士の階級章、そして糸巻鍔をモチーフに扱った部隊章が左腕に縫い付けられている。髪を後ろに大きく結び、一九歳にしてはあまりに大人びた面立ちをしている。
彼女の名は木曽輝。元親衛隊にして美濃関のOBである。
「輝さんは随分と衛藤さんに肩入れしていたものね。わざわざ一年の任期を残して美濃関に戻ってきてね」
「可奈美の実力は本物。それも美奈都さんも目じゃないくらいの実力者。それに今の親衛隊の中核メンバーは私の自慢の後輩たちです。必ず見極めて見せますよ」
「それで、自衛隊の方はどう?」
「毎日訓練と剣術指導の毎日です。現代の軍隊に必要か疑問ですが」
「ふふふ、元気そうでよかった。私は席に戻るわね」
「えぇー一緒にここで見ましょうよぉ」
「私は学長よ?ごめんね」
「はい!それではまた!」
羽島の背中が遠ざかると、腕時計を見て次に高覧席に現れた紫へと目線が走った。
「紫様、ことは決められましたように」
司会の案内に従って代表選手である二人が中央に相対するように立った。夜見は会場の正門前に立ち、まっすぐ二人の試合が見える位置に立っていた。満席にも関わらず歓声のない緊張に張り詰めた会場に自然と心躍っていた。
審判が二人の間に立ち、大きく声を張り上げた。
「これより御前試合をはじめる! 東方衛藤可奈美!西方十条姫和!双方!抜刀」
少し嬉しそうな可奈美と対照的に姫和は殺気が満ち満ちていた。
「写シ!」
二人の全身に白い輝きが纏われる。
「構え!」
可奈美は青眼、姫和は霞の構えとなる。
「始め!」
姫和が縦横無尽に攻めかかり、それに対して驚きつつも正確に剣筋を読んで避けては小さく刃を返す。しかし、可奈美は自身を意識して刀を振っていないことに気がついた。
そのことに観客席最上段から見守っていた早苗も気づいていた。
(十条さんは何を見ている)
素人技ではない二人の太刀は、彼女たちからしたら惰性のままに剣が交わり、可奈美は姫和の剣と体動を観察した。そしてやや間合いを離した途端、姫和の見ていたものに合点がいった。
(紫様)
「動くなよ、衛藤」
パッと姿を消した姫和の動きを観客や刀使たちは目視できない。ただ二人、可奈美と夜見だけが紫の座席へと目を向けていた。
「え」
立ち位置ゆえの偶然であった。だが、彼女の目には姫和の太刀を弾いた刀が、闇夜を見つめる瞳の中から引き出されていたことに気がついた。ほんの一瞬である。
「馬鹿な!」
「ほう一つノ太刀か。しかし、まだ届かぬな」
二刀の間断なき切りつけが姫和の写シを切り剥がし、砂利場へと投げ出された。
「十条姫和、お前は何をしているのか分かっているのか」
親衛隊が紫の前へと踏み出し、再び前へと踏み出そうとした姫和の腕を、可奈美は強く引っ張った。
「何をする!」
「このまま斬られるだけだよ!」
二人が顔を合わしている間に会場警備の刀使たちが二人を囲い始め、そこへと結芽が飛び込んで可奈美と姫和を押し込んだ。
「へへへ、おねぇさんたち!結芽の相手なんだよね」
「十条さん!」
「ちっ」
二人は飛び上がって会場外へと去っていった。
「追え!必ず捕らえるんだ!」
親衛隊支隊のほとんどの刀使が塀を越えて次々と二人を追従する。その中には葉菜と由依の姿もあった。
「じゃあ手筈通りだね葉菜しゃん」
「ああ!二人を追跡から振り切らせる!」
それとは対照的に夜見は呆然と立ち尽くしていた。その前へと結芽が嬉しそうに立った。
「どういうことなんですか」
「たった今ね、小烏丸のおねぇさんが紫様に刃を突き立てたんだよ」
「なぜ」
結芽は顔をぐっと目の泳ぐ夜見へと近づけた。
「見たんだよね。紫様のはべらしている荒魂の輝きを」
夜見は思わず後退りした。
「知っていたのですか」
「うん、いつかは相手をしなくちゃいけない大きな大きな敵。でもそれは、紫様という人を取り戻してから、夜見おねぇさんには何がなんだか分からないだろうけどね」
汗が滲み、思わず尻餅をついた。夜見を見下す無邪気な瞳は何もかもを見通しながら、無知な彼女をせせら笑っているようであった。
観客や招待客への説明に運営が右往左往する中、警備隊員の待機テントには早苗が俯いたまま静かに座っていた。その隣へと夜見が座った。
「早苗さん」
「夜見さん」
無理に笑顔を取り繕って見せた早苗に応えて、少しばかり顔を和らげた。
「あのね、私、十条さんとは同級生だったんだ。不器用だけど、根はまっすぐで、でも」
迷いは混じっているものの、確信に満ちた目がまっすぐ夜見を見た。
「十条さんは何もかもを背負おうとして、あの行動に走ったんじゃないかな」
「それは」
「紫様に切先を立てることを正しいとは思えない。でも、道理に敵わないことを誰よりも許さない人だから」
「あの、早苗さん。誰も本当のことを教えてくれない。私はもどかしくて、もどかしくって。まるでみんな知っていたようで」
「知っていた?」
「まるで」
夜見の頭を会ってきた人々の不審な言葉が重なる。早苗はそっと顔を近づけ、小さく話を交わし始めた。
「十条姫和さんは一人で動いていない、本人が気づいていないだけで多くの人が背後で動いている!」
「十条さんの動機は不純なものとは考えられない、というのが私の意見だけど、一人で紫様をそれも御前試合という公の場でことを起こした。失敗する確率が大きい。現に失敗した」
「だからこそ組織内部にも十条さんを支援する人間がいる。それも綿密に筋立てた組織的な計画」
「夜見さん、これは刃傷沙汰ではなく」
「反抗、それも明確な。でもなんで」
そこへ大声で怒鳴られ、すぐに顔を上げた。そこには美炎の姿があった。
「みんな十条姫和を捜索しているのに、なに二人でひそひそ話しているの!そんなのじゃ彼女の関係者か何かと思われるよ!立って!」
「ごめんなさい安桜さん!行こう!」
しかし、夜見と早苗が少しばかり駆け出すのを、呆れたようにその背中を目で追った。
「安桜さん」
「今の聞かなかったことにしようか」
「え?」
「だから〜みんなでお茶しない?焦ったってしょうがない、私たちじゃ追いつけっこないし」
早苗は思わず首を傾げた。
「なぜ、そう言えるの」
「おそらく獅童さんたち親衛隊はこうなることを事前に察知していた。すでに密偵が二人の動向を追っている。そして十条姫和との内通者はいる。そいつらが追跡班を撹乱するのは必定、すぐに戻ってくるよ。荒魂だって現れるかもしれないしね」
ごくごく自然でありながら、事態を見透かしていたような口ぶりに二人は唖然とした。
「安桜さん、あなたはどこまで知っているのですか」
「まぁ、皐月さんが勘づいていた時も、その前から、二人はこの先何があっても今のままでいることはできない。いつかは選択するしかない。でも、その選択が世界を救うことにも破壊することにもなる。二人はさ、早苗と夜見はどうするの?」
「ただ、最善を尽くす」
「最善って?夜見」
「私が良かれと考えたままを」
美炎は小さくため息をついて背中を向けた。
「ならその通りにすれば?早苗は」
早苗はしばし目線を離してから、美炎へと顔を向けた。
「ここに来たからには今の場所で私のすべきことを成す。私はただ刀使の本分を果たすだけ、美炎さんはどうなの」
美炎は身を翻し、二人に向き直った。
「私の大事な人たちを守るためだよ。簡単だね」
「いいえ、素敵です」
夜見のふとした一言に強張った美炎の表情が自然とほぐれた。
「夜見のよかれと思うことは」
「私の信じた私を最後まで信じること」
「なるほどね、それ、絶対に曲げないでよ」
「うん」
三人が話し込んでいる間に、施設まわりには隊員たちが戻って足を休めていた。そして、口々に二人を見失った旨の話が苦々しげに交わされていた。
それから世間での騒ぎもすぐに収まり、気づけば二人を真剣に追っているのは特祭隊だけであった。そこまでに二日ほど、その日は西アジアでのテロ事件が大きくニュースに取り上げられ、多くの関心はそちらへと流れていった。
親衛隊員は二人の追跡のために控え所に戻ることはなく。夜見は殺気立つ支隊員の空気の中、ただ黙々と自分に与えられた仕事をこなした。
「はぁ」
あの現場にいた人間として事情聴取を受けたのは昨夜のこと、しかし紫の後ろから現れた荒魂、そしてそれが真実と言わんばかりの結芽の言葉を話すことはなかった。当事者となった彼女についに二人の追跡班としての配属が決まった。
書類の整理を終え、大きく天井を見上げた。事務室に差し込む光は翳りはじめていた。
「暁ちゃんに電話してみよう」
砂利の前庭を歩みながら、手元の端末でダイヤルした。
応答の音が何度も何度も耳に響く、期待が薄れかけた時、聞き慣れたあの口調が走った。
〔夜見から電話なんて珍しいな、どうした〕
「うん、あのね」
暁には何もかもを話そうと考えていたが、その声を前に一歩立ち止まってしまった。
〔先日のことだろ、別にいいんだぞ〕
そう、ふとした彼女の歩み寄りが自然と心を落ち着かせた。
「ううん、聞いてほしいの。誰に言うべきか迷って、そうしたら暁の顔が浮かんだの」
〔そっか、いいよ。それで、どうした〕
夜見は御前試合からの日のことを洗いざらい話した。
自身の能力と憑き物。言葉を濁す仲間たち。折神紫と荒魂。そして流されるままの自分。
〔そう、何にもわかんねぇんだな。つれぇだろ〕
「うん、私は私を信じてくれるみんなのために頑張っている。でも、結局わたしだけがそれに満足して、独りよがりに頑張っているつもりになっている。そんな気がして」
〔はぁ、そいつらは馬鹿だよ、大馬鹿〕
「え?」
〔お前がこんなに追い詰められるまで思いを巡らしているのに、自分から気付いてやろうとしない。夜見の思いを汲んだ気になっている。私には夜見がどれだけ大変なのか、お前じゃないから分かってやれないこともある。けどよ、夜見が考えている以上に夜見は刀使らしいよ。自信持っていいんだぜ〕
「うん」
〔誰も信じられなくなって、自分一人に思えることもある。でも、本当は夜見が私の十倍もすごいんだって、頑張っているって、くやくなったし、背中を押してもらえて嬉しかったんだ。大平での追撃戦の時、怖がりなお前がバイクで騎兵もどきなんてって驚いたけど、進んでいるんだよお前は一歩ずつ、でも誰も知らない可能性を持って〕
「うん」
〔泣くなよ!鼻声じゃん!〕
「あ、暁こそ」
〔うるさい!私は、私の今いる場所で頑張るよ〕
「こちらこそ、私もがんばる」
夜見は手のひらで顔を押し拭いた。
〔でも、いざとなったら助けに行ってやる!でも最後の最後まで諦めんなよ!〕
「暁ちゃん、ありがとうね。私の友達でいてくれて」
〔おう、こちらこそありがとうな、諦めないでいてくれて〕
別れを告げると、端末を置き自身の刀へと目を向けた。そして大きく深呼吸をした。
彼女の目はまだ迷いを含んでいたが、奥底の白い輝きははっきりとしていた。
そうしていると、入り口から受付へと真っ直ぐに向かってくる足音が耳に入った。
「皐月さん」
聞き慣れた透き通った声色に、急ぎ受付を出て彼女の前に立った。
「寿々花さん。いかがしましたか」
いつもとは異なるやや含みのある笑顔が、不気味さを感じさせた。
「明日の遠征についてですが、紫様が私たち親衛隊本隊に同道することを指示されましたわ。それをあなたに伝えにまいりましたの」
「はい、ありがとうございます。しかし、なぜに寿々花様が直々に私めのような見習いの元を」
「ふふ、気にする必要はございませんわ、あなたは親衛隊の候補生になるかもしれないのですから」
「え」
驚き口をぽかんと開く彼女の、そのありきたりな反応に寿々花は落ち着いた笑顔を見せた。
「あなたには確かに能力的な欠陥がある。しかし、それを補ってあまりある可能性を持っている。紫様はあなたをそう評されていましたわ。そして、いかなる事態にも混乱をせず、最良の選択をする。それも、その場がより混沌とするほど」
「それは買いかぶり過ぎです。私はそこまで立派ではありません」
「私もそう思いますの」
厳しさに裏打ちされた寿々花の反感が、言葉裏に血を通わせている。
「あなたは公明にすぎる。それは今を平穏にするために必要な判断とは、異なる悪手を指すことになりかねない。なぜあなたは今になって現れたのでしょうね」
「それは」
「そうですわね。でも、紫様は試すと仰せになりました。それは皐月夜見が、これから当事者として全ての事態を受け入れるか否かにかかっています。そして現親衛隊の面々はあなたが信用に足るか、紫様の言葉なしではそれに及ばないことをあなたに申し伝えます」
「ずいぶんと、はっきりとおっしゃいますね」
その言葉に自嘲の失笑がクスリとこぼれた。
「ごめんなさい。でも、明日はそういう日になり、そこにはあなたがいることを否応でも実感することになる。私からささやかな警告ですわ」
「痛み入ります」
「それではおやすみなさい夜見さん。また明日」
そう言うと控え所前の闇の中へと去っていった。
「今日も宿舎には戻られないのですね。みなさん」