「こほっ、こほっ……ご心配おかけして、申し訳ありません……」
京、妙覚寺。斎藤道三が子供の頃に修行したというこの寺は、その時の縁もあって上洛した信奈達に何かと親切にしてくれている。全軍を率いて若狭に出兵した信奈に留守番を命ぜられた深鈴は、この寺にて久し振りに骨休めをしていた。
普段の彼女は織田家臣としての職務だけでなく、銀蜂会会長としての仕事をもこなしている。毎日朝早くから夜遅くまで働いている彼女の仕事振りを見て、前野某や食客達がこんな生活を続けていてはその内体を壊すと心配して、数日間の休暇を作ってくれたのである。
決してワーカーホリックでない深鈴は体調管理も重大な仕事の一つであると理解しており、半兵衛の看病がてらこの好意に甘えておく事にした。そっと、寝ている彼女の額に手を当てる。
「うん……大分、熱は下がってきたみたいね」
曲直瀬ベルショールからもこの分なら後数日もすれば体調もすっかり戻るだろうとお墨付きを貰っているし、深鈴はこれで一安心と、犬千代と一緒に今や大好物になった栃餅の蜂蜜煮をパクつき始めた。
「こ、これは……今まで食べた事の無い味わいですぞ!!」
いつの間にか尾張からやって来ていたねねもまた、栃餅の妙味にはすっかり虜となってしまったようだ。三人で皿を囲み、我先にと手に取っては口に入れていく。
と……あっという間に皿上の餅が最後の一切れになってしまった。
「「「あ……」」」
顔を見合わせる三人。
「銀姉さま、どうぞ……ねねは小さいですし、もう十分頂きましたですぞ!!」
「いえ、私も十分食べてるし……犬千代、あなたに譲るわ」
「……いい、流石に犬千代も食べ過ぎ。ねねが食べる」
こんな調子でグルグル譲り合っていると、五右衛門が横から「では拙者が」と手を伸ばしてパクリと食べてしまった。
「「「あ……」」」
唖然、と口を開けっ放しにする三人。それを尻目に五右衛門はご満悦の表情だ。
布団の中からそんな四人を見ながら、半兵衛は微笑する。この寺は今が戦乱の時代とは思えぬ程に静かで、平和だ。
しかしこんな穏やかな時間は、長くは続かなかった。
昼八つ(14時頃)を知らせる鐘の音が鳴り終わったぐらいの頃だった。どすどすと足音が響いてきて襖が開き、宗意軒が入ってくる。
「宗意け……」
声も掛けずにいきなり入室してきた無礼を咎めようとした深鈴であったが、だが彼が手にしている鳥籠を見ると、思わずその言葉を飲み込んだ。
鳥籠の中には一羽の鳩が入っていて、その右足には小さな鉄製の棒が括り付けられている。籠の扉を開けた宗意軒は手際良くその棒を取り外すと、深鈴に渡した。
深鈴が鉄棒を指で摘んで九十度ばかり捻ると、かちりという音がして棒は二つに割れる。中は空洞になっていて、小さな紙片が丸められて入っていた。これを見て、半兵衛や五右衛門は「おおっ」と驚いた声を上げる。情報伝達に鳩を使うのは忍者の中にそういう者が少数名居るぐらいで、この時代では未だ一般的でない手法なのだ。
取り出したその紙を広げ、書かれていた文面に目を通していた深鈴だったが……読み進めていくにつれて彼女の表情はみるみる険しく曇っていき、そして読み終えると同時に、顔を真っ赤にして紙を引き破いてしまった。
「ど、どうされたのでござる? 銀鏡氏」
「何か……あったのですか?」
深鈴がここまで激情を表に出すなど、中々無い事だ。実際に読まずとも、鳩が届けてきた手紙の内容が良くないものであったと教えるには十分だった。
「……何があったの?」
犬千代に尋ねられ、深鈴はやっと気持ちを落ち着けると大きく息を吐いて、話し始める。
「浅井が……裏切ったわ」
「!!」
「どういう事でござる? 何故、浅井が……?」
「我が軍の若狭攻めは偽装です!!」
五右衛門のその疑問には、半兵衛が答える。
「信奈様は老大国である朝倉家は新政権に協力しないと最初から見切っていて、畿内を早期統一する為に奇襲作戦で越前を平定するおつもりだったのです!!」
だが、浅井と朝倉の縁は深い。
「ですから、前もって相談すれば長政さんが織田と朝倉の間で板挟みになりますから、元康さんの援軍も含めた織田の全軍で、早急に越前攻めを終わらせるおつもりだったのです」
「私も、確証があった訳ではなかったのだけど……」
浅井が長政主導で動き、かつ長政が理性的な判断を下すのなら、信奈の天下布武の為には上杉謙信よりも先に北陸を固めておく以外無いと考え、越前攻めも見て見ぬ振りを決め込む可能性もあった。深鈴としては寧ろその可能性の方が高いと見ていたぐらいだ。最近の彼はどういう訳かめっきり人柄も穏やかになり、どういう訳か信澄とも仲良くやっているようだったから。
しかしここで思い出さねばならないのは、上洛前に美濃へやって来た時の長政の言葉だ。あの時彼は『父、久政は隠居した身とは言え未だ家中にはそれなりの人望があり、現当主である自分とてその意を無碍にする事は出来ない』と、そう言っていた。そしてその父が、朝倉に義理立てして織田との縁談に反対していたとも。
つまり息子の嫁(男だけど)の首を切ってでも、浅井が朝倉に味方するよう仕向ける可能性があったのだ。
それを懸念していたからこそ深鈴は段蔵率いる諜報部隊を近江に派遣し、何か変わった動きがあればすぐに知らせるように命じていた。更に先日、近衛前久によって武田・上杉同盟軍が尾張を急襲するという誤報を仕掛けられた反省を活かし、他の勢力の乱波による妨害工作を受けず、最速にて情報を伝達する為に伝書鳩を用いた。
「段蔵からの報告には『小谷城に出陣の気配あり、織田への援軍とは思えず』とあったわ。十中八九、間違い無いわね」
「だとすればこれは一大事にござるぞ!!」
「背後を任せた浅井に裏切られれば、織田軍は袋の鼠ですぞ!!」
「いけない……!!」
ほんの数分前までの和やかな空気は、もうどこにもなかった。
「若狭から反転した織田軍は、今頃は木ノ芽峠へと差し掛かっている頃合いでしょう……信奈様は敵地に深入りし過ぎです……もし長政さんが、更にその配下で西近江を治める朽木家までが今、信奈様を裏切れば……」
「前からは朝倉勢、後ろからは浅井勢。しかも慣れぬ山路。我が軍は行くに行かれず戻るに戻れず、九分九厘まで谷底で壊滅するだろうな」
自軍の危機をまるで他人事のような口振りで宗意軒が言う。彼の手には、いつの間にやら手紙を運んできた鳩が乗っていた。
「それにしても、浅井久政も血迷ったものだな。信奈様の力で漸く平和が蘇ろうとしていると言うのに……今この時に信奈様を殺して、後の戦乱を誰が終息させると考えているのだろうね? ま、大方、「後の事は武田でも朝倉でもやる。今は武人の義とは如何なるものか天下に示さねばならぬ」……と、こんな風に考えているのだろうが。あるいは、我が子を天下人にしたいと欲が出たのか……」
宗意軒の楽しんでいるかのような口振りは気に入らないが、言っている内容それ自体は正論だ。今、信奈が死ねば天下は更に乱れ、疲弊した日ノ本は諸外国に対抗する事も叶わなくなるだろう。この天下しか見ていない久政には、天下の先が見えていない。
こうなる可能性を見越していた深鈴は、最終手段として段蔵に「万一の場合には久政・長政の親子を暗殺する事は可能か?」と尋ねた事がある。返ってきた答えは「否」。
それを責めはしなかった。そもそも忍者がそんな簡単に大将首を取れるなら、世の大名達は首がいくつあっても足りないだろう。八岐大蛇やヘカトンケイルじゃあるまいに。それが証拠に百発百中と謳われる杉谷善住坊ですら、信奈の命を奪う事は出来なかった。当代最高の忍者の一人である段蔵であろうと、同じ事だ。
「で、どうするね? 大将」
宗意軒が尋ねる。彼のその手には、湯気を放つ卵が乗っていた。鳩を手の上に乗せたまま、産ませた物だ。
「半兵衛、今から信奈様に知らせに行って、間に合うと思う?」
問いを受け、天才軍師の頭脳はほんの一瞬程の間を置いただけで結論を弾き出す。
「……何とか。浅井の兵は山間では無類の強さを発揮しますが、神速ではありません。早馬で今すぐ信奈様の本陣へ駆け付け、全部隊が間髪入れずそのまま引き返せば、浅井が布陣を終える前に危機を脱する事は、可能だと思います。浅井勢は恐らく琵琶湖の東、木之本街道を北上してくるでしょうから、我が軍は琵琶湖の西に出て、朽木谷を突破するのが最善の脱出路かと」
「だったら今すぐに!!」
犬千代が立ち上がり、深鈴もそれに続くように腰を上げた。
「私も行くわ」
「わ、私も一緒に……」
布団から体を起こそうとする半兵衛であったが、深鈴に止められた。
「あなたは今が一番大事な時。しっかりと体を休めて体調を回復させなくては、全て元の木阿弥でしょう?」
「でも、私は銀鈴さんの軍師……」
半兵衛は食い下がり、無理を押して起き上がろうとするが、しかしそんな彼女を深鈴はさっと手を差し出して制すると、
「大丈夫……前もって段蔵達に探らせていた事から、分かるでしょう? この事態も私の掌の内、想定内の出来事よ。当然、対応する為の策も用意してあるわ」
自信の笑みと共にそう言ってみせる。この言葉は嘘ではない。尤も、想定内の最悪だが。
「色々準備もしてあったからね……」
役立って欲しいとは思わなかったが、この時の為に用意しておいた転ばぬ先の杖の一本。それを使う時が来た。
「犬千代、既に私の食客の中で武芸に秀でた者と信奈様から預かった京守備隊の中で腕利きの者、合わせて五百名を選りすぐった隊の編成が済んでいるわ。あなたはその指揮を執って!!」
「分かった!!」
「五右衛門、あなたは源内の所に行って用意しておいた漏斗(じょうご)三百個をすぐに持ってこさせて!! そのまま犬千代の部隊に持たせるのよ!! それと火砲部隊で京の北東を固めるように言って!!」
「承知!!」
にわかに慌ただしく動き出した深鈴達を見たねねは戸惑ったように視線を彷徨わせていたが、そんな彼女の頭を、深鈴の手がくしゃっと撫でた。
「ねね、あなたには半兵衛の看病を頼むわ。半兵衛にはまだまだ働いてもらわねばならないから……だから、頼むわ。私が戻るまで」
「おう、承知致しましたですぞ。銀姉さま!! 半兵衛殿の事はこのねねが、責任を持って看病致しますぞ!!」
「では、私の代わりに前鬼さんを付けます」
そう言った半兵衛が重ねた護符に念を送るとそこからむくむくと煙が立ち上り、その煙はやがて収束して実体の重みを持つと、木綿筒服を纏った細面の青年へと姿を変えて顕現した。半兵衛の式神達の中でも筆頭格にある前鬼だ。
「それで……近江の信澄や長政の事はどうするかね?」
鳩に産ませた卵を器用に片手で割ると中身をごくんと丸呑みにして、宗意軒が聞いてくる。
「……万一の時の事は、段蔵に任せてあるわ。私達は一刻も早く信奈様の元へ馳せ参じる事が肝要……今は……信じる他無いわね……」
「冷たいね? まぁ、正しい判断だが」
憎まれ口もそこそこに聞き流すと、深鈴もまた出立の準備に取り掛かった。
同刻、美濃・岐阜城。
「何という事じゃ……」
広間にて、「浅井勢が小谷城より打って出る」の報を受けた道三は、顔を顰めて地図を睨んでいた。まさかとは思っていたが、この局面で浅井が裏切るとは。これでは織田は袋の鼠。残された道は全滅、その一つしかない。この難局にあって、自分はどう動くべきか……
思案するが、蝮と呼ばれた戦国の梟雄をして、この事態は捌き難い。
「せめて今ここに、半兵衛が居れば……!!」
そう呟いた瞬間、「はっ」と気付く。慌てて懐をまさぐって取り出したのは、口を縛った袋であった。京から美濃へ引き返す際、半兵衛に持たされた物だ。事態に急変あった際にはこの袋を開けよと。
藁にも縋る思いで糸を解くと、嚢中には一枚の手紙が入っていた。それを開き、中に書かれていた文面に目を走らせる。そして読み終えたその時には、彼はにやりと口角を上げていた。
「そういう事か……!!」
越前へと進路を変えた織田徳川連合軍はまさに連戦連勝、破竹の勢いで進撃を続けていた。金ヶ崎城を落城させ、このまま進めば一城ヶ谷を陥落させるには三日もあれば十分であろうと誰もが思っていた。だが。
木ノ芽峠に差し掛かったその時、陣中へと早馬を飛ばし、深鈴率いる精兵五百騎が駆け込んできた。その中には五右衛門は勿論、半兵衛の影武者である前鬼や鉄砲の名手である子市、宗意軒の姿もあった。
「銀鈴……!! どうしてここに……」
京の守りを任せていたのにと、咎める事はしなかった。深鈴が受けた命令を放棄してまでこの場に現れるとなれば、何か分からないが兎に角余程の事情があっての事であろうと、信奈はそこまで察していた。
全身に玉の汗を浮かべ、息を切らしていた深鈴は竹筒に入っていた水を飲んで人心地を付けると、まだ荒々しい息遣いながらも、報告を始める。
「の、信奈様……はあ……浅井家が、はあ……離反しました……!!」
「な、何言ってるのよ、銀鈴……!! 浅井には勘十郎を遣ってるし、それに……」
夢物語でも聞いているような顔で、信奈が言い返してくる。確かに長政は今や信奈の身内。それが叛旗を翻すなどにわかには信じられまい。
「ですが、それがまことなのです……私の諜報部隊が掴んだ情報です。それとも信奈様は今回もまた、間違いがあったと思われますか?」
僅かに怒気を孕んだ声で、深鈴が言う。先日の前久の謀略による偽情報が入った時にも、深鈴が掴んだ情報は結局正しかった。あの時の信奈は万一の事も考えて完全には信じなかったが、今回はそうも行かない。
「けど……それでも……」
頭ではそう分かっているが、感情は別物。未だ完全に信じるには踏ん切りが付かないといった表情を信奈が見せる。すると空間から湧き出るようにして、闇が固まったかのような黒いボロ布で全身を包んだ忍び、加藤段蔵が姿を現した。
「段蔵!! 信澄殿は……!?」
「…………」
希代の忍者は無言のまま首を横に振り、そして懐から小豆袋を取り出して、手渡す。
「これは……」
小豆袋は、前後の口がきつく縛って閉じれていた。それを見て、深鈴は全てが理解出来た。何故に、段蔵がこれを持ってきたのか。そしてこの小豆袋が、何を意味しているのか。
「信奈様……これは、信澄殿からの伝言に他なりません。恐らく信澄殿は小谷から逃げられず、書をしたためる時間も無く、やむを得ず段蔵にこれを託したものと……」
<相違無い。浅井長政は幽閉され、我等は信澄殿だけでも連れ出そうとしたが、長政を置いては行けぬと拒まれ、その袋を預かった>
「今の織田勢はこの小豆袋に同じ。前の進路も後ろの退路も断たれ、全滅します」
そう言われて信奈は初めて今現在、織田全軍が窮地に陥っている事実を、はっきりと受け止められたようだった。
「信奈様……どうか、撤退のご下知を……」
「そうだったわね……」
頷き、床几より立ち上がる信奈。
「私自身が殿軍を務めて囮になるから、その間に……」
「なりません!!」
長秀が、今まで聞いた事も無いような強い口調で制止する。
「この退却戦の殿軍は、全軍玉砕するしかありません!!」
彼女の言う通り、ここでの殿軍は本隊を少しでも遠くに逃がす為に、押し寄せる浅井勢の前に出された死に残りの兵。総大将がそれを指揮するなど、馬鹿げている。
言われるまでもなく、信奈自身もそれが愚挙だとは分かっている。分かってはいるのだ。だがしかし、それでも。譲れないものが、譲りたくない一線が彼女にもあった。
「誰にそんな役目を命じれば良いの!? 私にはみんなが必要なのよ!! じゃあ、降伏よ……姫大名は、出家すれば殺されないし……」
「降伏すれば、必ず殺されますわ」
だが信奈の甘い希望は、久秀の一言で切って捨てられた。
「これだけの裏切り行為をやってのけた以上、浅井は報復を恐れ、決して信奈様を助命致しますまい。出家した姫大名は殺してはならじという戦国の倣いを無視し、問答無用で命を奪うでしょう。不慮の事故、家臣の暴走、毒殺……闇に葬る手段はいくらでもありますわ」
「織田家は……いえ、これからの日本は姫様無しには立ち行きません!! 家臣の一人に……その配下の手勢達に、殿軍の役目を……死を、賜りますよう。天下布武の大号令を発した以上、犠牲は出ます。お覚悟を!!」
例えその役を命ぜられるのが己であろうと構わぬと覚悟を決め、長秀が詰め寄る。それを受けて信奈の表情が、悲痛に歪んだ。
「そんな命令……出来る訳が……」
一斉に、その役目を自分にと、家臣達が名乗り出ようとした。信奈に、自らの家臣に死を命じたという負い目を背負わせない為に。だがこの場の誰よりも、
「その役目、どうかこの私に賜りますよう」
深鈴が、そう口にするのが早かった。
「銀鈴、あんたは……」
「私は元よりそのつもりで、ここまで来ました」
浅井の離反を伝えるだけなら身一つでここへ来るか、五右衛門を走らせればそれで事は済んだ。なのに何故、合理的な彼女が配下の精鋭五百騎を連れてきたのか。全てはこの為だった。
「死ぬわよ? 死んじゃうわよ!? それで良いの!? 姫巫女様が言ってたじゃない、あんたは遠い所から来たって!! それが……こんな所で死んでも良いって言うの!? そこまでして護るものが、あんたにはあるって言うの!?」
全てを悟った信奈は深鈴の襟をぐっと掴んで、涙ながらにそう訴える。彼女の言葉は理という筋道の通ったものではなく、ただ自分の胸中の、深鈴の心を変えさせようとする感情を並べ立てただけのものだった。仮に殿軍を申し出たのが他の者だったとしても、同じだったろう。信奈は家臣達を真の家族のように、強く想っていた。
その想いを全て理解して、全て受け止めて。深鈴はそれでも、
「あります」
迷い無く、そう答えた。
「信奈様……確かに私はここではない、遠き地の生まれです……ですが……例え私が尾張の生まれだったとしても、だから命を懸けるのではありません」
今はもう、遠い昔のように思える織田家に仕官したあの時。その時はまだ、織田信奈に対して特別な感情を抱いているという訳ではなく、ただ前途有望な大名の下に就く事で身の安全を確保して食い扶持を得ようとしただけだった。
だがそうして、織田の家臣として働く中で。
勝家、長秀、犬千代、光秀、五右衛門、半兵衛、そして信奈。
「信ずべきものあってこその未来。護るべきものあってこその世界。無二の主と、同じ未来を望んで想いを分かち合う仲間を。この命を賭してでも護るべきものを……見付けたのです」
何もかも全て覚悟した上で、深鈴はここに来たのだ。彼女の声が、目が、そう語っている。この強い意思は崩せないと理解して、信奈は諦めたように襟から手を離した。そこでもう一度、「死んじゃうわよ」と、俯きながら言う。
深鈴はそんな主の顔をそっと撫でて、怖い夢を見た子供を安心させようとする母親のように、優しく言葉を掛けた。
「信奈様……私は、死にません」
「……ぇ?」
消え入りそうな声と共に、信奈が顔を上げる。それを確かめると、深鈴は自分の胸にそっと手を当てた。指先に血の脈動が、命の鼓動が感じられる。
「今この時も、私の中にはあの濃尾平野で……ある方から頂いた命が息づいています」
それが誰なのかをこの中で唯一人知っている五右衛門が、目を伏せる。
「命はたった一つ。喪ったらそれきり……でも、命の中に在るものは残ります」
「命の、中に在るもの?」
「そう……宝石のように光って輝く、想いが」
人の為に何かをした。誰かの為に命を懸けた、その者の想いは消える事など決して無い。深鈴の中に今も、藤吉郎が今際の際に残した「お主は生きろ」という想いが、生き続けているように。
「命は奪い合うものではなく、繋がるものだと、私は思っています。逝ってしまった命の中に在った想いを受け継ぎ、自分が逝く時にはその想いをまた誰かに託して」
命の中で育まれた強い想いは決して消えず、喪われずに、永久に残っていく。その想いが在る限り、人は死なない。
「そうした強い想いが紡がれ続けていく事が、本当の命なのだと……私は信じています」
「銀、鈴……」
全ての言葉を聞き終えた時、信奈の涙は止まっていた。もう、数分前までの泣いていた少女の目はしていない。何かを決意して、何かを乗り越えた光を、今の彼女の瞳は宿していた。
頬に伝っていた涙を拭い、己が臣下にしっかりと向き合う。
「あなたは……約束が、出来る?」
「何を?」などと間の抜けた質問はしない。信奈の求めるものが無理である事は、深鈴にも分かっている。だが、彼女とて何の勝算も無しにここへ来た訳ではない。その無理を成し遂げる目は、少なからず残されている。ならば自分は、自分の勝ちにベットするのみ。
「約束します。必ず、生きて戻ると」
その言葉を聞いた信奈はやっと、必死に絞り出した笑みを見せた。
「約束よ、銀鈴!! 命に代えての足止めなんか、許さないわよ!! 死んだら、許さないんだから!!」
笑っていられるのは、そこまでが限界だったのだろう。臣下に泣き顔を見せまいと信奈は振り返り、久秀に肩を抱かれ、付き添われて去っていった。
その後に残された諸将で、最初に深鈴の前に進み出たのは、勝家だった。
「死ぬなよ、銀鈴……」
流石のバカ力で手を握られて、深鈴は苦笑いしつつ思わず顔を歪めてしまう。勝家は涙をぼろぼろと流して何度も詰まりながら、別れの言葉を紡いでいく。
「あたし達の手勢から、殿軍を志願した奴を残していく。餞別だ」
「……感謝します」
「もう一度言うぞ、死ぬなよ!! 絶対だぞ!!」
鼻を啜りつつ勝家は陣払いの指揮を開始し、次に深鈴の前に出たのは長秀だった。普段は穏やかな笑みを絶やさない彼女は、今は押し殺したように沈痛な表情であった。
「銀鏡殿……御武運を……」
「京で、お会いしましょう」
互いにぺこりと頭を下げあって、長秀もまた撤退の指揮に入る。その次は、犬千代の番だった。無言のままの彼女へ、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ所で、ぎゅっと抱き締められる。流石に織田家中で一二を争う槍の遣い手。先程の勝家にも劣らぬ剛力であり、深鈴は思わず手足をばたつかせた。
「ちょ……!! 犬千代、痛いわよ!!」
「……犬千代も、ここに残る」
「……果たすべき義務を、間違えないように」
その言葉を受け、犬千代がはっと顔を上げる。深鈴の義務は本隊を逃がす為に、朝倉勢を足止めする事。そして犬千代の義務は、小姓として信奈を守る事だ。
織田の家臣という分を離れて我が儘を言っているのがどちらか。新参の深鈴に教えられたようで、犬千代は一度頷いた後に無言のまま体を離す。その時、彼女の頬に光るものが伝っていたのを、深鈴は見逃していなかった。
「……さよなら。またね。ばいばい」
「……!! はい、また」
犬千代もまた、その言葉を最後に陣を後にしていく。残ったのは、
「弱っちい銀鏡先輩一人で殿軍なんて、一瞬で全滅確定じゃないですか。こんな所で死なれたら、私は先輩に負けっ放しで終わっちまうですからね。だから渋々ながら、援護してやるです」
「私もです~。三河が独立出来たのも、銀鈴さんが吉姉さまに進言して下さったお陰だと~。ご恩返しさせていただきます~」
二人のその想い、嬉しくないと言えば嘘になるが、だが……それに甘える訳には行かない。如何に策を用意しているとは言え、これから赴くのが死地である事には、変わりないのだから。
「お気持ちだけを、受け取っておきます。あなた達の命の懸け時は、今ではない筈ですよ?」
元康には信奈の天下統一の後、平和になった日ノ本を治める仕事が、光秀にはいずれ信奈が七つの海に漕ぎ出す時、共に世界に繰り出す役目が待っている。
そして深鈴の命の懸け時は今、この時。
それを伝えられては、光秀も元康もこれ以上食い下がる事はしなかった。今惜しまれるのは時間。ここで残る残らないの押し問答を続けていては、深鈴の決意が無駄になってしまう。どちらも一廉の将である二人には、それが分かっていた。だから、その代わりに。
「この十兵衛が虎の子の鉄砲五十挺、貸してあげます!! 必ず生きて帰って、利子付けて返しに来やがれです!!」
「私からは、半蔵を残していきます~。本人も希望していますから~」
元康は微笑みながら去っていき、光秀もまた、ここを発つ時が来た事を悟る。
「いいですか!! ここで死ぬようなら、所詮はこの明智十兵衛光秀の好敵手ではなかったと、笑ってやりますからね!!」
「それは……困りますね……では、笑われないように、是が非でも戻らねばなりませんね」
互いに軽口を叩き合って、光秀もまたこの陣を去っていった。これで本当に、深鈴を除く全ての将が引き上げた事になる。
後に残ったのは、深鈴が連れてきた五百騎と殿軍を志願した五百名。合わせて千名。押し寄せる二万の朝倉勢を相手にするには、あまりにも矮小な戦力と言える。だが、
「銀鏡氏の事は、拙者が必ずお守り致すでごじゃる!!」
この時代に来てから最も長い時間を共有してきた五右衛門が居る。
「親分が噛んだ!!」
「ごじゃるが出た!!」
「この戦い、勝てるぞ!!」
同じだけの時間を共に在った、川並衆の面々が居る。
「全く……人間共は涙もろくて面倒だが、そこが面白い。この俺も仕え甲斐があるというものよ」
半兵衛より遣わされた上級式神、前鬼が居る。
「お初にお目に掛かる。我等服部党、主の命を受け、これより銀鏡殿の指揮下に入る」
伊賀の忍び部隊を率いる頭領、服部半蔵が居る。
<貰った金の分は、働かせてもらう>
その半蔵に並ぶ程の腕を持つ当世最高の忍者の一人、『飛び加藤』こと、加藤段蔵が居る。
「ま、私も孫市と決着を付けるまでは死ぬつもりは無いしね」
日本二の鉄砲撃ち、子市が居る。
そして残った足軽達も、
「ワシ等皆、銀鏡殿の為に死ぬ覚悟を決めてますみゃあ!!」
「銀鏡殿が、俺達を侍にしてくれたんだみゃあ!!」
「たとえ俺達の最後の一人が殺られても、銀鏡様は無事に京へと帰してみせまするぞ!!」
彼等の多くは深鈴が抱えていた食客や墨俣築城の折に集めた元野武士であり、皆深鈴に恩がある。こんな時に働かねばいつ恩返しが出来ようかと、士気は高かった。
ここに居る何名が生き残れるのかと思うと、深鈴は思わず鳥肌が立つのを自覚したが、しかし彼女は頭を振ると、そのような後ろ向きな考えを吹き飛ばした。
半兵衛から聞いた事がある。将たる者が事を為さんとする時、留意せねばならぬ事が三つある。天の時、地の利、人の和だ。
人の和については、皆運命を共にする覚悟。既に条件を満たしている。
次にここは山中。彼女の策に欠かせぬ、地の利もまた織田勢にある。
「後は……」
空を見上げる。夕焼け空は徐々に暗くなりつつあり、半刻(約一時間)もすれば、陽が沈むだろう。
「天の時も……私達の味方をしている。これなら……!!」
いける。これで、やれる。
確信めいた予感を胸に、深鈴はぐっと手を握った。
「では皆さん、この私は戦って死ねなどと甘い事は言いません。必ず生きて帰りましょう。しかも朝倉勢に目に物見せた上で、ね」
「「「おおーっ!!!!」」」
一斉に槍刀が掲げられ、歓声が上がる。
「我等は先だって信奈様が落とした金ヶ崎城まで後退。そこを、防衛線とします」
馬上の深鈴を先頭とする千人の動きを木の枝に座って見下ろしていた宗意軒は、「やれやれ」と苦笑と共に一息吐いて、軽やかに飛び降りた。
「ま、俺も美味い飯を食わせて貰ってる手前、働かねばならんか」
言いつつ、親指で山高帽のつばを上げ、先程の深鈴がそうしたように天を仰ぐ。まだ太陽の光が僅かに残っているが、それでも天空にはちらほらと光が見え始めている。
「星が速い……今夜辺り、未来が変わるかもな」