織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第10話 開かれた戦端

 

「信奈様、失礼致します」

 

「失礼致しますです」

 

 清洲城の最上層、南蛮の品物が散らかされた信奈の私室に、深鈴と光秀が揃って入ってくる。地球儀をくるくると弄んでいた信奈は「待っていたわよ」と二人を迎えた。

 

「ご報告に上がりました。放っていた諜報部隊より今川義元が、駿府を出たとの報告が入りました」

 

「……そう、いよいよ来たわね」

 

 信奈は変わらず地球儀をくるくる回しているが、目付きと表情が厳しくなった。それを見た二人も同じようにいよいよ戦が近いという事を察し、表情を引き締める。

 

「それで、陣立ては?」

 

「はい、松平勢三千を先鋒に朝比奈・鵜殿・三浦・葛山。いずれも勇猛で知られる今川方の精鋭を先陣とし、義元はその後を、五千の本陣で悠々と進んでいます」

 

「概ね、銀鏡殿が予想された通りの編成です」

 

 ここまでは予想通り。となれば、こちらはやはり以前の軍議で決まった通り本陣目指しての奇襲を……

 

「銀鈴、十兵衛。私は次の戦、籠城する事に決めたわ」

 

「……籠城、ですか?」

 

「信奈様、先の軍議では本陣のみを狙って攻めると……」

 

「うるさいわね、兎に角決めたのよ。今川との戦は、打って出ても勝ち目が無いから籠城するわ」

 

 前回の軍議とはまるで違った信奈の命令に怪訝な声を上げる二人だが、その疑問を信奈は一言で切って捨ててしまった。

 

「で、あなた達を呼んだのは……」

 

「「はっ……!!」」

 

 反論は受け付けないとばかり厳しい声で言われ、深鈴と光秀は居住まいを正す。

 

「籠城するとなると、米や野菜、塩は足りてるけど味噌が足りないわ。だからあなた達二人には、戦が始まるまでに味噌をたっぷり買い込む事を命ずるわ」

 

「……? お言葉ですが信奈様、味噌は十分な量が蔵に……」

 

「信奈様の好きな三河の八丁味噌も沢山……」

 

「二人とも……私は”籠城する”と言っているのよ? なら……”味噌が足りない”でしょう?」

 

 両者の口から出た反論を、信奈は先程よりも強い口調で切る。

 

「「…………あっ」」

 

 深鈴と光秀は顔を見合わせて、そして図ったように同じタイミングで「はっ」と閃く。

 

「”籠城する”のですね……」

 

「確かに”籠城する”となれば味噌が足りないです。すぐさま調達にかかるです」

 

「頼むわよ」

 

 そうして信奈に一礼し、二人は肩を並べて退室した。残された信奈は立ち上がると、ピアノの上で指を踊らせる。涼しく、軽やかな音が部屋に響き、ややあって消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 清洲城下町の深鈴屋敷の広間に、あの後すぐに五右衛門によって招集された川並衆が集まっていた。

 

 上座には深鈴と光秀が座り、そのすぐ傍には五右衛門が控え、川並衆は二列になってずらりと並んでいる。彼等の前には人数分の酒と肴が用意されていた。

 

「川並衆の皆さん。此度の今川との戦、また皆さんの力をお借りしたいのですが……」

 

「嬢ちゃん、今更そんな水くさい事は、言いっこなしだぜ!!」

 

「そうそう、親分初め俺達はみんな、嬢ちゃんには世話になってんですぜ!!」

 

「こんな時に恩返ししなくて、いつ恩返し出来るかっての!!」

 

「何なりと申しつけて下せぇ!!」

 

 未だ侍としての位こそ持たない彼等であるが、深鈴はそれを負い目に思ってか働きに対して報酬を惜しまず、信奈から特別に下賜された恩賞は全て分け与えていた。最高待遇の食客である源内に次ぐほどの厚遇を全員が受けている彼等の士気は、高い。

 

 それを肌で感じ取って感極まった深鈴はぺこりと頭を下げ「呑(や)りながら話を聞いて下さい」と前置きして、説明を始める。

 

「今回、私達が信奈様から仰せつかった任務は、味噌を沢山買い込む事です」

 

「買い込みの指揮は、この明智十兵衛光秀が執るです!!」

 

「成る程……で、いつから始めやす?」

 

「明日の朝からお願いします。まずは清洲城下から始めて味噌を売るように聞いていって下さい」

 

「売らないと言ったらそのまま踏み込み、土蔵を破って根こそぎ取り上げりゅでござりゅきゃ?」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「この瞬間の為に生きてるなぁ!!」

 

「たまんねぇぜ!!」

 

 やはり川賊の血が騒ぐのか物騒な事を言い出す五右衛門と、相変わらずの露璃魂(ろりこん)振りを発揮する川並衆。どうにも話が進まないので深鈴と光秀は顔を突き合わせて溜息を一つ。その後揃って「こほん」と咳払いして場の空気を落ち着かせると、話を進めていく。

 

「五右衛門、それは勘弁してくれないかしら……そんな事をされたら私の首が飛んでしまうわ……二重の意味でね」

 

「私的にはそれでも構わないですけど……打ち首は流石に可哀想です。皆さん、止めておくです」

 

「そんじゃあもし、隠して売らないと言ったら?」

 

「その時は「はいそうですか」と、次の店に行けば良いわ」

 

「……で、内々の事ですが今川勢が押し掛けてくるので籠城と決まったです。だから慌てて味噌を買い込んでいると、それぐらいは言って良いですよ」

 

 光秀の説明を受けて、川並衆達は怪訝な面持ちになる。次の戦で織田勢が籠城作戦を執るなどという大事を店先で口にしては、今川にそれを教えてやるようなものではないか?

 

 当然、その疑問が郎党の一人からも上がるが、

 

「まぁ、止むを得ないですからね。ごく内々に、不自然ではない程度にお願いしますよ」

 

 と、そう返されたきりだった。

 

「それじゃあ、味噌買いの方針について話すです」

 

 光秀は尾張周辺の地図を床へと広げ、計画を説明していく。

 

 まずは城下町から始めて那古野、古渡、熱田と行って段々と西三河に。徐々に遠くまで買い出しに行くのだ。

 

「そこでここからが肝ですが……恐らく、味噌を買っている途中で戦が始まるです。その時は順次に引き返すです」

 

「順次、ってえと……」

 

「一度に引き返してはならない、という事ですよ。帰る者はその時々に、今川義元が何処を通って何処に宿泊して、何処に向かうかを見届けて帰る……ですよね? 十兵衛殿」

 

「その通りです、銀鏡殿」

 

 信奈が二人に味噌買いを命じた真の意味は、まさにこれだった。仮に本当に籠城する事となっても、米も味噌も野菜も塩も、たっぷりと蔵に詰まっている。勿論、信奈の好きな八丁味噌も。

 

 大体して、本当に籠城すると決めたのならどうして軍議を開いて諸将に伝えるのではなく、わざわざ二人だけを呼び出して二人だけに伝えるのだ? それに、本当に味噌が足りないのであれば調達するのは台所奉行の役目であろう。鉄砲奉行の深鈴や客将である光秀の仕事ではない。

 

 ならば何故、信奈はそれを二人に申しつけたのか。目的は二つ。

 

 まず第一に今川は勿論、尾張の民にまで信奈が籠城するつもりだという情報を流す事。

 

 第二に、今川の動きを知る事。これは本来深鈴配下の諜報部隊の仕事でもあるが、保険の意味があった。例の密書で服部党がこちらの乱波を見逃す可能性は九割以上と見て良いだろうが、逆に言えば僅かな危険が残っている。それに対応する為の一手であった。

 

 こうして任務の子細が説明されて後は酒が入った事もあってそのまま宴会の様相を呈したが「明日からの任務に差し支えるほど飲み過ぎてはなりゃにゅ」という噛み噛みな五右衛門の鶴の一声もあって順々に解散となり、広間に残っているのは深鈴と川並衆の副長である前野某のみとなった。

 

「人員は私が用意し、指揮は十兵衛殿にお任せするとして……前野殿には私を手伝ってもらいましょう」

 

「俺に、ですかい?」

 

「ええ、銀蜂会の財力を使って用意したいものがあるのです」

 

 シャーペン一本と引き替えにして得た百両から増やし始めた深鈴の資産は、織田に仕官した時点でその半分でも未だ高級品である鉄砲を五十挺、更に絵図面と鉄砲鍛冶まで揃える程の巨額であったが、彼女は残り半分によって大工仕事や飯屋、小間物屋に八百屋、刀屋に仕立屋など幅広い事業を取り扱う元締めとして自分と五右衛門の姓から一字ずつを取って命名した「銀蜂会」を設立。その初代会長として就任していた。織田家家臣との兼任である。

 

 一応、五右衛門が副会長という立場にあるが彼女は忍びとしての任務に専念する為ほぼ名ばかりの役で、第三位である副会長補佐を川並衆副長と兼任する前野某が実質的にその役に当たり、深鈴の激務をサポートしていた。

 

 今や「銀蜂会」は尾張の経済を揺るがす程の巨大企業となっている。尾張で手に入る物で彼等に用意出来ない物は、ちょっと無い。

 

「で、何を用意いたしやす?」

 

「そうね……まず、餅米を三十俵ほど。それと酒を十樽。するめ、干し魚など酒肴もたっぷりと……」

 

 用意する物を帳面に記していた前野某は、怪訝な表情を見せる。提示されたのは随分な量だが、銀蜂会なら用意する事自体は可能だ。だが……

 

「嬢ちゃん、お城の食料はたっぷりあるのでは……?」

 

「ええ、勿論……」

 

 当然の疑問を受けて、銀鈴は涼しい顔で頷く。

 

 そう、これは織田勢の食べ物ではない。

 

「これは、今川方が食べる物なのですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、深鈴は裏で何やら悪巧みを始め。

 

 五右衛門は影となって動き。

 

 光秀は密命を遂行し。

 

 勝家は兵士達に調練を行い。

 

 長秀は君主としての務めを果たす信奈を補佐し、犬千代はその傍にあって守り。

 

 各々が各々の役目を果たしていく中で、遂にその日が来た。

 

 五月十九日未明。味噌買いから戻った川並衆の一人による「今川義元本隊、本日の大高城泊まりは確実」との報告を、光秀は信奈に伝えた。

 

 程なくして光秀が叩く小鼓(こづつみ)と、信奈が舞う敦盛の歌声が、未だ殆どの者がまどろみの中にいる清洲城へと響いていく。

 

 そして、舞が終わり。

 

「私の具足を!!」

 

 信奈の大声に叩き起こされた小姓の一人が、寝ぼけ眼のまま彼女の甲冑を持ってくると流石に慣れた手際で着装を手伝っていく。

 

「姫様……!!」

 

「犬千代!! 貝を吹きなさい!!」

 

「!! 承知!!」

 

 おっとり刀で駆け付けた犬千代はその指示を受けて反転、退室すると城内の高台へと上がって手にした法螺貝に、目一杯息を吸って肺に溜め込んだ空気を一気に注ぎ込む。

 

 ぶおお、という独特の音色が城中に大音量で響き渡り、夢の中に居た多くの織田家臣団が一斉に叩き起こされた。

 

「湯漬けを持ってきなさい!! 腹が減っては戦は出来ないわよ!!」

 

 茶筅髷や瓢箪といった普段のうつけ姫の装いも、信奈としては彼女なりの合理性を追求した結果である。食事も同じで、今回のように特に忙しい時などにはすぐに食べられる湯漬けを彼女は好んだ。別の小姓が持ってきたそれを食べながら他の小姓達による鎧の着付けも続けられ、そして茶碗が空になるのと信奈の装備が整うのはほぼ同時だった。

 

 その間、光秀はいつ声が掛かっても即応出来るよう心得て、片膝付いて控えていた。

 

「十兵衛、銀鈴は?」

 

「はい、銀鏡殿は今朝から姿が見えないです……ですが」

 

「デアルカ」

 

 光秀の言葉を受け、信奈は頷く。そう、「ですが」なのだ。

 

 逃げるような者ではない。例えここに姿が見えなくても、深鈴もまた深鈴の戦場に居る。二人とも、今やその確信は等しく持っていた。

 

 ここでは出遅れるかも知れないが、後から必ず追い付いてくる。それを信じ、自分達はただ駆けるのみ。

 

「よし、出陣よ!! 行き先は熱田神宮!! 者共続け!!」

 

 敦盛が舞い終わってから愛馬に跨った完全武装の信奈が城門を飛び出すまで、十分と掛かっていない。疾風の如き出撃に対応して信奈に付いて出れた者は光秀や犬千代を含めてたった五騎であった。

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、今川勢による尾張への侵攻も始まっていた。

 

 先鋒の松平勢は丸根砦へ、朝比奈勢は鷲津砦へと引き絞られていた矢のように襲い掛かった。

 

 だが、この緒戦の趨勢は既に見えていた。松平勢・朝比奈勢共にその数は三千。対して丸根には佐久間大学率いる手勢が四百。鷲津には織田玄蕃の兵が三百五十。古来より確実に城を落とそうとすれば攻めて手には守り手の三倍の兵力が必要とされるが、今回の兵力差はどちらの砦も実に八倍近く。

 

 しかも、丸根砦は前もって潜入していた半蔵率いる服部党の忍者集団によって内部から火の手が上がり、食料・弾薬の全てを焼き払われた所を攻められあえなく落城。佐久間大学は討ち死にした。義元曰く「乱波を使ってのこすずるい戦」である。

 

 輿に揺られ、この季節にはちと厚着が過ぎるであろう十二単を着込んだ貴族風の美少女。「海道一の弓取り」今川義元は服部半蔵からその戦果を聞いて「おーほほほ」と笑う。

 

「松平勢はそのまま前進、清洲への一番乗りを目指してもらいますわ」

 

「しかし、我が軍の被害も大きく……」

 

 半蔵が抗議するもその声は、義元の笑い声によって遮られてしまった。

 

「嘘おっしゃい。腹黒な元康さんがそんな戦する訳ないですわ」

 

 着ている衣装や化粧と同じく雅さを感じさせる義元の声だが、言葉の後半から一オクターブほど低くなった。

 

「松平勢はそのまま進軍。よろしくて?」

 

 これ以上の反論は許さないと、語気が強くなる。それを受けては半蔵は「御意」と言葉を残して消える他は無かった。

 

 上洛の急先鋒として使われ、元康が戦死すれば三河は今川の直轄地。そうでなくても常に先手に立たされる三河勢は戦えば戦うほどその数を減らしていき、松平党はいずれ自然消滅する。

 

「血を流すのは三河の田舎侍。今川本隊は戦力を温存したまま悠々上洛……これが貴族の戦ですわ」

 

 

 

 

 

 

 

 丸根の砦を落としたばかりの元康は、馬上にて半蔵からその報告を受けていた。

 

「このまま前進せよ、ですか~」

 

「はい……織田を蹴散らすと同時に、我々の戦力を削るのが狙いかと……」

 

 義元の狙いそれ自体は元康も上洛の軍を起こす前、自分の義妹として鶴姫を迎えた時から看破している。だが、彼女は家族を人質として取られている身。迂闊に逆らう事は出来ない。取れる選択肢は限られていた。

 

「それでは皆さん、このまま前進。見付けた織田の兵はボコっちゃいましょう~」

 

 本陣の義元が看破した通り、丸根を陥落させた後も松平勢の損耗は極めて軽微。無理押しさえ避ければこのまま進軍を続けても問題は生じ得ない。

 

 忠勇なる三河武士達は振られた軍配の動きに応えて雄叫びを上げ、前進を再開する。

 

 彼等と共に進みながら、元康は半蔵へと語り掛けた。

 

「半蔵、ちょっと良いですか~?」

 

「はっ……」

 

「私は半蔵と服部党の皆さんは、とても優秀な忍びだと思ってます~」

 

「光栄であります」

 

 片膝付いて平伏の姿勢を取ったまま、希代の忍者はその賞賛の言葉を受け取る。

 

 だが姫様は戦場で、何故いきなりこのような事を言い出すのか?

 

 彼女の、意図する所は。

 

「でも……いくら優秀な皆さんでも、うっかり敵の乱波を見逃してしまう事は、一度くらいはありますよね~?」

 

「……御意」

 

 それだけの言葉で全てを察した服部党の頭領は、現れた時と同じく空間に溶け込むように姿を消した。

 

 自分の意が伝わった事を確信すると元康は微笑し、馬を走らせる。

 

 そう、如何に服部党が優秀でも人間である以上、一度くらいの失敗はあるだろう。

 

 例えば、この戦で義元公の本陣を突き止めた織田方の忍びを、うっかり逃がしてしまうとか。

 

 

 

 

 

 

 

 時は正午近く。

 

 義元の本陣は、田楽狭間のすぐ近くに差し掛かっていた。

 

「申し上げます!!」

 

 輿の上の義元へ戦の最新状況を伝えるべく、駆けてきた早馬から伝令が下馬する。

 

「朝比奈勢、鷲津砦を陥落させましてございます!!」

 

「おーほほほほほ。朝比奈殿もやりましたか。それで、敵将は?」

 

「はい、敵将・織田玄蕃は夥しい死体を残して敗走いたしました」

 

 その報告を受けた義元の笑みが、少しだけ曇る。

 

「お手柄です、が……元康さんは敵の首級を挙げたのに泰能さんは討ち漏らしました。すぐに追うように伝えなさい」

 

「はっ!!」

 

 命令を受けた伝令が再び騎乗して駆け出し、その背中が見えなくなる頃にはちょっぴりだけ影が差した義元の機嫌は、この雲一つ無い青空の如く晴れ晴れとしたものに戻っていた。

 

「事は全て、わらわの思い描いた通りに進んでいますわ」

 

 織田方の対今川防衛線である丸根・鷲津を抜け、このまま清洲へ侵攻。全軍で以て尾張を蹂躙し、近江も平らげて最後は京へと至る。

 

 大雑把極まりない上洛計画であるが、しかしこと今川陣営に限ってそれは非難されるべきものではない。単純にちまちまとした計を弄する必要が無いというだけなのだ。実際、今の所は全て上手く運んでいる事だし。

 

 今川義元は間違いなく現在の日の本に於いて最大の兵力を擁する戦国大名である。古今はおろか恐らく未来にあっても物量に勝る戦略は存在すまい。世の中の殆どを支配するのは結局、数なのだ。

 

 兵法書には様々な奇策が記され、寡でもって衆を制する事こそが戦の華のように思われているが、しかしそれらは究極的にはあくまで一度限りの奇策・邪道でしかない。兵力・財力・国力……そうした物量を以て正面から敵を押し潰す戦こそが何百年先でも変わらずに使われているであろう王道の戦法であり、そうした戦い方でこそ今川という勢力は真価を発揮するのだ。

 

 ……と、義元自身はそこまで考えて軍を動かしている訳ではないが、彼女が立案して実行している小細工無用のこの上洛作戦は、全く理に叶ったものだった。

 

 常識的な兵法で戦う限り、織田には文字通り万に一つの勝ち目も無い。

 

「おーほほほほほ。思った以上に尾張の山猿共はあっけないですわね!! この分では、明日には清洲に泊まれることでしょう!!」

 

 先日は武田・上杉が同盟して上洛によって留守の駿府を狙っているなどと根も葉もない流言を流してくれて兵を退く羽目になったが、この分ではその借りはのしを付けて返してやる事が出来るだろう。

 

 ここに来るまでに聞いた情報によると、織田信奈は籠城を決め込んで清洲城内で震え上がっているらしい。明日の城攻めではそんな彼女を引きずり出してやろう。そうして生け捕りにしたうつけ姫の、その泣き顔を肴にとっておきの美酒を楽しんでやろう。と、義元がそんな妄想に浸っていると、また別の伝令がやって来た。

 

「姫様、この辺りの『礼の者』が参っております」

 

 それを聞いた義元はますます気を良くした。

 

 礼の者とは僧侶や神官、村の総代などが戦の勝者に貢ぎ物を届けてくる事であり、新しい支配者への媚びである。

 

 つまりは、民草が今川義元を新しい尾張の支配者として歓迎し、認めているという事なのだ。

 

「おーほほほほほ。わらわは頭を垂れて従う者には寛容ですわよ!! 決して無法はさせないと言って、安心させておあげなさい」

 

「姫様、実は今度の礼の者は今までのよりも遥かに多くの貢ぎ物を持ってきております」

 

「ふぅん? 米の十俵でも持参したのですか?」

 

「いえ。それが、餅米三十俵をちまきとして、酒十樽、するめ、干し魚など酒肴を馬十頭に積んで参りました」

 

 その貢ぎ物の量には義元も目を丸くした。いくら世間知らずな彼女でも、農民達が簡単に用意出来る量でない事は容易に理解出来る。この辺りの民はそれほどに豊かなのですか、と聞いてみるが、

 

「いえ、姫様のご上洛に備えて用意していたそうでございます。ご上洛のめでたい御旅、それをお祝いするのが歓びと、節句の餅米を今日の為にとっておいたそうでございます」

 

「ほほう」

 

 それを聞いた義元の機嫌はいよいよ良くなった。ここはまだ今川の治める地ではないと言うのに、賢い農民達も居るものだ。

 

「感心な事ですね。では、褒美として声を掛けて通って差し上げましょう」

 

 彼女の指示を受け、本陣は少しだけ進行方向を変えて別の道へと入っていく。そこには道に沿うようにして、農民達が一列に並んで平伏していた。

 

「おーほほほほほ。ちまきと酒肴を届けてくれたのは、あなた達ですか?」

 

 頭上より声が掛かり、人々の中程にいた少女が顔を上げる。

 

「はい、姫様がこの辺りを通られるのはお昼頃であろうと、三ヶ村で寝ずに作りました、ですぞ!!」

 

 まだ数えでも十にもならぬだろう幼子で、口調も大名を相手にするにはなっていないが、今の義元はそれを咎める気にはなれない。

 

「おーほほほほ。ご苦労でしたわ!! もうすぐお昼ですし、後で美味しく頂きますわ!!」

 

「ははーっ」

 

 再びその少女は顔を伏せて、義元は進んでいく輿からひらひらと手を振る。そうして人の列が途切れた所で、傍らを行く部下の一人を呼ぶと、

 

「おーほほほほほ。暑いですわね!! わらわは休憩したい!! それにそろそろお昼時、村人達の持ってきたちまきと酒で昼食にしましょう!!」

 

 そう申し付け、今川本陣は少しだけ行く先を変えた道を、田楽狭間へ向けて進んでいく。

 

 その隊列の最後尾が見えなくなった所で、顔を伏せていた農民達は一斉に立ち上がり、義元から声を掛けられた少女、ねねは何処へともなく虚空へ向け、呟く。

 

「聞いておられますな? 飛び加藤殿!! お伝えめされよ!! ねねは銀鈴様より仰せつかったお仕事、確かにやり遂げました、ですぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 熱田神宮から善照寺への道すがらにある山崎の地で、食客達を従えた深鈴は段蔵よりその報告を受けていた。

 

 義元の本陣を田楽狭間に誘導し、かつしばらくの間そこに留めておく策は見事に当たった。

 

 信奈の率いる尾張勢の本隊は義元の本陣だけと戦ってぎりぎり勝てるかという数。これ以上は一兵とて減らす訳には行かず、また兵が使えたとしても立ち振る舞いから織田の回し者だと今川の兵に看破される可能性も有り得たのでこの策には使えなかった。だから、ねねに白羽の矢が立った。

 

 彼女は、見事にやってくれた。だから後は自分達の番。それぞれがそれぞれの役目を全うする。それだけを考えて、動いていた。

 

「銀鏡氏」

 

 五右衛門が偵察の子細を報告に現れる。

 

「今川義元の本陣、手筈通り田楽狭間にて昼食中でござる」

 

 そこで一度言葉を切り、

 

「また、今川方の忍びによる警戒網は呆れる程にお粗末であり、密書のこょうきゃはあったようにござりゅ」

 

「了解、ありがとう」

 

 まずは、良し。

 

「では、段蔵と五右衛門は諜報部隊を指揮して引き続き田楽狭間の今川本陣の警戒を。何か変わった動きがあればすぐに知らせるように」

 

「承知!!」

 

<了解>

 

 指示を出して二人の忍びが姿を消すと同時に、深鈴も自分の馬に飛び乗ると食客達へ向けて声を張り上げる。

 

「では、私達はこれより熱田神宮へ向かい、信奈様と合流します!! 皆、遅れずに……」

 

「銀鈴、しばらく」

 

「んっ?」

 

 声のした方を見ると、およそ百名程のキレイどころよりどりみどり。尾張中から集めた可愛い女の子がずらりと並んでいた。侍はその中で数える程しかいない。

 

 尾張広しと言えどもそんな軍団を率いる武将は、一人しか居ない(尤も、それならまるで共通点の無い一芸達者ばかりの深鈴の食客達はまるで雑伎団のようで、他人の事をとやかく言えないのだが)。

 

「おや、信か……あ、いえ信澄殿」

 

 そう言えば彼はまだ謀反が許されたばかりで軍議に呼ばれなかったのを、今更ながらに深鈴は思い出した。

 

「君には命の借りがあるからね。僕も君の為、姉上の為、そして何より尾張の為に働きたいと思ってこうして参上した次第さ!!」

 

 そう言い終えるのと同時に「信澄様ステキ!!」「かっこいい!!」などと周りから黄色い声が上がる。何と言うか……見ていて疲れる。

 

「それで銀鈴、何か僕達で役に立てる事はあるかい?」

 

「えっと……」

 

 そう言われて、ずらりと並んだ信澄親衛隊を見渡す深鈴。町人とか村娘ばかりの編成で、戦闘力はほぼ皆無であろう。槍働きなどは期待する方が間違っている。

 

 だが……

 

『ん……? 待てよ……』

 

 美人ばかりの女性部隊であるからこそ、役立てるケースもある。それが今である事に、彼女は気付いた。

 

「では信澄殿はこのまま田楽狭間へ向かって下さい。ちょうど今川義元の本陣が礼の者から受け取った貢ぎ物で休息中の筈ですから、親衛隊の方達と一緒に……そう、戦勝の前祝いとでも理由を付けて、釘付けにしておくように」

 

「成る程、姉上達が駆け付けるまで時間を稼ぐんだね。分かった、任せておきたまえ!! それならお手の物さ!!」

 

 自信の笑みと共にそう言って、信澄は親衛隊と共に田楽狭間へと向かう。山崎の地には再び深鈴と配下の食客達が残された。

 

「ここまでは、全く計画通り……いや、それ以上……」

 

 本当に上手く行きすぎて、怖くなってくるぐらいだ。いや、上手く運んでいるのだから怖がらずに喜ぶべきなのだろうが。

 

 このままなら十中の七八は、深鈴が知る歴史知識に於ける桶狭間の戦いが再現される運びとなるだろう。ただ、未だ一つの要素が欠けているが故に、十中の八九とはならない。

 

 最後の、たった一つ。画竜の点睛。

 

 しかしそれは人の手ではどうにもならない要素であるが故に、諦める他は無かった。運を天に任せる以外の選択肢は、元より無い。

 

 だが、それでも……

 

「……雨さえ、降れば……」

 

 ぼそりと、風に解けて消えそうなその呟きを耳にして、集まった食客達の中の一人が進み出た。

 

 源内だ。

 

「おや、銀鏡様。雨を降らせれば良いのですか?」

 

「えっ?」

 


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