織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第14話 銀鈴の恩返し

 

「くすん、くすん……あの、いじめないで下さい」

 

 やっと出て来た本物の半兵衛は泣き止みこそしたものの未だ涙目でぐずっていて、深鈴と長政の顔色を窺っている。様々な奇計によって織田勢を翻弄してきた希代の智将の威厳は、この姿からは微塵も感じ取れない。

 

 先程まで半兵衛として振る舞っていた式神”前鬼”の方が「天才軍師」という言葉から思い描く半兵衛像には余程ぴったりである。

 

「尊敬していた半兵衛殿が、こんな小娘だったなんて……信じられないです」

 

 光秀もおでこをこすりながら「はあ」と溜息を一つ。

 

「我が主はその才気故にいじめられっ子でな。俺が成り代わっていた次第よ。おまけに大の人見知り。相手を怒らせ、自分をいじめる人間かどうか、試してしまう癖があるのだ」

 

「そういう事するから余計いじめられるんじゃないのかね?」

 

 前鬼の説明を受け、楽しんでいるようにくっくっと喉を鳴らしつつ、森宗意軒が皮肉っぽく言う。

 

「ああっ……すいません……いじめたくなったでしょう……すいません、くすんくすん」

 

 言われた半兵衛は前鬼の陰に隠れてしまい、前鬼は彼をじろりと睨む。深鈴もここは「宗意軒!!」と少し強い口調で咎めた。彼は「失礼」と一言詫び、変わらぬ笑みのままぺこりと頭を下げた。

 

「……いじめる?」

 

 やっと頭半分だけ前鬼の陰から出して、上目遣いの半兵衛が尋ねる。

 

「いじめませんよ。だから半兵衛殿も私の目をしっかりと見て話をして下さい」

 

「……は、はい……」

 

 真摯な態度を受け、半兵衛は漸くながら少しばかり警戒心を解いたらしい。前鬼の隣、深鈴・長政の二人と向き合うようにして座る。

 

 これで、やっとこさ交渉の場が整った事になる。後は、どうやって話を切り出すかだが……

 

 今まで幾人もの女性を口説き落としてきた長政をして、これはちと難問である。義に篤いと噂の彼女を、いかにして斎藤家から切り離す、つまり、裏切りを決断させるか。このような慎ましやかで臆病な少女には「この私がいじめる者から生涯お守りしよう」と言ってやるのが良いか。

 

 ……と、そう考えている長政よりも早く、銀鈴が切り出した。

 

「竹中半兵衛殿」

 

「は、はいぃ……!!」

 

 真剣な目と表情で向き合われて、半兵衛もぴんと背筋を伸ばした。長政は先んじられた事に「しまった」とばかり顔を顰める。

 

「単刀直入に申し上げます。斎藤家を裏切って、織田家に仕官していただきたい」

 

「なっ……!!」

 

 身も蓋も無い深鈴の言葉は、彼女の失敗を望む長政をして信じられないと絶句させた。この女は最初からこの交渉を成立させる気など無かったのではと、そんな疑念さえ生まれさせた。

 

 後ろに座ってそれを聞く三人の内、光秀は突然の頭痛におでこを押さえ、溜息をもう一つ。言うとは思っていたがこの先輩、本当に言いやがった。

 

『そりゃあ噂で聞く長政みたいに歯の浮くような美辞麗句ばかり並べ立てるのもどうかとは思うですが、それにしても単刀直入過ぎるです』

 

 犬千代も同じように「いくら何でもいきなりすぎ」と呆れ顔。宗意軒はいつも通りの笑みのままで、良く分からない。

 

「そ、それは出来ません……義龍さんを裏切る事は、義に反します……」

 

 半兵衛の回答を聞いて長政は「それ見た事か」とでも言いそうな顔になった。あんな風に言えばこうなる事は火を見るより明らかだったろうに。尾張の銀鈴は人材集めが得意と聞いたが、調子に乗って最悪の札を切ってくれた。これで半兵衛が織田に与する事はあるまい。後は如何に浅井に引き込むか……そんな算段を頭の中で組み立てていた時だった。

 

 突然、庵の襖が開いて黒ずくめの少女、五右衛門が飛び込んできた。

 

「銀鏡氏、一大事でござる!!」

 

 彼女が持ってきた情報は、ここに集った者達に雷が落ちたような衝撃を与えるに十分だった。

 

 登城した安藤守就が「半兵衛に謀反の疑いあり」と幽閉されてしまい「釈明の為に半兵衛が登城せねば処刑する」と言っているらしい。

 

「斎藤義龍は何を考えているのか。半兵衛あってこその美濃だろう!!」

 

 長政が毒突く。これまで織田の侵攻を幾度となく退けた天才軍師を、重臣として礼を尽くして迎えるならいざ知らず、身内を人質に取るなど。これでは自分の首を自分で絞めているようなものではないか。

 

「ここまでやるという事は……」

 

「……行けば下手すれば殺される」

 

 予想もしなかった事態に、深鈴も犬千代も難しい顔だ。

 

 とは言え、これは織田陣営にとっては願ってもない僥倖であると、深鈴の冷徹な部分が言っている。

 

『いかにして斎藤家から離反させるかを考えていたけど……まさか、あちらから半兵衛を切ってくれるとは……』

 

 こんな事があっては、半兵衛の心は斎藤家より離れるばかり。調略にはまたとない機会である。最悪味方に出来なくても、半兵衛と斎藤家を切り離せば目的の半分は達成出来る。恐らくは、隣に座る長政も内心では同じように考えているだろう。いみじくもこの座敷で出会った時に長政が言った通り「考える事は同じ」なのだ。

 

「切れる刀は必要だけど、切れすぎる刀は自分も危ない。義龍の奴はビビリやがったです」

 

 光秀は「道三様の息子の癖にその程度の度量も無い君主でしたか」と呆れたように言い捨て、

 

「斎藤道三は土岐家より美濃を奪い、義龍は父道三から。そうして得た国主の座を今度は半兵衛に奪われるのではないかと疑心暗鬼になっているのさ。まるで希臘(ギリシャ)神話の、天空の神・宇等濡巣を殺して大神となった黒之巣。そして黒之巣を殺してその椅子に座った是宇巣の、父殺しの連鎖のようにな。下克上を為した者が最も恐れるのは結局、自分より才ある者による下克上という訳さ」

 

 宗意軒は何やら異国の例え話を出して、この状況すらも楽しんでいるように肩を揺らしている。

 

「銀鏡氏」

 

 とんとんと肩を叩かれた深鈴が振り返ると、五右衛門が何やら耳打ちしてきた。彼女は半兵衛に聞かれないよう小声で、一つの策を献じる。

 

「このまま理屈をこねて時を稼ぎ、安藤氏を捨て置かれよ」

 

「……ふむ」

 

 それだけ聞けば、彼女の言わんとする事は理解出来る。

 

 このまま安藤守就が殺されれば半兵衛は義龍に恨みを抱き、稲葉山城を攻め落とすだろう。そうすればそれは即ち深鈴の功績となり、今後の出世にも繋がる。

 

 だがその案は、深鈴の中では一度思い至ったものの既に却下されていた。

 

「五右衛門、私が半兵衛殿を味方に付けようと考えたのはたかだか美濃一国を手にする為ではなく、信奈様の天下統一の為。回り道を嫌って大きな物を捨て、目の前の小さな物に飛び付いて、でも、それが結局回り道をしていた……なんて愚を、私に犯させるつもり?」

 

「……そう言うと思ったでござる」

 

 五右衛門も、深鈴の言いたい事は理解していた。

 

 確かに、その策通りに動けば美濃は手に入るだろう。だが、それで終わりだ。竹中半兵衛の目的である「叔父の仇討ち」はそこで達成されてしまい、後は引き籠もって故郷の菩提山の土となる道を選ぶ……なんて未来予想図が簡単に描けてしまう。それでは困るのだ。半兵衛の知略は、この先の日本の為に役立ててもらわねば。

 

「それに、半兵衛殿には借りているものがあるからね……それを返す良い機会が巡ってきたわ……段蔵!!」

 

 呼ぶと、数秒の間も置かずに五右衛門と同じく深鈴直属の忍びである段蔵が、姿を現した。「ここに」と書かれた紙を差し出してくる。

 

「十兵衛殿と犬千代は段蔵と協力して、安藤殿を救出して下さい」

 

「それは構わないですが……」

 

「銀鈴は?」

 

「私と宗意軒は半兵衛殿と一緒に登城して、時間を稼ぐわ」

 

「俺が行くのは決定事項なのかね? まぁ構わないが」

 

「ま、まさか連れて行くですか?」

 

 宗意軒は相変わらず飄々と了解の返事を返し、光秀はまるで飢えた豹の檻にウサギを放り込むような暴挙だと、窘めるように言う……が、少しの間を置いて深鈴の言葉の真意を察する事が出来た。そう、斎藤家にとっての”竹中半兵衛”は……

 

「また、前鬼さんに化けてもらい……」

 

「駄目です!!」

 

 中々の名案だと思われたその策は、しかし半兵衛によって却下されてしまった。

 

「義龍さんを欺くのは、義に反します」

 

「……しかし、それでは……」

 

「私が行きます。謀反の意志など無いと誠心誠意訴えれば、分かってくれる筈です」

 

 ぶるぶると体を震わせながらも、半兵衛は精一杯気丈に振る舞ってそう言う。が、

 

「おめでたい頭だな。私はそのような危険なバクチには付き合えんよ」

 

 長政はそう言って帰ってしまった。叔父を人質に取るような手を使ったのだ。今後斎藤義龍が半兵衛を重く用いる事は無いと見て良い。自軍に引き入れる事は出来なかったが、斎藤家からは引き離せたも同然。最低限の目的は達成出来た事だし、危ない橋を渡る必要は無いという判断からだろう。引き際の見極めとしては、悪くはない。

 

「そこまで世の中甘くない」

 

 犬千代も厳しい顔。

 

「信じてもらえないに百貫」

 

 宗意軒は笑顔のまま、茶化すように言う。そして深鈴も、

 

「半兵衛殿……臣たる者、一度主君に疑われてはその命を全うする事は出来ません。仮に今回は分かってもらえたとしても、いずれは……その程度の事、あなたなら分かっている筈でしょう?」

 

 諭すように半兵衛にそう言う。この状況で彼女が自ら出向くのは危険過ぎるのだ。そもそも影武者とは主を危険から遠ざける為のもの。故に今こそが前鬼の出番だと言えるのだが……

 

「きっと、分かってくれます……」

 

 顔は俯いて声も震えているが、しかし半兵衛は頑固なまでに意見を変えない。

 

『無理も無い、か……』

 

 聞いた話では半兵衛の両親は早世し、安藤守就が親代わりとして育てたという。父親でありたった一人の家族が人質に取られているのだ。頭で分かっていても、いてもたってもいられないのが人間というもの。まして、義に篤い彼女ならば尚の事。

 

『……仕方無い。こうなったら、私も覚悟を決めますか』

 

 気を引き締める意味で、深鈴は自分の顔をぱんと叩いた。そして自信を感じさせる表情を作ると、どんと胸を叩く。

 

「分かりました、半兵衛殿。では……斎藤義龍との話がどうなろうとあなたと安藤殿の命は、私が請け負いましょう。無論、これは織田への仕官とは別の話です」

 

「銀鈴さん……」

 

 半兵衛の体の震えは、少しだけ治まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 天然の要害である金華山に建てられた稲葉山城は難攻不落と謳われる名城で、城下の井ノ口の町と合わせてまさに背山臨水の理に叶った作りとなっている。

 

 天下を望む信奈がここを拠点として求めるのも分かろうというもの。

 

『だからこそ”轟天雷”は使えないのだけど……』

 

 深鈴がそんな事を考えている間に一行は城に到着し、城の上層にある広間へと案内された。本来なら部外者の二人は半兵衛の小姓という事になっている。

 

 が、そうして通された広間の空気は最悪と言って良かった。正面には斎藤義龍が威圧感たっぷりの六尺五寸の巨体でどっしりと構え、美濃三人衆が二人・氏家卜全と稲葉一鉄を含む斎藤家の家臣達が半兵衛、深鈴、宗意軒ら3名のぐるりを固めている。態度の一つでも誤れば即座にこの場の全員が抜刀して斬り掛かってきそうだ。

 

「竹中半兵衛、参りました……」

 

「お、お主が?」

 

「馬鹿な、半兵衛は男であったぞ!!」

 

 当然と言えば当然の反応だが、家臣達から疑問や戸惑いの声が上がる。一方で義龍は「流石は天才軍師と言うべきか」と、このどこか儚げな少女こそが真の半兵衛であると見切っているらしかった。この辺りの慧眼は、流石に一国の当主と言うべきか。

 

「あ、あの……叔父上は……」

 

「謀反の疑いが晴れれば返してやる」

 

「謀反などしません!!」

 

 震える声で訴えかける半兵衛であったが「口では何とでも言えるわ!!」と一喝されてしまう。

 

「すいません、すいません……」

 

 怯えたように顔を伏せて、半兵衛は謝罪の言葉をただ連ねるばかり。一方で深鈴と宗意軒の二人は「やっぱりね」と視線を交わし合う。

 

 心配していた事態が発生した。自分達とて義龍の立場であれば言葉だけで半兵衛を信用などしないだろう。だからと言って叛意無き証拠を出せと言われても、半兵衛には無理だろうし……

 

『落とし所としては、安藤殿を人質として拘束したまま、半兵衛殿を軍師として使う、というのが妥当でしょうが……』

 

「まこと、謀反の意思は無いのだな?」

 

「……ございません!!」

 

「では、織田を幾度も追い詰め全滅させる機会を得ながら見逃したのは何故か?」

 

「無用な犠牲は……」

 

「敵を殺し尽くして、滅ぼすのが軍師の仕事だ!!」

 

「ひっ……すいません、すいません……」

 

 再び一喝され、半兵衛はまたしても顔を伏せて謝罪の言葉を重ねる。先程と全く同じパターンだ。それを見て、再び目線を交わし合う深鈴と宗意軒。このままでは「謀反の意思はございません」「いやある」「ありません」の問答がテニスや卓球でのラリーの応酬の如く果てしなく続くだけだ。そして最終的には、深鈴の予想と当たらずしも遠からずな結論へと落ち着くだろう。

 

 深鈴、宗意軒共に同じ結論に至った。このやり取りの終着点は既に見えた。後は、自分達がどう動くかだが……

 

 両名とも同じように考えて、先に動いたのは宗意軒の方だった。立ち上がり、ずんずんと義龍の眼前にまで近寄っていって彼を見下ろす。その態度があまりにも堂々としているので、家臣達も呆気に取られて誰も止め立てせずに、彼の接近を許してしまった。

 

「いつまでズレた所で堂々巡りの話を続けているつもりかね? 聞いていて眠くなってくるぞ」

 

「何だと!?」

 

 一国の君主をも全く恐れぬ宗意軒の図抜けた態度を見て、ある意味半兵衛が少女であった事が分かった時よりも大きな衝撃が場の全員に走る。

 

「半兵衛が美濃に残れば有利、他国に走れば不利。こんな簡単な事がいつまでも決まらないのは一体全体どういう訳ですかな?」

 

「何者か?」

 

「わ、私の供の者です……」

 

「今は詰問の最中だ、下郎の出る幕ではない、下がっておれ!!」

 

 仁王のような義龍の怒りを受けても宗意軒は柳に風とばかり、笑みを浮かべたままリラックスした自然体を崩さない。一方で半兵衛は自分が叱責されている訳でもないのに「すいません、すいません」と平謝りしてしまう。

 

「謀反の意思が有ろうが無かろうが、そんな事は問題ではなかろう? 寧ろ謀反の意思があろうと軍師として有能だから使うと、それぐらい言える度量も無いとは」

 

 「そんなだから」と続けた所で、宗意軒は一度言葉を切ると目を見開き、三白眼によって酷薄な印象を受けるものへと変わった笑みを浮かべつつ、言った。

 

「父親から「倅はうつけ姫の馬の轡を取る事になるであろう」なんて言われるのだ」

 

「「「!!!!」」」

 

 宗意軒の口から飛び出た暴言に、場の全員が固まった。特に半兵衛と深鈴の頭脳派二人は表情を引き攣らせる。この男、地雷を踏むどころかピンポイントで踏み抜きやがった。

 

 義龍の巨体がぷるぷると震えて、頭には血管がぴくぴくと浮き出てきている。十秒程の時間を置いて、

 

「斬れっ!! こやつらを斬れっ!!」

 

 大爆発。激昂した主君の命を受け、侍達が一斉に白刃を抜き放った。半兵衛はそれを見てびくりと体を竦ませ、宗意軒は愛用の山高帽をポンと被る。深鈴は、表情を引き締めるがしかしこの事態は想像の範疇であった為に、慌てる事はない。

 

 最早これまで。懐から持病の薬と偽って持ってきた粉末が入った紙包みを取り出し、竹筒に入っていた水を垂らす。すると一瞬にして発生した煙が広間中に立ち込めて、一寸先も見えなくなった。五右衛門から持たされていた忍び道具の一つだ。

 

 他の者は突然の煙幕に慌てていたが、深鈴と宗意軒の二人だけは落ち着いたもので、深鈴がさっと半兵衛の体を抱き上げると、襖を蹴破って広間から飛び出した。

 

「すいませんね、深鈴様に半兵衛殿。俺のせいでこんな事になってしまって」

 

 城内を走りながら宗意軒がそう言って詫びてくるが、しかし相変わらずの鉄面皮からは全く罪悪感が読み取れない。見開かれていた目は、いつの間にか普段の線目に戻っていた。

 

 この男……絶対にこうなる事を見越してああ言ったに違いない。

 

「良いのよ。どう転んでも多分最後にはこうなってただろうし」

 

 半兵衛をおんぶして走りながら、しかし深鈴は咎める事はしない。背負われている半兵衛も同じで、宗意軒を責めなかった。二人とも、彼の暴言は結末を早めただけで変える事はしなかったと分かっていた。

 

 叛意を持たぬ証として半兵衛が差し出せるものとしては、やはり唯一の身内と言える安藤守就の身柄であろう。だが現状、既に段蔵率いる別働隊が彼の救出に動いている。この稲葉山城から彼の姿が消えてしまっていては、謀反の疑いは決定的なものとなる。

 

 広間での会話から判断して、義龍が謀反の意思無しと信じる目はほぼ絶無だった。これは、なるべくしてなった結果なのだ。

 

 そうして走っていると、前方から数名の男女が駆けてくるのが見えた。先頭を走るのがボロ布で全身をくるんだ忍者・段蔵で、続いて犬千代、光秀、それに守就の姿が見える。

 

「叔父上!!」

 

 深鈴の背中で、半兵衛が弾んだ声を上げる。救出作戦は見事に成功したのだ。後は、脱出するだけだが……

 

「しかし、今となってはそれこそが至難ですよ」

 

 言いつつ光秀が近くの階段を見れば、大勢の足軽がぞろぞろと上がってきている。如何に彼女や犬千代といった手練れが揃っているとは言え、あの数を突破するのは……

 

「みんな、上へ逃げるわよ」

 

 深鈴はそう言うと、背負った半兵衛と一緒に階段を駆け上がっていく。これに慌てたのは他の面々である。

 

「ぎ、銀鈴さん!! 上に逃げたら追い詰められてしまいます!!」

 

 真っ先に半兵衛が抗議の声を上げ、他の者も似たり寄ったりな事を言う。だが、後ろから追い立てられている以上止まっている訳にも行かず、また敵陣真っ直中で離れ離れになる訳にも行かないから結局、深鈴に付いていく他は無かった。

 

「勿論、分かってるわ!! でも、向こうもそう思うからこそ守りも薄い筈!!」

 

 深鈴の言う通り、上へ行く分には数名の足軽達が守っているだけだった。兵の殆どは追っ手と、城門や出口、及びそこへ繋がる通路に振り分けられ配置されているのだろう。そして数名程度なら、この面子であれば蹴散らすのに問題は無かった。

 

「大丈夫、私が逃げる手段も確保せずに、敵陣に乗り込むとでも思っていたの?」

 

 と、深鈴。そう聞いて普段の彼女を知る犬千代や光秀は「確かに」という表情を見せる。いつもの彼女なら、保険も無く死地に飛び込むような事はすまい。ならば今回も……?

 

「じゃあ、その逃げる手段と言うのは……」

 

「銀鏡氏!! こちらへ!!」

 

 半兵衛が尋ねるのと、再び聞き慣れた声が掛かるのはほぼ同時だった。見れば、姿を消していた五右衛門が一室の前で待っていた。

 

「よし、みんな早くその部屋の中へ!!」

 

「そ、そんな事したら袋の鼠になっちまうですよ!?」

 

 光秀が抗議するが、しかしドタドタと足軽達の足音が背中から迫ってくるのを聞くと、議論している場合でないという判断が先に立った。

 

 ええい……ままよ!!

 

 こうなったら、深鈴の言う逃げる手段を信じる以外に道は無い。

 

「もし死んじまったら、化けて出てやるですからね!!」

 

 そう言って光秀が部屋の中に飛び込んだのを皮切りに犬千代、段蔵、守就、宗意軒もそれぞれ部屋に入っていく。最後に深鈴と半兵衛が入って、部屋の襖は閉じられた。

 

「それじゃあまずは、部屋にある物なんでも入り口の前に置いて、簡単には入ってこられないようにして」

 

 指示を受け、守就や犬千代が襖につっかい棒を立て、箪笥を移動させて入り口を塞ぐ。

 

「五右衛門、頼んでいた物は?」

 

「これにござる」

 

 少女忍者が深鈴に渡したのは、一本の細い糸だった。部屋の唯一の窓から伸びてきている。

 

「その糸は……何です? 先輩」

 

「まぁ……見ていて下さいよ、十兵衛殿」

 

 深鈴が糸をどんどんと手繰り寄せていくと、その糸の先には少し太い紐が結わえ付けられていて、更にその紐をどんどん引いていくと、その紐の先にはもっと太い縄が括り付けられていた。

 

 そうしてその縄をも引っ張っていくと、やがて長さの限界に達したのかぴんと張り詰める。深鈴は綱を適当な長さで切断して、部屋の壁に打ち込まれていた鉤(フック)に引っかけた。

 

「ま、まさか……」

 

 深鈴が何をするつもりか、何となく分かってきた半兵衛が青い顔で窓から外を見ると、綱はこの部屋から金華山の森の中へと伸びている。五右衛門の話によると、山の中でがっしりとした太い樹を見繕って括り付けてきたらしい。

 

「では、皆さん。今から私がやるのと同じように動いて下さい」

 

 深鈴は五右衛門から鞘に入ったままの忍刀を渡されるとそれをぴんと張った綱の上に引っかけ、右手で鍔元を、左手で鞘の先端を握って、腕と刀で輪を作った。

 

「ぎ、銀鈴さん……」

 

 何をするのかハッキリと分かって、元々あまり血色の良くない半兵衛の顔が真っ青になった。だが、脱出する為にはこの手しか残されていない。

 

「半兵衛殿。私に、しっかりと掴まっていて下さい」

 

 「下を見ない方が良いですよ」と、そう言うと同時に深鈴は部屋の窓から足場一つ無い空中へ、その身を躍らせた。

 

 突然、二人の体を風が打つ。

 

 深鈴と半兵衛の体は張り詰められたロープをレール代わりとして、軽く100メートル以上はある高低差によってかなりのスピードで、ロープウェイのように空中を走っていた。

 

 半兵衛は身を切るような風の冷たさに、目を閉じて必死に耐えていた。

 

「きゃっ!!」

 

 一分もその状態が続いただろうか。闇の中の半兵衛に、覚悟していたものよりはずっと柔らかい衝撃が走る。恐る恐る目を開けてみれば、彼女と深鈴がぶつかったのはロープが括り付けられていた大木ではなく、そのすぐ前に張り巡らされていた縄で編まれた網であった。これも、五右衛門が用意したものだ。

 

「半兵衛殿、急いで下りましょう。他の人達も脱出してきています」

 

 見れば、犬千代は朱槍、光秀は愛刀、宗意軒はなまくら刀、幽閉状態で刀を取り上げられていた守就は木の棒を縄に引っかけて空中を滑走しつつこっちに向かってきていて、五右衛門と段蔵はなんと軽業師のように綱の上に立って走りながらこちらへ来る。

 

「道無き所に道を作る……見事な策です」

 

 まさかこんな逃走手段を用意していたとは。今孔明と呼ばれる天才軍師をして、これには感心する他無かった。

 

 こうして、稲葉山城から脱出した深鈴達はそのまま金華山を下り、尾張へと逃れた。

 

 

 

 

 

 

 

「すいません……私の為に、こんな事になってしまって……」

 

 尾張の旅籠、その一室で、漸く人心地付いた一行。

 

 そうして一息を入れた所で半兵衛は正座し、指を付いて頭を下げる。結果的に斎藤家から離反する事になってしまったが、しかし元々彼女が義龍に肩入れしていたのは親代わりとして育ててくれた安藤守就に恩義を返す為だった。深鈴達が叔父を助ける為に動いてくれた事を、半兵衛は忘れてはいなかった。

 

「いえ……それで半兵衛殿、これからの話ですが……」

 

 自分も正座して、半兵衛に向き合う深鈴がそう尋ねる。彼女等が美濃を訪れた本来の目的は、竹中半兵衛を味方に引き入れる事。

 

 途中、色々あって世紀の大脱出劇を演じる羽目になったが、その甲斐もあってようやく落ち着いてそれを話し合える段となった。

 

「半兵衛殿、信奈様は百年続いたこの乱世を終結させる為に戦っておられます。ですが、天下は未だ麻の如く乱れ、民の安寧の日は遠い……今の織田家は優秀な人材を一人でも多く必要としています。どうか……力をお貸し下さい」

 

「でも……天下を一つにする為には、今以上の血が……」

 

「流れるでしょうね」

 

 深鈴は認めた。

 

「半兵衛殿。私は、幸せは犠牲無しには掴めないし、時代は不幸無しには越えられないと思っています。何かを得ようとすれば、何かを失う……かく言う私自身、今こうして生きている為に、少なくとも一人の命を犠牲にしています」

 

 それを聞いて、五右衛門は悼むように目を伏せた。そう、深鈴が生きているのはこの時代に来てすぐの濃尾平野で、木下藤吉郎が身を以て彼女を庇った為だ。

 

「彼だけではなく……信奈様が、私達が理想の為に戦い続ける事で明日もまた多くの血が流れるでしょう。ですが……明日の先にある、戦無き世の為に……喪われた命が無駄ではなかったのだと胸を張って言える未来の為に……どうか、力を貸して下さい」

 

「……銀鈴さん、頭を上げて下さい」

 

 深鈴の言葉は、半兵衛としても頷ける部分は多くあった。我欲の薄い彼女は義を行動原理とするが、同時に忠孝の道にも通じていた。

 

 半兵衛には、客観的に見て自分の力がその才知も陰陽道も、非凡なものであるという自覚はある。大陸では、国が乱れて民が安らかならぬ時には、かの孔子でさえ民衆の中に立って諸国に教えを広めた。今の日の本は、孔子の時代の中国よりももっと乱れている。なのに力のある自分が山野に引き籠もって、一身の安寧だけを求めていて本当に良いのだろうかという疑問と後ろめたさは、これまでも彼女の中にずっとつきまとっていた。

 

 それは忠孝の道に背くのではないか、と。

 

 そして今聞かされた、深鈴の覚悟と徹頭徹尾変わらぬ真摯な態度を受け、彼女に力を貸す事もやぶさかではないと、半兵衛は思い始めていた。

 

 だが……一つだけ、聞いておかなければならない事が残っている。

 

「お断りします!! ……と、私が言ったら、どうしますか?」

 

 半兵衛のその言葉を聞いて、彼女の背後の前鬼と安藤守就、深鈴の背後の光秀や犬千代に緊張が走る。

 

 もし織田家に仕官しないとなれば、武田・毛利・上杉……いずこかの勢力に半兵衛が付く可能性がある。そうなれば、後の巨大な脅威となる。

 

 光秀は愛刀の柄に手を伸ばしかけ、犬千代は思わず愛槍を握り直すが、しかし深鈴がばっと手を上げて二人の動きを制した。

 

「その時は、仕方ありません。他の大名に仕官するとあらば、路銀は工面しましょう。安藤殿と共に尾張に居を構えて隠遁されるのであれば、信奈様と私の名に於いて安全を保証します」

 

「なっ……先輩、それは……!!」

 

「十兵衛殿、今回の半兵衛殿の一件では、私は信奈様から全権を預かっています……私に、任せて下さい。もし、今日の事が原因で今後半兵衛殿が敵となったその日には、私が責任を持って討ち果たします」

 

「むう……」

 

 「どうなっても知らないですよ!!」と、そう言って光秀はどっかりと座り直した。そうして、深鈴は半兵衛との話を再開する。

 

「……どうして、そこまでしてくれるんです?」

 

 元々、深鈴には危険を冒して安藤守就を助ける義理も、半兵衛を義龍から助ける義務も無かった筈。なのにそれをしてくれただけではなく、何故にここまで便宜を図ってくれるのか。

 

 半兵衛の軍師・陰陽師としての力を欲していて恩を売ろうとしているとしても、これでは危険と実入りが釣り合っていない。賢い者ならば、長政のように斉藤家と半兵衛を引き離せた時点で身を引いて然るべきだ。

 

 なのに何故? そう問われ、深鈴の答えは、

 

「半兵衛殿には、何度も信奈様の命を救っていただいた恩義があります。恩義には、恩義で返さねばなりません」

 

「……!! それは……」

 

 義龍が稲葉山城の広間で言ったように、半兵衛は今まで幾度も、織田軍を滅ぼそうと思えば滅ぼす事は出来た。

 

 それをしなかったのは無用な犠牲を好まない彼女の性情もあるが、それ以上に合理に則った計算によるものだった。

 

 敵の一部を殺せば、残った敵は死に物狂いとなる。必死の敵ほど恐ろしいものはない。重要なのは敵をそういう状態にさせぬ事であり、故に圧倒的な技量の差を見せ付けて戦闘意欲を奪う。だから無用な犠牲は出さない。彼我の損害が最小であるならば、これ以上の勝利はないのだと。

 

「……如何なる事情があれ、我等の主が半兵衛殿のお陰で助かった事は事実。私はあなたに、大きな借りがありましたから。それを、返さなくてはなりません」

 

 そう自分に言う深鈴の顔を見て、半兵衛は確信した。彼女は、織田勢を見逃した裏にある思惑など全て見抜いている。見抜いた上で尚、それを恩義として自分に返そうとしている。

 

 過日の長良川で道三の心を全て読み取りながら、それでも尚彼を救った信奈のように。

 

『かないません、ね……』

 

 生き死にを越えた、大きく、そして厳しい「義の心」。それを捧げられて、受け取ってしまった。

 

 これほどまでの鉄壁の信義。主殺しが当たり前のこの時代には、愚かと笑われるだろう。

 

「銀鈴さんは、大馬鹿です」

 

「……そうかも、知れませんね」

 

 苦笑して言った半兵衛に、深鈴も苦笑して応じる。

 

「そして私は、お馬鹿さんは嫌いです」

 

「ではこの話は……縁が無かったという事で……」

 

 遠回しな断りの返事にも聞こえるその言葉を受けて、しかし深鈴は表情を変えず、泰然と受け止めていた。

 

 光秀と犬千代が思わず「そんな……」と口走って。

 

 宗意軒が変わらぬ笑顔のままに「いや」と、呟き。

 

 五右衛門と段蔵は無言のまま。

 

 安藤守就が、溜息を一つ吐いて。

 

 そして前鬼が微笑と共に、

 

「この勝負、銀鈴殿の勝ちだな」

 

 そう言った。つまり、

 

「お馬鹿さんは嫌いですが……大馬鹿となればもう、放っておけないです」

 

 半兵衛は居住まいを正し、そして深々と、深鈴に頭を下げた。

 

「この竹中半兵衛……未だ非才の身なれど、全力を挙げて銀鈴さんを支えていくと誓います……よろしく、我が殿」

 


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