織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第11話 雨中の決戦

 

 熱田神宮には、織田軍の主力が集結しつつあった。信奈が本陣を構える場所としてここを選んだのには、三つの理由があった。

 

 第一に、籠城すると思っている今川方に味方の行動を予知されない為。

 

 第二は、少し前まで信勝と身内同士で争っていた自分にどれほどの家臣が付いてきてくれるかを確かめる為。

 

 第三に、ここが敵に最も近く勢揃い出来る場所であった事。

 

 果たして信奈以下五騎が到着してから僅かに間を置いて、織田家の家臣達は集まってきた。

 

「姫様!! 遅ればせながらこの六も参上いたしました!!」

 

 まず凄まじい勢いで柴田勢を率いて勝家が駆け込んできて、

 

「間に合いましたか!!」

 

 同じように部下を連れた長秀も合流してきた。

 

 その後も次々に家臣達が馳せ参じ、集まった兵の総数はざっと三千。動かせる兵はほぼ全てが集まった訳だが、しかし信奈は動かない。

 

 彼女は待っていた。

 

 今川方は二万五千の兵を何手かに分けて進軍してきている。軍議で深鈴と光秀が指摘したように、織田勢に勝機があるとすれば本陣への奇襲のみ。故に本陣の位置が分からなくては、動きようがない。

 

「困った、わね……」

 

 ふう、と一息。それを受けて「何を今更」と勝家は猛る。「こうして出陣したからには今川軍めがけて全軍でまっしぐらに突撃あるのみ!!」と、今にも飛び出していきそうだ。

 

「この兵力差では、いかに剛勇無双の勝家殿とて途中で力尽きてしまうでしょう。十七点」

 

 そんな彼女を、長秀がたしなめる。

 

「ですが、信奈様……そろそろ動かねば……」

 

 確かに今川方の本陣を発見する事は重要だが、しかしあまりに待ちすぎて遅きに失しては本末転倒である。そう考えた光秀が僅かに不安げな声を上げた、その時だった。

 

「!!」

 

 何かを察したかのようにばっと身を翻した犬千代が、寺の入り口へ向けて槍を構える。

 

 自然と将も兵も、この場の者達の視線がそちらへと集中する。何人かは万一の事も考えて、刀の柄に手を掛けてもいた。

 

 一方で信奈はにっ、と口角を上げる。

 

「来た……!!」

 

 どうやら”困った”が、届いたらしい。あいつならきっとやり遂げると思っていたが、やはりやってくれた。

 

 報告を受けた訳ではないが、彼女にはそれが確信として分かった。

 

 先程の勝家や長秀にも劣らぬような勢いで、騎馬した深鈴が駆け込んできた。彼女の姿を認め、信奈と家臣団の表情が一斉に明るくなる。やはり全員が勢揃いするとしないとでは、空気が違う。

 

「遅いわよ、銀鈴」

 

「申し訳ありません。今川の本陣を探っておりました」

 

 下馬した勢いのまま膝を付いた深鈴の報告を受け、全員の表情が変わる。この戦で織田勢が勝つに欠かせぬ黄金よりも貴重な情報を、彼女は持ってきたのだ。

 

「今川の本陣五千は、田楽狭間にて礼の者が持参したちまきと酒を分配して昼食中。先行した他の部隊からは完全に孤立。現在、信澄殿達が足止めに動いています」

 

「勘十郎が……!!」

 

 信奈のその声は、震えていた。悲しみでも怒りでもなく、感動に。

 

 田楽狭間がどれだけこちらからの奇襲にうってつけの地形であるのかは、尾張の地形に詳しい信奈には良く分かっていた。まさか偶然、義元がそこに本陣を構えた訳がない。

 

 犬千代や光秀から聞いていたが、礼の者を使って今川勢を誘導する深鈴の策、それが見事成ったのだ。

 

 そうして深鈴が必殺の地形へと今川を誘き出し。

 

 信澄が今、そこに奴等を釘付けにしている。

 

 やり方は違えど皆が皆、この戦に勝つ為に力を尽くしている。

 

 ならば、次は自分の番。

 

 為すべき事を見据え、微塵の迷いも振り切った信奈の眼が強い意思の光りに燃えて、輝く。

 

「全軍、これより田楽狭間へ突撃!! 私の全てを、この奇襲に懸けるわよ!!」

 

「合点承知!!」

 

 下知を受けた勝家はどんと大きな胸を叩き。犬千代が出陣の時と同じく、法螺貝を吹く。

 

 独特の音色が響くのに一拍遅れて、兵士達もそれぞれ雄叫びを上げた。尾張無くして我ありと思うような者はこの場には一人として居ない。皆、信奈と運命を共にする覚悟だった。

 

「折角の熱田神宮です。神様に戦勝祈願をされては」

 

 長秀の提案を受けた信奈はずんずんと神殿の前にまで進み出て、

 

「一体、いつまでこの国を乱れたままにしておくつもりよ!! これからは、私があんた達に代わって民を守ってやる事にしたわ!! あんたが本当に神様だったら、この私を勝たせなさいよ!!」

 

 との暴言を皮切りとしてとても文章には出来ないようなハチャメチャな行動と言動を連発。神をも恐れぬ振る舞いとはまさにこの事。尤も、いかな理由があろうと仏前で抹香を投げ付けるなどという乱行を繰り広げた彼女である。今更かも知れないが。

 

 仏罰の次は神罰に怯える羽目になるのかと勝家は涙目になり、長秀は溜息だがその元気を評価して百点を付け。

 

 光秀は初めて見る信奈の破天荒振りにあんぐりと口を開けっ放しにして、犬千代は手柄を立てたらご褒美にどれだけういろうがもらえるかを脳内で皮算用していた。

 

「さあ、行くわよ!!」

 

 城からの出陣の時と同じく信奈が先頭を切って駆け出し、

 

「姫様に遅れてはなりません!!」

 

「馬が倒れても自分で駆けろ!!」

 

 それに続く家臣団に率いられ、足軽達も走り出す。三千の兵によって成る軍団それ自体が一つの生き物のように田楽狭間へ向けて、まっしぐらに突き進む。

 

 信奈のすぐ後ろを駆ける家臣達の中には、当然ながら深鈴の姿もあった。

 

 ちらり、と視線を上げる。

 

 空は未だ快晴。雨が降る気配は、無い。秋でもないこの季節に、急に天気が変わる事など有り得るのだろうか。

 

 正直、分からないが……

 

 少なくとも自分に雨を降らせると言った源内は、絶対確実とは言わぬまでもそれなりに勝算はある口振りだった。

 

『だから、全ての食客達を自由に使って良いと預けてきたけど……』

 

 どのみち、食客達の中で直接戦闘に長けた者はそう多くはない。故に、信奈の本隊と合流させずともマイナスは最小限に留める事が出来る。そんな計算もあって勝手を許した訳だが……

 

『天が私達に味方するのか、それとも源内、あなたが天運をも変えるのか……!! あるいは私達は天にそっぽを向かれて、源内も何も出来ずに終わるのか……』

 

 これは運試し。自分の、信奈の、尾張の命運を占うもの。

 

『頼んだわよ……源内……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、源内に主導された深鈴の食客達は山崎の地からほど近い広場に陣取って、何やら怪しくも仰々しい邪教の儀式じみた行為に忙しかった。

 

「さあ、燃えるものは木でも油でもどんどん燃やして!! もっと火を熾すのよ!!」

 

 広場の中心には巨大な火が燃えており、前野某がありったけ用意した薪や油、竹串に葉っぱ。燃えるものと燃えそうなものは兎に角何でもかんでもこの場に到着するなりすぐにその中に投げ込まれて、炎は更に燃え盛っていく。

 

 食客や川並衆は何故こんな事をするのかと疑問を抱いてはいたが、しかし彼等は深鈴から源内の指示に従うようにと言われており、首を傾げつつも手を動かしていた。

 

 それにしても一体どうやってこれで雨を呼ぶというのか? 日本各地に雨乞いの儀式は様々な方式が伝わっているが、そういうのには大抵神官の祈祷が付き物なのではないか? 見た所そうした類の者は居ないようだが……

 

 と、そうしている間にも火勢はどんどん強くなり、炎上した丸根の砦もかくやという規模になった。炎に触れなくても熱気だけで肌や髪が焼かれそうだ。

 

「こ、これは凄いな!!」

 

 愛用の山高帽を熱風に持って行かれないように押さえながら、いつも通りの線目と貼り付いたような笑みを崩さずに森宗意軒が唸る。

 

「しかし源内殿、本当にこれで雨が降るのか?」

 

 彼の疑問も尤もである。これは食客達や川並衆全員の代弁であると言えた。

 

「俺は南蛮で”根黒万死”という秘術を学び、唐土では老師から道術を学び、日本に戻ってからも高野山で色々と呪術を学んだ。だから分かるが……雨を呼ぶ法などは高位の陰陽師でもちょっと難しいぞ。あんたにそれが使えるのか?」

 

 そう尋ねられて、源内はむすっと頬を膨らませた。あからさまに不機嫌になったのを見て取って線目も笑みもそのままだが、宗意軒の表情が少しだけ意外そうに変化する。

 

「私の”科学”は、陰陽道のような妙ちくりんなものとは全く違うわ。一緒にされるのは心外だわね」

 

「科学、ねぇ……?」

 

「そうよ。陰陽道とかの類は、特別に才能のある人間が何年も修行しなくちゃ使えないでしょ? 科学は正しい知識を持って適切な準備を整えれば、誰でも使えるのよ」

 

 ふふん、と鼻で笑う声が聞こえそうな表情で源内が語る。それを受けて宗意軒は「ほう」と一言。

 

「それに科学は他のお呪いの類とかとは違って、どういう理由があってそうした結果に繋がるのか。はっきりと説明出来るのよ」

 

 つまり、理論などは殆どすっ飛ばして式神を出したり天候を操ったりする陰陽道よりはその分だけ優れている。と言いたいのだ。自慢げな表情からそれを読み取って、宗意軒は試みに尋ねる。

 

「……では、こうして火を燃やせばどうして雨が降るのか、それについても当然、説明出来るのだろうな?」

 

 挑発的なその問いに、源内は「勿論!!」と頷いて返した。

 

「森殿は、昔から合戦の後にはよく雨が降るというのをご存じで?」

 

「あ……? いや……」

 

「昔の人はそうした記録にも熱心で、書物にもはっきりと記されているのよ」

 

 宗意軒はそこまで説明されて「ふむ」と頷く。成る程、合戦と言えば火。ならば同じように火を焚けば、雨が降る可能性を高める事が出来るのは道理。だが何故、火を焚く事で雨が降るのか? 新しく生まれた疑問にも源内はしっかりと対応して、説明を続ける。

 

「次の質問ですが、森殿は「水」と言えばどんなのを思い浮かべる?」

 

「水? そりゃあ当然……」

 

「透明な、液体を思い浮かべるわよね? でも水はそれだけじゃなくて、今こうしている私達の周りの空気の中にも、含まれているのよ」

 

「空気の中に、水が……?」

 

 きょろきょろと視線を動かす宗意軒は信じられないと言いたげな顔だ。それも当然の反応だと、源内は勉強熱心な生徒を見る教師ように微笑む。

 

「そして、空気には暖められると軽くなって上昇するという性質がある。当然、これだけの焚き火だから大量の空気が水ごと上空に舞い上がる事になる。そこで……」

 

 源内は宗意軒を連れて巨大火柱から少し離れた場所へと移動する。そこには様々な道具を組み合わせた、何やら意味不明なオブジェとしか見えない物体が置かれていた。

 

「……何だ? この提灯に色々くっつけたような物は?」

 

「秘密兵器よ。さあ、始めるわよ!!」

 

 源内は巨大な提灯のすぐ下に縄で括り付けられたふいごの取っ手を押し引きして、火を熾す。するとそれまでは閉じた扇子のように畳まれていた提灯がみるみるうちに大きく膨らみ、十数メートルはあろうかという楕円型へと姿を変えた。

 

 しかも、巨大提灯は少しずつ空中へと上がって行きつつある。深鈴の生まれた時代では熱気球と呼ばれるカラクリであった。

 

「これは……」

 

「さっきも言ったわよね? 空気は暖められると軽くなる。だからこの提灯の中の空気も軽くなって、こうして少しずつ浮き上がっていくのよ」

 

 遠目からは分からなかったが、段々と上空へと浮き上がっていくのが分かるぐらいにまでの高度になると、場の者達からも歓声が上がった。

 

 この反応も当然。鳥でも、生き物ですらない只の物体が空中へと浮き上がるなど、彼等にとって全く想像の埒外の出来事なのだから。

 

「そして、もう見えるでしょ? あのふいごの下を見て」

 

「……ん? 何か、袋みたいなのが付いてるな」

 

 そう、袋だ。そのすぐ隣に何か箱のようなものがくっついている。

 

「あの箱の中には火薬を使った仕掛けがあって、ある程度時間が過ぎると爆発して袋の中身が飛び散るようになっているのよ」

 

「袋の中身は?」

 

「塩の粉末よ。他にも色々と混ぜてあるけど」

 

 そう説明している間にもふいご付き提灯はみるみる小さくなって、殆ど小さな点にしか見えなくなる。つまりはそれだけの高度にまで昇っているという事だ。

 

 と、その時。彼等の耳に小さく「パン」という乾いた音が入ってきた。源内の言っていた箱の中の仕掛けが作動して、袋が破れたのだろう。これで、空中に塩の粉末がバラ撒かれた事になる。

 

「後は、上空の空気中の水が塩にくっついて、雲の子供を作る……」

 

「ふぅむ……」

 

 顎に手をやって考える仕草を取る宗意軒。聞いてみて、源内の理論が素晴らしいのは分かったが、しかし現実が全く理屈通り上手く行くとは限らない。

 

 それは、源内自身も分かっているのだろう。今の彼女の表情は大金を掛けた賭博で、今まさに開かれる二つのサイコロが入った壺を見る博徒のそれに似ている。開かれたそこにあるのは丁半のいずれか。つまりは、のるかそるか。

 

 彼女だけではない。この場に集まったおよそ300名が固唾を呑んで空を見上げていたが……

 

 元々ここからではバカでかい焚き火から立ち上り、巻き上げられた煙によって空は青くは見えなかったが、しかし徐々に煙のせいだけではなく本当に空を雲が覆っていき、灰色に見えてきた。

 

 雲の中からゴロゴロという独特の雷音も聞こえてくる。

 

「源内殿、これは……やったんじゃあないか?」

 

「多分……ね」

 

 源内の理論と技術の正しさが証明されたのか、それとも彼女が何もせずとも今日、雨が降ったのか。

 

 いずれにせよ、これで深鈴の案じていた最後の一つの要素が埋まった。壁に描かれた竜に、目が描き入れられたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 同じものが今、田楽狭間へ向けて疾走する信奈の本隊からも見えていた。

 

 熱田神宮に祀られし神が信奈の傍若無人に怒ったのか、それともたった一人の人間の女子にここまで言われて動かないのは神の名折れと一念発起したのか。ともあれ蒼天がにわかにかき曇り、天の底が抜けたのではと思う程の豪雨が襲ってきた。

 

「信奈様……雨が……!!」

 

「これこそ天佑!! これで今川軍に知られずに近付けるわ!!」

 

 上空で雷神が猛っているにも関わらず愛刀を振り上げ、全軍を鼓舞する信奈を見て、ほとんど雨音に掻き消されて分からないが兵士達も鬨の声を上げる。

 

 この時代の戦に於いて、総大将が先陣に立つと立たないとでは兵の士気が全く違ってくる。自分だけが命を張っているのではない。兵士達にそう思わせられるのとそうでないとでは大違い。しかも信奈はあるいはそこまで計算しているのだろうか、自分は雷に打たれる事も恐れないという命懸けのパフォーマンスも手伝って、武将から一兵卒に至るまで闘志は天井知らずに高まっていく。

 

『源内……やったのね……!!』

 

 信奈のすぐ後ろを騎馬で駆ける深鈴は、心中で自分の食客に最大の賛辞を送っていた。信じてはいたが、まさか本当にやってのけるとは。

 

「この戦、勝った」

 

 その呟きは雨と馬蹄の音に遮られ、誰の耳にも届かずに消えていった。

 

 一寸先も見えなくなるような豪雨だが、織田勢には関係無かった。幼い頃より国中を遠乗りして回った信奈は体で地形を覚えており、目を瞑っていても正確に愛馬を操って最短の道を進む事が出来た。

 

 先陣を進む彼女を龍の頭として、家臣達はその胴体、兵は尾となって雨中を進んでいく。龍、つまり辰とは水の神。今の織田勢は雨、つまりは天すらもを味方としていた。

 

 一方、田楽狭間にて信澄と彼率いる親衛隊の歓迎攻めに遭っていた今川本隊は、突如として降り出した雨に右往左往し、槍刀も放り捨てて近くの林へと逃げ込んだり、位が上の者は幕の中に駆け込んだりと、今が戦の真っ最中である事すら忘れたような有様であった。

 

 丸根・鷲津の快勝。

 

 礼の者より届けられた過分なまでの貢ぎ物。

 

 信澄達の行った歓待。

 

 こうした様々な要素が今川方にこの戦は既に勝ったも同然と警戒心を奪い、そして大軍では動きの取れぬ田楽狭間の地形と、織田本隊の接近を隠す豪雨。

 

 天の御業も人の仕業も。全てが、信奈達の勝利を必然とする方向へと流れていた。

 

「みんな、私に命をちょうだい!!」

 

 落雷が近くの松を燃やし、雨の中でも尚燃える炎が信奈の端麗な容姿を照らし出した。彼女は愛刀の切っ先を今川本陣へと向け、号令を下す。

 

「狙うは今川義元、唯一人!! 突撃!!」

 

 雨と雷に負けじとあらん限りの声を上げ、三千の織田勢が突貫する。

 

「一番槍はあたしが!! どきやがれぇーーーーっ!!!!」

 

 柴田勝家が水車の如く愛用の槍を回し、本陣を守ろうとする僅かな足軽達を台風の前の羽のように吹き飛ばして進んでいく。

 

 やれ猪武者だ脳筋だと揶揄される事も多い彼女であるが、小細工無しの真っ向勝負に於いて彼女以上の武将は尾張に居ない。軍団という巨大な槍のその穂先として当たるを幸い薙ぎ倒し、突き進む。

 

「命の限り大暴れしてやる!!」

 

 頼もしき剛将が拓いた道を、長秀が、犬千代が、光秀が、信奈が、そして彼女達に従う兵達が広げ、進んでいく。

 

「皆、勝家殿に遅れを取ってはなりません!!」

 

「横に逸れてはならないです!! まっしぐらに義元を目指しやがれです!!」

 

 織田の武将達は今こそがその力を存分に振るう時と、八面六臂の活躍を見せている。

 

 更に、

 

「深鈴様!! 我々も参りました!!」

 

「俺達にも手柄、立てさせて下さいよ!!」

 

 雨雲が出た事で自分達の役目の一つが終わり、次の役目を果たさんと、源内に預けられていた食客達や川並衆も駆け付けてきた。

 

「銀鏡氏!! 我々も!!」

 

<いよいよここが正念場>

 

 彼等に続くようにして今川勢の監視に当たっていた五右衛門と段蔵が率いる諜報部隊もまた戦列に加わり、今川軍の混乱は最高潮に達した。視覚と聴覚を奪う豪雨の中と、想像もしなかった奇襲。驚愕が恐怖を呼び、恐怖は正常な判断力を奪い、誰が敵か味方かも曖昧になって遂には同士討ちが始まった。

 

「な、何ですの? 皆さん、祝い酒も良いですが取り乱してわらわの周りでの刃傷沙汰などもってのほかですわよ!!」

 

 のっそりと義元が幔幕から出て来た時には、最早何もかもが手遅れであった。

 

「今川義元、覚悟!!」

 

 馬から飛び降りた勝家が槍をブン回しつつ突進してくるのを見て、ようやくこの本陣が織田の奇襲に遭っているだと悟る。

 

「な、なんですの、この無礼者……!! ならばわらわの剣の腕を……」

 

 手にしていた鞠を投げ出して、先程まで雨避けに入っていた幕の入り口をめくる。そうして手を伸ばした所には、彼女の愛刀・『左文字』が……

 

「あ、あら……?」

 

 そこにあったのは太刀を立て掛ける為の台座だけ。肝心の刀は、煙の如く消えて失せていた。

 

「そ、そんな……私の刀は……?」

 

「あの……お探しの物は、これですか?」

 

 些か申し訳なさげに、すぐそこに立っていた深鈴が声を掛ける。彼女の手に握られているのはまさに今川義元の佩刀『左文字』。そして傍らには、食客の一人が控えていた。彼は諜報部隊の一人であり、どんな厳重な場所に保管されている物でも持ち出してみせるという盗みの腕を買われて雇われた泥棒であった。今まさに、その言に偽りが無かった事が証明された訳だ。

 

「あ……だ、誰か!! 曲者ですわ!! 出会え!! 誰か!!」

 

「無駄……この雨の中じゃ聞こえない」

 

 足軽達を蹴散らしつつ現れた犬千代が、絶望的な申告を下す。

 

 武器は奪われ、助けに来る兵も居ない。逃げる事も出来ない。義元にとって絶体絶命という言葉の意味を絵に描いたような状況となった。

 

「ひぃぃ……し、死にたくない~。わわわらわは、死ぬのは嫌ですわ!!」

 

「これも戦国の倣い、死にたくないなら縄を受けろよ」

 

「だ、誰があなた達尾張の田舎侍に降伏など……生きて虜囚の辱めを受けるぐらいなら、わらわは潔く死を選びますわ!!」

 

「だったら遠慮無く……」

 

「ひーっ、お、お助け!! どうかそればかりは……!!」

 

「「「…………」」」

 

 降るのか、死ぬのか。どちらともはっきりしない義元を見て勝家、犬千代、深鈴の三人は顔を見合わせる。

 

「おい、どうする……? もう戦意は無いみたいだが……」

 

「姫大名は、出家したら殺しちゃ駄目……」

 

 勝家と犬千代の視線が、深鈴に向く。この二人はどちらも武力極振りの戦闘特化。もしここに光秀が居たのなら様々な戦略的・政治的判断も手伝って、戦のどさくさに紛れてさっさと義元の首と胴体を泣き別れにするなり断髪式を執り行うなりしたろうが……今居る者でそうした見地に立つ事が出来そうなのは深鈴だけだった。何気に、彼女は重要な決断を迫られている。

 

 とは言え……良く考えてみれば今の義元の状況は所謂「詰み」。頸を刎ねるにせよ出家させるにせよ、大した違いは無い。ならば……

 

「取り敢えず捕らえてしまって、後の事は信奈様にお任せしましょう」

 

「うん、まぁそれが妥当かな」

 

「……賛成」

 

 無難な落とし所を提示されて、二人は頷く。

 

「五右衛門、段蔵」

 

 ぱちんと指を鳴らし、黒い疾風となって襲い掛かった二人によって義元が簀巻きにされるのに、二秒とは掛からなかった。

 

「ちょ……わらわにこのような無礼……許されませんわよーっ!!」

 

「それでは、私はこれからこの戦を終わらせに行くので……後は、任せますね」

 

「あ!! こら、左文字を返しなさーい!! ちょっと、聞いてるんですの!?」

 

 その場を去っていく深鈴の背中へ向け、蓑虫みたいになりながらも義元が気丈に喚く。彼女の耳に、深鈴が信奈へ助命を嘆願してくれたという話が入るのは、もうしばらく後の事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、桶狭間の戦いは織田の大勝にて終わった。

 

 残存していた今川軍も深鈴が「義元公討たれたり」の報を、証拠の品である「左文字」を振り回して告げると次々に武器を捨て、駿河目指して散り散りに逃げ去っていった。

 

「膨大な軍資金・兵糧・武具が手に入りました」

 

「松平元康は既に三河へ引き返したようです。今川が潰れた以上は、悲願であった独立を果たすつもりかと」

 

「義元公が破れた事による混乱に乗じ、武田信玄が瞬く間に駿河を攻略したようです」

 

 床几に腰掛けて矢継ぎ早に入ってくる報告を処理しながら、近付いてきた者達の中に深鈴の姿を認めて信奈の顔に笑みが浮かぶ。

 

 深鈴はいつも通り膝を付いて臣下の礼を取ると、持っていた”土産”を信奈に差し出す。「左文字」を受け取った信奈は鞘より抜き放って刀身に自分の顔を映し、くすりと笑った。

 

「これ以上無いお土産ね」

 

 後に信奈はこれを短くしてその茎(なかご)に「五月十九日 義元捕縛刻彼女所持刀 織田尾張守信奈」と刻んで愛刀の一本として身近に置くようになったという。

 

 そうしてひとまず全ての戦果報告が終了し、戦の終わりの宣言として、信奈主導で勝ち鬨が上がる。

 

「えい!! えい!! おーっ!!」

 

「「「おおおおおおーーーーーっ!!!!」」」

 

 歓声が響き、無数の刀や槍、旗指物やのぼりが掲げられたその空は、ほんの四半刻(30分)前までの豪雨が嘘であったかのように、雲一つ無く冴え渡っていた。

 


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