織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第16話 墨俣、燃ゆ

 

 深鈴達が木曽川の激流へと挑んだ翌朝。昨日までの豪雨が嘘のように晴れ渡ったこの日、偵察に出ていた物見からの報告を受け、稲葉山城は騒然となった。

 

「な、何っ!! 墨俣に一夜にして城が出来たと!!」

 

「はい、まだ内部は造っているようですが、外部の柵は出来上がっておりました」

 

「しかも、遠目から見た所、作業を行う兵の数は五千は下るまいかと」

 

 広間に集った斎藤家臣下達はそれを聞き、目に見えて動揺した。織田が墨俣に城を築きたがっているのは百も承知だったが、今回は分からぬ事が多過ぎる。

 

「馬鹿を申せ、たった一夜で城が建つ訳がない」

 

「それよりも兵だ。一体どこからそれだけの兵が集まったと言うのじゃ。いくら昨日が大雨だったとは言え、五千もの兵が墨俣にやって来るのを、見張りが見逃す訳があるまい」

 

「見間違いではないのか?」

 

「しかし確かに……」

 

「馬鹿者ども、静まれ!!」

 

 家臣達がめいめい勝手に騒ぎ立てるのを、義龍はまさしく鶴の一声で黙らせた。身の丈およそ六尺五寸、力士を思わせる巨体を誇る義龍はその体型に比例するように声も大きく、十名からの声をたった一人で掻き消してしまった。

 

 そこから微妙に間を置いて彼等の心もそれなりに落ち着いた所を見計らって、彼は続く言葉を口にした。

 

「織田がどのような方法で城を建てたか、どうやって兵を集めたかなど、今はどうでも良いわ!! 実際に城が建って兵が集まっているのだ。それを如何にして追い払うかを、この場で論ずるべきであろう。その程度の事が分からんのか!!」

 

 声を上げる者は一人としていない。代わりに皆一様に顔を赤らめた。主君の言葉は全く以て正論であり、今まで騒ぎ立てていた自分達が急に情けなく思えたのだ。

 

「では殿、どうなされますか?」

 

 家臣の一人にそう尋ねられ、義龍は打てば響く早さで答えを返す。

 

「無論、これまで来た者達と同じ運命にしてやるまでよ。すぐさま出陣だ!! 一隊は城の背後に回って、柴田の時と同じに川から挟み撃ちにしてやるのだ!! 城外の者達にも指示を出せ!!」

 

 言葉が終わらぬ内にすっくと立ち上がる義龍だったが、これには家臣達が慌てた。

 

「それが、先日までの雨であちこちの洲は水びたし、用兵も思うに任せませぬ」

 

「ならばまずはこの稲葉山城の兵だけでも行くのだ。他の者達にもすぐに墨俣へ向かうよう、使者を送れ!! 斎藤飛騨守、三分の一の兵を残していく故、そなたはワシの留守を守れ!!」

 

「殿、しかし川は今、水かさが増えて危険でございます。船を出すのは……」

 

「自らの領地に城を建てられて、危険も何もあるか!!」

 

 小姓に持ってこさせた鎧を身に付けながら、義龍は吹き出してくる反対意見を悉く封殺していく。

 

「墨俣を拠点として尾張勢になだれこまれたら、それこそ取り返しの付かぬ事になるわ!! どれほどの犠牲を払ってでも落とさねばならん!!」

 

 義龍は決して愚昧でも凡庸でもない。仮にそういった人物なら老いたりとは言え蝮と呼ばれた乱世の梟雄たる父への下克上など、成功する訳がない。半兵衛の一件では「この小娘も自分がやったように下克上を企んでいるのでは」という猜疑心が判断力を曇らせていたが、本来の能力を発揮すれば間違いなく名将と言える器であった。

 

 そもそも墨俣に城を築かれる事を誰よりも危険視し、また逆に織田はどうしても城を築こうとするであろうと読み、見張りを立てて昼夜の区別無き厳戒態勢を敷かせたのは他ならぬ義龍である。それが功を奏し、一夜での築城技術を持つ信奈軍でさえ、これまで城を築けなかった。

 

 しかし今、どのような手を使ったかまでは分からないがこちらの読みを越えて尾張勢は墨俣に城を建てた。かくなる上は、城の防備が完全ではない内に攻め落とさねばならない。

 

「ぐずぐずするな!! ここで織田に時を与えれば、その代価は我等の首で支払う事となるぞ!!」

 

 家臣達はその一喝を受け、戦支度を整える為に慌ただしく動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「うふふ……城がにわかに騒がしくなってきやがったです」

 

 墨俣城の物見櫓。望遠鏡によって稲葉山城の様子を探っていた光秀は、人の動きが急に活発になったのを目聡く見て取って、意地の悪い笑みを見せた。

 

 どうやら敵さん、一夜で城が建てられたのに肝を潰して、慌てて攻める準備を整えているらしい。

 

「稲葉山城の連中は今頃、一ノ谷の城を守ってた平氏の気分を味わってやがるんじゃないでしょうか」

 

「……? 何それ?」

 

 光秀の言を受け、可愛らしく首を傾げた犬千代が尋ねる。答えるのは深鈴だ。

 

「源平時代の合戦の話ですね」

 

 彼女の言葉を、半兵衛が継ぐ。

 

「源義経公は精鋭七十騎を率いて、鉄拐山から到底馬では下りられないと思われた急斜面を駆け下り、城の背後より平氏を奇襲したと言います。今回の私達も、美濃勢が出来る訳がないと油断していた増水時の木曽川下りをやり遂げて、こうして墨俣に城を築く事が出来ました」

 

「しかも私達は七十人どころか五千人。向こうは天から兵が降ってきたのではと思ってるですよ」

 

 敵城の喧噪を眺めながらにやにや笑う光秀だったが、それも望遠鏡を目から離すまでだった。笑みは消え、半刻(一時間)も置かずに始まるであろう戦を見据えた厳しい表情が取って代わる。

 

「では銀鏡先輩、私はこれからもう一度、兵士達の様子を確認してくるです」

 

「犬千代も行く」

 

 物見櫓から下りていく二人を見送った後、深鈴は傍らの半兵衛を振り返って、

 

「半兵衛……私達はこの任務、やり遂げられると思う?」

 

 そう尋ねた。声と表情と目から、主が求めているのが忌憚の無い意見、正確な分析であると悟って、半兵衛も真剣な表情になる。

 

「築城を見た美濃勢が全て集まった場合、その数はおよそ八千。ですが前日までの雨であちこちに水が出ていますから実際に集まれる数はもっと少なく、集まりにもバラつきが生じるでしょう。対して私達の数は五千。千人を築城に専念させるとして、四千の兵で迎え撃つ事になります」

 

「ふむ……」

 

 深鈴はそれを聞いて彼女なりの作戦を頭の中で組み立てていたが、まだ口には出さない。半兵衛の考えを全て聞いてからだ。

 

「急作りの城ですが、それでも守りに徹すれば数日は何とか持ち堪えられると思います。その間に作業を進め、同時に尾張へ使者を出して信奈さんに援軍を送ってもらうよう頼めば万全でしょう」

 

 半兵衛の意見は理路整然としていて「成る程」と頷きたくなるものだったが、深鈴はしなかった。一番聞いておかなければならない事が、残っている。

 

「じゃあ半兵衛、この城が落ちるとしたらどういう場合が考えられる?」

 

 天才軍師は少しの間沈黙し「そうですね……」と前置きして、答える。

 

「この城の弱点は、守る兵が……言い方は悪いですが寄せ集めの寄り合い所帯な点です。今は皆さん武士への返り咲きを願っていて士気も高いですが……形勢が不利になれば、我が身可愛さで逃げ出してしまう可能性があります。誰だって死にたくはありませんから……」

 

「成る程……」

 

 深鈴は頷く。半兵衛が指摘した墨俣城の弱点は、全く自分が考えていたものと同じだった。これが信奈から預かった正規の織田の兵であれば話も違うのだが、今の彼女の主戦力は野武士。成功すれば仕官を約束しているとは言え今の時点では彼等は主を持たない野良侍だ。いよいよもって追い詰められた場合には、半兵衛の言う通り逃げ出してしまう公算が高い。

 

 逆に言うと、その点を何とか克服出来ればこの任を全うする事が出来る、という事だ。

 

「その為にも、緒戦が重要ね……」

 

「……!! はい」

 

 深鈴も流石に読みが鋭いと感心した表情になって、半兵衛は頷く。

 

 義龍軍は、間違いなく城がまだ一夜作りで防御力の低い今を狙ってくる。この城が落ちるとしたらまず、今日の戦いでだろう。

 

 逆に今日の攻撃を凌げば一度は退けたと兵の心に自信が生まれるし、次の攻撃までに築城作業が進んで城の防御力が高くなり、しかも援軍も駆け付けてくると知らせれば励みになり、士気も高い状態を維持出来るだろう。

 

 詰まる所この任務の成否は、今日の戦いで決まる。

 

 無論、義龍もそれは承知の上で何としてでもこの一戦で勝負を決めようと、遮二無二攻めてくる。楽観出来る相手ではない。

 

 既に策はいくつか用意しているが、何かもう一つぐらい考えなければなるまい。義龍が仕掛けてくる猛攻を、どうやって凌ぐか……

 

「……そうだ……半兵衛、あなたさっき、美濃勢は集まりにばらつきが生じると言ったわね」

 

「はい、あちこちに水が出て、川も増水しているでしょうから……」

 

「なら、集まってくる順に次々各個撃破、あるいは撃退出来れば、私達が有利になるわね」

 

 深鈴の意見は正しい。半兵衛は認めて、しかし難しい顔で頷く。それ自体は、確かに正しいが……だが問題は、どうやって各個撃破するかだ。集まってくる一隊だけが相手なら野武士達は互角以上に戦えようが、その後でまた現れた次の隊を、そのまた次を……などとやっていては勝ち目が無い。彼女がそれを伝えると、深鈴も首肯する。

 

「集まってくる部隊の、指揮が乱れていれば話は別ですが……」

 

 半兵衛にしてみれば例え話のつもりで何気なく言ったその台詞だったが、実はかなり的を射た発言だった。我が意を得たりと、深鈴は会心の笑みを見せる。

 

「うん……だから、”それ”をやるのよ。誰か!! 子市を呼んできて!!」

 

 深鈴は櫓の下へ大声で叫び、続いて半兵衛と対称の位置に立っていた五右衛門へと振り返った。

 

「五右衛門、あなたは信奈様に築城が成った事を伝え、援軍を要請して。こっちは援軍が来るまでは、何としても持たせるから」

 

「承知!!」

 

 命令を受けた五右衛門は櫓から飛び降りると、疾風の如く駆けていく。その姿が見えなくなった所で、深鈴は半兵衛に策の詳細を説明し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、義龍軍の攻撃が始まった。まずは歩兵と騎馬の混成部隊が向かってくる。

 

「来た!! 来やがったです!!」

 

 既に外周の柵近くでいつ来るかと身構えていた光秀は、種子島を握る手にぐっと力を込めた。周りの野武士達も、それぞれ得物を強く握る。

 

「半兵衛……」

 

 深鈴とて間違いなく覚悟を決めてこの場に居る身ではあるが、しかしこうして軍団の指揮を執って戦をするのは初めての経験。傍らの軍師へ掛ける声には、流石に緊張と不安が滲み出ていた。

 

 敵が向かってくるが、迎え撃たなくて良いのかと。

 

 しかし、半兵衛は落ち着いたものだ。軍師たる者が為すべきは自らの才に驕らず、学んだ知識に従い、応用し、勝利する為の流れを引き寄せる事のみ。普段は気弱な彼女だが、今は戦場に立つ身としてそれのみを考え、他の感情を全て排除していた。

 

「まだです。孫子の兵法曰く、敵の半ばを渡らせてから討つべし」

 

 確かにこうして高所から見れば、押し寄せてくる美濃勢は未だ川を渡り初めてすらいない。それにここからではまだ距離がありすぎる。種子島を撃っても届かない。

 

 確かにそうだ。

 

 普通の種子島なら。

 

 普通の鉄砲撃ちなら。

 

「では、私は一足先に始めさせてもらうよ」

 

 そう言ったのは子市だ。床几に腰掛けた彼女は種子島を構えると、ほんの二秒ほどの時間を照準(サイティング)に当て、無造作に引き金を引く。

 

 だぁん。

 

「頭に当たりました。落馬」

 

 望遠鏡を持った足軽が狙撃の成果を報告し、

 

「次を」

 

 子市は背後に控えさせていた数名の内の一人に今撃った種子島を渡し、代わりに弾込めを済ませて火縄にも着火した物を受け取る。

 

「目標、長い槍を持って川に入った騎馬武者。胴を狙って」

 

 望遠鏡持ちの指示を受け、子市はやはりほんの二秒ほどを照準の為に使っただけであっさりと引き金を引くと、銃声が響き、

 

「命中。倒れて、馬に寄りかかる」

 

「次」

 

 先程と同じく、撃ち終わった種子島をすぐ撃てる状態の物と交換する子市。望遠鏡持ちが目標と狙う部位を指示し、彼女は間違いなくその目標の指示された場所を撃ち抜いていく。

 

 しかも背後に控えた足軽達は弾込めと火縄への着火をそれぞれ分業しており、三挺の種子島が彼等と子市が作る輪をぐるぐると回り、間断無く狙撃を続けていく。一連の動作は精巧なカラクリ仕掛けのようで、全く澱みが無かった。

 

 この攻撃に驚いたのは義龍軍である。

 

「そ、そんな馬鹿な!! この距離で鉄砲が届く訳がない!!」

 

「南蛮の新兵器だ!! 織田は新しい鉄砲を使っているんだぁ!!」

 

 まだ墨俣城から彼等の距離は、三丁(約300メートル)はある。名手である光秀でさえ、その射程距離は二十五間(約45メートル)が精々だ。到底種子島が届く距離ではないと勇んで進んでいただけに、衝撃も大きかった。

 

 しかも、撃たれて倒れるのは騎馬して指揮を執っている侍大将ばかり。これはこの銃撃がまぐれ当たりでないと教えるだけでなく、指揮官が倒される事で兵が算を乱す事も計算に入れての効率的な攻撃であった。更に弓も鉄砲も、この距離で反撃出来る手段を美濃勢は有していない。こちらは攻撃出来ないのに向こうからの攻撃に一方的に晒されるというこの状況は、侍大将にも足軽達にも覚悟していた以上の恐怖を与えていた。

 

 そうして恐怖を感じれば足が鈍る。足が鈍れば、それだけ子市の狙撃によって倒される大将が増える。そうなれば足軽達はますます動揺して、余計に軍団の足が鈍る。義龍にとっては悪夢のような連鎖が続いていく。

 

「見事です、子市さん」

 

「ん」

 

 半兵衛の賞賛を受け、しかし子市はこの程度は当然と言うかのように無表情のまま次の種子島を受け取り、狙いを合わせ、発射。望遠鏡持ちが命中を報告する。

 

「凄いのは私じゃないさ。深鈴様の考えた三段撃ちと観測手。それに源内が作ったこの”鳴門”だ」

 

 弾込め役、着火役、射手を分業制として通常の数倍の早さでの連射を可能とする三段撃ち。これは長篠の戦いで、馬防柵との組み合わせによって無敵を誇った武田騎馬軍を破った戦術として有名だ。

 

 今回、深鈴は本人曰く日本二の鉄砲の名手である子市に侍大将のみを絞って次々に狙撃させ、押し寄せる敵の出鼻を挫く策としてこれを採用したのである。それだけでなく、狙撃の正確性を高める為に観測手を付けた。

 

 そして何より子市の得物。源内の発明品が一つ、”鳴門”。一見すれば何の変哲も無い普通の種子島だが、中身が違う。

 

 この種子島は銃身内部に螺旋状の溝が彫り込まれ、発射された弾に回転が掛かるように造られている。深鈴の生まれた時代で言うライフリング加工が施された特注品だったのだ。これによって従来の物よりも、射程距離と精度は飛躍的に向上していた。

 

 弾丸の回転を渦潮に見立て、故に”鳴門”。

 

「いえ、やはりあなたの腕ですよ。子市殿」

 

 と、源内。今回、彼女は築城に用いるカラクリの運用主任として随行していた。

 

「いくら鳴門を使ったとしても、私は射程距離は精々一丁そこらと思ってましたから。それを三丁も先の相手に当てるなんて……」

 

 カラクリ技士の賛辞に、深鈴も頷く。軍事に詳しい訳ではないが、未来の狙撃銃でさえも300メートル先のしかも動いている目標に当てるのは相当な名手だと聞いた事がある。それをいくら改良が施されているとは言え火縄銃で、スコープも無しに百発百中。神業を通り越して奇跡とさえ言える腕前だ。

 

 だがそれを受けても子市はどこか自嘲するように、どこか誇らしげにくすりと笑うだけだった。

 

「私は”孫市”になれなかった二番手……だが二番手でもこれぐらいは出来るという事さ。孫市がこの”鳴門”を持てばもっと上手くやる」

 

「……そうか、子市。あなたは雑賀衆だったわね」

 

「元、な」

 

 紀伊の傭兵集団「雑賀衆」。その頭領の名を雑賀孫市。

 

 正史では当時の日本最大最強と呼ばれた鉄砲集団で、孫市は本願寺に与して織田信長を最も苦しめた武将の一人として有名である。だが歴史上では孫市が活躍した期間には開きがあり、そこから雑賀衆の長は代々「孫市」を襲名していたという説がある。

 

 そしてその説が、少なくともこの戦国時代では正しかった。子市は、孫市候補生の一人だったのだ。ならばあの鉄砲の業にも納得というものだ。

 

「子市」

 

「ん?」

 

「戦場で武器の差はつまり実力の差……今の戦は一騎打ちで技比べするような源平時代のものと違って、軍団と軍団の戦い。そして私達も一つの軍団……分かるわね?」

 

 抽象的な深鈴の物言いだが、しかしこの鉄砲撃ちにはちゃんと伝わったらしい。微笑と共に「感謝する」と雇い主に返して、狙撃を続けていく。

 

 一方美濃勢も、いつまでも川の中で尻込みしてはいられなかった。

 

「退くな!! 逃げてくる者はワシが斬り捨てる!! 貴様等の生ける道は前にしか開かれぬと知れ!!」

 

 本陣に陣取る義龍は槍を水車のように振り回し、鬼の形相で自軍を駆り立てる。これを受けた兵達に、最早後退はありえなかった。背後にあるのは100パーセント確実な死。ならば万に一つの可能性であろうとも、前進して生きる可能性に懸ける他は無かった。

 

 子市の狙撃は次々に侍大将を、侍大将を撃ち尽くしたと見れば今度は足軽大将を倒していくが、それにも怯まずに遂に義龍軍の半数が渡川して墨俣城に向かってくる。だがこの瞬間こそ、半兵衛の狙っていた機。

 

「鉄砲隊!! 撃て!!」

 

 白羽扇を振り、号令を掛ける。僅かな時間を置いて無数の銃声が響き、銃弾の雨が義龍軍に襲い掛かった。バタバタと倒れていく足軽達。更に、

 

「弓隊、川に残った兵を狙い撃て!!」

 

 今度はひゅんひゅんという風切り音が鳴って、矢が雨の如く未だ渡川中の兵へと降り注ぐ。水に足を取られて動きが鈍っていた事もあり、かわす事もままならず足軽達は倒れ、流されていく。

 

 この連続攻撃によって、背水ならぬ背義龍の覚悟で挑む美濃勢の勢いが、僅かに削がれた。そしてその僅かな変化を、天才軍師は見逃さない。

 

「光秀さん、お願いします!!」

 

「合点承知!! 皆、私に付いて来やがれです!!」

 

 すかさず城門を開き、戦闘に参加する兵の半数である二千を引き連れた光秀が、敵陣へと切り込んだ。

 

 ただでさえ将を数多く失って算を乱し、鉄砲と弓で足を止められていた所に、ダメ押しの如く襲い掛かられたのである。義龍軍は一方的に押しまくられ、斬られる者は勿論、川に落ちて溺れ死ぬ者が続出した。

 

 だが光秀率いる部隊は深入りせず、敵を蹴散らすだけ蹴散らした後は素早く城内に引き上げてしまった。この引き際の見極めは、半兵衛だけではなく光秀の実力が占める部分も大きい。今日の戦いはまだまだ続く。ここで消耗しすぎる訳には行かないと、心得ていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 木曽川上流。

 

 深鈴率いる築城部隊が濁流へと漕ぎ出した時、イカダには乗り込まずにそこに残った者達は、下流・墨俣の方向から断続的に響いてきた銃声を聞くとにわかに色めき立った。

 

「とうとう始まりましたね」

 

「………」

 

 部下の一人の言葉に段蔵はいつも通り無言で頷き、そしてやはりいつも通り懐から紙を取り出す。そこに書かれていた文面は、

 

<では、指図通りに>

 

 それを見た部下達はすぐ傍に置かれていた胸元ぐらいまでの大きさがある壺を一つにつき二人掛かりで持ち上げ、中身を次々川に流していく。

 

 独特の刺激臭が鼻を付き、水面に黒い色が広がっていく。油だ。

 

 

 

 

 

 

 

「……来た」

 

 城の裏手の守りを任されていた犬千代は、川を遡ってやって来る無数の船の姿を捉えた。勝家が失敗した時と同じ、義龍軍の別働隊だ。

 

 それ以上の激流を下ってきた自分達が言えた事ではないが、昨日までの雨で川は滝のようになっている。そこに船を漕ぎ出すとは……余程、城を建てられたのが頭に来たらしい。

 

「じゃあ、手筈通りやって」

 

 朱槍を振って合図すると、足軽達は手にした松明を次々川に投げ込んでいく。本来ならばそれらは水に入って消えるだけだったろうが、今回は違った。

 

 突然、川面から火が上がる。段蔵達が上流で流した油が、下流であるこちらに流れてきていたのだ。そして炎は、流れに乗って下流にいる美濃勢へと襲い掛かった。

 

「わああっ、か、川が燃えるぞ」

 

「消せ、消せ!!」

 

 侍大将ががなり立てるが、しかし川が燃えているのである。どうやって消すのかと、足軽達は混乱の渦中に叩き込まれた。

 

「次!! 火船!!」

 

 犬千代の指示を受け、今度はあらかじめ用意していた船を、たっぷりと積んでおいた干し草に火を付けて流れの中に放す。漕ぎ手は必要無い。こちらが上流だから、流れに乗って下流の美濃勢へと船は突き進んでいく。

 

 果たして燃え盛る無人船は美濃勢の船とぶつかり、衝撃によって兵は川に投げ出され、鎧の重さ故泳ぐ事も叶わずに沈んでいく。火船も転覆して火が水面を漂う油に燃え移り、川一面を一層激しく燃え盛った炎が包み込んだ。

 

 墨俣城の危険性を正しく評価し、激流であろうと川から襲う部隊を出撃させた義龍の判断は間違っていなかったが、しかし今回はそれが裏目に出た。激流故に美濃勢は船を上手く操れず、ある者は船の衝突に巻き込まれ、ある者は自ら川へと飛び込み、ある者は船上で火だるまになり、流されていく。

 

「……ここはもう良い。別の所を助けに行く」

 

 犬千代は川からの攻め手が壊滅したのを見て取ると、手勢を率いて動き出した。これから、恐らくは時間を置いて次々に美濃衆が襲ってくる。彼等を迎え撃つにはこちらも配置を次々に変え、一つの手勢を効率良く相手せねばならない。そうして次の部隊がやって来る前に今来た部隊を撃退していけば、結果的に義龍軍は戦力の逐次投入という最低の戦術を執っているのと同じになる。

 

「急いで!!」

 

 言わばこの戦いは、美濃勢の集結が早いか、その前に尾張勢が集まってきた美濃勢を各個に倒していくのが早いか。スピードの戦いだとも言えた。

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか太陽は空高く上り、時刻は昼八つ(14時頃)となっていた。

 

 深鈴率いる尾張勢は半兵衛の的確な指示により防衛線をフレキシブルに変化させ、見事に攻撃を凌いでいたが、朝から戦い通しで流石に疲れが見えてきた。

 

 義龍軍も条件は同じだが、しかし義龍はその怒気と執念で兵に疲れを忘れさせていた。

 

 それに、深鈴達は矢や弾薬も残り少なくなってきている。が、だからと言って出し惜しみするという選択肢は有り得ない。もし攻撃が控え目となれば義龍とてそれを悟るだろう。そうなればここが勝機と、最後の力を振り絞って攻め込んでくるは必定。

 

「ここが踏ん張り所ですね……!!」

 

 額に玉の汗を浮かべた半兵衛が呟く。

 

 美濃勢が義龍の恐怖によって疲れを補っているなら、尾張勢は半兵衛の指揮で補っている。後はどちらが先に息切れするか……

 

 その時だった。

 

「また新手が来た」

 

 物見櫓に、犬千代と光秀が上がってくる。懐から取り出した望遠鏡で今度は何者の軍かと偵察していた光秀は、先頭を走ってくる屈強な武者を見て「げっ」と顔を引き攣らせた。

 

「あ、あれは大沢正秀(おおさわまさひで)殿!!」

 

 大沢正秀、またの名を大沢次郎左衛門(おおさわじろざえもん)。美濃と尾張の国境近くにある鵜沼城の城主であり、「鵜沼の虎」の異名で美濃三人衆と並び称されるほどの猛将である。ここへ来てあんな強敵が出て来るとは……

 

「先輩、ここは撤退も視野に……」

 

 光秀がそう言い掛けた時だった。戦場中に、敵にも味方にも衝撃が走る。

 

 大沢正秀率いる一団は、墨俣城とそこに立て籠もる信奈軍ではなく、攻め手である義龍軍に襲い掛かったのである。

 

 美濃勢は、まさか援軍と思っていた彼等に攻撃を受けるとは思わず、大混乱に陥った。

 

「銀鏡殿!! この大沢正秀、先の約定に従い、貴殿にお味方致す!!」

 

 陣頭に立つ彼がまさしく虎のような大声でそう叫んだのを聞いて、思わぬ援軍の到来に尾張勢の士気は高まり、逆に美濃勢は、

 

「織田軍だけでも手こずってるのに大沢殿が敵に!!」

 

「だ、駄目だ、強すぎるみゃあ!!」

 

 と、大混乱が更に大混乱となり、遂に義龍の恫喝じみた鼓舞でも戦線を維持出来なくなってきた。元々、兵が疲弊している所を何とかそれを上回る恐怖で誤魔化していたのである。その分のツケがここへ来て一気に出た形となり、目に見えて動きが鈍くなった。

 

「銀鈴、これは……」

 

「信奈様から命令を受けてから実際に築城に当たるまでの二週間で、私は大沢殿にも調略に行っていたのよ。半兵衛の時と同じに」

 

 五右衛門達に探らせた情報によれば、義龍が美濃の新領主となってから正秀は病気に掛かって鵜沼城を動けないとの事だった。出仕もままならぬという事だから、この病が”余程の重病”と見た深鈴は半兵衛と安藤守就を伴い、彼の元を訪れていたのである。

 

 大沢正秀も、義龍とは上手く行ってなかったのが一つ。それに美濃三人衆の筆頭と「今孔明」とまで呼ばれる天才軍師が力を貸す織田信奈は、あるいはこの乱世を終息させ得る器かも知れぬと見込み、協力を約束。そして今、この戦場へと馳せ参じたのである。

 

 援軍の中には、安藤守就の姿もあった。

 

「稲葉一鉄に氏家卜全!! 織田勢はいたずらに美濃を侵そうとしているに非ず!! この百年続いた乱世を終わらせる為には美濃が不可欠であり、それを大義として戦っておるのじゃ!! もし、織田信奈がただ我欲の為だけに美濃を欲するような輩ならば、どうして半兵衛や道三様、光秀や銀鏡殿といった英傑がその下に集まると言うのか!! そこを良く考えよ!!」

 

 美濃三人衆と呼ばれた彼等は、形勢が不利になったからと言って敵に寝返るような節操無しでは断じてない。だが、叔父である安藤守就は勿論の事、揃って半兵衛の崇拝者である。同時に日の本に生きる一人の人間として、この乱世がいつまで続くのかと憂いていたのも確かだった。彼等はその役目を、半兵衛と彼女(尤も、女性と知ったのはつい最近だが)を使いこなす相応しい主君に求めたのである。

 

 だが、半兵衛は義龍の元を去って織田家中・銀鏡深鈴の下に就いた。義に篤い彼女は、ただ助けられただけで主家を裏切るような者ではあるまい。そこには何か、余程の事情があるのだろうと思っていたが……

 

 成る程。半兵衛を口説き落とした銀鏡深鈴も、安藤守就も、だからこそ……!!

 

「……安藤殿の言う通りかも知れぬ。義龍殿に弓引くのは信義に反するであろうが……」

 

「だが、今日の味方が明日の敵となるようなこの戦国乱世。それを終わらせる事が大義であり、それでこそ信義を世に問えるのかも知れぬ」

 

 決まった。二人はそれぞれの軍勢を反転させ、美濃勢の中へと突進した。

 

「稲葉伊予守一鉄良道、銀鏡殿にお味方致す!!」

 

「氏家卜全直元も、お味方致す!!」

 

 ただでさえ戦線が崩壊しかけていた所に、宿将二人の離反。これを受けて美濃勢の士気は完全に喪失。背後の義龍の恐怖も忘れ、めいめい勝手に逃げ出していく。

 

「おのれっ……謀反人共が……!!」

 

 義龍はぎりぎりと奥歯を噛み締め、軍配をへし折ってしまった。親父殿に続き、半兵衛、美濃三人衆、大沢正秀まで……

 

 どいつもこいつも……!!

 

 しかし、ここで感情のままに動いては負けだと、彼の冷静な部分が教える。

 

『ここは退くのだ。半兵衛抜きとは言え稲葉山城は難攻不落。籠城に徹すれば数ヶ月は持つ。信奈はこの機会に攻め寄せて来るだろうが、いつまでも尾張を留守には出来ぬ筈……そうして事態の好転を待つのだ……!!』

 

 ともすれば敵陣に飛び込んで行きそうな内なる衝動を必死に抑えると、義龍は残った兵を纏めて引き上げて行った。

 

 深鈴達は追い打ちを掛ける事はしなかった。彼女達もかなり消耗している。色々と策を打ってはいたが、何か一つでも歯車が違っていれば危なかった。やはり戦は皆が死に物狂いで戦うもの。どこで何が起きるか分からない。深鈴は今回の戦いで、それが理屈ではなく身に染みて分かった気がした。

 

「勝った……ですか?」

 

「うん、勝った」

 

 血と汗と泥まみれになって、力を使い果たした光秀と犬千代が力無くそう呟いた。

 

「これで……築城は成りますね」

 

 半兵衛は全身の力が抜けたように、ぺたんと床几の上に座り込んでしまった。

 

「銀鏡氏、信奈殿は築城の報を聞くや援軍を率いて小牧山を出立、明日には到着するでごじゃる!!」

 

「親分が噛んだ!!」

 

「ごじゃるが出た!!」

 

「疲れが吹っ飛んだぜ!!」

 

 戻ってきた五右衛門がもたらした朗報を受け、野武士達と川並衆が鬨の声を上げる。

 

「皆……ご苦労でした」

 

 深鈴は何とかそう言うと、彼女も緊張の糸が切れてその場にぶっ倒れた。すると、ぐきゅるると腹の虫が鳴き、周囲から一斉に笑い声が上がる。仰向けになって見た空は、既にオレンジ色に染まっていた。

 


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