織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第13話 天才軍師を求めて

 

 清洲城内の大広間。いつもなら上機嫌で「なごやこーちんのてばさき」を囓っている信奈も、今日はむすっと不満顔だ。

 

 理由は簡単。三河との同盟が成り、ひとまずは東国の心配が無くなって、いざ美濃の攻略をと意気揚々と出兵した、までは良かった。

 

 しかし信奈軍の侵攻は思うに任せなかった。ある時は敵兵を蹴散らしたと思ったらいつの間にかぐるりを取り囲まれていて、またある時は石造りの迷宮に迷い込み、その度に這々の体で尾張に逃げ帰ってきたと言うのが、織田勢の偽らざる現状であった。

 

「あ~、もう!! 悔しい~~っ!! どうして勝てないのよ~っ!!」

 

 子供じみた癇癪を起こす信奈。これからという時に計画が暗礁に乗り上げてしまっては、それも無理からぬ所であろう。

 

「美濃には天才軍師がおるからじゃよ」

 

 ここで、道三が口を開いた。信奈軍に救出され、尾張に迎えられてからはすっかり隠居生活を送っていた彼だが今回の美濃攻めに当たり、元領主として土地の長所も短所も知り尽くしているという理由から軍議の席に顔を出していた。

 

 ”天才軍師”という言葉に、場にざわめきが走る。信奈が「静かにしなさい」と一喝して皆が落ち着いた所で、道三は話を再開した。

 

「蝮と呼ばれたワシでさえ、あやつの知恵には勝つ事が出来ぬ」

 

「残念ながら今の織田家中に、あの知謀に勝てる人は居ないです」

 

 元小姓という立ち位置からか、光秀が補足する。

 

「天才軍師など初耳ですが……」

 

「誰も知らぬのも無理はない。これまで世に出る事を嫌って、ずっと隠れておったんじゃからな。その者の名は……竹中半兵衛!!」

 

「……今孔明とさえ呼ばれる軍略家……ですか。私も名前を聞いた事があるのみですが」

 

「銀鈴、知ってるの?」

 

「流石は織田家中随一の知恵者と呼ばれるだけの事はあるのう」

 

 信奈は純粋に驚き、道三は感心した表情を見せる。

 

「その通り、竹中半兵衛は唐土の『臥龍』諸葛亮孔明に例えられる程の天才よ。断言しても良いぞ。半兵衛が守る限り稲葉山城は落ちぬじゃろう」

 

 尤も、今の織田勢は城を落とす落とさないの前に城下にすらたどり着けていない訳だが。

 

 信奈はその説明を受けても「今度こそは」と言う顔だ。彼女がここまで焦るのは、やはり東国の件だ。如何に三河を緩衝地帯としているとは言え、駿河を落とした武田信玄はその勢力を急激に拡大しており、いつまでも元康が押さえ切れるとは思えない。美濃の攻略に何年も時間を掛ける事は出来ない。一国の平定に手こずっているようでは、天下など夢のまた夢。

 

 とは言え、このまま無理に出兵を重ねても味方の被害が増すだけ。取り敢えず今すぐの出兵は思い留まってもらわねばならない。深鈴はそう判断した。

 

「信奈様、私も入道殿の意見に賛成です」

 

「銀鈴……」

 

「古来より城の守りには八つの禁忌があり、攻め手は守り手がその禁忌に違反している点に付け込むのが定石ですが……」

 

「銀鏡殿、その禁忌とは?」

 

 長秀の質問を受け、深鈴はその説明に移っていく。即ち、

 

 

 

 一、水源が城より高ければ水が溢れて陥没する。

 

 二、山が城より高ければ上から見下ろされてしまう。

 

 三、水量の多い川の傍であれば足止めを食らう。

 

 四、城が大きく人が少なければ手薄になる。

 

 五、人が多く兵糧が乏しければ滅びるのを待つだけ。

 

 六、物を蓄える場所が城外であれば物資を敵に奪われる。

 

 七、守備隊が脆弱であれば気圧される。

 

 八、守将が横暴で頑固であれば城は破られる。

 

 

 

「……以上八つ。最初の三つは構造上の欠陥によるものなので、稲葉山城は建築時に既に問題を解決しています。後の五つは指揮官が防衛戦を行う際に特に注意すべき事項であり、私でも知っている事なので当然……竹中半兵衛も思い至って万全を期しているでしょう」

 

 詰まる所、半兵衛が居る限り稲葉山城はまさに難攻不落。誰が攻めようと、それが武田信玄だろうが上杉謙信だろうが落とす事は出来ぬのだ。

 

 ……尤も、深鈴には出来ないでもない。守るのが本物の諸葛亮孔明だろうが、智多星の呉用であろうが問題無く。ただし「それ」はあくまで稲葉山城を落とす”だけ”が可能という事であり、長期的な戦略やその後の展望などは全く度外視した、言わば「木を見て森を見ぬ」下策である。

 

 美濃を制する者が天下を制す。日本の中心である美濃を足がかりに上洛、ひいては天下統一を目指そうとする信奈の考えと、「その手段」は完全に相反する。美濃を落とせても「その先」が無いのだ。仮に実行するとしても武田の動きが今以上に活発になって形振り構えなくなった時の最後の手、苦肉の策だ。深鈴が今、信奈に伝えないのはそうした事情からだった。

 

「……じゃあどうするのよ」

 

 ふてくされたように信奈は頬杖を付く。納得した風ではないが、少なくとも今すぐの出兵という考えは無くなったらしい。ひとまずは、良し。それを確認して、深鈴は考えを述べる事にした。

 

「竹中半兵衛を我が軍に引き抜けばよろしいかと」

 

「斬った方が早いだろう」

 

 と、勝家。直情的な彼女らしいが、しかしこの意見には深鈴が異を唱えた。

 

「勝家殿、信奈様の天下取りの為には優秀な人材がまだまだ必要。まして織田勢をここまでキリキリ舞いさせる程の軍師。味方に出来れば百人力でしょう」

 

「……また銀鈴の病気が出た」

 

 呆れたように犬千代が呟く。深鈴が人材の発掘・登用に積極的なのは今や織田家中では周知の事実。彼女が個人で養っている食客はいつしか三百から五百名にまで増えていた。この分では千の大台に届く日も遠くはなかろうと、昨今の織田家中にはそれがいつかを賭ける者まで出始める始末。無論、信奈も知っている。

 

「銀鏡殿の事は別に考えるとしても、連日の出陣で兵にも疲労が蓄積しています。半兵衛調略の期間を休養に充てると考えれば、無駄な日数にはならないかと」

 

 長秀からのその意見を受け、信奈は「ううん」と唸る。確かに、これまでは真っ正面から攻めてダメだったのだ。攻め方を変えるべきかも知れない。

 

「分かったわ。じゃあ竹中半兵衛については銀鈴、あなたに一任するわ」

 

 

 

 

 

 

 

 こうして信奈からの許可も下りた所で、深鈴は早速人数を集め、竹中半兵衛勧誘作戦を実行に移した。

 

 今回のメンバーは勿論深鈴本人、それに美濃の案内役として光秀、いざという時の為に犬千代、説客として深鈴の補佐を行う為と立候補した森宗意軒の都合4名。これに五右衛門と段蔵が影からサポートするという形を取った。

 

 そうして一行は稲葉山城の麓に広がる井之口の町までやって来た。

 

 まずは「鮎屋」という茶屋で一休み。

 

「ほれ、ほれ」

 

「鮎、鮎」

 

 宗意軒が尻尾をつまんでぶら下げる鮎の塩焼きを、おあずけ食らった状態の犬千代が餌を貰おうと水面に顔を出す鯉のように口をぱくぱくしながら追っている。

 

 そんな光景を尻目にずずーっ、とお茶を啜るのは深鈴と光秀。しかし光秀は浮かない表情である。それも当然、殆ど勢いに任せるようにして美濃までやって来たが、義に篤いと噂の竹中半兵衛を口説き落とす事など、本当に出来るのだろうか。

 

「銀鏡先輩、信奈様に啖呵切ったからには、勝算はあるですよね?」

 

 果たして深鈴の返答は、

 

「取り敢えず単刀直入に「斎藤家を裏切って織田に仕官してください」と言います。説得はそれから……」

 

 普段は何かしら策を持って事に当たる彼女からは想像も出来ないような無策そのものであった。思わずがっくりと肩を落としてしまう光秀。表情が引き攣っている。

 

「せ、先輩……それであんな大ボラ吹いたですか……?」

 

 光秀の顔を、どぼーっと吹き出た冷や汗が伝っていく。

 

 ま、まぁ、竹中半兵衛ほどの知恵者を小手先の話術で懐柔しようとしても心の底にある思惑を見抜かれるだろうし、小細工無しに真っ正面からぶつかっていくという手も……無くは、ないか。搦め手を使っては逆に信用されないかも知れないし……と、光秀は自分を納得させる。ちょっと、苦しいか。

 

「唐土の劉備玄徳は、当時在野の身であった諸葛亮孔明に出馬を願うのに三回も、ある時は雪の中を草庵まで通ったと言います……今回、私達は曲がりなりにも斎藤家に協力している竹中半兵衛を味方にしようとしている訳ですから……まぁ、その倍は掛かると見て良いでしょう……十兵衛殿、覚悟しておいて下さい」

 

 正史に於いてまだ豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、彼は半兵衛を自らの軍師として招く為に栗原山の重治の庵を七度訪ねたという。世に言う栗原山中七度通い。三顧の礼ならぬ七顧の礼という訳だ。

 

 深鈴は秀吉と自分は違う実存であると自覚しており、また自らの手で歴史を引っかき回している以上それをやれば必ず半兵衛が味方になるなどとは思っていない。しかし、歴史の知識を頼りすぎるのは危険だがそこから学ぶ事は多々ある。要は竹中半兵衛はそれほどの時間と手間を掛け、礼を尽くしてでも自軍に迎えるべきという事なのだ。

 

「まぁ、兎に角一度会ってみようではないですか。私達は未だ半兵衛の顔も見てはいないのですから。どんな人物なのか、会って言葉を交わしてみて、話はそれから……」

 

 それも正論。確かに、ここで話しているだけでは何も始まらない。光秀は頷き、

 

「でも銀鏡先輩、知ってやがるですか? 竹中半兵衛が、陰陽師だって事」

 

 それを聞いた宗意軒がぴくりと体を動かして反応し、動きが止まった所を狙って犬千代が吊された鮎にかぶりついた。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなやり取りの後、半兵衛の庵へと足を運ぶ一行。お目当ての人物の住処は、やはり栗原山の中程にあった。霧が肌にまとわりつくように立ち込めて、今日は晴れだというのに陽の光も木々に遮られてうっすらとしか届かない、鬱蒼とした場所だ。

 

「……お化け出そう」

 

「出やがりますよ~。だから人は滅多に近寄らないです」

 

「ふん、死者を恐れているようではまだまだ、だな」

 

「竹中半兵衛が陰陽師……ですか」

 

 確かに陰陽師だ妖術師だのと呼ばれていたという伝承も耳にした事があるが……それはあくまで神算鬼謀を指しての事ではなかったのか? と、先頭を行く深鈴がそんな取り留めもない思考を続けている間に、入り口の前まで来た。閉ざされた門には無数の呪符が仰々しく貼り付けられていて、まるで向こう側に魔物でも封印しているかのようだ。

 

 門を開けようと手を伸ばして、一度手を止める。開けた途端に何かが飛び出てきたら……

 

「「…………」」

 

 ごくり。

 

 同じ思考に至ったのか、顔を見合わせる深鈴と光秀。犬千代も似たような想像をしているのか、朱槍を握り直す。と、そんな三人に何の遠慮も無く森宗意軒が進み出ると、無造作に扉を押し開いてしまった。そして門の向こう側、霧の中に浮かぶ人影!!

 

「「「!!」」」

 

 思わず心臓が口から飛び出しそうになった三人であったが、しかし出て来たのが妖怪変化の類ではなく真っ当な人間であると分かって、すぐに平静を取り戻した。

 

 扉の向こう側にいたのはしっかりとした身なりをした壮年の侍だった。着ている着物もそうだが、刀の拵えを見ても安物ではない。それなりに高い身分にあるようである。そんな観察を深鈴が行っていると光秀が「安藤守就(あんどうもりなり)殿!!」と声を上げた。そう呼ばれた侍の方も「光秀」と驚いた顔を見せる。

 

 安藤守就。その名前には深鈴も心当たりがある。正しくは安藤伊賀守守就(あんどういがのかみもりなり)。美濃三人衆の中でも筆頭であり、斎藤家の家老。道三の片腕とも呼ばれた男だ。

 

「お主は道三様と尾張に行ったのでは……」

 

 そこまで言って、彼女がここに居る理由を察したらしい。神妙な表情となる。

 

「成る程、半兵衛を調略に参ったという訳か」

 

「……随分と、あっさりしていますね」

 

 無意識に彼から半歩下がり、声に警戒心を滲ませて尋ねる深鈴。敵対勢力の織田が美濃一の軍師と呼ばれる半兵衛を引き抜こうとやって来ているのなら、もっと警戒しても良いのではないか? 場合によってはいきなり抜刀する事もあるかと思っていたが……

 

「いや、道三様の腹心であった手前、最近はわっちも義龍様と折り合いが悪くてな……今日もこれから、お叱りの言葉を頂きに登城する所だわい」

 

 やれやれと溜息を吐きつつ安藤守就は「口説くのは構わんが、命が惜しくばくれぐれも半兵衛を怒らせぬようにな」とだけ言い残し、去って行った。

 

 罠かも、とも思ったがしかし尾張からここまではお忍びでの旅だったから、少なくともピンポイントで自分達を狙って仕掛ける事は出来ない筈。居るとすれば義龍が自軍の軍師に付けた護衛ぐらいだろう。人数にもよるが、十人ぐらいまでなら光秀と犬千代、それに影から付いてきている五右衛門と段蔵が居れば何とかなるだろうと相談した後、庵に入る一行。

 

 庵中の座敷には先客が居た。

 

「お前は……銀鈴か!!」

 

「近江の浅井長政殿、ですか……」

 

 先日、美濃の動乱にかこつけて信奈と婚姻を結ぼうとやって来た艶やかな若侍が、座っていた。

 

「お互い、考える事は同じという訳か……」

 

 竹中半兵衛を味方に付ければ、美濃は手に入る。この展開を予想していなかった訳ではなかったが、まさか浅井家の当主が自ら出向いて来ているとは。

 

 信奈との政略結婚の話は美濃への出兵の際に有耶無耶となり、その後は長秀が伸ばし伸ばしに誤魔化していて一向に進展が無かった。故に正式に破談となった訳ではないが事実上自然消滅した、というのが織田家中での認識だったが……後で知った事だがこの長政、この時点であちこちに自分と信奈との婚姻の知らせを飛ばしていたらしい。半兵衛を落としたらその足で信奈と祝言を挙げ、近江と尾張の連合軍で美濃を落とそうと画策していたのだ。

 

「しかし、ここで我等が争っても益は無い」

 

「確かに……では、我等のどちらが半兵衛殿を口説き落とそうと、遅れた方は文句は無しと言う事で……」

 

 そうして深鈴は長政の隣に座り、後ろに光秀、犬千代、宗意軒の三人が腰を下ろす。と、同時に。

 

「遠路はるばる、ようこそ参られた。お初にお目に掛かる、俺が竹中半兵衛」

 

 突然その場に、木綿筒服をゆったりと羽織った美丈夫が姿を現した。一人を除いてこの場の全員が、思わず腰を浮かす。五右衛門や段蔵といった忍びの者が気配を断って近付いてきたのとはまるで違う。まるで遠く離れた場所から空間を飛び越え、突如としてこの部屋に出現したかのような。

 

 ……と、圧倒されていた自分に気付いた深鈴は居住まいを正すと、まずは礼儀正しく一礼する。

 

「自己紹介、恐縮の至り。竹中半兵衛殿、私は……」

 

「織田家随一の知恵者、銀鈴殿。そして……浅井家当主、浅井長政殿」

 

 半兵衛の狐を思わせる細い目が、両者を値踏みするように動く。成る程、天才軍師の名は伊達ではないらしい。この分では、何故二人が自分を訪ねてきたかも分かっているに違いない。

 

 同じ結論に至った深鈴と長政は余計な事は言わずにどっしりと構える。ここからは知恵の絞り合いだ。如何にして相手に先んじ、半兵衛を自陣に誘降するか。二人の間で刃を持たぬ戦いが始まって、互いが互いへ向けて剣呑な気を放ち合い、座敷に満ちる空気が急に殺伐としたものに変わる。

 

 犬千代がその空気に耐えかねて、もぞもぞと居心地悪そうに体を動かした。

 

「まぁまぁ二人とも、来てすぐにそう殺気立たれる事もなかろう。差し当たっては、みたらし団子と粗茶でもどうぞ」

 

 半兵衛が手にしていた白羽扇を振ると狼耳を頭に生やした町娘姿の美少女が入ってきて、一同の前に団子をずらりと積み上げていく。

 

「この子は……」

 

「我が式神の”後鬼”ですよ」

 

 ケモナーにはたまらないだろう狼っ子は、一同の前にほかほかと湯気を立てたお茶を注いでいく。

 

 後鬼が退室すると同時に、犬千代が進み出てみたらし団子に手を伸ばす。団子には尾張者に配慮してか八丁味噌が塗られている。こんなのを前にしては、もう辛抱堪らない。

 

「……団子、美味しそう」

 

 手にしたみたらしを口に入れようとして……

 

「おっと、そこまで」

 

 不意に横から手が伸びてきて、彼女の手から団子をはたき落とした。

 

「……宗意軒、何するの?」

 

 ご馳走を目の前におあずけを食らって、犬千代は目に見えて不機嫌になった。一方で森宗意軒は織田家中で一二を争う使い手である彼女に睨まれてもどこ吹く風。半兵衛のそれよりも尚細い線のような目も、仮面の如き笑みも変わらない。

 

「……宗意軒?」

 

 主から疑惑の視線を向けられても宗意軒は涼しい顔であったが、流石に説明する義務はあると感じたらしい。半兵衛に向き直る。

 

「竹中半兵衛殿、些か、悪戯が過ぎるのではないかね?」

 

「……ほう?」

 

 そう言われた半兵衛は楽しんでいるように、白羽扇で口元を隠した。

 

「宗意軒、悪戯とはどういう事? 説明して」

 

「ええ、勿論……」

 

 主からそう言われた宗意軒は立ち上がると、まずは大皿に山盛りになっている団子を指差して「喝っ!!」と一声。すると、団子に塗られて先程までは香ばしい匂いを放っていた八丁味噌は一転、顔を顰める悪臭を放つ馬糞へと変わった。

 

 犬千代は顔を真っ青にして、座ったまま床を滑るように後ずさった。そんな彼女を、宗意軒は楽しんでいるように覗き込む。

 

「もし俺が止めなかったら」

 

「う……ありがと……」

 

 宗意軒は次に目の前の湯飲みに注がれた茶を指差して再び一喝。すると、先程の団子と同じ事が起こった。玉露と思われた物はその実、馬の尿であった。

 

「げげっ!! 何を飲ませようとしてやがったですか!!」

 

「半兵衛殿、これは……」

 

「これだけならいざ知らず」

 

 抗議の声を上げかける深鈴だったが、しかし続く宗意軒の言葉がそれを遮った。

 

「ま、まだ何かあるのか?」

 

 目の前で次々起こる怪現象を見て、防衛本能か思わず刀に手を掛けていた長政が尋ねる。平静を装おうとはしているが、微妙に声が上擦っているのは隠せていなかった。

 

「いつまでも影武者に俺達の相手をさせるのも気に入らんね」

 

 ぱん、と手を打つ宗意軒。この仕草によって神通力を阻害されたのだろうか。半兵衛の姿が一瞬だけ揺らいで、木綿筒服を着込んだ狐に変わる。否、元に戻ったと言うべきか。半兵衛が狐姿になったのは一瞬、すぐに再び美丈夫へと変わったが、しかし一時であろうとこの者が人外の存在であると他の者に教えるには十分だった。

 

「宗意軒、彼は……」

 

「さっきの後鬼と同じ、式神だよ。こいつも」

 

 そう言われて、場の全員の視線が半兵衛へと集中する。

 

「半兵衛殿、これは一体……どういうことでしょうか」

 

 尋ねる深鈴の口調は穏やかだが、流石に僅かな怒気が滲み出ている。さもありなん、宗意軒が居なければ糞団子を食わされる所だったのだ。悪戯にしても、ちと度が過ぎているだろう。

 

 問い詰められた半兵衛、否、半兵衛になりすましていた式神は「ふむ」と扇を弄んでいたが、ややあって観念したように笑みを見せた。

 

「流石は噂に名高い銀の鈴……部下にも粒が揃っているようだな……まぁ、堪え性もあるようだし……よろしい。我が主にお引き合わせしよう」

 

 式神にそう言われて「おおっ」と声が上がる。目の前に現れたのが影武者とは驚いたが、今度こそ本物にお目通りが叶うという訳か。

 

 深鈴にしてみれば、栗原山中七度通いや三顧の礼に学んで、六回ぐらいは門前払いを食らわされる覚悟を先に決めてあった事が幸いした。事前にそうした心構えを持っていなければ、宗意軒がこの悪戯を見抜いた時点で怒って帰ってしまうか、悪くすれば金的蹴りの一発ぐらいはお見舞いしていたかも知れない。

 

 芸は身を助く。歴史の知識は、間接的にではあるが彼女を救っていた。

 

 と、式神が一言「ただし!!」と一言。浮つきかけていた場の空気が再び緊張に包まれる。

 

「線目の男。お前だけは席を外していただこうか」

 

「ほう? 俺が居ては気に食わんかね?」

 

 感情を感じさせない笑みはそのままに、宗意軒が挑発的な口調で返す。それを受けて式神もまた「あぁ、気に食わんね」と一歩も引かずに応じる。

 

「その全身に染み付いた屍人(しびと)の臭いを、どうにかしてから出直していただきたいな」

 

「……ほぉ?」

 

 この時初めて宗意軒の顔から笑みが消え、同時に両目がかっと見開かれた。鋭く尖った三白眼が、式神を睨み据える。

 

 先程の深鈴と長政の間にあったものとはまた違う、一触即発の空気が両者の間に立ち込める。それを危ぶんでか「はいはいそこまで」と深鈴が割って入った。

 

「式神さん、宗意軒は私の大切な客人です。私は彼をとても信頼していますし、それに今回、彼は私の力になろうと同行を申し出てくれました。私に半兵衛殿へのお目通りが叶うのなら、彼も一緒です」

 

 そう、毅然と言い放つ。それを見た光秀と犬千代は笑みと共に頷き、長政も「ほう」という顔つきになった。

 

「そいつに席を外させないなら、主への目通りは遠慮願う事になるが」

 

 式神が、試すように言う。ここで退席させられては当初の目的である半兵衛に会う事も出来なくなる。そうなれば長政だけが調略の機会を得る事となってしまう。だが、ここは深鈴も退かない。

 

「そこを何とか曲げていただきたい。宗意軒が何か無礼を働いたと言うなら兎も角、あなたが気に入らないというだけで出て行ってくれなどと彼に言う事は、私にはとても出来ません」

 

「ふむ」

 

 少し考えていた風の式神だったがこれ以上は深鈴も譲らぬと見たか、

 

「尾張の銀鈴は来客を誰であろうと大切にすると聞いていたが、成る程な。では、ここはお前さんに免じて俺から退くとしよう。ただし先程の悪戯の件は、これで無しだぞ」

 

 と、条件付きながらここは彼が折れる事となった。

 

「深鈴様、ご厚情、感謝致します」

 

 宗意軒は山高帽を胸に当てると、主人へと慇懃に頭を下げる。この時の彼の顔には、既にいつもの線目と笑みが戻っていた。

 

「では……」

 

 式神が部屋の掛け軸をめくると、そこは忍者屋敷などで良く見られるように空洞になっていた。その空間から、

 

「きゃあっ!!」

 

 ころり、と木綿筒服を着た小柄な女の子が転がり出て来た。

 

「……いじめないで……くすん、くすん」

 

 ちょうど一同に囲まれる位置で止まったその少女は涙目になって、すっかり縮こまってしまう。その庇護欲と嗜虐の願望を一緒に掻き立てるような仕草を見て、深鈴が何気なく手を伸ばす。するとその少女は、

 

「えいっ」

 

 腰の刀を抜き放ってブンと投げ付ける。白刃は深鈴の顔の横数センチの空間を飛んでいって、背後の壁にスコンと突き刺さった。

 

「……な」

 

 床に灰銀の髪が幾本か、ぱらりと落ちる。数秒の間を置いてだらだらと汗が出て来て、そして視線は今さっき刃が通った空間から、眼前の少女へ動く。

 

「あぅぅ……や、やっぱりいじめるんですね……いじめたくなったでしょう……くすん、くすん」

 

 少女が後ずさると、その背中がどんと何かにぶつかって止まった。

 

「ふぇ?」

 

 気の抜けた声で振り返ったそこには、宗意軒の鉄面皮の笑み。

 

「ひ、ひぃぃぃっっ!?」

 

 少女は手足をばたつかせて逃げ出すと今度は周りに誰も居ない事を確かめて、ますます縮こまってしまった。

 

 宗意軒は懐から手鏡を取り出すと「俺の顔はそんなに怖いか?」とぶつぶつ呟き始めた。

 

 光秀と長政は「これは一体?」と顔を見合わせる。

 

 犬千代はどうにも話が進まないので焦れたように動き、壁に突き刺さった刀を引き抜いて検分していたが、ややあって彼女は「これは」と声を上げると深鈴の袖を引いた。

 

「銀鈴、この刀は音に聞こえし名刀「虎御前」」

 

「……と、いう事は……」

 

「……この女の子が……」

 

「……噂に聞く……」

 

「……天才軍師の……」

 

 一同の言葉を継ぐようにして、未だ「くすんくすん」とぐずっている少女が、やっと少しは落ち着いたのか泣きながらも自己紹介する。

 

「竹中……半兵衛です」

 


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