織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第25話 幻の大軍

 

 防衛拠点として金ヶ崎城に入った深鈴達がまず行った事は、城の至る所に旗指物を立てる事だった。これは所謂「見せ勢」、つまりこの城には兵が多く残っていると、迫り来る朝倉勢に思わせる為のものである。

 

 もしこちらの寡兵を見破られれば、朝倉勢は鶏を割くのに牛刀を用いはすまい。彼等の狙いは殿軍を務める少数の兵ではなく、あくまで信奈の本隊。あちらも少数の手勢にこの城を任せ、大多数は城を素通りして本隊に追撃を掛けるだろう。

 

「……可能な限り多くの兵を受け止め、本隊が逃げ切るまでの時を稼ぐ……か。確かに、撤退戦の定石だが……」

 

 作業を進めつつ、どこか奥歯に物が挟まったような口調の半蔵が言う。

 

「しかし銀鏡様、それではとても持たないみゃあ!! 我等はたった千人だぎゃ!!」

 

 彼の言いたかった事は、足軽の一人が代弁してくれた。

 

 確かに、この金ヶ崎城に僅かな兵しか残っていないと朝倉方が判断したのなら、敵方の多くはここを無視して本隊の追撃に移るだろう。それでは殿軍の意味が無い。しかし逆に、彼等がここに兵が多く残っていると判断するという事はつまり、二万の大軍がこの城に一斉に襲い掛かってくるという事なのだ。いくら城の利があると言っても兵力差は圧倒的。押しまくられて守りを破られ、千名悉く撫で斬りの根切り(要するに皆殺し)にされるのは火を見るよりも明らかな未来だ。

 

「それに……」

 

 足軽は深鈴を見て、その先を言い淀んだ。贔屓目抜きにしても彼女は若く、美しい。捕らえられたが最後、死ぬより惨い目に遭う事は想像に難くない。

 

 ……という、彼の気遣いを深鈴は読み取っていた。「ありがとう」と微笑して返す。そんな風に話していると、今度は別の足軽が手を挙げた。

 

「薩摩の島津家には、”捨て奸”(すてがまり)ちゅう戦法があるでごわす。今からでも作戦を変えるべきでは……」

 

 九州生まれの足軽が説明したその戦法は、分かり易く言うなら「トカゲの尻尾切り作戦」。殿軍の中で更に少数の部隊を留まらせて死ぬまで敵軍を足止めし、その部隊が全滅した後はまた別の部隊を残し……と、これを繰り返す事で本隊を逃がす事を最優先とする戦術だった。その性質上、足止めに残った部隊が生存出来る可能性は万に一つも無い、文字通り捨て身の戦法である。

 

「その提案は却下するわ」

 

 深鈴がそう言うと、しかし足軽達からは一斉に抗議の声が上がった。

 

「何故だみゃあ、大将!!」

 

「俺達の事を哀れに思うのなら、それは無用の事。ここの者達は皆、あんたからは既に命を差し出しても惜しくない程の恩を頂いておる」

 

「甘えは捨てなされ!!」

 

「そうでごわすぞ。深鈴様一人が京に帰り着ければ、おい等千名皆死んでも、この戦はおい等の勝ちでごわす!!」

 

 彼等の覚悟と想いを受け、深鈴は思わず目頭が熱くなったが……しかし同時に申し訳なくもなった。彼女としてはそこまでセンチメンタルな理由だけで、捨て奸を却下した訳ではない。この策にはもっと根本的な問題があるのだ。

 

「……捨て奸はそれを行うのが薩摩の強兵である事を前提とした戦術。いくら腕利きを揃えたとは言え、ここに居る者の多くは日本最弱の尾張兵。十分な効果を挙げられるとは思えないわ」

 

「う……」

 

 四半刻(約三十分)もせぬ内に朝倉勢が押し寄せようと言うのに憎らしいほど冷静な深鈴にそう言われ、九州者の足軽が言葉に詰まってしまう。すると今度は、手にした鎖鎌をじゃらじゃら鳴らしながら武芸者が進み出た。彼の名は刃金甚五郎(はがねじんごろう)。山田流の鎖鎌術を納めた腕自慢の食客である。

 

「では、やはりこの城にて命を……」

 

「捨てないわ」

 

 きっぱりと、深鈴は言い切った。

 

「信奈様が許してくれないし、十兵衛殿に笑われたくないからね」

 

「甘いぞ銀鏡深鈴!! 捨て奸もせぬ、城を枕に討ち死にもせぬ。それでは貴様はどうやって、雲霞の如きあの大軍を食い止めるつもりだ!!」

 

 半蔵がそう怒鳴るのも、当然と言えば当然である。今までのやり取りを聞く限り、この殿軍の大将は全くの無策で戦おうと言っているようなものではないか。

 

「まぁ、落ち着いて下さいよ半蔵殿」

 

 明日の夕食の献立について話すかのような口調の深鈴は、「まずは状況を整理してみましょう」と返す。

 

 捨て奸を実行しても、十分に敵を足止めする事は出来ない。

 

 この城に立て籠もっても、二万の兵に一気に攻められて終わり。

 

 冷静に考えれば考える程、自分達が今、絶体絶命の状況下に置かれているのがはっきりと分かるようになった。

 

「要するに……常識的な戦法で戦う限り、どうあっても私達は全滅するという事ね」

 

「なっ……」

 

 深鈴の口から出た言葉に、半蔵は絶句する。兵達の前でこんな事を言うなど……死に残りのこの軍は士気だけが頼りだと言うのに、これではその士気も萎えてしまう。自分で自分の首を絞めて、ついでに墓穴まで掘るとは。織田家中随一の知恵者と評判の彼女が、そんな事すら分からないのか!?

 

 深鈴を殺し、指揮権を奪い取る事すら真剣に考えた半蔵であったが……懐に隠した苦無を掴んだその時に「ですから」と彼女が言葉を続けた事で、一旦手を止めた。

 

「常識的な戦法で駄目なら非常識な戦法で戦うだけ。当たり前の、簡単な理論でしょう?」

 

「……能書きは素晴らしいが……」

 

 言いながら、半蔵は懐中の苦無から手を離した。

 

「具体的な策はあるのだろうな?」

 

 疑念混じりにそう尋ねられ、深鈴は「勿論」と即答する。

 

「まずは……」

 

「銀鏡氏!!」

 

 言い掛けたそこに、五右衛門が走ってきた。

 

「朝倉軍が来たでござる!!」

 

 その報告を受け、全員に緊張が走る。覚悟していた瞬間が、遂にやってきた。しかし未だ深鈴は落ち着いたものである。慌てて事態が好転するならいくらでも慌てふためくが、兵の上に立つ者はこうした時こそ逆に冷静になって、どっしり構えておかねばならない。三つの心得と共に半兵衛から教えられていた将帥の心構えを、彼女は忠実に実践していた。

 

「五右衛門、子市は?」

 

 尋ねられて、少女忍者はさっと物見櫓を指差す。

 

「お指図通り、観測手・弾込め役・着火役と共に櫓の上に待機しているでござりゅ」

 

「結構」

 

 報告を受け、満足げに頷く深鈴。このやり取りを聞き、自分達の大将が全くの無策ではなかった事に足軽達はほっと胸を撫で下ろした。そうだ、思い返してみればこの人はいつも突拍子も無い行動を取ってきたが、そういう時に限って素晴らしい成果を挙げてきたではないか。今回もきっとそうだ。

 

 ……と、安心したのも束の間、次にその頼れる大将の口から飛び出た言葉に、彼等はまたしても度肝を抜かれる事になる。

 

「では……旗指物を片付けて」

 

「「「はっ?!」」」

 

 足軽達も、半蔵達も、前鬼ですらもが自分の耳を疑った。兵の数を多く見せる為の旗を片付けたら、こちらの寡兵がバレる。そうしたら朝倉勢はここを素通りして本隊を追撃する。それでは何の為に自分達がここに残っているやら分からなくなる。大体して、多くの旗指物を立てるように指示したのは少し前の深鈴本人ではないか。これは朝令暮改どころの話ではない。

 

 聞き間違いだ。何かの聞き間違いに決まっている。誰もがそう思った。だが、

 

「聞こえなかったの? 指物を片付けろと言ったのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 押し寄せる朝倉勢二万の先頭に立つのは真柄直隆(まがらなおたか)と真柄直澄(まがらなおずみ)。共に大剣の遣い手であり、剛勇を以て名高い猛将姉妹であった。

 

 撤退する織田軍追撃の命を受けていた彼女達であったが、木ノ芽峠に差し掛かるまでは抵抗らしい抵抗を受けるどころか、尾張兵の一人も見付けられなかった。

 

「これは……恐らくは、金ヶ崎城に殿軍が残っているのだろうな」

 

 直隆の予想通り、夕陽に照らされる城には木瓜紋の旗が至る所に翻っていた。

 

「ふん、じゃあ手始めにそいつらから血祭りに上げてやるか!!」

 

 直澄が舌なめずりしながら言った、その時だった。立て掛けられた旗指物が急激に倒れ、減っていき、五分もしない内に一本もなくなってしまった。

 

「何だ……?」

 

 降伏するのか、それとも何かの策があるのか。そんな思考と共に一時軍の足を止める真柄姉妹。すると今度は城から「だぁん」という聞き慣れた乾いた音が二度三度と鳴った。種子島の銃声だ。

 

 しかし、撃ち出された銃弾は猛将姉妹は勿論、足軽の一人にも当たらなかった。それも当然で、城から朝倉軍までにはまだ五丁(約500メートル)もの距離がある。これほどの間合いでは当たるとか当たらないとかそういう話ではない。届きさえしない。空気抵抗によって勢いを失った弾は、情けない音を立てて地面に小さな穴を穿つだけだった。

 

「はん、この距離で鉄砲が届くか」

 

 嘲笑しつつそう言う直澄に対して、直隆は「読めた」と、そう言ってこちらはにやりと笑う。

 

「あの城には僅かな兵しか残っていない」

 

「……と言うと?」

 

「もし本当に大軍を隠しているなら敢えて少数に見せ掛け、我等の油断を誘う為に旗指物は立てぬ」

 

 だが、それならば最初から立てなければ良い。ならば何故、一度は立てた旗指物をわざわざ片付けるのか? 答えは、一つだ。

 

「最初は旗を立てて我等を引き付けようとした……が、いざこの大軍を前に意気が挫けた。そこで慌てて隠して実はこの城には大軍が潜んでいるぞと、そう見せ掛けて我等の攻撃を慎重にさせる腹づもりだ」

 

 その証拠に、届かないと分かっていて種子島を撃ってきた。

 

「我等に近付かれたくないからだ」

 

 

 

 

 

 

 

「……と、朝倉勢が上手くこちらの寡兵を見破ってくれれば良いのだけど……」

 

 利き目の左で望遠鏡を覗き、城の手前で動きを止めた朝倉勢の動きを観察していた深鈴だったが、彼女がそう呟き終わったとほぼ同時に、押し寄せてきた軍勢に動きがあった。

 

 兵が、二つに割れた。

 

 真柄姉妹率いる主力部隊は城を素通りし、信奈達本隊の追撃に。残りの二千ほどが、こちらに向かってきている。つまり、金ヶ崎城を攻め落とすにはこれぐらいの手勢で十分と判断しての事だろう。小勢を、見破られた。

 

「さて銀鏡……ここまでは全て、お前の思惑通りに進んだ訳だが……次はどうするのだ?」

 

 優秀な生徒へ、見事な解答を期待して課題を与える教師のような口調で前鬼が尋ねる。尤も、この場合は教師役の彼でさえ課題の答えが何であるのか知らないのだが。

 

 深鈴は、ちらりと兵士達に視線を送る。城に押し寄せてくるのはほんの一部とは言え、それでもこちらに倍する大軍である。武者震いしている者がちらほら見られ、槍や刀の柄を後で筋が固まりそうな程に強く握り込んでいる者も多い。

 

 深鈴は大将として、そんな彼等に掛ける言葉の内容は選ばなければならなかった。こうした場合には無責任な激励などではなく、自信の裏付けとなる具体的な事例を挙げるのが良いだろう。

 

 ならばと、彼女はうってつけの言葉を選んだ。

 

「皆、慌てないで!! 墨俣を思い出して!!」

 

 良く通る声を張り上げると、兵士達の緊張が僅かに治まったようだった。

 

「言われてみれば……」

 

「この状況は……」

 

「あの時に……」

 

「そっくりだみゃあ……」

 

 遡る事数ヶ月、深鈴の手勢が墨俣に一夜で城を築いた時、驚いた美濃勢はすわ一大事とその城に攻め寄せてきた。最初に攻め寄せてきたのは斉藤義龍自らが率いる稲葉山城の軍勢だった。

 

「確か、あの時は……」

 

 一人の足軽がそう呟き、同時に彼の頭上から「だぁん」という音が降ってくる。

 

 銃声。撃ったのは、どこよりも高い物見櫓から迫り来る朝倉軍を睥睨する日本二位の鉄砲撃ち・子市。足軽達が櫓から城外へと視線を移すと、侍大将の一人が落馬する所だった。鐙に足が引っ掛かって、空馬に引き摺られてまだこちらへ向かってくる。

 

 僅かな間を置いて再び銃声が響き、侍大将がまた一人落馬する。そう、遠距離からの一方的な連続攻撃によって押し寄せる敵軍の出鼻を挫くのは、あの時も子市の仕事だった。

 

 天才カラクリ技士・源内が作った改造火縄銃”鳴門”と、「雑賀孫市」の候補生であった元雑賀衆・子市の業。この二つの組み合わせはおよそ種子島の常識を越えた三丁(約300メートル)もの射程距離を実現していた。しかも恐るべきはそれだけではなく、観測手を付けた事による命中精度の更なる向上と、長篠の戦いで有名な三段撃ちの応用による驚異的な連射速度。

 

 子市は、撃ち終わった種子島を助手に渡して新しい物を受け取るのに3秒、受け取った銃を構えるのに1.5秒、照準(サイティング)に2.5秒、およそ7秒に一度の割合で引き金を引いていた。即ち7秒に一人ずつ、朝倉勢の侍大将が撃ち殺されている計算になる。

 

 その威力は勝ち戦と高を括って攻めてきた朝倉勢を驚かせ、迫り来る足を鈍らせるには十分な効果があった。

 

「そ、そんな!! こんな遠くから種子島が届く訳がない!!」

 

「しかも連続で撃ってきているぞ!!」

 

「連発銃だ!! 織田軍は、南蛮の新兵器を使ってるんだ!!」

 

 城から最も距離が近い先鋒が、崩れかける。しかし、

 

「怯むな!! いくら連発出来ようと一度に撃ってくるのは一発ずつ、我が軍勢全てを撃つ事は出来ぬ!! 進め!! 退く者はワシが斬り捨てるぞ!!」

 

 勇猛な一人の大将の鼓舞が、完全なる崩壊を押し留めた。彼の指摘は正しい。いくら”鳴門”が高性能な鉄砲であろうと三丁先から百発百中の狙撃が可能なのは、遣い手が子市であるからこそ。他の者が使っても到底、これほどの命中精度・射程距離にはならない。そして相手は二千の兵である。指揮官を狙って勢いを削ぐ事は出来ても、彼女一人で軍団それ自体を止める事は出来ない。

 

 更に数人の侍大将が斃されたが朝倉勢は構わず前進し、城の大手門まで二十間(約36メートル)の距離にまで接近する。刹那、今度は「だだだだだぁぁん」と、連続した銃声が響く。その大轟音に朝倉勢は怯む、暇も無かった。

 

 再び、同じように連続した銃声が響く。数秒の感覚を挟んで、もう一度。

 

 この距離は、通常の種子島でも十分に射程内。深鈴は光秀から預かった五十挺と彼女が率いてきた兵があらかじめ持っていた五十挺。合わせて百挺を射手・弾込め役・着火役に分けた五百人に使わせる事で矢継ぎ早の連射を実現していた。

 

 乱射を受けた朝倉勢は、たまらずバタバタと倒れていく。これも墨俣の時と同じだった。どこまで敵を引き付けてから撃てば良いのかはあの時既に、半兵衛が教えてくれていた。墨俣で鉄砲隊に号令を掛けたタイミングを、その瞬間の美濃勢と自軍との間合いを、深鈴は見逃してはいなかった。病床に伏せって京に残っていても、それでも半兵衛は一緒に戦ってくれている。

 

「こ、今度は一杯撃ってきたぞ!!」

 

「む、無理だ!! あんな中に突っ込むなんて!!」

 

「死にに行くようなもんだ!!」

 

 今度は何人の侍大将が怒鳴っても立て直す事は出来ず、これで朝倉勢は完全に崩れた。

 

「銀鏡氏!!」

 

 五右衛門のその声に深鈴は頷き、

 

「今よ!! 門開け!! 全軍突撃!!」

 

「「「おおおーーーっ!!!!」」」

 

 ばっと腕を振ると同時に大手門が開き、出撃の時を待ちわびていた五百名が一斉に打って出る。数は四分の一、本来ならば衆寡敵せずという教えを無視した愚挙、自殺行為であろうが、敵が算を乱しているこの瞬間ならば話は別。しかも彼等は全員が殿軍を志願した決死隊、死ぬ気の軍勢である。一人が十人を倒す勢いで、朝倉勢に襲い掛かった。

 

 それだけではない。

 

「服部党、参るぞ」

 

 半蔵に率いられた伊賀忍者達が朝倉軍の中へと突貫、手裏剣を投じ、苦無で切り裂き、マキビシを撒き散らし、焙烙玉を投げ込んで大爆発を起こす。

 

「…………」

 

 段蔵もまた黒塗りの忍刀で、ある者は喉笛を掻っ切り、ある者は鎧の隙間に刃先を通して、更には小柄な体からは到底想像出来ない剛力によって首を軽く400度は捻転させ、次々屠り去っていく。

 

 しかもこの大攻勢の中にあって流石に百挺の種子島による三段撃ちは止まっていたが、子市の狙撃は間断無く続いていた。彼女が放つ銃弾はその一発も味方へは当たらず、すり抜けるようにして朝倉方だけに命中していく。

 

「う、うわあああっ!!!!」

 

 観音寺城攻めの時もそうだったが、恐怖の臨界点を超えた最初の一人が逃げ出すと、後はもうイモヅル式であった。足軽達は我先にと背中を見せて逃走していく。彼等は首一つ取っていくらの出稼ぎ兵士である。命あっての物種であった。

 

「あ、こら!! 逃げるな!! 逃げる者は……ぎゃっ!!」

 

 そう叫びかけた大将は、言い終わらない内に両眼の間にもう一つ穴を増やして、落馬した。

 

「よーし、そこまで!!」

 

 五百名の鉄砲隊を引き連れ、護衛役の五右衛門を背負うようにして騎馬した深鈴が出て来た時には大方事は済んでいた。短い時間で五百近い死者を出した朝倉勢は総崩れとなり、敗走していった。倍近い兵を退けたこの戦果だけでも賞賛に値すべきものがあるが……しかし本来ならば勝ち鬨を上げて然るべき千人の表情は、暗い。

 

 確かに城に攻め寄せてきた二千人は蹴散らした。だが残り一万八千の主力部隊が、本隊の追撃に掛かっているのだ。自分達は、役目に失敗したのではないかと。

 

 だが違う、違うのだ。失敗などしていない。寧ろ、ここからなのだ。

 

「みんな、まずはご苦労様。これで私の策は……完全に成ったわ」

 

 深鈴はそう、自信たっぷりに言ってみせる。

 

「銀鏡深鈴……ここまで全て、本当に、貴様の計算通りだと言うのだな?」

 

 訝しむように、半蔵が尋ねてくる。この問いに、深鈴は間髪入れず頷いた。尤も、これは半分嘘だ。この状況に至るまでには運・博打の側面も多分にあった。特に朝倉方が「多くの兵が残っているから、敢えて旗指物を片付けているのだ」と読んだ場合には、それこそ籠城して矢弾が尽きて槍刀が折れるまで、最後の一人に至るまで死ぬまで戦い、時間を稼ぐしかないと考えていた。賽の目が丁と出るか半と出るか、そこはもう賭けだったが……彼女はそれに勝ったのだ。

 

「寧ろ、嬉しい誤算が混じってすらいたぐらいですね。思ったより早く、この城に振り分けられた分隊を蹴散らせましたから」

 

「……良いだろう。貴様の思う通りにやってみるがいい」

 

 一応の納得を示し、半蔵が引き下がる。それを見て取った深鈴は、足軽達に指示を出した。

 

「ではみんな、漏斗(じょうご)を持って」

 

 そう言われ、漏斗三百個が足軽達に配られる。しかし、それを手にした彼等は戸惑った顔だ。ウチの大将はこんな物で、一体全体どうしようと言うのだ?

 

 ……などとは思いつつも、先程もそうだったが深鈴は今まで、余人の想像を超えた奇策を使って成果を挙げてきた身。そうして築き上げてきた信頼が、今回も何か考えがある筈だと不満と不審の感情を抑えていた。そうして三百名が漏斗を手にしたのを確かめると、深鈴はまずは前鬼に向き直った。

 

「前鬼さん、霧を出して下さい」

 

「……ん、まぁ、それは構わぬが……」

 

 上級式神もまた足軽達と同じような半信半疑の心境なのだろうが、しかし今は懐疑の念よりも信頼が上回ったようだ。それともいちいち問答している場合ではないという判断か。いずれにせよ言われた通りに呪を唱え、山道に霧を張り巡らせていく。

 

 天を仰ぐ深鈴。既に陽は没し、黒に染まった空には星々が輝いている。「良し」と呟いて拳を握る。これで全ての条件はクリアされ、準備は万端整った。それを確かめるとここに集った千人へ、彼女は再び声を張り上げた。

 

「みんな、私達はこれより、本隊の追撃に入った朝倉軍主力へ、追い討ちを掛けるわ!!」

 

 それを聞いた兵達からざわめきが洩れる。中には「あの大軍に真っ向から!?」「自殺行為だ!!」などという声も聞こえるが、しかしこれは深鈴にとって予想出来た反応。慌てず、話を続けていく。

 

「大丈夫!! 今の朝倉方にとって、追う事は頭にあっても追われる事など全くの想定外!! これは完全な奇襲になる!!」

 

 力強くそう言い放った事で、不安げな声は少し治まったようだった。僅かにだが「やれるかも」という空気が漂い始める。深鈴はそれを見逃さなかった。畳み掛けるように声を大きく、口調を少し早くする。

 

「そして夜の闇とこの霧が、私達の姿を隠してくれる!! 皆、力の限り鬨の声を上げ、この千人を大軍に見せるのよ!!」

 

「おおっ」

 

「成る程、大将はこれを狙っていたのか」

 

「更に漏斗を持った者は、穴が小さい方を口に当て、大声を出して!!」

 

 源内に作らせた三百個の漏斗は両手を使って持つ程に大きく、「足」が短くしかも太い作りになっている。これでは到底漏斗としての用途など果たせないであろうが、深鈴としてはそれで良かった。彼女はこれを漏斗として使う気など最初から無かった。大きな声を出す為の道具、つまり彼女が生まれた未来で”メガホン”と呼ばれた道具の代わりとして使うつもりだったのだ。

 

 これは源内独自の発明品という訳ではなく、正史に於いても武田軍が使った記録が残されている。

 

 三増峠の合戦にて武田軍は同じような漏斗もどきをメガホンとして使い、北条氏に駆り出されて戦に参加した千葉衆へ「千葉氏にとって北条は仇敵の筈、何故北条を攻めようとする武田に槍を向けるのか」と訴え、戦意を無くさせたという。この奇策は北条側からは「槍刀での勝負を厭い、声で勝負を挑むとは卑怯千万!!」と酷評されたらしいが、しかし逆に言えば「声」もまた、戦場に於いては立派な武器になり得るという事を証明している。

 

 深鈴はそこから学び、この道具と「声」を自らの作戦に組み入れたのだ。

 

「そうか、この漏斗もどきはその為に……!!」

 

「そこまで考えの内だったとは……!!」

 

「流石は深鈴様だみゃあ!! こんな手を思い付くとは!!」

 

「やれる……やれるぞ!!」

 

「そうだ!! これなら行けるぞ!!」

 

 下がりかけていた士気が再び最高潮にまで蘇ったのを確かめると深鈴は手にしていた槍を振り、先程真柄姉妹に率いられた朝倉勢が進んでいったその先へ、穂先を向ける。括り付けられた銀の鈴、彼女の旗印が、気持ちの良い音を立てた。

 

「ようし!! 総員、駆け足!! 持てる最大速度で朝倉軍に突入するわよ!!!!」

 

「「「おおおおおおおおおおっ!!!!!!!!」」」

 

 

 

 

 

 

 

「ん?」

 

 最初に異常に気付いたのは、真柄直澄だった。

 

「どうした?」

 

 直隆が尋ねる。

 

「いや……何か……声が聞こえたような……」

 

「そう言えば……鬨の声のような……?」

 

 きょろきょろと視線を動かしてみると、いつの間にか自分達の周囲に深い霧が立ち込めているのに気付いた。山の天気は変わりやすいが、それにしても数分前まではこんな霧は出ていなかったように思うが……

 

 そんな風に考えていた、その時だった。

 

 オオオオオオオオオオオ……ッ!!!!

 

 聞こえた。今度は気のせいなどではなく、はっきりと。「まさか!!」と振り返ると霧の中に、駆けてくる軍勢の影が見えた。分隊がもう金ヶ崎城を落として合流してきたのかと思ったが、そうではない。

 

 鬨の声は、明らかに迫ってくる軍団から発せられている。味方が合流してくるのに、雄叫びを上げる訳がない。つまり……

 

「なっ……!!」

 

「そんな、まさか……!!」

 

 そう、まさかだ。真柄姉妹だけでなく朝倉方一万八千の誰もがそう思い、戸惑いの感情を抱いた時だった。信じられない程に大きな声が、山中に響き渡る。

 

「策は成ったわ!! このまま大軍で以て押し潰せぇっ!!!!」

 

「何ぃっ!?」

 

「馬鹿な……!!」

 

 戸惑いが、動揺に変わる。同時に一つの確信も生まれた。今まさに自軍に突っ込んでくる謎の軍団は、織田勢であると。

 

「それもこの声の大きさは……これは、千や二千の兵ではないぞ!!」

 

「しまったぁっ、やられた!! 織田信奈は、金ヶ崎城に大軍を隠していたのか!!」

 

「敵は後ろだ!! 備えろ!!」

 

 だが間に合わなかった。朝倉軍が陣立てを変えるよりも早く、深鈴を先頭に織田軍団が突入した。

 

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うが、人間は恐怖や先入観を持っていると何でもない小さな物が、恐ろしくて大きな物に見えたりする。たった一人で慣れない山道を歩いていると、岩の模様や木に空いた穴が怪物の顔に見えるように。今の朝倉勢はまさにそれであった。

 

 もし少数の手勢しか城に残っていなかったのなら、この大軍相手に打って出られる筈がないという思い込みがあった。

 

 それだけではない。

 

 天の時。夜の闇が前鬼が作り出した霧と共に兵の実数を隠し。

 

 地の利。山間という地形がただでさえ大きな声を反響させ、更に大きくし。

 

 人の和。千の兵が一丸となった事で鬨の声は共振し合い、鼓膜を破らんばかりの大轟音と化す。

 

「まさかこんな手があったとはな……流石の俺も、撤退戦で追い討ちを掛けるのは初めての経験だ」

 

 これが織田家中随一の知恵者・銀鏡深鈴の知略かと、脱帽したという顔の半蔵が朝倉勢に手裏剣を投げ付けながら、呟く。百戦錬磨の彼をして、いやなまじ経験豊富であるからこそ、撤退戦は逃げながら戦うものだという常識があった。この追い討ちはまさしく深鈴が言っていた通りの”非常識な戦い方”だ。

 

 しかし、全くの常識破りな戦法という訳ではない。そもそも奇襲とは、敵の思いも寄らぬ所を衝いて襲う事。朝倉方が「少数ならば打って出てくる訳がない」と思っているからこそ、打って出た。そういう意味では非常識どころか、寧ろ兵法の基本を忠実に守っての一手であるとも言えた。

 

 朝倉方にとっては、逃げる織田軍を追う筈の自分達が逆に織田軍に追われるというこの状況は完全にまさかの、思考の外の出来事。

 

 あらゆる要素が重なり合い彼等の目には、たった千人の兵が一万にも二万にも見えていた。その混乱に乗じ、突入した織田軍は最後尾から先頭へと、全員が一本の槍となったかのように突き抜けて、敵陣真っ直中を突破していった。如何に奇襲とは言え、一度混乱を収束されてしまえば寡兵の織田勢は退路を断たれた死兵となり確実に全滅する。故に、最速にて朝倉勢を抜かねばならなかった。圧倒的に見えてその実は針の穴を通すようなギリギリの奇策であったが……だが、やり遂げた。

 

 この奇襲によって朝倉軍は多くの将兵を討たれてしかも大混乱に陥った訳だが、深鈴達が残していった被害は、それだけに留まらなかった。

 

 たった千人で奇襲されるとは夢にも思わなかった朝倉勢は、何が何やら分からずに人影を見れば敵と勘違いし、闇の中で同士討ちが始まったのだ。こうまで混乱の極致に達すれば如何なる名将であろうと、事態を収拾する事は容易ではない。真柄姉妹も例に漏れず軍団を立て直す為に相当な時間を要し、深鈴達に逃げる時間を与える事となったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ペース配分など全く考えない全力疾走によって朝倉勢を突破した深鈴達であったが、後方の敵から十分な距離を空けた事を確認すると小休止を取った。

 

「深鈴様、俺達はまだ走れますにゃあ!! 少しでも遠くへ逃げた方が……」

 

 元気をアピールする足軽達から抗議の声が上がりもしたが、その反対を押し切って彼女は兵を休息させた。今の彼等は極度の興奮状態であり、体がどんな疲労困憊であろうと頭が疲れていると思っていないだけなのだ。

 

 この手の疲れはじわじわと蓄積するものではなく、緊張の糸が切れた時にどっと襲ってくるものなのである。深鈴はそれを知っているからこそ、無理はさせなかった。

 

 ふと兵達を見回してみると、兵の数が少なく見えた。実際に数えた訳ではないが、目算で五十人から八十人ぐらい足りないように見える。

 

「…………」

 

 分かっていた事だ。どんなに策が図に当たったとしても、どんな最良の戦であろうと、犠牲者は出る。彼等を死に追いやったのが自分だと思うと深鈴は胸が痛んだが……しかし今の自分が為すべき事は悲しむ事ではないと、心痛を意識から切り離す。

 

 十分ほどの休息の後、深鈴は出発の号令を下したが、再び駆け出す前に足軽達の中で十名程を班にして呼び出した。

 

「深鈴様、何か?」

 

「あなた達はこれから、旗指物をこの辺りに立てて、朝倉方が来たらさっきの漏斗を使って大声を出して」

 

「成る程、偽兵の計か」

 

 感心した表情で「やるな」と前鬼が頷く。

 

「大声を聞いた朝倉軍は、少数の手勢を繰り出して本当に伏兵が居るのかどうか調べようとする筈よ。そうしたらすぐに逃げて。旗だけが立っているのを確かめたら、敵はあなた達を追うのではなく私達の追撃に戻るだろうから、逃げ切るのは難しくないと思うわ」

 

 半蔵も「恐らく朝倉勢は銀鏡深鈴の言った通りに動くだろう」と、その策に賛成票を投じる。

 

 先程の奇襲によって大被害を受けた事で、朝倉勢は追い討ちの一気呵成ムードから一転、慎重になっていると想像出来る。万一伏兵が居ては今度は壊滅させられるかも知れぬと、大声を聞けば一度軍を止め、伏兵の有無を確かめようとするだろう。

 

 つまり、彼等が捜索に費やす分だけ時間が稼げるのだ。

 

 だが、追っ手の速度を殺す為に深鈴が打っていた手はこれだけではない。

 

「銀鏡氏!!」

 

 木から木へと飛び移って、五右衛門と段蔵がやって来た。

 

「お指図通り、朝倉方が進んでくると思われる道に、鋼線を張り巡らしゃちぇおいちゃでごじゃる!!」

 

<高さは三段階。足下と、立った人間の首の高さ、騎乗した人間の首の高さ>

 

 五右衛門はこんな時でも噛み噛みで、段蔵はこんな時でも紙面を寄越すだけだ。特に後者は、月と星の明かりだけが頼りなので深鈴は読み取るのに苦労した。

 

 乱波が使う鋼線は細さと強度を兼ね備え、しかも研がれた刃物のような鋭さをも併せ持っている。

 

 ただでさえ肉眼では見えにくい細い鋼線に、この暗闇である。何も知らずに走ってきた朝倉軍がトラップゾーンに突っ込んだら……まぁ、下手なスプラッタムービーが真っ青になるような惨劇が起こるだろう。そして一度でも、文字通り引っ掛かってくれればしめたものだ。彼等は同じようなトラップがあちこちに仕掛けられているのではと疑心暗鬼になり、全速での追撃が出来なくなる。

 

「……貴様のように悪辣な手を使う輩は、初めて見たぞ」

 

 呆れ顔で、半蔵が言う。「褒め言葉と受け取っておきますよ」と深鈴は返して、行軍を再開した。彼女の策が当たったのか後方から追い立てられる事も無く、殿部隊は若狭にまで入った。これなら逃げ切れるかも……と、誰かが呟いたその時だった。

 

「待て!!」

 

 低空を飛んで進んでいた前鬼がさっと手を上げて、部隊の動きを止める。

 

「どうしたんです? 前鬼さん」

 

「銀鏡深鈴、拙い事になった。若狭の土御門が、朝倉に付いたようだ」

 

「……土御門、と言うと……」

 

「日ノ本の陰陽師の頭領だ。かつては安倍家を名乗っていた者共で、今は土御門家と称して戦乱の京を避け、若狭に隠棲していた筈だったのだが」

 

「その陰陽師が私達を討つ為に動いた、と?」

 

「どうもそうらしい。この先に結界を張り巡らせ、我等を待ち伏せているぞ」

 

 前鬼が指差すが、しかし異能の力を持たない深鈴の目には、彼の指の先にはただただ山が広がっているだけにしか映らない。しかし前鬼の金色の目には、土御門の結界が放つ眩い光が確かに見えているようだった。威嚇するように牙を剥き出しにしている。

 

 しかしだとすればこれは由々しき事態である。高位の陰陽師が使う式神の力の恐ろしさは、前鬼が証明済み。今度はそれが敵に回って襲ってくるのである。

 

『ここへ来て、大変な強敵が現れたわね……』

 

 深鈴にとってもこれは完全に計算外の出来事であった。何か策を考えなければと思考を巡らせるが、どうやら敵はそんな暇を許してはくれないようだった。

 

「見ろ。どうやら、向こうから来たようだぞ」

 

 再び前鬼が指差すと今度は目に見えない結界などではなく、実体を持った人間が姿を現した。しかし、只の人間でない事は一目で分かる。前鬼と同じく足を使わず重力に従わず、ふわふわと空中に浮いて山頂へとせり上がってきていた。

 

「この子が、土御門……?」

 

「そう、僕が土御門家当主・土御門久脩(つちみかどひさなが)。そろそろ京に戻ろうかな、と思ってね。そうなれば新たに京の支配者となるであろう浅井さん朝倉さんへの手土産が必要でしょ? そこでこれより、織田の今信陵君、銀鈴の首をもらおうと決めたんだ」

 

 現れたのは十歳程の幼い子供だった。こんな子供が……とも思ったが、しかし彼が纏いて放つ異様なオーラは、この少年が下手な軍勢よりも恐るべき敵であると教えるには十分だった。

 

 半蔵が手裏剣を投げたが、久脩の周囲には見えない壁が力場としてあるようで、それに弾かれてしまった。

 

「な、何だ、あの子供は……」

 

「拙いんじゃあなかろうか……」

 

 人は理解出来ないものを恐れる。十倍以上もの大軍に突っ込んでも一歩も退かずに戦い抜いた勇者達が、恐れに身を震わせ始めていた。

 

「久脩とやら、何を血迷って今更京に戻るなどと言い出した? これは子供の遊びではないぞ」

 

 警戒態勢を崩さず、前鬼が尋ねる。少年陰陽師は完全な人間の姿になれる上級式神を見て少しだけ驚いたようだったが、絶対強者としての余裕は崩さなかった。

 

「竹中なんとかとかいう田舎陰陽師が、こともあろうに織田信奈に仕えて京に来た。この国の陰陽師の頭領たる僕を差し置いて、今孔明なんてもてはやされているらしい。実に不愉快だよ。だから面倒っちいけど京へ上って、身の程知らずの陰陽師を誅しなくちゃ。僕と竹中なんとかの、どちらが最強の陰陽師かを決める戦いをしなくちゃと思ったのさ」

 

 「だから」と前置きした久脩が手を上げると、彼の背後に数十体の異形が姿を現した。あらかじめ喚んでいたのだろう式神達だ。身構える前鬼だが「止めておいた方が良いよ」と、敵である久脩に制されてしまう。

 

「君ぐらい上等な式神なら、分かってるだろ? 式神同士の戦いは質より量。君がどれほど強くても、この数には勝てないよ」

 

 その言葉と共に振り下ろされた久脩の小さな手が、ギロチンのロープを切る斧だった。空中から血に飢えた数十体の式神が牙を剥き出して爪を振るい、殿軍へと殺到してきた。

 

「よ、妖怪変化だにゃあ!!」

 

「あんなのにどうやって勝つんだみゃあ!!」

 

「助けてくれぇっ!!」

 

 ここへ来て殿軍最大の武器であった、士気が崩れた。さしもの命知らず共も、人智を超えた魔性の者共が相手では悲鳴を上げるしかなかった。戦列が、崩れる。

 

 万事休すか。

 

 しかしただでは殺られはしないと深鈴が馬上筒を構え、「銀鏡氏、逃げるでござる!!」と五右衛門がせめて盾になろうと前に出る。その時!!

 

「喝っ!!」

 

 裂帛の気合いと共に一瞬だけ光が走り、それが治まった時には式神達の姿は無く、無数の護符が宙に舞っているだけだった。

 

「これは……!!」

 

 久脩の余裕が、初めて崩れた。「誰だ!! 僕の術を破ったのは!!」とヒステリックに叫ぶ。深鈴は「前鬼さん?」とすぐ傍の式神を振り向くが、彼も「俺ではない」と首を横に振る。

 

「出て来い!! 誰だ!!」

 

「俺だよ」

 

 取り乱した久脩の声に応じて、進み出たのは。

 

「ふん、何もお前さんの虚仮威しにビビリ上がる腰抜けばかりではないという事さ。理解したかね? クソガキ」

 

 目深に被った山高帽、宣教師の衣装の上から羽織った薄汚れた外套、糸のような線目。戦場に在っても崩れない、鉄のような笑顔。南蛮帰りの森宗意軒であった。

 

「お前か……巫山戯た真似をしてくれるね……」

 

「巫山戯た真似はお前だろう? 半兵衛の犬も言っていたが、ここはクソガキの遊び場じゃあない。とっとと若狭に帰って、クソして寝な」

 

 ここで言葉を終えていれば、久脩にしても敵に恐るべき術者が居ると警戒して、まだ事態は穏便に収束したかも知れなかった。しかし、

 

「そうすれば命だけは助けてやる」

 

 宗意軒は一言多かった。

 

 半兵衛の供をして稲葉山城に行った時もそうだったが、この男は人様の地雷を踏み抜くクセがあった。いや、実際には意図して踏みに行って相手の反応を楽しんでいるのかも知れない。

 

 当然、ここまで煽られては童子の身でありながら一門の当主の座に就き、始祖・安倍晴明の再来とも謳われた少年陰陽師の腹の虫は治まらない。人形のような美しい顔が、憤怒に歪んだ。

 

「……決めたよ」

 

 羽のように重さを感じさせない動きで、地に降り立つ久脩。木綿筒服の袖口から数十の護符が飛び出し、彼の手に納まった。

 

「銀鈴の首は後回しだ。まずはお前から、殺してくれと懇願するような痛みの中で嬲ってあげるよ」

 

 子供の戯れ言と笑うには、先程繰り出した式神達は説得力があり過ぎた。彼にとってそれは脅しでも何でもなく、単なる通告に過ぎないのだろう。

 

 しかし、それを受けても宗意軒はいつもの笑みを崩さず、すぐ後ろの深鈴を振り返る。

 

「聞いての通りだ、大将。このクソガキは俺を術比べの相手にご指名のようだ。あんたらは先に行くといい。俺もコイツの尻を百回ばかり叩いて、すぐに後を追うからさ」

 

「宗意軒……」

 

 仲間をたった一人で敵地に残していく事に深鈴は躊躇いを見せたが、しかし自分達が残った所で人ならざる魔物相手にやれる事は無い。それどころか彼の足手纏いになるだけだと、合理的な判断が先に立つ。

 

「頼むわ!! 無事に戻って!!」

 

 久脩の脇を通り抜けるようにして、深鈴は馬を走らせる。大将が敵のすぐ傍を走る事に兵士達は警戒心を見せたが、しかし少年陰陽師の関心はもう完全に深鈴から宗意軒に移っていたようだ。彼は飽きて箱の底に仕舞われるオモチャのように、深鈴に一瞥さえもくれずに見逃した。

 

「私達も、今の内に!!」

 

 子市に指揮され、足軽達も久脩の横を通って先に進んでいく。最後に前鬼が宗意軒を振り返ったが「さっさと行けよ、半兵衛の犬」と憎まれ口に背中を押されて、送り出された。そうしてこの場にはたった二人、土御門久脩と森宗意軒だけが残される。

 

「ふん、中々どうして優しいみたいじゃないか。仲間を先に行かせる為に、自分は捨て石になるなんてさ」

 

 手にした護符に念を送り、式神達を次々と召喚していく少年陰陽師は「まぁ、お前を生殺しにした後はすぐに追い付いて殺すけどね」と挑発するが、表情が笑顔一つしかない宗意軒はまるで爬虫類のようで、顔から感情の変化を読み取るのが難しかった。

 

「まぁ……色々と言いたい事はあるが、俺が優しい男だという一点だけには同意しておくかな」

 

 言いつつ、トレードマークを脱いだ。

 

「へぇ? それはどういう意味だい?」

 

「簡単な事さ。ウチの大将は色々と覚悟を決めてるけど、それでも所詮は十代の女の子だからな。ちょいと刺激が強すぎると思ったのさ」

 

 そう言った宗意軒は手にした山高帽を放り捨て、髪を掻き上げる。

 

「これからお前さんの身に起こる惨劇は、な。地獄を見せた後で、比良坂へと放り込んでやるよ」

 

 線目が見開かれ、久脩のそれよりも尚冷たい輝きを放つ三白眼が露わになった。

 


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