二年前、その白い髪の女の子は、無表情に計算問題を解いていた。
孤児院の特別教室の隅に座る彼女を、廊下から三人が見守っていた。
白髪の孤児院の院長は、重々しく彼女のことを話し始めた。
「四年前の荒魂による市街地襲撃の折に、親を亡くしまして、さらにそのとき受けた外傷で記憶喪失に、身体の異常で髪もあの通り」
「でも」
その母親譲りの愛嬌のある鎌府の刀使が、孤児院の院長に笑いかけた。
「刀使の適正は十分と」
「はい、あの子は私どもがそう言うならと、刀使になれることに特段感心を引いていませんが」
「なら、話をしてみましょう。お母様、よろしいですよね」
「あなたなら、あの子を連れて来れると?」
雪那のどこか怪訝そうな表情を、彼女は蚊ほども気にしていなかった。
放課後、担任に呼び出された彼女は、雪那とその刀使に会った。
「糸見沙耶さん、はじめまして!私は高津美香といいます!よろしくね」
沙耶香はその日、鎌府幼年課程に転校となり。そして、美香という姉ができた。
「ほら!美香!沙耶!目玉焼きが焼けたわよ!」
「沙耶ちゃん!このお皿をテーブルに並べて!」
「うん」
高津の家は騒がしかった。雪那の出勤にあわせて弁当を作ってきたが、沙耶香の分も朝ごはんを用意することになった。それに対して、雪那と美香は一切を準備していなかった。
「よし!なんとかできたね」
「はぁ、あなたが沙耶をうちで世話するなんて言い出すから」
「いいじゃないのお母様、大事なのは信頼を築くことですから!」
沙耶香の心配そうな表情が、居場所を探して足元に向いていた。
「沙耶ちゃん!」
顔を上げた沙耶香に、にっこり笑いかけた。
「ごはん!食べよっか」
三人まっすぐ食卓に向かうと、手を合わせて「いただきます」と言った。
今までもまわりにまったく目を向けなかったせいで、孤児院を出てから、鎌府の幼年課に来ても現実感がなく感じられた。沙耶香は授業で教えられることを吸収する。それ以外がまったく関心が向かなかった。
「さぁ!まずはまっすぐに、えいや!とぉーっ!」
美香の手で道着に着せ替えられ、その手に木刀を持たされた。困惑する沙耶香にまた屈託のない笑顔と優しさを向けた。
「わたし、できない」
「できる!できたら、また新しい技ができる!」
美香に背中から構えを取らされ、そしてゆっくり振り上げて真っ直ぐに振り落とした。
「ほら、できた」
目を丸くする沙耶香は、これでいいのかと問う。
「うん、沙耶香ちゃんはまず基本中の基本にして必殺技!真っ向切り落としを覚えた!すごいことだよ!」
「すごいの」
「うん、もっとすごいこと覚えない?」
沙耶香は自然と頷いていた。
その日から一年間。高津家のドタバタとした毎日と、美香から小野派一刀流を習う日々が続く。一日を追うごとに、美香と剣を学ぶことが楽しくなった。放課後が楽しみで、討伐に出たら帰ってくるのを待ってから稽古をしてもらった。
雪那も美香も忙しい時がある。
そういう時は、頑張って料理をしてみたが、いつも不恰好に仕上がった。だが、雪那と美香はかならず完食してくれた。
「沙耶、勉強はどうなの」
「雪那先生!いまね、おねぇちゃんに剣をいっぱい教えてもらっているの」
笑顔を初めて見た雪那は、ふと皿洗いをする美香へと顔を向けた。
「んー?そうそう!沙耶ちゃんってすごい吸収が早いの!もう私と真っ向から、掛かり稽古ができるレベル」
「そう」
雪那は恥ずかしそうに、沙耶香の頭を撫でた。
「すごいわね。これからもがんばりなさい」
「はい!」
沙耶香は幼年課どころか、中等部の刀使を木刀稽古で打ち負かした。そう遅くないうちに、彼女が天賦の才をもった刀使の卵であると噂になった。
そして、運命の時が近づいていた。
梅雨の季節、鎌倉には紫陽花の美しい景色が、江ノ電の沿線に続いている。
鎌府の地下研究区画に来た沙耶香は、雪那と美香から刀使と多くの人を守るため、ノロを支配し、力を得る『無念無双計画』を知らされ、美香は自身と沙耶香にその被験者になってほしいことを伝えた。
「あなたを迎えたのは、この計画に必要な才能を持っていたから」
「苦しいこともある。でも、あなたに決めて欲しいの、これからもいつものように過ごすこともできるよ」
雪那はすでに諦めている様子であったが、沙耶香は二つ返事で受け入れた。
「わたし、先生とおねぇちゃんに会えなかったら、知ったり、触れたりすることの楽しさをわからなかった。二人のために力になりたい」
「沙耶ちゃん」
珠鋼とノロの混ざった特殊なアンプルが体内に入れられた。
正式に刀使に選ばれる前だったため、沙耶香には実験室預かりの歌仙兼定が割り当てられた。
そして、写シをすぐに発動し、実験の荒魂をあっさり倒してみせた。
ノロの注入と写シ、そして御刀を干渉させることで、やがて沙耶香は強靭な七色の写シを短時間出せるようになった。それは、荒魂ひいては刀使も、沙耶香を切れないという解明されていない副産物を生み出した。
同じ実験をしていた美香も、沙耶香と同じ能力を手にした。
「お母様!」
「先生!」
データに満足している雪那は興奮した様子で、実験の結果を美香と沙耶香に伝えた。
「では、私たちの採取目標を達成するための実験に入りましょう!」
「ええ、ノロの消化実験。これが成功すれば、荒魂の被害を根本から消していけるわ」
「先生、わたしにやらせてください」
沙耶香は笑顔で進み出た。実験は明後日と決まった。
その約束を無視して、翌日に雪那は美香で実験を始めてしまった。
そして、実験は失敗し、半分人型の荒魂に変わってしまう。言葉も美香の意思もなく、それは美香の姿をした殺意を向ける荒魂であった。
帰りの遅い二人を迎えに来た沙耶香は、実験室を見れるコントロールで倒れる雪那の姿を見つけた。雪那は弱々しい手で、沙耶香の袖を引いた。
「逃げなさい、沙耶」
雄叫びに顔を上げた沙耶香の前には、異形の姿となった美香が立っていた。
いざとなった時のことを、美香から聞かされ、約束を結んでいた。
(沙耶、お互いが荒魂にのまれたら、のまれていないほうが斬るのよ。苦しませないためにね。その代わり、ノロとなった相手を使って必ず無念無双を完成させる。つらいけど、約束だよ)
「わかっているよ、おねぇちゃん」
兼定を抜き、写シを張った沙耶香は習った全てを思い出しながら、不規則な美香の攻撃を避け、何度も斬りつける。そして、最後は真っ向から一文字に切った。
美香はノロに変わり、実験室の床に散らばった。
「美香」
膝を落とし、その光景を見ていた雪那は呆然としていた。だが、沙耶香が大声で泣き出したのを聞いて、現実に引き戻された。
その翌日、沙耶香は美香のノロを飲み込み、無念無双の能力を完成させた。
沙耶はその日から、沙耶香と自ら名乗った。
大洗のとあるホテルの一室。
泣き尽くして舞衣のとなりで眠るなか、雪那はその事実を舞衣へと伝えた。
「なぜ、そのことを教えてくださるのですか、高津先生」
寂しげな雪那は誤魔化すように、夜の海を眺めた。月が浮かんでいる。
「私はもう、この道を選んだことを曲げられない。私の思いが間違っていないと、そう思わなくては生きていけない。沙耶香がそれを望むなら、私は嬉しいわ。でも、沙耶香は私とは違う、いざという時は柳瀬舞衣。あなたが沙耶香に別の道を示してあげて」
舞衣の顔から穏やかさがなくなり、雪那を睨んだ。
「それでは、沙耶香ちゃんの、美香さんの思いに寄り添えません。あなたが生きている、そばにいることを、もっと考えてあげてください」
雪那は背を向けたまま、小さく肩を落とした。
今日の日まで『悪党』を率いてきた彼女の背中は、幾分も小さく感じられた。