織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

27 / 33
第27話 鬼神の恩返し

 

 若狭と西近江の国境、水坂峠では闇の中を無数の影が飛び回り、ひっきりなしに刃のぶつかり合う金属音が鳴り響いている。

 

 ここでは深鈴の命を狙って現れた甲賀者と、半蔵率いる服部党プラス加藤段蔵による忍者対決が繰り広げられていた。

 

 形勢は、服部党有利に傾いていた。服部半蔵は後世に於いて忍者の代名詞とさえ呼ばれる事となる希代の忍びであり、彼を中心としたまとまりのある戦力は、明らかに甲賀忍者達よりも一枚上手であった。しかもその半蔵と互角の実力を持つ段蔵が、中忍(甲賀には上忍という身分は無く、最高位は中忍)を自分が引き受けて敵部隊と指揮官を引き離した事も、戦闘を有利に進めた一因であった。

 

「ひゅーっ」

 

 音も無く甲賀忍者の背後に回った半蔵は、すかさず手にした苦無で喉を引き裂いた。吹き出る血と共に空気が漏れるような音がして、その乱波はがっくりと倒れる。

 

「残りは!!」

 

「こちらも全て、殺りました!!」

 

「後は、飛び加藤殿が引き付けていった中忍だけです!!」

 

 服部党を集め、段蔵はどうなったかと彼あるいは彼女が中忍と共に消えた方向へと、木々を飛び移って進んでいく半蔵。50メートルも進むと急に視界が開けて、広場のようになった場所に出た。そこで、段蔵と甲賀中忍は数メートルほどの間合いを取って対峙していた。

 

 中忍が右手を上げると、段蔵は全く同じタイミング・角度で左手を上げた。同じように中忍が左手を上げると、段蔵は今度は右手を上げる。その様はまるで鏡映しのようだ。

 

 この事態が如何に危険なものなのか、服部党の面々には一目で分かった。

 

「い、いかん!! 飛び加藤殿は催眠術に掛かってしまったのだ!!」

 

「あの中忍と同じように手足を動かしているぞ!!」

 

 忍者達は助太刀しようと進み出るが、半蔵に制された。

 

「頭領!! どうして……」

 

「まあ、見ていろ」

 

 そう言っていると、事態に動きがあった。段蔵が袖口より、黒塗りの忍刀を取り出す。中忍に動きは無い。天才忍者はそのまま無造作に刀を突き出して、中忍の心臓を貫いた。そのまま、どさりと倒れる中忍。間違いなく即死、苦しむ暇も無かっただろう。

 

「おおっ!!」

 

 ひとまず全ての敵を排除した事を確認した段蔵はボロ布の内部へ忍刀を収納すると、服部党へと近付いていく。彼等は段蔵が催眠術に掛かって中忍と同じように手足を動かしていたと思っていたが、事実は全くの逆であった。中忍が段蔵の催眠術に掛かって、彼あるいは彼女と同じように手足を動かしていたのだ。

 

「流石だな」

 

「…………」

 

 半蔵だけがそれを見抜いていたのは、好敵手ならではと言うべきか。

 

「これで、片付いたな」

 

<任務完了せり。これよりは深鈴様達に合流し、護衛の任を再開すべき>

 

 いつも通り喋らず、紙面に書いた文章で会話する段蔵だが、半蔵以下服部党は皆忍者であり夜目が利く。意思の疎通に苦労は無かった。

 

「うむ。では、行くぞ」

 

「「「承知!!」」」

 

 半蔵の命令に声を揃えて返すと、忍者集団はその身を影と為し、闇から闇へと駆けた。

 

 

 

 

 

 

 

「はあ、はあ……」

 

 手頃な木を背もたれにした深鈴の呼吸は、浅く速い。

 

 前鬼率いる百名の決死隊による浅井勢足止めはどうやら成功したらしく、これまで後方から追い立てられる事は無かった。落ち武者狩りの一揆衆とは何度か鉢合わせたが、彼等はあくまで負け戦によって算を乱して逃走する中で逸れた少数名を討取る事を目的とした集団であり、曲がりなりにも部隊の体を為した六百名を相手に出来るものではない。前方に居た十名ばかりを蹴散らすと、後は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 

 そうして何とか逃避行を続けてきた殿軍であったが水坂峠を越えて朽木谷の手前に差し掛かる頃には、流石の強者共にも疲れが見えてきた。それも当然、自分達より遥かに数の多い軍団へ二度までも突っ込み、その後も大軍に背後から追い掛けられるというプレッシャーの下、冬の山道を走り続けてきたのである。体力・精神力共に平時の何倍も削られていた。

 

 時刻はもうすぐ日の出の筈だが、冬の夜は長く夜明け前が一番暗い。闇の帳は、まだしばらくは上がりそうになかった。

 

「銀鏡氏、そしてみんな、もう少しでござりゅ!!」

 

 と、五右衛門。

 

「この先の朽木谷を越えれば、京は目の前!! 後一息でごじゃる!!」

 

「通れるかどうかが心配だったが……この分なら問題は無さそうだな」

 

 種子島を点検しながら、子市が呟く。

 

 仮に本隊が朽木谷で立ち往生しているとしたら、ここまで来れば押し通ろうとする織田軍とさせまいとする朽木信濃守の軍勢とがぶつかり合う合戦の声が聞こえてきても良さそうなものだが、実際には恐ろしいほどに静かだ。恐らくだが交渉に成功し、通行許可を得たのだろう。となれば、自分達も同じようにフリーパスで通れると見て良い。

 

 そして辺りを見回してみると、道が通りやすいように整備されている。先にここを通っていった本隊の仕事だろう。道々には替え馬や食料も、駅伝制のように随所に用意されていた。

 

 この僅かな助けが、今はどれほど励みになる事か。一度は死んでもいいと覚悟を決めていた者達も、ここまで逃げてきたのだから、こうなったら京まで逃げ延びてやろうと生きようとする執念・希望の方が強くなってきた。

 

「銀鏡氏、そろそろ出発を……」

 

 そう言い掛けた五右衛門であったが、突如として「はっ」と表情を変えるとその場にしゃがみ込んで、耳を地面に当てる。

 

「五右衛門、何が……」

 

「しっ!!」

 

 強い口調で制されて、押し黙る一同。しばらく這い蹲った姿勢のままでいた少女忍者であったが、やがて厳しい表情になって顔を上げた。

 

「凄い速さで兵馬が近付いてくるでござる!! 数はおよそ千!! 恐らくは浅井のおっちぇかと」

 

「追っ手……では、前鬼さんの決死隊が突破されたの?」

 

「いや、これは馬が潰れる事を考えてないような速さでござる。遅れた分を取り戻そうと、にゃりふりかみゃわず、われりゃをおってきちぇるでごじゃる」

 

「……と、いう事は本隊の撤退は成功したと見て良いわね」

 

「と、言うと?」

 

「もしまだ本隊が撤退を終えていないのなら、浅井勢は私達を討った後にまだ信奈様達を追わなければならないから、馬の足を温存しておかなければならない筈。逆にこうして後先考えず全速力で追い掛けてくるという事は、信奈様の首を取る事はもう不可能になったから、こうなったら私達の命だけでも貰っておこうと、目標を変えたのよ」

 

 この土壇場に来ても、深鈴の頭脳はまだ冴えている。冷静な現状分析を行ってみせた事への驚愕と、そして推測ながら自分達の役目の一つが果たされた事への達成感が、一同を包んだ。

 

 本隊が逃げるまでの時間を稼ぐという任務は完了した。後は、生きて京に辿り着く事だけを考えれば良い。

 

 だがどうするか。背後の浅井勢は、先程までよりずっと速く追い掛けてくる。このままではこちらが京に到着する前に、追い付かれる事は必至。

 

「どうするもこうするもないだろう?」

 

 整備の終わった”鳴門”を、子市が構える。

 

「前鬼がそうしたようにまた百名ばかりここに残って、浅井の兵を足止めすれば良い。指揮は、私が執る。深鈴様はその間に残り五百名と共に、京へ逃げ込まれよ」

 

「おう、ワシもここに残りまするぞ」

 

「俺もだみゃあ!! 浅井兵共、ここで立ち往生させてやるにゃ!!」

 

「俺もだ!! 子市の姐さんにお供致しますぜ!!」

 

「子市……みんな……」

 

 深鈴の表情が泣き出しそうに歪む。前鬼が率いていた百名は、恐らく全滅したのだろう。そして今、子市と他の百名にも同じ運命を辿らせようとしている。

 

「そんな顔をなさいますな」

 

 ”鳴門”を担ぎ、子市は微笑する。

 

「もし金ヶ崎城で籠城していたら私達は間違いなく全滅していた。また、普通に撤退戦をやっていたのなら京まで辿り着く事は出来たかも知れんが、それまでに五百名も生き残っていられたかは、大いに疑問が残るな。あんたの指揮が適切だったからここまで犠牲は最小限に、これだけの人数が生きて来れたのだ。誇りに思って良いと思うぞ」

 

 鉄砲撃ちの分析は的確であった。確かに理詰めで考えればそうなる事は深鈴にも理解出来るが、しかし感情は納得しない。それでも少しだけ、彼女は胸にのしかかっていた重しが軽くなったような気がした。

 

 だが、事態はそのような感傷に浸っている事を許してはくれないようだった。まだ遠いが、馬蹄の響きが今度は五右衛門のように地面に耳を当てずとも聞こえるようになった。

 

「金ヶ崎城で誰かが言っていただろう? 私達が皆死んでも、あなた一人が京に戻れたのなら、この戦は私達の勝ちだ……とな」

 

 子市はそう言って、火縄に着火する。

 

「五右衛門、お前は深鈴様を京までしっかりと守……!?」

 

 そう言い掛けて先程の五右衛門と同じように、急に表情を変えると、いつでも撃てるようになった”鳴門”の銃口を闇の中へと向けた。「何を?」と深鈴が聞きかけるが、五右衛門もまた腰の忍刀を抜き、それなりに付き合いの長い深鈴が見た事も無いような緊迫した表情で、子市が狙っているのと同じ闇の中を睨む。

 

「どうしたの、五右衛門?」

 

「銀鏡氏……今すぐ馬に乗って、出来る限りここから離れられよ!!」

 

 口調も噛み噛みではなくなっている。それほどに今の状況が切迫しているという事だ。

 

「一体何が……」

 

 尋ねる深鈴だが、忍者も鉄砲撃ちもこの反応の鈍さには苛立ったようだった。

 

 確かに突然の事だし、時間を掛けて説明している暇も無いし、本格的な武術の心得が無い深鈴には分からないのも仕方無いが、それにしても自分達は今がどれだけ危険な状況なのか分かっているのに、護衛対象がそれを理解していないというのは腹立たしく思えるものがあった。

 

「急げ!! 恐ろしい奴が来てる!!」

 

「拙者と子市殿で何とか五分は持たせる故、その間に出来る限り遠くまで逃げるでござる!! 決して振り返らずに、全速力で!! 皆は、銀鏡氏を守るでござるぞ!!」

 

「へ、へい。親分!! さぁ、嬢ちゃんは早く馬に……」

 

「親分、俺も一緒に戦いますぜ!!」

 

「姐さん!! 種子島は四挺、準備出来てるみゃあ!!」

 

 先程までは戦場とは言え、休息中という事もあってそれなりに弛緩した雰囲気であったが、しかしそんな空気はものの十秒で吹っ飛んだ。五右衛門と子市。共にこの場の六百名の中では最強の使い手であろう二人が、ここまで最大警戒を示すのである。これは闇の中から迫ってくる”何者か”が、後方から追い縋ってくる浅井勢を上回る脅威である事を示している。

 

 漸く事態の深刻さを理解し、足軽達に京への道を急ぐように指示しようとした深鈴だったが、遅かった。

 

 闇を切り裂いてその恐るべき気配の主が、姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 

 若狭の山中、熊川の辺りでは、凄絶な景色が広がっていた。

 

 森宗意軒の秘術・魔界転生によって蘇った亡者達は、近付く生者を次々自分達に仲間入りさせ倍々ゲームで増え続け、今やその総数は数千にも達していた。葬列を為す屍兵が狙うのは、たった一人……!!

 

「こ……の……っ!! ふざけやがってぇっ……!!」

 

 少年陰陽師・土御門久脩は式神達が一匹消滅する毎に表情に皺を増やして、その度に分かり易い焦りの色を表に出していた。彼の命綱とも言える、式神召喚に用いる護符は、たった今最後の一枚となった所だ。つまりそれを使ってしまえば、もう彼には為す術が無くなるのだ。

 

 久脩とは対照的に宗意軒は、亡者達が担ぐ輿の上でゆったりとあぐらを掻き、落ち着いたものだ。朝倉・浅井の兵や落ち武者狩りの連中は、最初の内は次々押し寄せてきてその都度葬列に組み込まれていたが、流石に具体的に何が起こっているのかは理解出来なくとも、兎に角”ヤバイ”事が起こっているというのは分かったのだろう。彼等はこの一帯は避けて動いているらしく、亡者達が増えるペースは少し前に比べて随分ゆったりとしたものになっているが、それでも彼は既に、十分過ぎる兵力を手にしていた。

 

 倒されても倒されても亡者達は次々現れ、少年陰陽師が自分の周囲に何重にも、円陣のように配置した式神達はもう、最後の一列が残っているだけだった。これでは、槍や薙刀といった長柄の武器を持った亡者が、式神達が守る隙間から久脩へと致命打を突き入れる事も可能かも知れない。

 

「お前みたいな奴に、これ以上付き合ってられるか!! 僕は、帰らせてもらうよ!!」

 

 真剣に、これ以上は命の危険を感じたのだろう。久脩は捨て台詞を吐くと、手元に残った最後の護符を使い、翼竜のような式神を喚び出した。素早く、その背中に跨る。宗意軒が従える亡者の軍勢は人間の死者を操っているものなので、空中に逃げれば安全と見たのだろう。

 

「ははっ」

 

 顔を引き攣らせながらも、眼下の葬列を見下ろす久脩には強者の余裕と笑みが戻っていた。

 

 そして再びそれが失われるのに、十秒も掛からなかった。

 

 ガクンと、空飛ぶ式神の体が揺れる。

 

「な、何が……ひっ!!」

 

 一体何が起こっているのかと視線を下げた少年陰陽師は、目に入った光景に怯えた声を上げる。そこには無数の亡者達が、群がっていた。

 

 式神が飛び上がった瞬間、彼等の中の一体がその足を掴んでいたのだろう。そしてその一体の体を他の亡者が掴み、その亡者の体をまたの他の亡者が掴み……と、その繰り返しによって死者達は、まるで下ろされた蜘蛛の糸を上って極楽へと至ろうとする地獄の罪人のように仲間の体を掴んで、式神を頑丈なロープのように係留してしまっていた。取り付かれている式神には彼等を振り解くほどのパワーは無く、同じ高度で小さな円を描いてグルグルと回るだけだった。

 

「逃がすとでも、思っているのかね?」

 

 久脩の怯えた目と、宗意軒の冷たい三白眼が交差する。

 

「く、くそっ!! お前等!! 離せっ!! 下りろ!!」

 

 幼い陰陽師が唾を撒き散らしながら、叫んだ瞬間だった。無数の亡者に群がられ、引っ張られた式神がバランスを崩す。

 

「う、うわああああああああっ!?」

 

 ドップラー効果を引くような悲鳴と共に、久脩の小さな体は弧の軌道を描いて落下する式神ごと地面に叩き付けられた。

 

「う、うぐ……」

 

 墜落した時に打った右肩を押さえながら立ち上がった久脩が見回すと、そこには”死”が広がっていた。前も後ろも、右も左も。隙間無く、亡者達が押し寄せてきている。

 

 咄嗟にいつもの習慣で護符を取り出そうと懐をまさぐって、指先に何の感触も当たらない事に気付いた。何時間か前には千の兵士を天上から見下ろして絶対強者として振る舞った安倍晴明公の再来は、今は年相応の無力な子供でしかなかった。

 

「た、助け……」

 

「駄目だね」

 

 昨日までは考えもしなかった自分の死を突き付けられ、あろう事か敵の仏心に縋るようにして求めた救いは、にべもなく撥ね付けられた。

 

「お前は陰陽道という武器を手に、俺達を殺しにここまで来たんだ。だったら同じだけの危険を背負わねばならん。逆に俺達に殺されても文句を言えないのが道理ではないか。仮に同じ台詞を逃げていった奴等が言ったとしたら、お前は何と答える? ならば、俺がお前に返す答えもまた同じさ」

 

 パチンと、宗意軒が指を鳴らす。その音が、ギロチンのロープを切る斧だった。四方を囲んでいた亡者達が、また一人の生者を自分達の側に引きずり込むべく、殺到する。

 

「あ、あああ……ああああああああああああああああっ!!!!」

 

 数里先まで響き渡るような甲高い悲鳴も、やがて数多の屍兵が覆い尽くして、そして聞こえなくなった。

 

 人骨によって組み上げられた輿に座る宗意軒は、眉一つ動かさずにその一部始終を見下ろしていた。幾千もの死者を統括する彼にとってこれはもう、ありふれた場面でしかない。先程まで浅井や朝倉の兵を散々殺して軍団の兵力を拡充していたのと同じで、何千分の一でしかない。彼が統べる死者の葬列にまた一体、陰陽道を使える亡者が組み込まれただけに過ぎないのだ。

 

「さて……覗き見とは、些か趣味が良くないのではないかね?」

 

 宗意軒が睨み据えるのは、亡者達が群がっているのとはまるで別方向だった。彼の声が聞こえたのか、闇の中より「コーン」という独特の声と共にその者が姿を現す。木綿筒服を纏い、白羽扇を手にした細面の青年、前鬼だ。

 

「随分と派手に暴れたものだな」

 

 居並ぶ死者を見渡して言う上級式神のその声は、挑発しているようであり呆れているようでもあった。

 

「そうかね?」

 

 前鬼を襲わないよう亡者達に指示する宗意軒。彼の目は見開かれた三白眼から、既にいつもの線目に戻っていた。

 

「……で、俺に何の用かね? 半兵衛の犬」

 

 

 

 

 

 

 

 一夜明け、京の都は蜂の巣を突いたような騒ぎとなっていた。

 

「織田軍、越前から敗走。総崩れに」

 

「殿軍を率いる銀鏡深鈴は、未だ帰還せず」

 

 様々な噂が飛び交う中で、ねねは本能寺へと駆け込んでいた。「織田信奈はまだ無事で本能寺に居るらしい」という噂を聞き付けたからである。彼女の髪が少し水気を帯びているのは、先程まで深鈴の無事を祈って水垢離を行っていたからだ。頼みの綱の半兵衛は曲直瀬ベルショールが処方した薬が効いたのか、眠り続けており、彼女が縋るのはもうここしかなかった。

 

 門前にて警備の兵につまみ出されそうになったものの、運良く騒ぎを聞き付けてやって来た長秀に見付けられ、特別に境内へと通してもらえた。

 

「丹羽様。銀姉さまは、まだお戻りになられませぬか?」

 

「まだ知らせは入っておりません、ねねどの」

 

 ねねはそれを聞いて不安を強くしたようだったが、長秀の見方は少し違っていた。確かに深鈴の無事を知らせる報告は入っていないが……それは同時に、彼女が死んだという知らせも入っていないという事なのだ。長秀は思う。自分ならば少しでも姫様の本隊を遠くに逃がそうと、最後の一兵まで戦って間違いなく死ぬだろうと。

 

『でも……』

 

 そう。でも、だ。今や千にも上る食客達を集めた時も。国境から今川勢を撤退させて道三への援軍を出せる状況を作った時も。目の前にいるねねやうこぎ長屋の住人達の助力を得て今川本陣を田楽狭間に誘導した時も。墨俣に城を築いた時も。将軍宣下に必要な金を揃えようとした時も。

 

 どんな時も深鈴は、想像を越えた手練手管を弄してきた。もし自分が彼女だったとして、あそこまで出来ただろうか。

 

『……銀鏡殿なら今回も、何とか戻ってこれるような起死回生の一手を持っているやも……』

 

 そこまで考えた所で長秀は、死地に置き去りにしておいてなんと無責任な思考だと「零点以下ですね」と心中で自分を嗤った。

 

「ですが丹羽様達のご活躍で、織田軍は無事京に退却出来たのでしょう? ならば今すぐ銀姉さまを救出に向かわねば、ですぞ!!」

 

「それが……厄介な事態になっているのです。一点です」

 

 織田軍敗戦の報を聞き付けたのか、四国へ逃げた筈の三好一党が再び畿内を窺っており、甲賀に隠れていた六角承禎も再び南近江に姿を現した。更に、深鈴の殿軍による足止めが成功していようがいまいが、いずれ浅井・朝倉の連合軍も京に迫ってくるだろう。

 

「でも、銀姉さまを放っておく訳には……姫様に会わせてくだされ、ですぞ!! 姫様に直接お願いすれば、きっと……」

 

 そう言ってねねは力強く襖を開き、そして思わず言葉に詰まった。

 

 張り詰めた空気が充満したその部屋の中では未だ鎧姿の信奈が、ぎらぎらした目で広げた地図を睨んでいた。すぐ手前には正座した勝家が、沈痛な表情で命令を待っている。

 

「恐らく、浅井・朝倉連合との決戦の地は、坂本になるわ」

 

「姫様!! 銀姉さまを……」

 

 信奈はねねの言葉を、聞いていないようだった。

 

「六、あなたは先陣として一万五千の兵を率いて出陣、そこに防衛の為の陣を築きなさい。私もすぐに、第二陣として一万の兵を連れて行くわ。既に源内の火砲部隊もそこへ移動させる手筈になってるから……いい? 浅井と朝倉の兵の一人も、絶対にそこから先へは進ませないで。坂本を抜かれたら後は京まで一直線、私達の負けよ」

 

「はい、あたしの命に代えても、守り通してみせます!!」

 

 そう返して第一陣となる兵を編成すべく退出していく勝家は、長秀とねねと目が合い……だが何も言わずに立ち去るだけだった。

 

 入れ違いに部屋に入ったねねは顔を真っ赤にしてずんずんと信奈に詰め寄ると何も言わずに手を振り上げ、そしてぱしん、と、乾いた音が響いた。

 

 思わず、長秀が息を呑む。もしここに先程出て行った勝家が居たのなら泡食って卒倒していたか、悪くすれば腰の刀を抜いていたかも知れない暴挙だった。

 

「よくも……よくも……!! 銀姉さまを見捨てられましたな!! あれほど姫様に尽くされた銀姉さまを!! あれほど銀姉さまに目をかけて下さっていた姫様が!! 見損ないまし……た…………ぞ……」

 

 怒り心頭で信奈を罵倒するねねであったが、しかし左頬を赤くした信奈がゆっくりと自分の方を振り向いたのを見て、思わず息を呑んだ。

 

 爛々と光る両眼は、涙が涸れるまで泣いたのだろう。真っ赤に腫れていた。そして一睡もしていないのだろう、目の下はくっきりと生じた隈で、黒ずんでいた。

 

 ねねの中に燃えていた怒りは、もうどこかに消えてしまっていた。決して信奈は平然と深鈴を死地に置き去りにしたのではないと、分かったからだ。

 

「これで……少しは気が済んだ? ねね……」

 

 立ち上がった信奈は全ての感情を押し殺した表情で、くしゃっとねねの頭を撫でた。

 

「罪滅ぼしにもう少し殴られてあげたいけど……今は時間が無いの。一段落付けて戻ったら……その時は、好きなだけ私を殴りなさい」

 

 そんな事は何の解決にも罪滅ぼしにもならない、ただの偽善だと、信奈にはも分かっていた。分かっていたが……しかしこれぐらいしか、彼女はねねにしてやれなかった。

 

「万千代、後は任せるわ」

 

「……承知いたしました」

 

 紅い南蛮外套を翻し、撤退してきた兵を纏めて第二陣を編成する為に本能寺を去る信奈を見送って、残されたねねは胸を押さえて泣き崩れる事しか出来なかった。長秀はそんな彼女の背中をさすっていたが……不意に、背後に気配を感じて振り返った。

 

 ずらりとそこに並んでいたのは光秀、犬千代、元康の三名。

 

「この状況では大軍を動かす事は出来ないですが……ならばこの明智十兵衛光秀が近江に潜入して、銀鏡先輩を救出して来るです!!」

 

「……犬千代も、行く」

 

「わわわ、私も参ります~」

 

 これは仮にも一廉の武将である彼女達の仕事ではない。本来ならば乱波を送って行うべき任務だが、虎の子の諜報部隊を指揮する五右衛門と段蔵は深鈴の護衛として同行し、半蔵以下服部党もまた殿軍に同行している。繰り出せる乱波は、もう居ない。

 

 そして光秀の言う通り、浅井・朝倉連合に対する為の主力以外に三好や六角に備える為にも兵は必要であり、これ以上戦力を割く事は出来ない相談だ。だからこその、この三名であった。

 

「銀鏡先輩が簡単に死ぬとは思わないですが……万一の事があって張り合いのある競争相手に居なくなられてはたまらないですからね!! さっさと助けて、連れ戻してやるです!!」

 

「……犬千代は、とにかく、行く。止めても無駄。止めたら、斬る」

 

「私も銀鈴さんには大恩ある身ですから~」

 

 長秀は、引き留める事をしなかった。この三人の誰一人とて、言って止まるような生半な覚悟でここにいる訳ではないと、悟っていたからだ。これは下手をすれば深鈴に続いて彼女達までも失いかねない危険な賭けであるが……ならばその責は、全て自分が負う。彼女も腹を括った。自分にはそれぐらいしか出来ないと思ったから、せめてそれだけを。

 

 だが、ただ行かせる訳ではない。一つだけ、条件があった。

 

「生きて帰ると約束出来るなら」

 

「「「承知!!」」」

 

 こうして三名は深鈴捜索の為、休息もそこそこに逃げてきた道を、再び引き返していた。

 

 朽木谷に差し掛かり、朽木信濃守に聞いてみたが「誰も通っていない」と、返された。撤退時に久秀が交渉していたという彼の様子はどうにもおかしく、心ここにあらずという風でけたけたと笑っている。

 

 妙な男です、と訝しむ光秀であったが、今は詮索している暇は無い。地図を受け取り、更に先の水坂峠へと進もうとした時だった。前方から、数百名の軍団が駆けてくる。

 

「浅井勢ですか!!」

 

「……こんな時に……!!」

 

 愛刀と朱槍を構える光秀と犬千代だったが、「待ってください~」と元康に制された。

 

「十兵衛殿!?」

 

 フードのように被っていたボロ布を取って、その軍団の先頭を進んでいた騎馬武者の顔が、見えるようになる。現れたのは度の強い眼鏡に灰銀の長髪。三人が探していた顔だった。

 

「先輩!!」

 

 間に合った。それを確信した光秀は思わず涙を浮かべ、

 

「銀鈴!!」

 

「わっ!!」

 

 犬千代は思わず、その胸に飛び込んでいた。

 

「良かったです~」

 

 深く安堵の息を吐いた元康が気配を感じて振り返ると、そこには服部半蔵と服部党が勢揃いしていた。彼等もまた自分達の任務を成し遂げ、合流してきていたのだ。

 

 見れば段蔵もまた、深鈴のすぐそばで影のように佇んでいた。

 

「銀鏡氏、ここはまだ敵地にござるぞ。後ろは子市殿らが防がれているとは言え、ゆじゃんはにゃりもうしゃにゅ」

 

 深鈴の背中に掴まる五右衛門に咎めるようにそう言われて、一同は一度は緩みかけた気を引き締め直した。確かに、休息も気を緩めるのも、京に到着してからいくらでも出来る。

 

「私達が来たからには、もう安心ですよ!! このまま京まで一直線です!!」

 

「……急ぐ」

 

「それでは、行きましょう~。回れ右です~」

 

「みんな、もう少し!! 後一踏ん張りよ!!」

 

 深鈴の激励を受け、五百五十名はいる兵士達は歓声を上げる。既に気力体力は限界に達していた彼等であったが、朽木谷まで来ていて目的地である京はもう間近だという実感。それにたった三名とは言え、迎えが来てくれた事の心強さは、一時的にせよ疲れを忘れさせるに十分だった。全員、ここまで来たからには絶対に生き延びてやると気合いを入れ、最後の力を振り絞って坂道を駆けていく。

 

「それにしても先輩、後ろは子市さん達が防いでるって……一体、何があったですか?」

 

 殿軍を先導する光秀は、すぐ後ろを付いてくる深鈴に背中越しに言った。後ろから返ってきた声は、流石に疲れているのかちと弱々しかった。

 

「それは……」

 

 

 

 

 

 

 

「困ってるか?」

 

 闇の中から現れたのは身の丈七尺もある筋骨隆々の鎧武者……でもなく、先回りしていた浅井の伏兵数百人……でもなく。

 

 たった一人の少年だった。この戦場に在って具足も付けずに胴着姿で、持っている武器と言えば後腰に差した簡素な拵えの短刀のみ。どう見ても侍ではなく、と言って落ち武者狩りの農民にも見えない。

 

 鬼が出るか蛇が出るかと思っていただけに、警戒して身構えていた足軽達は拍子抜けしたようだった。何割か武器を下ろす者さえ居たが、五右衛門と子市はそれぞれ得物を構えたまま、目付きは鋭く警戒態勢を崩さない。

 

「銀鏡氏!! 早く逃げて……!!」

 

「待って」

 

 少年が指一本でも動かしたら即座に飛び掛かりそうな様子の五右衛門を制して、深鈴が前に出る。

 

「あなたは……」

 

「久し振りだな」

 

 どこかで見覚えがあるとは思っていたが、思い出した。彼は清水寺で相撲大会を開催した時、お忍びでやって来ていた姫巫女と一緒に本選を観戦した少年だ。あの時はその眼力で、試合の行方を百発百中に言い当てた事で印象に残っていた。

 

「困ってるなら、急ぐと良い。浅井の兵は、俺が止めといてやるから」

 

「え……いや、どうしてここに……そうじゃなくて、あなた一人で何が……」

 

 予期せぬ場所で予期せぬ者に出会って、何と言えば良いのか言葉に詰まった様子の深鈴であったが、すぐに今はそのような場合ではないと思い知らされる出来事が起きた。

 

 ひゅん、と風切り音が鳴って、少年は同時に手を深鈴の顔面向けて突き出した。思わず五右衛門と子市が動こうとするが、しかし突き出された彼の手は深鈴の鼻先で拳を作って止まっており、そこには一本の矢が握られていた。深鈴の顔面目掛けて飛来してきたそれを、少年が掴んで止めたのだ。矢は彼の手の中でじたばたと暴れて、びぃぃんという音色を立てた。

 

 どのような動体視力と反射神経を以てすればこのような離れ業が出来るのかと驚きの声が上がるが、しかしはっきりした事が一つ。この少年は、少なくとも深鈴を害する目的でここに現れた訳ではない。もし彼が敵であるのなら、矢を止めて彼女を助ける必要など無い。そのまま放置しておけば、間違いなく深鈴は死んでいたのだから。

 

 同じ結論に至ったらしい。五右衛門と子市は、まだ完全には警戒を解いてはいないようだったが、それぞれ忍刀と種子島を下ろした。

 

 と、その時。

 

「居たぞ!! 織田の殿軍だ!!」

 

「斬れっ!! 斬れっ!!」

 

 今度は少年が来たのとは反対方向から、武者達が大勢現れた。浅井の追っ手だ。数は、五右衛門が言った通りおよそ千。彼等は先鋒であろうが、遂に追い付かれた。

 

「銀鏡殿、逃げるみゃあっ!!」

 

 足軽達が武器を構えて迎撃しようとして、

 

「ちっ!!」

 

 子市が”鳴門”の銃口を彼等に向けて、

 

「銀鏡氏、逃げるでござる!!」

 

 五右衛門が手裏剣を投げようとして、

 

 しかしその誰よりも早く、風のように。

 

 瞬きしていたら見失ってしまいそうな一瞬の間に、信じられない距離と高さを信じられない速度で跳躍した少年の蹴りが、浅井勢の先頭に立っていた武者の顔面に炸裂して、落馬させる方が早かった。

 

 到底人のものとは思えぬ速度と威力を目の当たりにして、一瞬、敵も味方も。誰もが目を奪われる。

 

 少年は空馬になった鐙の上に降り立つと、ちらりと深鈴を振り返った。その強い意思の輝きに光る目が、己が力への絶対の自信を漲らせた薄い笑みが、語っている。「ここは、任せろ」と。

 

「頼むわね……みんな、行くわよ!!」

 

 騎馬した深鈴の指示を受け、足軽達も戸惑い、また浅井勢をじりじりと牽制するようにゆっくりと後退していたが、やがて背中を見せると一目散に駆けている。

 

 五右衛門は、まだ浅井の兵と少年の双方を警戒していたようだったが、しかし彼女もすぐに自分の役目を思い出すと、木々を飛び移って深鈴の後を追っていた。

 

「あ……逃げたぞ!!」

 

「追え!! 逃がす……」

 

 そう言い掛けた浅井の侍大将は、先程の一人と同じように襲ってきた足裏に顔面を潰されて、馬から落ちた。少年は再び、鐙の上に”着地”する。

 

「なっ……!!」

 

 先程と同じような離れ業に浅井軍は圧倒されたようだったが、しかし未だ戦意は萎えていない。「何をしている、相手は一人だぞ!! 押し包め!!」と、この敵を斃して深鈴の首を挙げんと、向かってくる。

 

 少年はたった一人で軍勢を前に恐れた様子も見せず、悠然たる態度を崩さず、

 

「退け」

 

 静かに、言い放つ。

 

「我は鬼(しゅら)。命の要らぬ者だけ」

 

 彼の端正な顔が、獣のような獰猛さを見せた。

 

「かかってまいれ」

 

 再び、鐙より跳躍。そうして飛び掛かってくる彼を浅井武者は串刺しにしてやろうと槍を突き出すが次の瞬間、思いも寄らぬ事が起きた。

 

 少年は目にも止まらぬ速さで突き出された槍を掴むと、自分に刺さらぬように払い退けて、そのまま鉄兜が足の形に変形するような蹴りを見舞った。

 

 そして再び鐙に立つと間髪入れずに再び跳躍し、立木の幹に垂直に”着地”すると、そのまま三角飛びの要領で再び跳躍し、恐ろしい勢いで襲い掛かると、また一人侍大将を蹴り殺した。

 

 今度はそのまま足軽達の中に降り立って、拳、蹴り、突き。次々襲い掛かる兵士達を、当たるべからざる勢いで薙ぎ倒していく。槍刀を手にして、鎧を纏った者共を無手で相手取り、しかも寄せ付けぬその戦い振りは、到底人とは思えない。あるいは彼の言葉通り、この者は本物の修羅やも知れぬと、誰もが頭の片隅に思い浮かべる。

 

「ひっ……」

 

 たった一人の敵に浅井勢が腰を退かせた、その時だった。

 

 だぁん。

 

 種子島の、大轟音が響き渡る。

 

「…………」

 

 少年がゆっくりと振り返ると、ちょうど後ろから彼に斬り掛かろうとしていた浅井の足軽が倒れる所だった。そうして硝煙越しに姿を見せたのは、子市。たった今の銃声は彼女の手にした、”鳴門”から発したものだ。

 

「逃げなくて良いのか?」

 

 意外そうな表情を見せる少年に対して、日本二の鉄砲撃ちはにやりと、不敵に口角を上げる。

 

「応ともさ。あんたはまるで……いや、まさに鬼神のようだが。だからと言ってあんただけ戦わせる訳には行かんよ。何、邪魔にはならないからさ」

 

 ぽいと、手にしていた一挺を背後に控える足軽達に投げ渡した子市は、背後を振り返りもせずに投げ渡された二挺を手にすると、流れるように滑らかな動作で銃口を浅井兵へと向け、引き金を引く。

 

 だだぁぁん。

 

「うわぁっ!!」

 

「ぎゃあっ!!」

 

 銃声が重なって鳴り響き、侍大将と足軽が倒れる。子市が一度の射撃に要する時間は、およそ7秒。しかしそれは三丁(約300メートル)も先の敵に命中させる際のものである。

 

 今、敵との距離はほんの数間。この距離では照準を行う時間は必要無い。動かした銃口の先が敵と重なる瞬間に引き金を引くタイミングだけが、全て。しかも二刀流よろしく両手に持った種子島での、同時射撃。更に、

 

「お前達!! 弾をバンバン込めろ!! ケチるな!!」

 

「へい、姐さん!!」

 

「弾込め、終わったみゃあ!!」

 

「こっちも!! 行きましたぜ!!」

 

 背後の足軽達50名は狙撃の際にも行っていた三段撃ちの要領で、数挺の”鳴門”も含む十数挺の種子島に次々弾を込めては火縄に着火し、撃てる状態となった物を子市に投げ渡し、更に撃ち終わった物を受け取ってはまた弾込めに移っていく。子市と彼等の間で種子島が次々行き来する様を、ここには居ない深鈴が見ればジャグリングのようだ、と感想を抱いたかも知れない。

 

 曲芸じみた連携によるその連射は、およそこの時代の射撃術の常識から逸脱した戦法だった。尤も、これは射撃手が子市ほどの達人である事を前提とした普遍性の無い技法ではある。もし他の者が真似すれば取り落とした種子島が暴発したり、狙いを付けるのに戸惑ったりまともに命中しなかったりで、自分で自分の首を絞める結果となったろう。

 

 しかし浅井勢に生じている被害を見れば、子市ほどの達人が使う限りに於いて、これは有効な戦法であると認めざるを得なかった。連続で響く数十発もの銃声は、長い一発分のそれに思えた。今の子市の連射速度はそれ程に速く、滅茶苦茶に撃ちまくっているとしか思えない乱射乱撃振りだが、その実一発も外さずに命中させていく。

 

 恐るべき直接火力支援を受けて、少年の動きはより精彩を増したようだった。まかり間違えば自分の背中を鉄砲玉が撃ち抜くかも知れぬと言うのに、そんな恐怖をまるで感じていないかのように浅井勢の間を飛び回り、次々蹴散らしていく。

 

 そして遂に、

 

「こ、こやつら……人ではない……鬼じゃ!!」

 

「逃げろ!! 刃向こうては、死ぬるぞ!!」

 

「一時退いて、隊を整えるのじゃ!!」

 

「援軍だ!! 援軍を呼びに戻るのだ!!」

 

 千の兵が、崩れる。

 

 凶器と化した五体と銃弾。その二つの猛威に晒されていた前列の侍大将達が後ろを見せると、後は糸を抜かれた着物の如しであった。この時代、兵の多くは金目当ての傭兵か、駆り出されて来た農民。指揮官が逃げ出したのに自分達だけ戦う訳が無かった。命に過ぎたる宝無しと、我先に逃げ出していく。

 

 無論、これで完全に撃退したという訳ではない。彼等はすぐに後続の本隊と合流して、先程に倍するほどの数を集めて戻ってくるだろう。

 

 子市とて、のんびりとそれを待っているほどマヌケでもお人好しでもない。その間にさっさとこの場を引き払い、京へと逃げ込む所存だった。居残り部隊総員に退却の指示を出す。

 

 と、指揮官として足軽達がそれぞれ朽木谷へと進んでいくのを見守る彼女は、少年が横道に逸れて山の中へと入っていくのを見咎めた。

 

「一緒には、来ないのか?」

 

「ああ」

 

 問われて少年は、ほんの数分前までの戦い振りが嘘のような、飄々とした笑みを返した。そのまま数歩ばかり進むと、「ああそうだと」呟いて振り返る。

 

「あんたの大将に伝言、頼めるか?」

 

「構わないが……何と?」

 

「また腹が減ったら、握り飯を食わせてもらいに行く」

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。