織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第29話 聖地の末世

 

 半兵衛を伴った深鈴が雲母坂(きららざか)に敷かれた織田軍本陣へと辿り着く頃には、既に夜が明けていた。召喚を命ずる手紙を受け取った時点で京を発っていればもっと早くに着けたろうが、彼女は信奈より京防衛を命ぜられた身。重要拠点の守りを疎かにする訳には行かず、指揮官たる自分や半兵衛が不在でもしばらくは持ち堪えられるであろう備えを整えていたが故の遅参であった。

 

 信奈も何の報告も受けずとも、そうした事情を察していたのだろう。遅くなった事を咎めはしない。代わりに、

 

「疲れてる所、呼び立ててすまないわね、銀鈴」

 

 そう、気遣う言葉を掛ける。深鈴はそれを受けて、

 

「いえ、ご用命とあらばいつ何時であろうと」

 

 と、膝を折ると極めて模範的な臣下の礼を取った。そうした後に立ち上がって、半兵衛と共に軍議の席に着く深鈴。既にここには勝家や長秀、犬千代、光秀、久秀を初めとして織田家の主立った武将達が勢揃いしていた。彼女達は約一名を除いて一様に、深鈴へと気遣わしげな視線を送っている。

 

 深鈴の方もそれに気付いており、一同を見渡すとペコリと一礼して、それから本題を切り出す。

 

「信奈様、頂いた手紙から大体の状況は把握しておりますが……早馬を出してから私達がここに来るまでの間に何が起こったのか、最新の状況がどうなっているのかを、ご説明願えますか?」

 

 敵も知らずに戦は出来ない。まずは状況の把握から。定石通りだが正しい選択が出来ている事を見て取って、長秀や光秀は「うんうん」と頷く。どうやら深鈴は未だ疲れは残していようが、十分な判断力は戻っているらしい。死地から帰還したばかりだと心配していたが、これなら大丈夫だろう。

 

 同じ事を信奈も思ったのか彼女は少し微笑んで、しかしすぐに難しい顔になった。この表情の変化だけで、深鈴は大体の状況を読み取る事が出来た。そもそも情勢が良いのなら自分や半兵衛が呼ばれはしないだろう。

 

「良くないわね……浅井・朝倉連合を破った後、奴等が逃げ込んだ叡山を包囲したは良いけど、知っての通り叡山は女人禁制の霊山。姫武将ばかりの織田勢は攻めあぐねてるわ」

 

 深鈴は頷く。そこまでは手紙にも書いてあった事だ。

 

「で、あの後すぐ叡山に浅井・朝倉勢を追い出すように使者を送ったのだけど……」

 

「返事は、僧兵達の奇襲でした」

 

「しかもあいつら、反撃にあって形勢が不利になったと見るや、女であるあたし達が踏み込めない叡山の安全地帯に逃げ込んだんだ!! とんだ卑怯者だよ!!」

 

 信奈の説明を、長秀と勝家が継ぐ。更に、

 

「うふ。ですから山門丸ごと焼き払うべきだと、献策しているのですわ」

 

 どこか楽しんでいるかのような口調で、久秀が言った。しかし叡山を取り囲んですぐの時には総反対を受けた彼女の過激案にも、今は少数ながら賛同する者が出始めている。

 

 そもそもこの戦は攻めた織田と攻められた朝倉、そして朝倉に援軍を出した浅井だけのもの。それを、本来は何の関係も無い叡山が窮地に陥った浅井・朝倉連合軍を山に匿うだけでも筋違いだと言うのに、彼等はそれに飽き足らずに兵を出して織田軍に被害さえ与えたのである。本来は絶対中立の筈の法城が、これは明確な敵対行為。将兵の感情が好戦に傾くのも、当然と言えた。

 

 ここに集まった者の一人も、叡山に良い感情を抱いている者は居ない。しかしだからと言って、久秀の発案のままに焼き討ちを決行して良いものではない。

 

「反対です!! 叡山はこの国の古き権威と仏教界の象徴。それを焼けばありとあらゆる宗派が信奈様を仏敵として、叛旗を翻すでしょう!!」

 

 普段は気弱な半兵衛が、この時ばかりは声高に反論する。彼女の声の大きさは、事態の重大さとそのまま比例しているようだった。しかし、天才軍師からの反対を受けても「蠍」の名で呼ばれる乱世の魔女は嫣然たる笑みを崩さない。

 

「うふ。まだ子供(ねんね)な半兵衛殿はご存じないようですわね、今の叡山がどれほど腐り切っているのか……”女は不浄”などと呪文のように唱えている坊主達の方が、余程どうしようもないですわ」

 

 久秀は一度言葉を切ると一同に視線を送って注目を集め、見事に間を取って、語り始める。

 

「信奈様、坂本の町の旅籠に入れば、女将がまず何と言ってくるか……ご存じですか?」

 

「……いえ、知らないわね。何と言うの?」

 

「『お客様、般若湯(はんにゃとう)は何本程お付けすればよろしいでしょうか』と、こう尋ねてくるのですわ」

 

「……般若湯? 何それ?」

 

 犬千代の疑問を受け久秀は「叡山の坊主達が用いる符牒で、酒の事ですわ」と説明する。しかしこの説明一つ聞いても、信奈や長秀、光秀など察しの良い者はその意味する所を正確に読み取れていた。

 

 そんな合い言葉がまかり通っているという事はつまり、叡山の僧達は一度や二度の出来心だったり魔が差したりという訳ではなく、常に旅籠や居酒屋に出入りして、戒律で禁止されている酒を飲んでいるという事なのだ。

 

 これだけでもとんでもない生臭坊主共だと呆れ返るに十分なものだが、しかし久秀の話はまだ始まったばかりだった。

 

「その次には『蓮の葉の御用はございませんか? それとも思い切って蓮の花になさりますか? お客様、蓮の蕾(つぼみ)が居るのですよ、本当の蕾ですよ』と、こんな具合で尋ねてきますわ」

 

「何なんだ? その、蓮の葉だとか花ってのは?」

 

「つまり、遊女を取れと薦めているのですわ」

 

「ゆ、遊女?」

 

 素っ頓狂な声を上げる勝家を見て、久秀はくすくす笑いながら説明を続けていく。

 

「”蓮の葉”とは普通の遊女の事、”蓮の花”なら高級な遊女、そして”蓮の蕾”とは、まだ客を取った事の無い少女の事を指すのですわ」

 

「……何故、蓮と言うですか?」

 

 今度は苦り切った顔の光秀が尋ねた。

 

「酒は般若湯、女は蓮、遊女は蓮っ葉。全て、叡山の坊主共が作り出した隠語ですわ。坂本の町では遊女を連れ込んでの乱痴気騒ぎは当たり前、叡山に登ればもっと凄いものが見られますわ」

 

「……墜ちる所まで、墜ちたものですね……」

 

 長秀が呆れとも落胆とも付かない溜息と共に、そうこぼした。久秀の焼き討ち策には彼女も反対票を投じる立場だが、だが今の叡山が腐敗しているという一点に於いては同意見だった。尾張に居た頃から聞きしに及んではいたが、まさかそれほどとは。

 

「本来、叡山の天台宗一派はこの上も無く戒律の厳しい宗教でしたが、いつの間にやら風紀は乱れに乱れ、現在では肉を食い、酒を飲み、妾を蓄えているのが当たり前だと思っている生臭坊主ばかりになっておりますわ」

 

「……本当に、どうしようもないわね」

 

 信奈が吐き捨てる。主君のその感想を受け、久秀も「私も、曲がりなりにも仏の道を学んだ者として、初めて今の叡山の姿を見た時にはまず酷く驚き、次には腹が立ちましたわ」と語る。彼女の話によれば僧兵達を統率する正覚院豪盛は、彼と並ぶ高僧である満盛院亮信(まんせいいんりょうしん)共々、口では『罰当たりな女人共』などと宣ってはいるがその実、裏では平気で妾と同衾し、供物や寄進をふんだくって莫大な金品を溜め込んでいる悪僧達の親玉のような男だという。

 

「上がこの調子ですから下も下で、町へ出て脅しやたかりは当たり前、最近では押し込み強盗まで働く者がおりますわ」

 

 妖将の口から語られた事実に、一同はもう誰も言葉を発しなかった。現実は、想像していたよりもずっとおぞましかった。

 

 信奈以下諸将が狙い通りの感情を抱いた事を読み取って久秀は少し口角を上げると、もう一押しとばかりに話を続ける。

 

「……いずれ誰かの手で、大掃除を行わねばならないでしょうね」

 

「……だから、叡山を攻めて良いと言うのですか?」

 

 厳しい口調で半兵衛が追求するが、しかしやはり暖簾に腕押し。久秀の笑みは僅かも揺らがない。

 

「良いとか悪いとかいう次元の話ではなく、言うなれば仏罰のようなものがあるのなら、それがいつかは叡山に落ちて当然だと言っているのですわ」

 

 仮に今回、信奈が焼き討ちを行わずともいつかは誰かが同じような事をするだろう。これは言うなれば歴史の必然、たまたまこの時代にそれを行う役が信奈であるだけなのだと、それが久秀の言い分だった。確かに一面の真理かも知れないが、しかしこれは同時に彼女の詭弁という側面もある。あくまで人の手によって代行される仏罰であり、信奈が自らの意志で行う訳ではないという免罪符を持たせ、限度を超えた暴挙に踏み切る事を容認させようとしているのだ。

 

 その目論見を見抜いて、次に久秀の案を批判したのは光秀だった。

 

「しかし、叡山には僧としての戒律を守って一生懸命に修行している僧や名僧智識と呼ばれる方も居る筈です。彼等をも巻き込んで焼き討ちを行うのは……」

 

 この意見を受けて、しかし久秀はむきになって反論するどころか呆れたように、あるいは光秀を哀れむように溜息を一つ吐いた。

 

「……では明智殿。今現在叡山にはどれほどの僧が居るかご存じですか?」

 

「……三千から四千くらいですか?」

 

「それぐらいですわね」

 

 久秀は頷く。

 

「その中で名僧智識と呼ばれる方は僅かに三十余名。他には仏の道を一心不乱に歩んでいる若い僧が百名ほど居るだけですわ。後は全て破戒坊主ばかり」

 

「なっ……!!」

 

 これにはさしもの光秀も絶句してしまう。今の叡山はそれほどまでに酷い有様なのか?

 

「その彼等とて、他の者が横暴を行うのを止めなかったのです。同罪として処断されて当然ですわ」

 

「だからと言って王城鎮護の霊域、これまで何人も侵した事の無い聖地を焼くなど魔王の所行!! 織田信奈は神仏を尊ばない残虐非道な第六天魔王であると民の心はたちまち離れ、しかも叡山の天台座主は今は不在とは言え御所の姫巫女様の兄君に当たられる方です。叡山に火を掛ければ御所の信頼も失い、日本中が姫様の敵になる!! 天下取りは十年遅れます!! 零点です!!」

 

「ならば丹羽殿、あなたはこの事態をどのように収拾されるおつもりですか? 先の軍議で、この戦いは短期決戦としなければならないと仰ったのは、他ならぬあなたではないですか」

 

 「まさか指を咥えて見ている、と言うのではないでしょうね?」と返されて、長秀は「ぐっ」と言葉に詰まってしまう。

 

「私の意見に反対だと仰るのであれば、何か対案を提示していただきたいですね。私とてそれがより優れた案だと思ったのなら、協力を惜しみはしませんわ」

 

 久秀の意見もまた正論である。これを受けて、これまでは聞いているばかりであった諸将からも、事情が分かった事も手伝って様々な意見が噴出した。

 

「そうだ!! 四国の三好がいつ京に押し寄せてくるか分からない!! 今日を生き延びなければ十年後どころか明日も来ん!! この際、非常手段を以てしてでも早急に浅井と朝倉を叩くべきだ!!」

 

「馬鹿な!! 利用した者を憎むあまり本邦教学発祥の聖地を侵しては、我等が姫様が末代まで悪評を受ける事になるのだぞ!!」

 

「聖地だと!? 叡山が中立を守って平和祈願でもやっているというなら分かるが、実際には七百年の治外法権を良い事に学問は怠り、兵は養い、酒は飲み、女を山に引き上げる。そんな場所が聖地であってたまるか!!」

 

「しかしそれでも叡山が我が国の仏教の故郷である事に変わりはあるまい!! それを焼き払う事は日ノ本の徳義道義を不明に致させ、信奈様に極悪無道の烙印を押す事になってしまうのだぞ、分かっているのか!?」

 

「最早叡山は法城ではない!! 乱世を終息させんとする姫様の悲願の前に立ちはだかる悪の山塞、山賊の住処だ!!」

 

「だが叡山には日ノ本の宝である貴重な書も山とある。それを焼き払うのは大きな損失となるのでは……」

 

「それがどうした!? どんなに素晴らしい学問でも、それを活かすのは人間だ!! 逆に言えば今は人間が堕落してしまっているから、折角の学問も活かせずに、戦無き世の訪れを邪魔するのではないか!!」

 

 この調子で、今の叡山がどれほど酷い有様なのかを知った事と、現在の織田家の状況が切迫している事を受けて久秀の意見に総反対だった当初の空気から一転、焼き討ちを行う行わないで軍議の席は真っ二つ割れて、白熱した議論はしかし平行線を辿った。

 

 家臣達の激論を、床几に腰掛けた信奈は頬杖付いて冷めた目で眺めていた。

 

 彼女にしてみれば、叡山を焼き討ちしてしまっても構わないと思っている部分があった。

 

 思い出すのは昔、父信秀が死去する前夜の事だ。

 

 尾張の僧達がやって来て、信秀の快癒祈願の祈祷を行うと言ってきたのだ。その時の信奈にしてみれば、いくら神仏の加護があろうと祈ったぐらいで死の床にある父上を救えるのかと半信半疑であったが、しかしそれでも彼女は縋った。たった一人の父、誰よりも自分を理解し、深く愛してくれた肉親なのだ。どんな方法であろうと、どれほど頼りない藁のような希望であろうとそれを掴み、信じ、頼ろうとする事を誰が責められるだろう。

 

 僧達は揃いも揃って偉そうな態度で病を治せると自信満々に言い張って、実際には経文を唱えるばかりで結局、信秀を死なせてしまった。この時点で彼等は織田家の先代当主であった信秀と、彼の死によって当代当主となった信奈の二人を謀った事になる。見逃せない事だ。

 

 それでも信奈はこの時、僧達が少しでも申し訳なさそうだったり、悼むような態度を取っていれば彼等を許すだけではなく、謝礼まで与えて帰すつもりだった。

 

 何にも縋らずに生きていける程、人は強いものではない。例え神や仏が存在しなくとも、祈りに何の効き目も無くても、その弱さを救う為のものならば寺社や僧はこの世になくてはならぬものだと、聡明な彼女にはそれが分かっていたからだ。

 

 だが違っていた。彼等は悪びれた様子も無く、一筋の涙も流さず、ぬけぬけとこう言いくさったのだ。

 

 

 

「お父上は幾多の戦で大勢の人を殺し過ぎた。これも因果応報というもの」

 

「信心が足りなかったのですよ」

 

「それより、早く供物を渡して頂きたいな」

 

 

 

 ……そこから先の事は記憶が曖昧になっている。はっきりと覚えているのはその僧達をお堂に閉じ込めて、火を付けた所からだ。

 

 勝家は「あの時の姫様の怒りは凄まじかった。まるで本物の第六天魔王のように……」と語っているが、信奈にしてみればそのような評価は心外というものだった。寧ろ、あの時の自分は仏ほどではないにせよ慈悲深いと思っている。何しろ、僧達に最後の機会を与えたのだから。

 

 もし彼等の信仰心や御仏の加護が本物ならば、仏に「助けてくれ」と叫べば必ずや助けがある筈ではないか。成る程、戦国武将であった父の信心が足りなかったというのは百歩譲って理解も出来る。だが、まさか仏に仕える彼等に信心が足りぬなどとは言わせない。信心が足りないから父が助からなかったと言うなら、信心が十分な僧達は助からなければおかしい道理ではないか。

 

 結局、あの時は平手のじいが僧達を助け出して有耶無耶になってしまったが……

 

 ならば今回は良い機会だと、信奈は考える。本当に叡山が聖域だと言うのなら、織田軍に滅ぼされる訳が無い。

 

 そう、頭の中で理屈を付けて焼き討ちの命を下そうとして……しかし、思い留まった。

 

 このまま命令を下しても構わない筈なのに何か、喉に引っ掛かった小骨のように、決断を思い留まらせるものがある。不意に泳いだ彼女の視線が、ある一人に向いた所で止まった。深鈴に。

 

 それに気付いた信奈は「ああ、そうか」と頷く。そうして立ち上がると、皆に聞こえるように言い放った。

 

「議論が行き詰まったようだけど……この辺りではっきりさせたいと思うわ。銀鈴、あなたの意見を聞かせて!!」

 

 ただ知恵者というだけでなく、深鈴の言葉は信じ、頼る事が出来る。例えどのような意見であろうと、彼女の言葉はきっと支えになる。そうした確信が、信奈の中に在った。

 

 主君より名指しで発言を求められ、場の全員の視線が深鈴へと集中する。それを受けてしかしたじろぐ事なく、深鈴は場の全員を見渡し、発言を開始する。

 

「叡山への対応について、我々は常に強気の姿勢でいるべきだと思います。今回、我が軍が断固たる力と意思を示す事には、大きな意義があります」

 

 理路整然とした発言を受け、ざわめきが少しずつ消えていき、諸将が発言する態勢から聞く態勢へと移行していく。

 

 深鈴にしてみれば、叡山を攻められないから軍を退くという選択肢は有り得なかった。そんな事をすれば聖地を利用した浅井・朝倉の行為を認めた事になり、今後の戦に於いても少し形勢が不利になれば近くの寺社に逃げ込めば良い、そうすれば織田勢は手出しはしない、いや出来はしないのだと、悪しき前例を作ってしまう。

 

 詰まる所、取り得る選択肢は山から出て来た浅井・朝倉連合軍を迎え撃つか、こちらから山に攻め上るか、二つに一つだ。と、なると……

 

「かと言って、問答無用で焼き討ちを行うのでは、皆様の言う通り世間の非難囂々となるは必定。それでも最終的に実行せねばならないのなら、世論の悪化を最小限に抑える手段を採らねばなりません」

 

「確かに先輩の言う通りですが……具体的には?」

 

「第一に、我々から譲歩する姿勢を見せる事。第二に叡山に侵攻する日時を指定し、戦に巻き込まれて死にたくない者が脱出するには十分な猶予を与える事。第三に、我々がこうした条件を出しているのだと、世間に広く公表する事」

 

 成る程、そこまですればこちらの譲歩や警告を無視してまで浅井・朝倉に肩入れした叡山側の責任も大きいと、大義名分も立つ。最悪でもそう訴える事で十の批判を七に抑える効果はあるだろう。諸将の間から納得の声もちらほらと上がった。

 

「デアルカ……じゃあ、叡山が浅井・朝倉勢を山から追い出し、また僧兵達全ての武装を解除して今後織田も含む他のどんな大名が匿ってくれと申し出てきても決して応じず、中立を保って乱世に与しないと誓うなら、織田領内にある叡山の領地は全て返す。こちらが与える猶予は三日間。もし期日を過ぎても返答が無かった場合には、織田勢は聖地を自分達の都合で戦の為に利用した浅井・朝倉勢を討つべく、叡山に侵攻する。……というのでどう?」

 

「戦う事が我々の本意でないという事を示すには、十分かと」

 

「交渉事の基本であり王道は飴と鞭……それなら少ないですが、叡山が応じる望みもあるとは思いますわ」

 

 久秀も深鈴のアイディアと信奈の条件に賛成票を投じる。だが、深鈴の案はこれで終わりではなかった。

 

「それともう一通、こちらは秘密裏に叡山に使者を出されるのがよろしいかと」

 

「もう一通? ……内容は?」

 

「叡山を焼くなどすれば、織田信奈は日ノ本全土の仏徒の反感を買って自滅する。故にそんな馬鹿な事をするものかと、高を括る者も多いかと思います」

 

「確かに、今までそのような事をした方はおられませんものね」

 

「はい、弾正殿。そこで信奈様はやると言ったら必ずやる御方だと言うのです。『聖地があるからそこへ逃げ込もうとする卑怯者が出てくる。乱世の収束の障害になるのが聖地だなんて、そんな馬鹿な話は無いわ』と、仰っていたと……」

 

「成る程、そこで信心の篤い者がみすみす叡山が焼かれるのを見るは忍びないので、内々でお知らせするという事ですね。確かに、そこまで言われれば中には考え直す者も出てくるでしょう。七十点です」

 

 長秀が及第点を付け、その評価には信奈も頷く。

 

「万千代の言う通り、それなら効果もあるかも知れないわね。で……叡山に知らせる役は……」

 

 誰からともなく、場の視線が一人へと集まる。彼女もまた、自分が適任であると自覚していたらしい。さっと立ち上がる。

 

 この場の面々で最も信心深く、各宗派の高僧とも親交があり、かつそれを世間が知っている人物と言えば……

 

「私ですね!! 精々叡山の連中がビビリ上がるような手紙を送ってやるです!!」

 

「任せるわね、十兵衛。では、私もさっき言った条件の手紙を叡山へと送るわ。万千代、あなたは近隣の町に同じ内容が書かれた立て札を立てて、情報を広く公開して。六と犬千代は引き続き部隊の指揮を執って、再度の襲撃に備えて!! 銀鈴は坂本方面の陣を任せている竹千代に、別命あるまで絶対に動かないよう指示を出して!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 てきぱきとした信奈の指示を受け、緊張と共に各将が動き出したが……その時だった。

 

「おーほっほっほっほっほ!! 信奈さん、随分とお困りのご様子ですわね。こういう時には征夷大将軍であるこのわ・ら・わにお頼りなさい!!」

 

 張り詰めた空気を一瞬にして木っ端微塵に打ち砕くタイミングで現れたのは、征夷大将軍・今川義元であった。巫女達に担がせた輿で、颯爽可憐とこの本陣に乗り付けてきた。

 

「何よ。お呼びじゃないわよ、帰りなさいよ。私達は忙しいの」

 

 全く空気を読まない登場に不機嫌さを隠そうともせずに応じる信奈であったが、滝を上る鯉のように面の皮の厚い義元は、悪態を受けても少しも応えた様子を見せなかった。

 

「まぁまぁ信奈さん、世は持ちつ持たれつと申しますわ。この度は、征夷大将軍たるわらわがやまと御所の姫巫女様と直談判させて頂き、和睦の話を纏めてみせますわ!!」

 

 敬語の使い方が滅茶苦茶なのは突っ込み所ではあるが、しかし義元の発言には無視出来ない一節があった。それには信奈は勿論、長秀や光秀、深鈴もそれぞれ反応する。

 

「和睦か……確かに、その手はあるわね」

 

「使者の人選が微妙ですが、八十点。先程の銀鏡殿の手と並行して進めるのなら、八十八点です」

 

「今は四の五の言っていられる状況ではないです。今川義元というよれよれの藁でも、掴まなければならないです」

 

「我々にとって山門を攻めるのはあくまで最終手段。和睦でも叡山を戦場としなくて済むのなら、それに越した事はないでしょう。信奈様が出された条件ではどのみち三日の猶予があるのですし……三日あれば、和睦の話を切り出し、浅井・朝倉がそれを検討する期間としては、十分かと。攻めるのはその話を向こうが蹴ってからでも遅くはないでしょう」

 

 条件付きの者も居るが各人の賛成を受け、信奈も「仕方無いわね」と明らかに渋々といった様子ながら義元の案を採用する事にした。

 

「大船に乗ったつもりでお待ちあそばせ!! わらわの神がかった外交能力を駆使しまして、早急に話を取り纏めて戻ってきますわ!! おーほっほっほっほっほ!!」

 

 そう言い残すと義元はとんぼ返りで京へと引き返していった。深鈴が『大船は大船でも、タイタニック号な気がする』なんて失礼な事を考えていたのは内緒だ。しかし、実際にはそう捨てたものではない。彼女は以前にも近江に出向いて、浅井久政に掛け合ってお市(信澄)と長政の縁談を成立させた事がある。

 

 そうした実績を鑑みて、望みは全くの零ではない、か……? というのが、織田諸将の感想だった。

 

 このような経緯を経て、信奈は当初想定していた条件に義元の案を組み込んで和睦の一文を加えた書状を、叡山に送り付けた。

 

 深鈴もまた信奈の指示通り坂本の陣に居る元康へと使者を送り、その後で傍らに立つ彼女の軍師を振り返る。

 

「半兵衛……あなたは浅井・朝倉が和睦に応じる可能性はどれほどだと思う?」

 

 この問いに対し、天才軍師は白羽扇で口元を隠して少し難しい顔になった。これは彼女ほどの英才をして、即答を控える問題である。

 

「焼き討ちを行うという言葉を、どれだけ真剣に受け取るかが問題ですね……そんな事が出来る訳がないと一笑に付すか、それともまさかと思うか……その点が鍵になるとは思います」

 

 半兵衛にしては珍しく頼りない発言だったが、しかし致し方ないか、と深鈴は思う。現状は織田陣営が圧倒的に不利なのだ。飛車角持ちの相手に歩だけで王手を掛けるのは、難しい。義元の和睦案とて「何故有利な立場の我々が、和睦などせねばならぬのか」と、撥ね付けられる可能性も十分にある。

 

「ですが……」

 

「ん?」

 

「朝倉勢は兎も角……浅井勢を少なくとも動揺させられるであろう一手は、既に打ってあります。ですから……望みはあるかと」

 

 

 

 

 

 

 

 信奈から叡山に送られた書状の内容は、以下のようなものだった。

 

『もし叡山が乱世に関わる事を止め、僧兵を武装解除して浅井・朝倉の兵を山から出せば、織田の分国内にある山門領は全て返してあげる。また、こちらは浅井・朝倉の両国とひとまずの和睦を行う用意もあるわ!! 回答期限は三日間、もしこの間に何の返事も無い場合は、叡山そっくり焼き払うわよ!!』

 

 これと前後して、光秀からの密書も送られてきた。

 

『信奈様はやると言ったら必ず実行される御方です。このまま叡山が丸焼けの禿げ山になるのを見るのはあまりに忍びないので、こうしてお知らせするです。命が惜しければすぐさま要求に従って浅井と朝倉の兵を追い出すか、身一つで逃げ出すです』

 

 名門の出身であり、各派の名僧智識とも繋がりのある明智十兵衛光秀の言葉とあって、僧兵達も信奈の言葉もただの脅しだと鼻で笑う事は出来なくなる。

 

 果たして、叡山は騒然となった。

 

「信奈が攻めてくるだと!? 馬鹿な、たかが尾張のうつけ姫如きにこの叡山が攻められようか!! 叡山を攻める事はやまと御所に、ひいては姫巫女様に刃向かう事になる!!」

 

「来るなら来てみよ!! 何万の兵が来ようと、簡単に落ちる叡山ではないわ!!」

 

「もし信奈の軍勢が来ると言うのなら、戦おうではないか!!」

 

「そうじゃ、だがそれにはそれだけの準備が要る!!」

 

「まず武器を整えねばならない、兵糧も買い込まねばならぬ、上の方でその事は考えておられるのか!!」

 

「そうだ軍資金が要る!! 何の手当も無くてただで戦えと言われても戦えぬ!!」

 

 これを目の当たりにして衝撃を受けたのは、浅井久政である。

 

 女人禁制の聖地が女子供で溢れており、妾や遊女の為の住居が勝手に建て増しされているのにも驚いたが、今のやり取りを行っていた僧兵達は自分達が攻められると言うのに、あれではそれを口実として上を強請っている事になる。

 

 騒然となっているのは叡山だけではなく、麓にある坂本の町も同じだった。

 

 悪僧達がゆすりたかりを始めたのである。僧兵姿の彼等は適当に裕福そうな家屋を見繕うとそこに押し入り、

 

「よっく聞け!! 明日になれば信奈が叡山に攻め寄せてくる!! 我等は聖地守護の為、命を掛けて戦うつもりじゃ!! この家は今まで叡山のお陰で繁栄した!! この際、喜捨するのが当然であろう!!」

 

「この目録に書いてある物を出せ!! 出さぬとこの家は信奈に通じたものとして焼き払うぞ!!」

 

 この剣幕で押し出して家財をあらかた運び出してしまうのである。あちこちでこのような光景が見られた。

 

 さて久政であるが、彼にとって信奈の通告は俄には信じられないものだった。

 

「この叡山を焼き討ちにする、だと!? 比叡山は日ノ本仏教界の最高峰に於ける霊地であるぞ!! いやいや、更に遡れば仏教伝来以前の遥か昔より日ノ本古来の神々がおわす霊山ではないか!!」

 

 最初にその聖地に立て籠もり、戦の為に利用しているのが自分達である事は、すっかり棚上げしている。

 

「織田信奈は乱心したのか!! 女の身で叡山へ攻め込もうとするだけでも非常識だと言うのに、全山焼き討ちとは!!」

 

 一方でこの状況にあってものんびりと源氏物語の巻物を広げていた朝倉義景はそれを聞くと、面白そうに手を叩いた。

 

「感服したぞ、織田信奈。流石に天下布武を宣言するだけの事はある。現世の女人とは思えぬな」

 

 他人事のようなその口調を受け、久政が「流石とは何だ!!」と声を荒げた。

 

 しかし、これで叡山の女人禁制の掟を前提とした義景の策は根底から覆された事になる。叡山は険阻な山ではあるが城塞ではなく、そもそも聖地であって戦場となる事など想定していない。拠点としては下の下と言える。

 

「織田信奈が日ノ本の何万という仏徒を敵に回すのを承知の上で尚焼き討ちを決行するのか……あの者は真の魔王なのか、それともただ常識を知らない田舎の小娘か……いや、是非一乗谷の我が館に連れ帰ってみたいものだな……」

 

 と、義景。笑っている場合ではないと蒼白な表情で訴える久政であるが、するとそこに伝令の兵が走ってきた。

 

「申し上げます!! 美濃の斎藤道三が出陣、近江へと攻め寄せました!!」

 

「来おったか!! しかし、小谷には十分な守備兵を置いてある。何とか持ち堪える事は出来るだろう」

 

 この報告を受け、だがこれは予想出来た事であると久政は少し自信を回復させて応じる。

 

 その自信が波に晒された砂の城が如く崩れ去るのに要した時間は、ほんの数秒だった。

 

「いえ、斎藤道三率いる軍の目標は小谷ではなく、横山城です!!」

 

「なっ、何だと!?」

 

 上擦った声を上げる久政とは対照的に、義景は「ほう」と感嘆の声を漏らす。

 

「横山城は近江から越前に通じる要地。そこが落ちれば我が朝倉と浅井は連絡が取れなくなる。そればかりか浅井は近江南方の諸城との連絡も絶たれ、小谷城は孤立するであろうな」

 

 義景の分析は流石に的確であり、「久政よ、横山城にはどれほどの守備兵を残しておる?」と尋ねるが……真っ青な彼の表情を見れば、聞かずとも分かるというものだった。久政にとっては我が子を天下人とする為の千載一遇のこの機会に懸けていたのだろう。浅井の主力は殆どここにある。主城である小谷にはそれなりの守備隊を残しているのだろうが、他の城は今や空き家同然なのだろう。

 

 だが、恐るべき事はもう一つある。

 

 京と美濃を繋ぐ北近江の道は、今は浅井の離反によって織田の兵は通れなくなっている。つまりこの状況になってから織田信奈が斎藤道三に、出陣を要請する事は不可能なのだ。

 

 ……と、いう事はこれは斎藤道三の独断か、さもなくばどの段階でかは不明だが、まだ織田と浅井が同盟関係にあった時点で『万一浅井が織田を裏切って出陣した場合には、横山城を攻めよ』という指示が道三に出ていたとしか考えられない。

 

 確かに朝倉と浅井の縁は深く、織田が越前を攻めれば同盟が決裂する可能性はあったが……しかし、織田信奈は妹のお市を浅井長政に嫁がせており、織田と浅井は身内だったのだ。その身内が背信するなど……そこまで想定出来る者が居ると言うのか?

 

 そして、横山城を攻めるという狙い。

 

 主力が出陣して手薄になっている本拠地を攻める事は戦国の定石。戦下手と言われる久政も流石に警戒して、最低限の守備隊を残していたのだが……織田軍はそこまで読み取って、ガラ空きの横山城へと攻め寄せた。

 

 如何に斎藤道三が「蝮」と呼ばれ恐れられる戦国の梟雄であろうと、ここまで読み切れるものだろうか……? 否、これほどの深謀遠慮、知略洞察を巡らせる事が出来る者は織田陣営には、恐らく一人。

 

「今孔明……竹中半兵衛だな」

 

 そう呟く義景の声には、畏敬の念が込められているようだった。

 

「成る程、噂に違わぬ知謀よ。織田信奈、銀の鈴共々、我が館に連れ帰って飾りたいな」

 

 からからと義景が笑うが、小心者の久政はもう気が気でない。

 

「わ、わ、笑っている場合ではないぞ、義景殿!! 元はと言えばこの叡山籠城は、あなたの打ち出した策ではないか!! 何とかしてくだされ!!」

 

「全く……風流を解さぬ御仁だな」

 

 やれやれと嘆息して、義景は久政を睨み付ける。

 

「策は三つある。まず上の策は先手必勝、山に火を放たれる前に全軍で麓の織田軍へと逆落としを掛け、乾坤一擲の勝負を挑むというものだが……これは、実行不可能であろうな」

 

 籠城する前から、特に朝倉勢はただでさえ厭戦気分が蔓延して士気が低かった所に、先の坂本での大敗を受けて今や士気はどん底。無事な兵は両軍合わせても一万居るかどうかという有様で、叡山の僧兵を全て合わせても織田軍との兵力差は圧倒的である。第一、坂本での真っ向勝負で敗れたからこそ、こうして籠城しているのだ。今更もう一度戦った所で、結果は見えている。

 

 それに、織田軍は焼き討ちの脅しに慌てた浅井・朝倉連合が慌てて山から飛び出してくるのを待ち構えている可能性もあるのだ。危険が大きすぎる。

 

 久政のその意見にも一理はあると、義景は上策を却下した。

 

「中の策は叡山の僧侶を使者に立てて和睦をする事。これは織田信奈の側からも申し出が出ている以上、九分九厘成功するであろう。この策を採れば我等はこれ以上の被害を出さずに本国まで帰還出来ようが、窮地に陥っている織田勢もまた息を吹き返し、戦局は膠着するであろう。また、先の戦いで我等は一敗地にまみれておる。武将の何人かが主家を見限り織田に走る事は、覚悟せねばならぬだろうな」

 

「だ、だが確かに、安全な策ではあるな。しかして義景殿、下の策は?」

 

「勝ち目無しと見て、さっさと降伏するのよ。そなたはさっさと出家し、家督を幽閉した長政に返せ。そうして織田信奈の妹を娶っている長政共々平身低頭詫びれば、浅井家は滅ぼされずに済むであろう……恐らくだが」

 

「こ、降伏など出来ぬ!!」

 

 かっとなって立ち上がった久政だったが、手が震えている。

 

「わ、わしは我が子長政を天下人とする為に敢えて織田と手を切ったのじゃ、それだけはならんぞ、義景殿!! ここは中の策を採ろう!! 我等に加勢してくれた叡山を焼き討ちなどに巻き込んではならん!! ここは一旦和睦し、織田信奈との決着はいずれ堂々と付けよう!!」

 

 様々な理由付けをしているものの、詰まる所は死にたくないだけであるという久政の本音を、義景は見抜いていた。優柔不断な上に臆病とは。市井の民ならそれでも良かろうが、戦国武将としては正直救いようがない。彼が戦下手と言われるのは能力の優劣以上に、こうした気性の影響が強いのかも知れなかった。

 

 と、これまでは無言のままで両者のやり取りを聞いていた正覚院豪盛が立ち上がった。

 

「では拙僧が、織田の陣へ使者として参り申そう」

 

 破戒僧は自信ありげに、どんと胸を叩く。

 

「がははは!! 不浄の女共が叡山を焼き尽くすなどという暴挙、この豪盛、決してやらせはせぬ!! じゃが、対等な同盟とは片腹痛し!! 女共、たくましき男共に平伏せと、降伏を勧告してきてくれるわ!!」

 

 そこまで言った所で、「むっ?」と何かに気付いたように豪盛は堂の外へと視線を動かした。

 

「しかし……先程から、いやに山が騒がしいな? 織田勢は全て、麓で立ち往生しておる筈だが……」

 

 そう言われて久政も義景も初めて気付いたが、確かに何やら外から声が聞こえてきている。てっきり、織田軍の侵攻に備えて僧兵達が戦の準備を整えているのだと思っていたが……それにしてももう日が暮れていると言うのに、随分と五月蠅い気がする。それに、時折悲鳴のような声まで混じっているような……

 

「どれ、様子を見てこよう」

 

 豪盛はそう言うと、愛用の金棒片手に出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃、雲母坂の織田軍本陣。

 

 信奈はもう深夜だと言うのに、床几に腰掛けてまんじりともせずに叡山を睨んでいた。とそこに、深鈴がやってくる。

 

「信奈様、お客人が来られました」

 

「客?」

 

 この戦陣に一体誰が? と、首を傾げつつもその客を通すように信奈は言い、そうして案内されてきたのは、

 

「おひぃさま、早まってはいけまへん!! 成る程、坊主でありながら武具を手にして織田家に戦を挑んだ叡山の僧兵共は自業自得なれど、おひぃさまの天下布武の大事業にとって今回の叡山焼き討ちは致命的な愚行!!」

 

 堺の豪商・今井宗久と、

 

「エイザンはジバングに於いて最も伝統ある最高学府と聞きます。古の叡智を集結したこの国の学府を燃やしてはいけません。エイザンの方が宗教者の使命を忘れて武器を持っているのは良くない事ですが、彼等を武装解除させれば済む事です」

 

 南蛮寺建設の為、京に滞在しているルイズ・フロイスだった。

 

 二人とも、長秀の手の者が立てた「要求に従わない場合は山門そっくり焼き払う」という旨が記された立て札を読んで、これは一大事、何としてでも信奈を思い留まらせねばならぬと駆け付けてきたのだ。

 

 そんな二人を見た信奈は深鈴と視線を合わせ、そして苦笑し合う。

 

「二人とも、あれは駆け引きよ。焼き討ちは本当にどうにもならなくなった時の最後の手段。義元も和睦の話を纏めにやまと御所に行っているし……私も最後まで穏便に済ませられるように、力を尽くす所存よ」

 

「「ほ、本当でっか(ですか)!?」」

 

「……本当よ」

 

 深刻な顔の二人に詰め寄られ、少し圧倒されつつも信奈がそう返した事で、宗久もフロイスも胸を撫で下ろしたようだ。ほっ、と大きく深く息を吐いた。

 

 信奈が焼き討ちをしないと言った訳ではないが、だが優先してそれを行う訳ではないと聞いた事で、ひとまずは安心、という所か。

 

 そうして話が一段落したのを見て取って、深鈴がフロイスの前に進み出た。彼女にしてみれば言い出しにくい話であったが……だが、いつかは話さなければならない事だ。いつまでも先送りにしておく訳にも行かない。

 

「どうかされたのですか? ギンレイさん」

 

 深鈴の様子がおかしいのを読み取ったルイズが尋ねてくる。

 

「あの、フロイスさん……これを……」

 

 そう言って差し出したのは、日に焼けた山高帽だった。それを見たフロイスはぎょっと表情を変える。見間違える訳もない、この山高帽は……

 

「宗意軒さんの……」

 

 彼の愛用の品が深鈴の手から渡される事の、その意味をフロイスは悟ったのだろう。胸の十字架を、ぎゅっと握る。

 

「何と言って良いのか、私には言葉が見付かりませんが……でもこの品は、彼と親交のあったフロイスさんが持つのが良いと思います……」

 

 消え入りそうな声でそう言う深鈴を受けて、フロイスは今にも泣きそうな顔をしながら、しかし精一杯の笑みを浮かべていた。

 

「宗意軒さんは、ギンレイさんの事を恨んだりはしてないと思います。彼は、そんな人ではありませんよ。長い間一緒に居た私には分かります」

 

「……そうですか……」

 

 深鈴は、ぺこりと頭を下げる。

 

 宗意軒の言葉を聞く事はもう出来ないが……だがフロイスがそう言ってくれた事で、少しだけ胸が軽くなったように思えた。

 

 そんな二人を見た信奈と宗久はこちらもふっと笑みをこぼし、陣中にも関わらず穏やかで和やかな空気が流れる。

 

 だがそれも、長くは続かなかった。

 

 ドン!! と、何かが爆発したかのような音が響く。

 

「な、何!?」

 

「何や、今の音は!?」

 

「ノブナさま!! ギンレイさん!! あれを……!!」

 

 フロイスがそう言って指差す先を見て、そして全員が表情を凍らせた。

 

「叡山が……!!」

 

 燃えている。山に、火の手が上がっていた。

 

 冥界の鬼火のような、蒼白い炎が。

 


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