織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第12話 光秀の初仕事

 

 だぁん。

 

「!!」

 

 聞き覚えのある音を目覚ましとして、明智十兵衛光秀は布団から跳ね起きた。見回してみれば、そこは自室とは違う、別の家の来客用の寝室らしかった。

 

 何故こんな所に……?

 

 枕元に置かれていた水差しから水を一杯飲むと、急激に昨夜の記憶が蘇ってきた。

 

 そうだ、昨日は深鈴の屋敷で開かれた宴会に招かれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 今川への大勝、そして光秀が正式に織田家臣入りした事の祝いの席だった。後者については、軍議の席での的確な意見や桶狭間の戦いでの槍働きを見た信奈が、道三に掛け合ってのものだ。道三の方も「こんな年寄りの一小姓で終わるよりは、信奈ちゃんの天下取りの力となる方が余程、光秀の才能を活かす事が出来るじゃろう」と快諾。何より光秀自身の強い希望もあってあれよあれよと言う間に本決まりとなった。

 

 宴席の上座にはやはり主催者である深鈴、今回の主賓である光秀とその元主人である道三の三人が並び、川並衆を含む食客達、ねね達うこぎ長屋の住人達が集まっていた。

 

 この晴れの席で深鈴は今回の戦での恩賞として信奈より下賜された二百貫を、全て食客や長屋の面々に分配している。彼女曰く、

 

「策を立案したのは私ですが、策が上手く進んだのは皆さんの力あってこそ!!」

 

 との事だった。光秀は彼女の気前の良さと言うかバカさ加減と言うか、どちらにせよスケールの大きさにぽかんと口を開けたままにして、一方で道三は「これぞ将の器よ!! 天晴れ!!」と、膝を叩いて感心した風だった。

 

 そうして恩賞分配が終わった後は、やはりと言うべきか乱痴気騒ぎが始まった。深鈴の織田家仕官が決まった時と全く同じ流れである。

 

「まっこと、銀鈴どのは太っ腹ですぞ!!」

 

 ねねは、まだ飲酒などして良い年ではないが、雰囲気だけですっかり出来上がってしまっていて、顔が赤い。

 

「ぱく、ぱく……もぐ、もぐ……」

 

 犬千代は既に何人前もの料理を平らげてしまっている。これほどの料理は中々食べられない。しっかりと、栄養を付けて帰らなくては。

 

「親分、ここは一献」

 

「いや、俺から注がせて下せぇ」

 

「いや、俺が」

 

「俺が俺が」

 

 川並衆の面々は相変わらず。五右衛門はそんな彼等を適当にあしらっている。そんな喧噪から少し離れて、光秀は冷ややかに思考を回していた。

 

『全く……出世競争の相手が増えたのに宴会です、か……肝が据わっているのか、只のバカなのか……』

 

 とも思うが、道三救出の一因となった流言戦術や桶狭間の戦いを有利に運ばせた策の数々は、バカに出来る事ではない。銀鈴は、織田家での出世競争に於いて間違いなく最大の壁だ。

 

 だが……今日ぐらいは、その好意に甘えておこうか。

 

 

 

 

 

 

 

「……そう、そうしてあの後、夜半まで騒いでもう遅いからと、この屋敷に泊まったのでした」

 

 思い出した所で身支度を調えて廊下に出ると、

 

「”轟天雷”は予定通り完成します。それと”鳴門”が出来上がったので……子市殿に試験を頼みたいのですが……」

 

「子市ならさっき銃声が聞こえたから、今頃は裏の射撃場に……おや、十兵衛殿」

 

 図面を見ながら歩いてきていた源内と深鈴に出くわした。

 

「昨晩はお世話になりましたです」

 

 礼儀正しい光秀は一宿一飯の恩を無碍には出来ない。競争相手に甘い顔はしないが、頭はきちんと下げる。

 

「ところで、さっき銃声が鳴ったようですが……」

 

「ああ、それなら射撃場でしょう。私の食客の中には鉄砲の名手も居ますから」

 

 「見て行かれますか?」と言われて、光秀は同行する事にした。断る理由も思い付かなかったし、それに彼女とて種子島はかなりの修錬を積んだ身。折角の機会だし深鈴の囲っている鉄砲の名手とやらがどれほどの腕前なのか、見ておくのも良いだろう。

 

『もし半端な業前だったら、私の腕を見せ付けて笑ってやるです』

 

 そうして三人は屋敷の裏へと移動する。そこは屋敷の縁側から十七間(約30メートル)ほどの距離を空けて土手に面しており、その坂面に弓道場のように的を設置してあった。

 

 縁側では一人の女性が、数挺の種子島を傍らに置いて射撃練習を行っていた。飾り気の無い質素な着物を纏い、それなりに長い黒髪をポニーテールに束ねてリボンで結んだ、深鈴や源内と同じぐらい、長秀よりは少し年下に見える少女と大人の女性のちょうど中間ぐらいの女の子だ。肌は日に焼けていて、食客となる前は長く旅暮らしをしていたのだろうと容易に推測出来る。

 

 女性の傍らにはねねが腰掛け、運んできた茶を置いていた。

 

「子市殿、ねねはまたあの芸当が見たい、ですぞ」

 

「ん……」

 

 子市と呼ばれた彼女は頷くと手にしていた物と傍らに置いてあった物、合わせて五挺の種子島に弾込めを始め、一方でねねは適当な大きさの石を拾い始める。

 

「何を……?」

 

 光秀が疑問の声を上げかけるが「しっ」と深鈴に制された。そうして全ての銃に弾を込め終わると「良いぞ」と、子市が一言。そしてほぼ同時に、

 

「ていっ!!」

 

 ねねが小さな体を目一杯に使って、握り込んだ数個の石を一斉に空中へと放り投げた。間髪入れず、

 

 だぁん、かっ。

 

 銃声、そして乾いた音。弾が命中した石が砕ける音だ。その二つが一続きに聞こえてきた。子市は撃ち終えた種子島を放り捨てるとすぐさま別の物に持ち替え、引き金を引く。

 

 だぁん、かっ。

 

 更に、次の種子島へ。

 

 だぁん、かっ。だぁん、かっ。

 

 三つ目の石は放物線の頂点に差し掛かった瞬間に砕け、四つ目は空と地の中程の位置で乾いた音を立てる。そして子市はすぐさま、最後の種子島を手に。

 

 だぁん、かっ。

 

 五つ目の石が地に落ちる寸前に、弾がそれを二つに割った。ここまでの時間、僅かに数秒。投げられた小石が空中にある間に五挺の種子島を撃ち、しかもそんな小さな的へと五発必中。この芸当は二十五間(約45メートル)先の的へと当てる程の腕を持つ光秀をして、信じられないものを見たという顔にさせるに十分なものがあった。

 

「まっこと、子市殿は日の本一の鉄砲撃ちじゃあ!!」

 

 彼女もまた源内と同じく深鈴の人材募集で集まった食客の一人で、今は鉄砲隊の調練を任されている身であった。この射撃の早さと正確さを目の当たりにすればそれも納得、と言う所であるが……子市は苦笑し、はしゃぐねねの頭にぽんと手を置いて頭を振った。

 

「そうでもないさ。私は二番目……世の中、上には上が居る」

 

「ちょっと信じられないです。これほどの腕前の、更に上が居るなんて……」

 

 思わず声を上げたのは光秀だ。自分も鉄砲の腕には自信があったが、たった今目にした子市の技量はまさに神業。上には上が居るという言葉を思い知った気分だが……しかしそんな彼女ですら及ばぬ高みがあるとは……?

 

「では、一番は……?」

 

 誰ともなくそう言い掛けた時だった。光秀と深鈴、それに源内の背後から声が掛かった。振り返ると、そこには普段通りに傾いた装いの犬千代が立っていた。

 

「銀鈴と光秀。姫様がお呼び」

 

 

 

 

 

 

 

 清洲城の大広間には既に織田家の主だった家臣達が集まっていた。大好物であるなごやこーちんのてばさきを囓っていた信奈は、登城した二人へ早速用件を切り出す。

 

「二人とも、今度三河の竹千代と同盟する話は聞いてるわね?」

 

 先の戦いにて今川勢の先鋒として尾張に攻め込んできた松平元康は、桶狭間の戦いにて義元が敗れると同時に岡崎城に引き返してしまい、そのまま今川家からの独立を宣言していた。

 

 とは言え、未だ松平家は戦国大名の中では吹けば飛ぶような弱小勢力。独立を保つ為には何処かの勢力と同盟して、後ろ盾を得る他無い。そこで、信奈に同盟を申し込んできたのだ。元よりこの同盟話は先の戦いで服部党の警戒網を無力化する為、織田家が勝利した場合の見返りとして信奈が申し込んでおいたものでもある。

 

 これは双方にメリットのある話だった。

 

 信奈の目的はあくまで西国。美濃を攻略し、その後は京に上洛を果たす事。まずは美濃だけに目を向けるとしても、攻略の第一目標である稲葉山城は難攻不落の名城。それに道三がこちらに付いたとは言えまだ義龍の下には美濃三人衆など名将が揃っていて楽観して良い相手ではなく、東国に構っている余裕は無い。特に今川が滅んだ後は戦国最強の呼び名も高い武田信玄が駿河を攻略してより強大な勢力となっており、三河にはその勢いを食い止める防波堤の役目を担ってもらうつもりだった。

 

 元康としては武田との同盟という手も考えないではなかったが、片や百戦不敗の甲斐の虎、片や小国の弱小大名。対等な同盟関係など望むべくもなく、仮に話が纏まったとしても属国に近い扱いを受けるは火を見るより明らか。先の約束を考えないにしても、東国に興味の無い信奈は対等な同盟関係を結ぶ相手としてうってつけであった。

 

「そこで十兵衛。あなたには竹千代の接待役を任せるわ。初仕事よ、しっかりやりなさい」

 

「はい、承知いたしましたです!!」

 

「銀鈴、あなたには今回、十兵衛の補佐を頼むわ。特に資金面とかでは、よく相談に乗ってあげて」

 

「!! 承りました」

 

 こうして、光秀と深鈴は協力して元康の接待に取り掛かる事になった。

 

 光秀としてはこの仕事は正式に信奈の家臣となって初めての仕事だという緊張があり、また道三の保証付きとは言え家臣団では新参の自分はやはり功績と信奈への信頼という二点に於いて、譜代の家臣である勝家、小姓時代から仕える長秀、現小姓として常に傍らに在る犬千代、そして新顔ながら目覚ましい手柄を立てて重用される深鈴といった面々に対しては遅れを取ってしまっているという焦りもあった。

 

 そうした事情で心理的に追い込まれていた事も手伝い、光秀は競走馬で言う所の”入れ込みすぎ”という状態に陥る程に気合いを入れて、この仕事に取り掛かった。

 

 そんな彼女を見た道三は丸めた頭に冷や汗を伝わせ、深鈴に一言。

 

「こりゃあ、どうもいかんのう……嬢ちゃん、上手く助力してやってくれい」

 

 ……などと心配されているとは露とも知らぬ光秀は早速、接待の準備に取り掛かった。

 

 まずは、清洲で一番の旅籠を見繕って元康ら一行が滞在するであろう期間、貸し切りとした。それだけではなく、内装にも手を加える。柱には浮き彫りの細工を施し、金銀の鋲を打ち、襖も風雅な絵の描かれた物に取っ替える。

 

 これらに要する資金は、銀蜂会の財力によって今や織田家の金庫番と呼ばれる深鈴の懐から出ている。また、様々な飾り細工を行う職人達も彼女の食客達の中に居た。後者は単純に光秀の指示に従うだけではなく、深鈴にも益のある話だった。

 

 やはり三百を超える食客達を食べさせていくだけの金は尾張一の金持ちである彼女をして馬鹿にならないものがあり(また、一部の食客は能力を発揮する為に別途で資金を必要とする。特に源内は有能だが多額の研究費を必要とする金食い虫でもある)、彼等の中の一人でも手に職を付けられるのならそれは喜ばしい事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 寝食を忘れたような光秀の指揮によって予定より随分早く内装も整い、次は部屋に置く壺などを選ぶ段となった。

 

 事前の指示もあって、深鈴が各国より集めた宝物をずらりと並べ、選定は光秀が行う。

 

「うーん、ここは……よし、これに決めたです!!」

 

 まず彼女が取り上げたのは、その中でも一際目立つ焼き物だった。陶芸界では有名な匠の手による物で、表面は凸凹ながら確かな才能の輝きを感じさせる名器であった。名家の出であり道三の一の小姓として最高の教育を受けている光秀は、審美眼も確かだった。

 

「……よく、分からない……」

 

「流石でござる」

 

 犬千代は光秀の選んだそれを見ても、他の物とどう違うのか分かっていない風だ。対照的に五右衛門は、やはりお宝の価値が分からぬでは川賊などやっていられないのか光秀がその壺を選んだのにも納得という風にしきりに頷いている。

 

「五右衛門、あの壺はそんなに良い品なの?」

 

「左様、世に二つと無い逸品でござる」

 

 それを聞いた深鈴は、しかし表情をしかめる。道三はこの役目を仰せつかるに当たって光秀が気負いすぎている事を気に懸けていたが、ここへ来てその弊害が顔を出してきた。

 

『で……そこを助けるのが今回の私の役目、ね』

 

 心中でそう呟くと、彼女は品定めを続けている光秀へと歩み寄った。

 

「十兵衛殿、しばらく」

 

「何ですか? 銀鏡先輩……」

 

 手にしていた壺を丁寧に置くと、やや機嫌を害したような顔で光秀が応じる。「今は大切な時なんだから邪魔するなです」とでも言いたげである。しかし、信奈の命とは言え今回の費用の多くを深鈴が負担している事を思うと、無碍にも扱えない。少なくとも表面上は。

 

「その壺の選定は些かどうかと思いますよ」

 

「何故ですか? 私の目を疑うと……」

 

「いや、十兵衛殿の選定は確かなものでしょう。しかし、だから拙いのです」

 

「?」

 

 今の光秀は最高の接待を行おうと心掛けるあまり、忘れている事がある。深鈴はそこをフォローする。

 

「まず、十兵衛殿はどういう方針で、松平元康の接待をなされようとされていますか?」

 

「勿論、ド派手な宿舎を用意して信奈様のご威光を見せ付けるです。今はいつ味方が敵になるか分かったものではないご時世。三河の眼鏡タヌキが裏切りなど夢にも思わないよう、この際に威圧しておくです」

 

「しかし、分を越えた馳走は相手への追従となり、却ってこちらの威光を損するでしょう。過ぎたるは尚及ばざるが如しと申しますし……それに、今回はあくまで同盟条約の締結に来る相手をもてなすのです。優位な関係を築くのは大切ですが、殊更に威圧しては逆に家臣として格下に扱おうとしているのではと考えて、警戒させてしまうかも知れません」

 

「む……」

 

 理詰めで応じたのを理詰めで返されて、光秀は少しだけ怯んだように言葉に詰まった。その目にはいくらか猜疑の光も伺える。深鈴の言葉にも一理はあると頭で認めている部分もあるだろうがその一方で、

 

『まさかこの女、今回の接待役を失敗させて私を出世させまいと謀っているのでは……』

 

『……と、疑っているわね。今までの流れからして……ならば……』

 

 こうなると家中での序列などという矮小なものを超えた領分の話で納得させなければなるまい。そう考えた深鈴は、僅かな時間で説得の段取りを決めた。

 

「……十兵衛殿、信奈様はいずれ天下をお取りになられるお方です」

 

「その通りです」

 

 光秀は頷く。彼女の目は眼前の補佐役を真っ直ぐに見据えて『私はいずれあなたを追い越し織田家第一の家臣として、信奈様に天下を取らせるです』と、雄弁に語っていた。それに気付いているのかいないのか、深鈴は話を続けていく。

 

「ならばいずれ、姫巫女様を我々がお迎えする事もあるでしょう。今回、一大名でしかない松平元康をこれ以上が無い程の待遇で迎えては、その時にはどうやってご接待申し上げれば良いか分かりません」

 

「……!! それは……確かにそうですね。私は今回の事にばかり集中するあまり、そんな先の事にまでは思い至らなかったです」

 

「気にする事はないでしょう。それだけ、十兵衛殿がお役目に一生懸命であるという事。それを補佐するのが、私の役目です」

 

 納得した光秀は改めて最初に選んだ物よりは多少格落ちするものの、しかし信奈を辱めぬぐらいの品を何点か選び直し、元康の部屋の置物とした。

 

 こうして完成した宿舎を検分した信奈はその出来映えに「これは見事ね」と、光秀の仕事ぶりを高く評価した。

 

 同じ頃、深鈴達は補佐役として三河一行へ振る舞われる事となる食事の材料を調べていたが、犬千代が野生の嗅覚によってその中に腐った魚が混ざっているのを発見していた。その魚はすぐに処分され、別の新鮮な魚と差し替えられたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、元康ら三河一行が尾張入りし、宿舎へと案内される。三河の姫大名は通された客間を見て、思わず息を呑んだ。まさか自分のような弱小国の主をもてなすのに、ここまで礼を尽くしてくれるとは。吉姉さまはそこまで私の事をと、彼女は出そうになった涙を堪えた。

 

「なんとも見事な物です~。光秀さんも銀鈴さんもお役目とは言えご心労の程、お察し申し上げます~」

 

「その言葉を頂けてこの光秀、全ての苦労を忘れたです」

 

「どうぞ、ゆるりとおくつろぎなされますよう……」

 

 上座に座った元康は出された茶で喉を潤した後、傍らの小姓に言って手土産の目録を取り出させる。

 

「心ばかりの贈り物として、金三千貫を持参いたしました~。どうぞ受け取られて吉姉さまによろしくご披露のほどを~」

 

「委細……」

 

 承知、と言い掛けて、光秀の視線がすぐ隣に座っている深鈴へと動いた。彼女は、元康には気付かれないように目配せしている。

 

「……?」

 

 何の合図かと思ったが、しかし聡明な光秀はすぐにその意味する所に気付いた。

 

 三河はまだ独立したばかりであり、何かと金が入り用である事は想像に難くない。それでなくとも三河の経済は八丁村特産の八丁味噌によって何とか持っているような状態であるというのは有名な話である。しかも現在の情勢では、いつ武田が上洛目指して攻め入ってくるか分からず、いざという時の軍費も確保しておかねばなるまい。

 

 そんな中で三千貫という大金を手土産として持参した元康。恐らくは彼女だけではなく、家臣一同が衣食を節して整えた金に違いない。これは彼女等の誠意の証であり、同時にこの同盟をどれほど重く見ているかという証明でもあった。尾張と手を結べるか否かで、三河の命運も決まってしまうのだ。

 

 と、向こうが向こうならばこちらとしても思い遣りが無くてはなるまい。ここは……

 

「恐れながら元康様、未だ天下が不穏な昨今、今後も何かと不慮の出費が生じると思われるです。ご用意された三千貫の内、二千貫は受納いたしますが、残り一千貫はお返しいたしますです。どうか、笑ってお引き取りの程を……」

 

 この申し出には元康の方も最初は少し驚いた様子だったが、彼女は彼女で光秀の気遣いを読み取ったのだろう。加えて、ここで受け取る受け取らないで押し問答していても始まらないと考えた部分もあったかも知れない。

 

「光秀殿のお心遣い、ありがたく受け取らせていただきます~」

 

 意外な程にあっさりと返納を受諾した。この話はその日の内に、清洲城の信奈達の耳にも入った。深鈴と共に呼び出された光秀は咎められるのではと内心ビクビクしていたものだが……

 

「よくやったわ、十兵衛。今回はこちらが主人側。接待役にはそれぐらいの気遣いがなくちゃいけないわ」

 

「あたしには良く分からないが、そのまま受け取っちゃ駄目だったのか?」

 

「三千貫もの大金となれば、こちらがどれほどもてなしたとしても向こうはそれ以上の出費となります。あちらの誠意には、こちらも誠意で返すべきでしょう……光秀殿の対応は見事……八十七点です」

 

 信奈初め家臣団からも評価は上々。光秀の初仕事は、まず成功と言って良かった。

 

「いえ……私だけではないです。銀鏡先輩の的確な助言あってこそです」

 

 新参であるが故に出世にも熱心な光秀であるが、しかし今回の事が自分一人の手柄と思う事は出来なかった。

 

 宿舎の器物・宝物選びの時もそうだったが、三河の経済事情を察しての判断も、自分一人では出来なかった事だ。もし三千貫をそのまま受け取っていた時を想像してみるが……それを知れば信奈様は同じように一千貫ぐらいは返せと言ったかも知れない。一度受け取った品を小児のように突き返す事など、耐えられぬ屈辱である。ただ失態を演じないというだけでなく、精神的な意味でも自分は深鈴に救われていた。

 

『今回、銀鏡先輩は失点に敢えて目を瞑って、後からいつでも私を蹴落とす事が出来たのに、ちゃんと立ててくれていたです……』

 

 只のお人好しではない。それぐらい、光秀には分かる。深鈴は家中での小さな争いに汲々とするのではなく、万一光秀の接待に何か不手際があり三河との同盟が上手く行かなかった時の事を案じたのだ。更に、松平家の懐にも思い至っていた。

 

 信奈より与えられた補佐役としての役目に忠実だった事もあるだろうが、それ以上に深鈴の目は単に今回の役目一つだけなく、より大局的な局面へと向いていたのだ。ただ豪勢に元康をもてなす事しか頭になかった光秀には、持ち得なかった視野の広さだ。

 

 勿論、出世に無関心な訳でもあるまい。例え一時の功で光秀が抜きん出ようと、すぐさま別の手柄で抜き返してみせると思っているに違いない。

 

『深謀遠慮のみならず、なんたる自信、なんたるゆとり……今回は、私の完敗ですね……』

 

 彼女こそが出世競争の最大の壁と見た自分の見立ては、間違ってはいなかったようだ。確かに今回は、皆が自分の手柄と褒めてくれるがその実深鈴あってこそのものだった。だが……

 

『相手にとって不足無し、です』

 

 光秀はすぐ隣に座る深鈴に視線を送って、不敵に笑む。いずれ掴み取る織田家第一の家臣の座を譲る気は無いが、歯応えのある競争相手が居る事は不快ではない。家中での戦にも、これぐらいの張り合いがなくてはならない。

 

 今回の勝負は負けた。完膚無きまでに。だが最後には勝つ。この日の本全土に織田の旗が翻るその時に、信奈様の寵愛を最も強く受けているのはこの明智十兵衛光秀だ。

 

『尤も……その時には銀鏡先輩も二番手ぐらいには付けてくれてないと、困るですが』

 

 恩義も感じている。能力や人格を認めてもいる。だからこそ譲れない。今まで同年代では武勇でも知略でも並び立つ者の居なかった光秀にとって、感じた事の無い熱がその胸を灼いていた。

 

 一方の深鈴にとって、偶然ながら接待の補佐役を与えられた事は明智光秀という人物を間近で観察する絶好の機会であった。

 

 明智光秀は、深鈴の知る正史に於いては本能寺の変で織田信長を滅ぼした謀反人として名高い。しかし、それはあくまで紙上の歴史での話である。

 

 深鈴は占いなどは信じないタイプであるが、未来での血液型占いでは「B型は自分勝手」とよく言われる。そうしてB型の相手に「自分勝手」だと頭から決めつけて接する事でその人物が本当に自分勝手な性格に矯正されてしまうという説を彼女は聞いた事があった。同じ理屈で、こちらが「いずれ謀反人となる人間だ」と決めつけていては、忠臣を逆臣に変えてしまうかも知れない。故に一度、ナマの部分で光秀を見極める機会を深鈴は望んでいた。そこへ今回のお役目は、渡りに船であったと言える。

 

 そうして彼女が見た明智光秀は、多少空気が読めない所もあるが、仕事熱心で一途に信奈を慕う忠臣であった。彼女が本能寺の変を起こすと言われても、今では信じる事が出来そうにない。それどころか、

 

『いや……仮に私が居なかったとしても、彼女は本能寺の変を起こさないのでは……?』

 

 とさえ、思えてきた。

 

 そういう考えに至るのも、実は彼女の生まれた時代にあっても何故本能寺の変を明智光秀が起こしたのかは諸説が存在しており、はっきりとしないのである。

 

 単純に自分が天下人になろうとした野心説を初めとして、叡山焼き討ちや長島願証寺での大虐殺を見てこの魔王を自分がどうにかせねばと考えたという英雄説、実際には光秀は実行犯に過ぎず、反乱をそそのかした者は別に居たという黒幕説。他にも色々ある。

 

 その中には冤罪説、つまり何者かが本能寺を襲ったので光秀は信長を助けようと現場に駆け付けたが、そのまま犯人扱いされたという説も存在する。

 

 深鈴はこの数日光秀を近くで見ていて、無性にその説を支持したくなった。

 

 正史の織田信長はあらゆる意味で希代の革命児であった。そして新しく生まれ出ようとするものは古き時代のものとぶつかるのが世の常。必然、敵も多くなり裏切りも多く経験する。確か、信長が経験した裏切りの数は光秀のを除いたとしても……

 

『信勝×2、1回目はそこに柴田と林も加わり、浅井、松永×2、荒木、波多野、別所、後は……ああもう、兎に角多いわね……あの人、よく49まで生きたわね……』

 

 と、呆れる程に多い。例え光秀でなかったとしても、例え裏切りでなかったとしても、誰が刺客を差し向けたとしても何の不思議も無い。

 

 同じ事が、自分の変えつつあるこの歴史の中でも起こるとしたら……

 

『まさか……?』

 

 そう、まさかだ。しかし明日の事など分かる者は居ない。分かった事は、自分の見た明智光秀は信奈を弑逆するような人間には、とても見えないという事だけ。

 

 自分の目と、誰が書いたかも分からぬような書物の文章。どちらを信ずべきかなど、分かり切っている。その結論に思い至った時、深鈴は最初に顔を見てその名を聞いた時に「謀反人」という言葉を頭に浮かべた過去の自分を強く恥じ、心の中で彼女に詫びた。

 

『十兵衛殿は信奈様にお仕えする同志……信頼こそすれ、疑うなど以ての外ですね……』

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、国境にある関所で八丁味噌に関税を掛けない事を条件として尾張と三河の不戦同盟が締結された。

 


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