織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第31話 それぞれの戦場

 

 やまと御所の一角に、「おーっほっほっほっほっ」と甲高い笑い声が響いている。何事かと近衛前久が広間に入ってみると、そこでは彼の頭の中に描かれていた最悪のシナリオが、寸分違わず具現化されていた。

 

 御簾越しに姫巫女と語り合うのは人呼んで駿河のお飾り公方、征夷大将軍・今川義元である。織田と浅井・朝倉との和睦話を纏める為に参内した彼女は、八つ橋をパクつきながら黄金作りの扇子をパタパタ扇いでいる。

 

 恐れ多くも姫巫女様を相手に何と無礼な態度かと、前久は目眩を覚えて体をぐらつかせた。

 

「おーっほっほっほっほっほっ!! それでは早速和睦の御綸旨を頂けるのですわね。流石は姫巫女様ですわ!!」

 

「えいざんのてんだいざすをつとめるあにには、ちんじきじきにはなしをしよう」

 

「まあまあ。恐れ多くも姫巫女様にそこまでしていただけるなんて!! この征夷大将軍・今川義元、ありがたき幸せですわ!!」

 

「ま、待つでおじゃる!!」

 

 口を挟んだ前久であったが彼を前にしても義元は、

 

「あらあら、関白さんでしたっけ? まあまあ、白塗りに描き眉にお歯黒、見事な麻呂っ振りですこと。流石に本場は違いますわね、おーっほっほっほっほっほっ!!」

 

 こんな調子である。前久としては「この駿河のバカ娘め!! 関白よりも将軍の方が偉いとでも思っているでおじゃるか!!」と叫びたかったが、しかしその関白である自分を前にほんのちょっぴりの物怖じも緊張も見せない物腰を見ると、「下手をすれば本当に姫巫女様と将軍が同格だと勘違いしているのでは……」とさえ、思えてきた。

 

 このお飾り将軍が相手では、何を言おうが全て「おーっほっほっほっほっほっ!!」で聞き流されて笑い飛ばされる事は確実であった。前久は知らない事だが朝倉からの横槍によってこじれかけた信澄と長政の縁談話を纏めた時も義元は、朝倉家に義理立てする久政がいくら筋の通った正論を並べ立て、武人の義を説いても結局全部「おーっほっほっほっほっほっ」と笑うだけで、横車を押し切って話を纏めてしまったというタフ・ネゴシエイター振りを発揮している。

 

 全く、これほどまでに押し出しが立派な人間も珍しい。器の大きさだけは本当に天下一なのかそれとも何事にも無感覚な突き抜けた大バカモノなのか。いずれにせよ彼女もまた一個の大人物である事は確かだった。

 

 とんでもない使者を送り付けてきたものだと脳内で信奈へ悪罵の嵐を浴びせる前久であったが、今は現実の問題を処理する方が先決である。和睦話が纏まってしまうのはこの際諦めるとしても、その締結の為に織田軍が叡山に立ち入る許可を出すというのは彼としては絶対に認める事は出来なかった。そんな事をすれば日ノ本の神事を司ってきたやまと御所、引いては姫巫女の権威を失墜させる事にもなりかねぬからだ。

 

 その旨を伝えようと彼が口を開いた、その時だ。

 

「た、大変です!!」

 

 広間に、一人の巫女が駆け込んでくる。

 

「下がれ、姫巫女様の御前でおじゃるぞ!! 騒々しい!!」

 

 咎める声を上げる前久であったが、その巫女は止まらない。顔を真っ青にして「ですが兎に角見て下さい!! 叡山が!! 叡山が!!」と、外を指差して訴えている。

 

 何事かと一同が表に出て、そして一様に言葉を失った。

 

 叡山が燃えている。山全体が、この世に有り得ざる蒼い炎に包まれて。

 

「あ、あれは一体……」

 

 呆然とした前久がそう口走る。彼にしてみればこの状況は、半分までは予想の範疇であった。浅井・朝倉勢が叡山に籠城した事を受けて彼は六角や三好に「織田軍がてこずっている今の内に所領を取り戻すでおじゃる」と指示していたし、長秀の手の者が近隣各地に配置した立て札を呼んで、万一織田軍が叡山焼き討ちを結構などすればこの時とばかり信奈を魔王に仕立て上げ、日本中を織田家の敵とする腹づもりだったのである。だから叡山が燃えているこの状況はある意味では彼の望んだものだったのが……

 

 しかし、予想していなかったもう半分は。これは希代の謀臣をして、言葉を失うのに十分なものがあった。叡山を燃やす蒼い鬼火。織田信奈が叡山に火を放っただけならば「叡山は信奈を追い詰める為の生け贄でおじゃる」と片付けるだけだったろうが、ただでさえ迷信深いこの時代である。前久や公家、それに住み込みの巫女達は姫巫女や陰陽師といった超常の力を振るう者の存在を知っている分、まだ平常心を保てた方だったが、それでも「これは何かの祟りなのでは」と、胸中の不安を吐露し始める。

 

 何が起こっているのかは分からないが……少なくとも織田信奈による焼き討ちなどよりも、もっと尋常ならざる事態が叡山で起きている。それだけは立場を越え、この場の全員が共通して持つ認識となった。

 

 ぱちん、と義元が扇子を畳む音が鳴る。そうして御所の中を振り返った義元の表情からは、炎に包まれる清水寺の中でさえ変わらずに浮かべていた笑みが消えていた。彼女は畳んだ扇子で、ぱんと掌を打った。

 

「これより織田軍は、和睦相手である浅井・朝倉、並びに大勢のお坊様達を救出する為、叡山に入りますわ」

 

 遠く離れた雲母坂の陣の動きを知る筈もないが、奇しくもこれは信奈の決定と同じだった。そして義元の言葉は既に、交渉でも駆け引きでもない。

 

「姫巫女様に関白さん? 確かに、お伝えしましたわよ」

 

 これは、単なる決定事項の通達でしかなかった。

 

「ば、馬鹿も休み休み言うでおじゃる!!」

 

 たまらず抗議の声を上げる前久だったが、義元はもう彼の言葉を聞いていないようだった。足早に御所から立ち去ろうとする。彼女の動きを止められる者は、ここには一人。

 

「まて、よしもとこう」

 

 背後から涼やかな声を受けて、征夷大将軍が足を止める。前久としては「姫巫女様が鶴の一声でこのバカ公方を止めてくれるでおじゃる!!」と、期待を込めて振り向いて、そしてぎょっとした表情になった。

 

 姫巫女は上座から下りて、御簾を越えてすぐそこに立っていたのだ。

 

「おだだんじょうにつたえてほしい。えいざんへのたちいりは、ちんがゆるす。おだぐんはなににきがねすることなく、ぞんぶんにきゅうじょかつどうにうつるように」

 

「ひ、姫巫女様!! そんな前例を作っては京の鬼門を守る叡山の面目が丸潰れ……」

 

「このえ」

 

 咎めるようにほんの少しだけ、姫巫女の語気が強くなった。

 

「いまはひじょうじである。このままえいざんがやけるにまかせればがらんやどう、しょもつだけではない。もっとたいせつなめいそうちしきとよばれるものたちやわかくまじめなそうたちまでうしなってしまう。それはわがくににとってじゅうだいなそんしつである。だんじてかんかできぬ。よいな、このえ」

 

「は、ははあっ……!!」

 

 幼く、たどたどしい口調ながら反論は許さないと強い口調で告げられて、前久は思わず平伏してしまう。鶴の一声を受けたのは彼の方だった。

 

「では、よしもとこう。おねがいしたぞ」

 

「承知致しましたわ。姫巫女様」

 

 義元は優雅に一礼すると、十二単を着込んだ出で立ちからは信じられないような速さで退出していった。一方でまだ平伏したままの前久は、床を睨んだままで頭脳をフル回転させていた。

 

 事ここに至っては、「織田信奈はこの国から身分制度を無くし、やまと御所も姫巫女様も滅ぼしてしまわんと麻呂を脅してきたでおじゃる」という誇大・誇張表現を使えるだけ使った手紙を浅井久政に送り付け、浅井家を織田から離反させる事に端を発した策が全て破れた事を、彼は認めるしかなかった。

 

 だが、これで終わりではない。前久の中では既に、次の悪謀の絵図面が引かれ始めていた。

 

『かくなる上は、更なる強敵を召喚するしかないでおじゃる……!!』

 

 

 

 

 

 

 

 一方、雲母坂の織田軍本陣。

 

 ここでは上の将も下の兵も、かつてない程に慌ただしく動いて出陣準備を整えていた。これから行う消火・救助作業は、ある意味今までのどんな戦よりも重要な任務であると言えた。

 

「急げ!! こうしている間にも火は広がっているぞ!!」

 

 突入部隊を編成する勝家の表情も、普段の戦に向かう時とは違った緊張を纏っている。

 

「じゃあ銀鈴、後の事は任せたわよ!!」

 

「信奈様、方針の指示を……」

 

 と、深鈴。主君不在の間、後方の指揮を任された彼女にはある程度の自由裁量権が認められるが、それでも大まかな戦略的指針は確かめておかねばならなかった。これを聞かないままにしておいては、信奈が望むものと全く違った指示を出してしまう事になりかねない。

 

 こうした事情から最終確認を取っておくのは当然の行為と言えるのだが、しかしこの非常事態にあってもしっかりとその基本を守れている深鈴を見て、半兵衛は「慎重ですね」と頷いた。

 

 だがこの問いを受けて、信奈からの返答は予想を超えたものだった。

 

「無いわよ、そんなもの」

 

「はっ……?」

 

 出すべき指示が無いと言われ、深鈴も半兵衛も戸惑い動揺した表情となるが……しかし、信奈の言葉には続きがあった。

 

「後の事は全部、あなたに任せる。あなたの好きにやりなさい」

 

「は……しかしそれでは……」

 

「銀鈴、あんたもっと自分に自信を持ちなさいよ。あんたのやる事が一度でも、私や織田家の為にならなかった事があった? もう一度言うわ。後の事は、任せたわよ!!」

 

 言い終えると同時に信奈は愛馬を走らせ、燃える叡山へと駆け出していった。そしてその後を、

 

「あたしと違ってお前は頭が良いんだ。大丈夫、きっと上手く行くさ!!」

 

 勝家が、

 

「銀鏡殿の実力は姫様だけでなく、今や家中の誰もが知っています。気負わず、普段通りの能力を発揮すれば良いのですよ」

 

 長秀が、

 

「信奈様の事は、私が責任持って守るです!! 先輩の仕事は信奈様や私達が戻ってくる場所を守る事。お任せしたですよ!!」

 

 光秀が、

 

「……頑張ってくる」

 

 犬千代が、

 

「うふ。織田家中随一の知恵者と呼ばれる貴女の実力。存分に拝見させていただきますわ」

 

 久秀が、他にも織田家諸将が後れを取るなとばかり続いていき、兵卒達もそれに続いていく。後には深鈴と半兵衛と五右衛門、それに留守番役の僅かな兵だけが残される。

 

「……よし!!」

 

 ぐっと拳を握り締める深鈴。

 

 全てを任せるという信奈の言葉。あれは全幅の信頼の表明に他ならない。臣下として、これほどの幸福があるだろうか。

 

 ここで信頼に応えずして何の臣か、何の忠か。

 

 ぱん、と頬を叩いて気合いを入れる。

 

「戦闘開始よ!!」

 

 深鈴はまず、すぐ傍に立っている今井宗久に向き直った。

 

「今井殿、あなたには十分な物資とその流通経路の確保をお願いします」

 

「わいが、でっか?」

 

 頷く深鈴。この大火災の被災者は浅井・朝倉・僧兵合わせて相当な数に上るだろう。彼等への食料、薬や包帯など医療品、冬の寒さに耐える為の衣服・燃料。必要な物はいくらでもある。そうした品物を確保するのに会合衆を束ねる豪商である宗久は、まさにうってつけと言える。

 

「勿論これはお願いや命令ではなく、歴とした商取引です。掛かった経費は後で私に請求して下さい」

 

「よし、承りましたで。早速、堺に早馬を飛ばして……」

 

「宗久さん、私からもお願いが」

 

「半兵衛はん?」

 

「私の陰陽道で雨を呼び、消火作業を手助けします。その為に必要な物をここに記したので、それも一緒に揃えてもらえますか?」

 

 半兵衛はかつて斉藤義龍に仕えていた時も、陰陽道によって濃霧を発生させ、織田軍の侵攻を防いだ事がある。今回もその術を使おうと考えているが、しかし天候を変化させるような大規模な術にはそれなりの前準備が必要となる。あり合わせになるが、術式起動の為に必要な道具を揃えなければならなかった。

 

「よろしおま。それでは!!」

 

「では銀鈴さん、私も」

 

 そう言って宗久は陣から走り去り、半兵衛も術の準備に取り掛かっていく。深鈴はそれを見届けると、第二の指示に移った。

 

「次は衛生班を組織せねば……ちょっと、そこの方!!」

 

「はっ!!」

 

「京に戻って、私の食客達の中で医術の心得のある者を呼んできて下さい。それと、京に残してきた守備隊にも協力してもらって、近隣の医者という医者を全て掻き集めて連れてきて!! 妙覚寺に逗留されている曲直瀬ベルショール先生にも連絡を。先生には衛生班の指揮を執ってもらいます」

 

「はい!!」

 

 その足軽は馬に跨ると、風を追い越す勢いで京へと駆けていく。彼を見送った深鈴は、今度はすぐ傍に立っているルイズ・フロイスへと向き直った。

 

「フロイスさん、あなたにも協力を頼みたいのですが……」

 

 これは命令や商売ではなく、純粋に人道的見地からのお願いだった。フロイスは織田家の家臣でも深鈴の食客でもなく、織田家の為に働く義務は無い。しかしその願いを受け、宣教師は反射的な速さで了解の返事を返してきた。

 

「喜んで協力させてもらいます。傷付いた方を助ける事もまた、神のしもべとして大切な役目ですから。それでギンレイさん。私は何をすれば?」

 

「衛生班の一部には、今井殿が集めてきた食料を調理して被災者の方に食事を用意させます。フロイスさんは彼等の指揮に当たって下さい」

 

「分かりました。では被害に遭われた方々が救助後すぐに暖を取れるよう、ただちに準備に掛かりますね」

 

「お願いします」

 

 役目を与えられたフロイスもまたその場を離れ、深鈴は今度は前野某を呼び出した。

 

「嬢ちゃん、俺に御用ですかい?」

 

「ええ、質問だけど、今の銀蜂会ですぐに用意出来るお金はどれほどになるかしら?」

 

 この問いを受けた前野某は懐から帳簿を取り出し、読み上げていく。

 

「えっと……ざっと、五十万貫ってところかと」

 

「よろしい」

 

 提示された数字に、深鈴は満足げな笑みを見せる。以前、彼女と光秀が義元の将軍宣下の為に集めた金は合計で二十八万五千貫。内二十五万貫を御所に奉納したが姫巫女の意向で二十万貫が返却されており、二十三万五千貫の資金は深鈴に預けられ、銀蜂会によって運用されていた。

 

 元々京はこの国の中心であり、織田軍によって治安が回復した現在の市場規模は尾張や美濃を凌ぐものがあった。更に上洛以前から銀蜂会は尾張・美濃の商売の元締めとして有名だったが、京への進出に当たって深鈴が開催した相撲興行の大成功を受け、京の富豪・商人・民衆の間では彼女の名前と銀蜂会の存在が浸透しており、このネームバリューもまた商売を行うに当たって絶大な威力を発揮した。

 

 元金が二十万貫を越える大金であった事もあり、今や銀蜂会が挙げる利益は想像を超えた巨額に達している。たった今前野某が言った五十万貫ですら、いざという時の為に右から左へ動かせるようプールされていた金に過ぎないのだ。そしてそのいざという時が、今だ。

 

「では織田家はその五十万貫そっくり、今回の火災発生を受け、叡山の再建費用として寄付すると発表して下さい」

 

「ええっ!? 全部、ですかい?」

 

 何とも剛毅な話だが、しかしこれを聞いた前野某は腰を抜かしそうになった。失礼とは思うがそれでも、眼前の少女の正気を疑ってしまう。浅井・朝倉に与し、織田に敵対した叡山の救助活動を行うという信奈の判断だけでも過分に過ぎる処置だと思っていたのに、この上そんな大金を寄付しようとは?

 

 ……という、前野某の反応は自然なものである。そして銀蜂会の№3、副会長補佐である彼ですらこれほど驚くのである。他の者がこの話を聞いたらもっと驚くだろう。それこそが深鈴の狙いだった。

 

 この叡山大火はただでさえ信奈軍による攻囲中に、しかも猶予期間としてこちらから提示した三日間の内に起こったのである。織田勢の不利になる要素が一杯、と言うよりその要素しかない。特に「叡山が回答期限を過ぎても何も言ってこないようなら焼き払う」と公表してしまっているから、遅かれ早かれ世間には「山に火を放ったのは織田軍ではないか」という疑惑が確実に浮上するだろう。

 

 この疑惑を払拭もしくは少なくとも世間の目を逸らす為には、叡山が燃えるというビッグニュースに匹敵する程の強烈なインパクトが必要となる。そこで、この巨額の寄付である。かつて信奈の父・織田信秀がやまと御所に四千貫を奉納した時でさえ、各国の大名達は驚いたのである。今回は実にその百二十五倍!! 話題性としては十二分、上手く行けば信奈の信心深さをアピールして、日本中の仏徒の感情を味方に付ける事すら可能かも知れない。

 

 それでも今回の救助活動について、信奈の自作自演だと主張する者は少なからず居るだろうが、しかし彼等に対してもこの五十万貫寄付は大きな衝撃を与える事が出来る。いくら浅井・朝倉を討つ為とは言え、それほどまでの巨額を払ってしまって果たして割に合うのかと。

 

 とにかく、今現在最も避けなければならないのは「この火災の黒幕が織田家である」という疑惑が、大勢の人の間で共通の認識として固定化されてしまう事態である。それこそ日ノ本全土の仏徒を敵に回し、天下取りを十年遅らせる事になる。逆に「もし織田信奈が犯人なら、これほどまでの大金を寄付する訳がない」という評判が買えるのなら、五十万貫が百万貫でも安いものだと深鈴の算盤は弾き出していた。

 

「しかし、良いんですかい? いくら織田家とは直接関係の無い銀蜂会の金とは言え、勝手にそんな事して」

 

「私に全て任せると、信奈様からはお言葉を頂いてるわ」

 

 言質は取っている。それに結果的にであるがこの状況は、当初の目的を達成しているとも言える。

 

 信奈が叡山に求めた条件は浅井・朝倉連合軍を山から出す事と僧兵全ての武装解除である。この火災によって浅井勢も朝倉勢も山からは焼け出され、僧兵達もまず間違いなく壊滅に近い被害を被るだろう。かなり乱暴な過程を踏むが、条件を呑んだのと同じ状況になると予想出来る。そうなれば織田勢には、彼等を保護する用意があった。ならばこの対応は、信奈の意向に沿っている。

 

 また深鈴とて、この寄付によって損をするつもりは無い。

 

 生き残った僧達に五十万貫の元手があるとは言え、この国の仏法の聖地を再建しようというのである。その為に動く人と物、それらがもたらす経済効果たるやどれほどになるか。それを銀蜂会が取り仕切る。これは言わば先行投資、いずれ三倍にして取り戻してみせる。

 

 最大の問題点は、寄付金を軍資金として叡山が再度軍備を整えて一大武装勢力となってしまう危険だが……その可能性も低いと、深鈴は見ている。五十万貫もの大金を寄付するのである。如何に表面上は中立を謳った所で、再建される叡山には織田家が多大な影響力を持つ事が可能となる筈だ。その時に、武力の永久放棄を約束させれば良い。

 

 こうした点を前野某に説明すると、彼も漸く納得が行ったようだった。「分かりやした!!」と気持ちの良い返事を返すと、寄付金の用意とその情報を派手にぶち上げる為の準備へと移っていく。

 

 深鈴は次には、待機している五右衛門へと向き直った。

 

「五右衛門、あなたは諜報部隊の半数を率いて、現在の状況と織田家の対応を流言として伝えて。今回は、脚色は一切無しで」

 

「分かり申した。やはり近隣から話を広めていくでごじゃるか?」

 

「いや、今回は京から離れた場所、東は尾張や美濃、西は堺方面に流言を広めて」

 

「……と、言うと?」

 

「叡山があの蒼い炎に焼かれているのは、近隣の人達からは見えてるわ。つまりは彼等には、この状況が只事ではないとは十分に伝わっている筈。逆にこれを見ていない遠い地の人達は、人から人へと伝わる中で尾鰭が付いた噂や意図的に改竄された情報を耳にして、織田家が犯人だと誤認する可能性がかなり高いわ。状況から考えてもね……」

 

「成る程、故に我等が先手を打って、正確な情報を伝えるでござるにゃ」

 

「そういう事。お願いするわね」

 

「承知!!」

 

 明瞭な返事と共に、五右衛門は姿を消していた。

 

 いつの世も最も恐るべきは、無知とそれに伴う混乱である。

 

 情報が無い、あるいは錯綜して何が事実か分からないような事態になると、必然的に声が大きい者や人を煽り立てるのが上手い者の意見ばかりが通るようになり、それは往々にして事態を悪化させる。だからこそ深鈴は混乱を抑える為に、正しい情報を発信する手を考えたのだ。これは未来の、情報時代に生まれた彼女ならではの発想だと言える。

 

「山科卿に使者を送って!! 事態が収束した後、信奈様の名代として私が会談を望んでいると!!」

 

「はい!!」

 

「京に残してきた守備隊にも動揺するなと指示を出して!! 織田軍が慌てふためけば民にも混乱が波及するわよ!!」

 

「分かりました!!」

 

「もう一度、各隊に連絡を!! どんな些細な報告も全て私に回るよう徹底して!!」

 

「はい!!」

 

 矢継ぎ早の指示を受けて本日何度目かの早馬が陣を飛び出していくのを見送ると、深鈴は意識の大半を思考の海へと沈め始めた。

 

『これだけやれば織田に対する世間の非難・疑惑をかなり抑える事は出来る筈……』

 

 現在、各国が織田に抱いている感情を友好・中立・敵視の三段階だとして、少なくとも友好から中立までの感情を持った勢力はこの対応を見て、織田家黒幕説の疑惑を薄れさせるだろう。

 

『問題は、明確に織田を敵視している勢力よね……』

 

 彼等にとってはこの大火が織田の手によるものだろうが浅井・朝倉・叡山連合の仲間割れによるものであろうが事の真偽などどうでも良く、意図的に織田家を犯人に仕立て上げるよう情報操作を行った上で、各国にリークするに違いない。これから始まるのは彼等と深鈴の間で交わされる虚実を使い分けた、イメージの銃撃戦だ。

 

『今現在で最も信奈様を危険視し、かつ各国に対する影響力が強い人物は……!!』

 

 数秒ばかりその条件で頭脳に詰まった情報を検索し、やがて一人の人物の姿が浮き上がってくる。深鈴は意識を表層へと浮上させ、今度は彼女の影の中に潜んでいたもう一人の忍者、加藤段蔵へと声を掛けた。

 

「段蔵、あなたは諜報部隊の残り半数を率いてやまと御所を監視し、もし東へ向けて使者が出た場合には構わない、人気の無い所でその使者を捕らえなさい」

 

<……よろしいのですか?>

 

 段蔵が纏う黒いボロ布の袖口から、そう書かれた紙が飛び出した。

 

 飛び加藤こと加藤段蔵と他の忍者、つまり服部半蔵や蜂須賀五右衛門らとの決定的な相違点は、彼あるいは彼女が金で雇われた傭兵であるという事だ。時には主君である元康や深鈴に助言を与えて補佐する事もある二人とは異なり、段蔵は雇い主が契約違反を犯さぬ限りはどんなムチャ振りであろうと、何も考えず命令を確実に遂行するだけの精密機械のような男あるいは女なのである。その彼あるいは彼女が尋ね返してくるのだ。今回の深鈴の命令がどれほどヤバいものなのかは、推して知るべしであった。

 

 御所から出た使者を襲うなど、もしこの事が明らかになれば、それこそ織田家は逆賊としての汚名を晴らせなくなる。そこまでの危険を犯してまでやる事なのかと段蔵は確認するが、深鈴の答えは変わらなかった。

 

「誰かに見られても織田家の仕業と気取られないよう、山賊を装って襲うのよ。大丈夫、万一の時は全て私が責任を取るわ。あなたは、任務を果たす事だけ考えて」

 

<承知>

 

 返答が書かれた紙を渡すと、段蔵もまた姿を消す。そうして残された深鈴は、ふうっと大きく息を吐いた。

 

「これで……思い付く限りの手は打ったけど……」

 

 己の人知の限りを動員し、人事を尽くした。その、筈なのだが。しかし他にやるべき事は無かったか、本当に全てをやり尽くしたのかと、千に一つの手抜かりも見逃すまいと深鈴の頭脳はフル回転を続けていた。

 

 次の一手は……

 

「源内!! 火砲部隊の準備は!?」

 

「全て整っております、深鈴様」

 

 カラクリ技士の報告に、深鈴は頷く。

 

「よし。では、全ての砲を叡山に向けなさい。突入部隊を援護するわよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 燃える叡山へと突入した信奈達は、前鬼を先頭として山道を進んでいた。こんな時でもなければ高所から見下ろす京の景観を楽しめていたのだろうが、今は全員、前しか見ていない。

 

 すると前方から、亡者の群れが現れて向かってきた。数は、ざっと五十体ほどか。

 

「下がれ、織田信奈よ」

 

 先頭に立っていた前鬼はそう言って前方に躍り出ると、

 

 オン、バサラ、ダルマ、キリ、ソワカ。

 

 千手観音よ、来たれ。

 

 呪文を唱え、式神が繰り出した不可視の拳は、一瞬にして亡者達を覆滅していた。槍刀では斬っても突いてもびくともしない屍兵共も、式神のような霊的な力ならば有効打となり得る。打ち砕かれた屍体は、二度と再び動き出す事はなかった。

 

「これが、亡者……」

 

 正覚院豪盛から話は聞いていたが、成る程こんなのが大挙して押し寄せてきたというなら、彼が悪夢を見た童子のように怯えていたのにも頷けるというもの。

 

「良いか、ここから先は亡者共で溢れておる。十分に注意して進むのだ」

 

「みんな、聞いての通りよ!! 絶対に本隊から離れず、固まって行動するのよ!!」

 

 信奈が指示を飛ばしていると、再び亡者が現れた。

 

「ここはあたし達が!! 合わせろ、犬千代!!」

 

「……分かった。せ、え、の……っ!!」

 

「「うりゃあああああっ!!」」

 

 前に出た勝家と犬千代が愛槍を交差させて思い切り振りかぶると、異様な風切り音を伴うほどの速さで振り下ろした。火薬も使わないのに何かが爆発したような轟音が響き、亡者達が木っ端のように吹き飛ばされる。

 

「どうだ!!」

 

 柄を伝わってきた感触から、今の一撃が完全に入った事を確信してにっと笑みを見せる勝家。人間相手ならこれでも十分以上なのだが……

 

「……って、まだ動くのか?」

 

 百戦錬磨の彼女も初めての敵を目の当たりにして、流石に戸惑いが見える。

 

 魔界の死兵達は、特に損傷の大きい数体こそ動きを止めてはいるが、大多数は四肢の一部が欠損するなど確かにダメージは見て取れるものの何の痛痒も感じてはいないかのように立ち上がって、再び向かってくる。

 

「鬼柴田よ、注意しろ。この亡者達は霊的な攻撃以外では首を落とされようが動き続ける。そなたらの武器は不利だ」

 

「話に聞いてはいたが、一度見てみるまでは信じられなかったよ……だがそれなら、手はあるぞ」

 

「……壁隊、前へ!!」

 

 犬千代が朱槍を振るのを合図として、銃弾避けに使われる竹束を盾のように構えた部隊が横一線に並んで前進し、竹束を壁のように使って亡者達にぶつかっていく。

 

「ようし!! 次は槍隊、前に出るです!!」

 

 今度は光秀の指示を受け、三間槍を構えた部隊が二列目として前進し、得物の長さを活かして壁となっている竹束と竹束の隙間から槍を突き出した。

 

 この戦法は、亡者共を倒せはしないまでも進行を防ぐのに一定の効果を発揮してはいた。これまでは思うさま暴れていた不死の兵団が、密集隊形を取った織田軍に阻まれて進めなくなった。前鬼も「やるではないか」と感心した表情になる。

 

「だが、守っているだけでは芸が無い。こちらからも仕掛けるとしよう」

 

 そう言って進み出たのは、子市だった。

 

「焙烙火矢隊、出番だ!!」

 

 彼女がさっと手を上げると、通常の種子島よりも銃身が太い大筒を手にした一団が進み出た。彼等は横一線に並ぶと武器を構え、前方に狙いを定める。

 

 数秒程の間を置いて、炎の中から再び亡者達が姿を現した。生者である織田勢を自分達の同胞に加えんと、襲い掛かってくる。

 

 悪夢の中にいるようなこの状況を受けて、訓練を重ねた兵達にも怯えが見えた。表情を強張らせて今にも引き金を引きそうになるが、

 

「まだだ!!」

 

 子市の一喝が、それを止める。

 

「まだまだ……十分引き付けろ」

 

 亡者の群れがどんどんと近付いてくるが、子市は動じない。そうして葬列が目に見えぬ一線を越えてきた瞬間を正確に見極めると、上げていた手を振り下ろした。

 

「今だ、撃てぇっ!!」

 

 その合図と同時に十数挺はあった大筒の引き金が一斉に引かれ、轟音。そして一瞬の間を置いて更なる大轟音が発生して、同時に起こる大爆発!! 閃光と爆煙で、何も見えなくなる。

 

 そうして十数秒が過ぎて立ち込める爆煙が晴れた時には既に、亡者達の姿はこの世から失せていた。

 

「ふん……文字通り往生際の悪い連中だが……跡形も無くなれば大人しく成仏するだろ」

 

 と、子市。たった今使ったのは焙烙火矢といって、乱波などが使う焙烙玉を発射し、着弾と同時に爆発させる新兵器だった。雑賀衆でも少数ながら使われている物を、子市の話から源内が再現して鉄砲隊に配備していたのだ。叡山を襲う亡者達は粉々にでもしない限りは前進を止めない不死の軍団。ならば粉々にしてしまえば良いと、単純な方法論だった。

 

「姫様、ここはあたし達が!!」

 

 槍を風車の如く回して景気良く亡者を吹っ飛ばしながら、勝家が叫ぶ。聖地を舞台とした生者と亡者の戦いはほぼ五分、否、僅かだが織田勢が押しつつあった。

 

 魔界転生によって喚び出された亡者の軍勢の最大の強みは数、物量である。屍兵一体一体は一般的な足軽と比べても高い能力を持っている訳ではない。だが、今回のように一定以上の頭数を揃えて軍団として運用した場合、亡者が殺した人間も亡者になるという性質上、特に軍団同士の戦いでは敵が多ければ多いほどネズミ算の要領で数を増やしていき、手が付けられなくなる。そうして増えた亡者達によって押し切って勝つ事が、この術の単純ながら最も効果的な戦法だった。

 

 しかし今、叡山に満ちる気を受けて普段とは比べ物にならぬ力を得た前鬼や、現世の依り代となっている肉体を木っ端微塵に破壊する威力を持った焙烙火矢によって亡者達は倒されている。また、頑丈な竹束を前面に押し出した織田軍に近付く事は容易ではなく、数を増やす事も封じられていた。

 

 こうして徐々にではあるが、だが確実に死霊の軍団はその総数を減じつつあった。

 

 指揮官である信奈は馬上よりこの様子を見て取ると、この場は勝家達に任せて先へ進もうと手綱を握るが……その時だった。

 

 どどどんと、先程の焙烙火矢の一斉射が虫の羽音に聞こえるような轟音が、麓から聞こえてくる。この音に、織田家の諸将は聞き覚えがあった。

 

「これは……源内殿の轟天雷です!!」

 

「……って事は、銀鈴の指示か? 何考えてんだ!! あたし達をぶっ飛ばすつもりか!?」

 

 毒突く勝家だったが、間髪入れず「違うわ!!」と信奈が一喝した。

 

「弾の風切り音もしなければ、着弾音も衝撃も襲ってこない。つまり、今のは空砲よ!! 全軍に炎には近付くなと指示しなさい!! 源内の大砲は燃えている所と燃えていない所の、その境目を正確に狙ってくるわ!! ぐずぐずしないで!! 二射目からは実弾が飛んでくるわよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「深鈴様、信奈様達は、空砲の意味にお気付きになるでしょうか?」

 

 どこか不安げな視線を向ける源内に対して、深鈴はこちらは自信たっぷりに頷いてみせる。

 

「信奈様なら、分かるわ。第二射の準備を」

 

「……承知しました」

 

 源内の指示を受け、火砲部隊は手際良く轟天雷に砲弾を装填、発射準備の整った砲から射角を僅かに修正して、

 

「撃てぇっ!!」

 

 叡山めがけて次々発射。耳を塞いでも尚鼓膜を破りそうな大轟音が続け様に響いていく。

 

 撃ち出された鉄球の着弾点は信奈が言った通り山中の、燃えている場所と燃えていない場所の、その境界線だった。この砲撃は信奈への裏切り行為や奇策などでは断じてない。寧ろ、実にオーソドックスな消火作業だと言える。

 

 この時代の建築物は殆どが木製であり、いざ火事が起こった場合には、特にそれが住宅が密集した市街地であった場合には延焼を防ぐ為、燃えている建物に隣り合った建物も打ち壊してしまう。町中ではそれを火消し達の手による人力で行うが、今回は大砲を使用する。つまり、砲撃によって燃える物を根こそぎ吹き飛ばしてしまって、火の広がりを止めるのだ。あたかもドミノ倒しを、間のブロックを抜いてしまって止めるように。無論、これは源内の正確無比な射撃術あってこその策だが。

 

 懸念すべきはこのダイナミック消火作業に信奈達が巻き込まれる事だったが……それを避ける為の、最初の空砲だった。空撃ちの轟音は、信奈達へ宛てた警告メッセージだったのだ。山中の信奈はまさに以心伝心、正確に深鈴の意図を読み取って、部隊に適切な指示を出していた。

 

 そしてこの砲撃は、単なる消火作業に留まらずしっかりと突入部隊の援護にもなっていた。

 

 信奈の指示を受けた織田軍は火を避けて安全地帯に退避しているが、本能が命ずるままにただ生者に襲い掛かるだけの亡者達はそんな動きを取る事は出来ない。雨霰の如く降り注ぐ砲弾は屍兵だけを吹き飛ばし、その数を大きく削っていた。

 

 更にこの砲撃は亡者だけではなく、山を燃やす鬼火すらも爆風によって吹き飛ばし、そこには”道”が生まれていた。拓かれたその”道”を、信奈率いる部隊は駆け上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

「う……ぬう……」

 

 浅井久政は鬼火に包まれる庫裡にて、手にした脇差しの光る刃を睨んでいた。

 

 既に侵攻してきた亡者の群れによって、浅井・朝倉・叡山連合はほぼ壊滅状態。彼に残された道は、三つしかない。

 

 一つは亡者に殺されて亡者になる道。

 

 一つはこのまま山を下って、織田の縄目を受ける道。

 

 そして最後の一つは……蒼い炎を映して妖しく光る白刃を見て、久政はごくりと唾を呑んだ。

 

「何故、このような事に……」

 

 朝廷への忠義を全うして叛臣を成敗し、我が子を天下人の座に据えようとしただけなのに、どこで間違ってしまったのか。

 

 やはり、この仏法の聖地を戦に利用した事が過ちだったのだろうか。これは自分や義景殿へと下された仏罰なのであろうか。押し寄せてきた腐臭を放つ葬列の姿が、久政の脳裏によぎった。

 

「あんな姿になるぐらいなら……」

 

 彼は震える手で、脇差しを逆手に持ち替える。今更何を迷うと言うのか。確かに戦下手だの臆病者だのと揶揄される自分だが、ここまで卑怯未練に命を惜しむ根性無しだったのか? 否だ。どうせ助からない命を惜しんで亡者になるなど、生き恥を通り越して死に恥を晒し続ける愚挙。かくなる上は武人として最後の意地を、通さねばならぬ。

 

 久政は震える手で振りかぶって、そうして自分の腹めがけて脇差しを突き出して、

 

 ぎぃん。

 

 庫裡に響いたのは気持ちの良い金属音であった。いきなり横合いから襲ってきた衝撃によって弾かれた脇差しは空中でくるくると舞って、床に落ちた。勿論、久政の体には一寸の傷すら刻まれてはいない。

 

「なっ……」

 

 呆然と顔を上げる久政。そこに立っていたのは、炎の中に在っても凛とした佇まいを崩さぬ美しき姫武将だった。脇差しを叩き落としたのは、彼女が手にする名刀「左文字」であった。

 

「何やってんのよ!!」

 

「お、織田信奈……!!」

 

「助けに来たわ、さっさとこんな場所からはおさらばするわよ!!」

 

 少しの間、久政は信奈が何を言っているのか分からなかったが、しかしはっと正気に戻ると落ちている脇差しへと手を伸ばそうとする。事ここに至って信奈を害そうとする目論見ではない。ただただ彼が、武人としての最期を遂げる為だった。

 

 しかし、久政の手より信奈の足が早かった。脇差しは彼の手が届かない所まで蹴り転がされてしまう。

 

「織田信奈……貴様はワシに、生き恥を晒させる気か……!!」

 

 信奈を睨む久政。この謀反人は長政を天下人にというワシの夢を潰しただけでは飽き足らず、武士としての死に場所すら奪おうと言うのか?

 

 そんな久政の恨み言を受けて、だが信奈は、

 

「馬っ鹿じゃないの?」

 

 そう、言い捨てた。そのまま久政の胸ぐらを掴むと、ぐいっと引き寄せて無理矢理立たせる。

 

「人は死なない方が良いに決まってるでしょうが!! 精一杯生き抜く事もしないで、何が死に場所よ!! 生きて、生きて、生き抜くの!! 死に場所なんて棺桶に入ってから考えればいい!! 繰り言なんか、墓穴に入ってから蛆に聞かせれば良いのよ!! 分かった!?」

 

 怒気と共にそう言い放つ今の信奈には、一瞬ながら久政から死の決意を忘れさせる程の迫力があった。

 

「こ、この状況で生き残る当てがあると言うのか……?」

 

「勿論よ」

 

 信奈は、死地に在るとは思えぬほどに不敵に笑ってみせる。次の瞬間、庫裡の壁が吹っ飛んだ。亡者が入ってくると想像した久政は思わずびくっと体を竦ませたが、しかし予想に反して現れたのは木綿筒服姿の青年式神・前鬼と、長秀によって率いられた兵士達だった。

 

「姫様、お急ぎ下さい!! 退路は確保していますが、長くは持ちません!!」

 

「……と、こういう訳ね。行くわよ!! 前鬼、あんたが久政を担いで」

 

「なっ、織田信奈、貴様、何を勝手に……!! うわっ!!」

 

 抗議する久政だったが、彼の言葉は式神によってひょいと担ぎ上げられた所で遮られてしまった。

 

「あんたが死んだら、長政が悲しんで、そしたらお市……信澄まで悲しむでしょ!! 私はあんたを捕らえた、故にあんたを煮ようが焼こうが私の勝手!! よって久政、あんたには生きてもらうわよ!!」

 

 一方的にそう言い渡すと、信奈は再び愛馬に跨り、丹羽隊が確保していた退路を駆けて下山していく。久政を抱えた前鬼も、その後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 朝倉義景の方も状況は似たようなものだった。彼が座すお堂の壁一面には源氏物語に登場する美しい女性達の姿が描かれていたが、その姿も炎に焼かれて、消滅しつつあった。

 

「余は、こんな所で死ぬのか……この現世には所詮、余の居場所など何処にも無かったという事なのか……」

 

 ほんの数分後には火に捲かれるかそれとも酸欠で死ぬかという命の瀬戸際なのに、彼の口調はまるで第三者の視点から演劇でも見ていて、その感想を述べているようだった。

 

「それも良いか……現世とはいつもこうだ。本当に欲しい物は、何一つとて手に入らぬ……」

 

 ぶつぶつと呟きながら、手にした絵巻物を広げようとした、その時だった。

 

「何を仰っているのですか?」

 

「ぬっ?」

 

 背後から聞こえてきた声に義景は振り返って、そして思わず言葉を失った。

 

「織田……信奈か……」

 

 辛うじて、そう絞り出すのが精一杯だった。

 

「助けに参りましたわ、朝倉義景殿」

 

 信奈はそう言って、さっと手を差し出してくる。この瞬間、義景の頭の中からはこの堂が火に包まれている事も、”何故に織田信奈が供の一人も連れずにこんな場所に現れるのか”という疑問すら、綺麗さっぱり消えて無くなってしまっていた。今の彼の心は、そんな些事よりも遥かに重要な事が占めている。

 

「何と美しい……織田信奈よ、そなたは余が思い描いていた通りの美しき姫君であるな。美しい。臓腑を全て抜き取ってそのまま剥製にしてしまいたい程に美しいぞ」

 

「光栄ですわ」

 

 艶めかしい口調で信奈はそう返事して、義景が伸ばしてきた手を取ってそのまま自分の方に引き寄せると、勢いに任せて唇を重ねた。

 

 義景は驚いたが、しかしそれも一瞬の事でしかなかった。この美しき姫大名の唇を自分の物と出来るのである。彼は他の全てを忘れて己が身を焦がす快楽に耽溺した。

 

 信奈は一度唇を離すと、間髪入れずもう一度唇を重ねてきた。先程の接吻は初めてだったのか唇を重ね合わせるだけだったが今度のは情熱的で、舌を入れて絡ませてきた。義景もまた少しも拒まずにそれに応じた、その時だった。

 

 不意ににゅるっとした感覚が口の中に走り、何かが彼の喉奥へと流れ込んでくる。信奈の唾液かとも思ったが、しかし彼の舌には今まで口にしたどんな酒や茶とも違う不可思議な味が広がっていた。

 

 何かがおかしい。そう思った時には、もう全てが遅かった。

 

 目を開けてみるとそこに立っていたのは亡き母の面影を重ね合わせる美姫ではなかった。代わりに褐色の肌をした、妖艶な魔女が義景を見下ろしていた。

 

「貴様は……松永……!!」

 

 全てを悟った義景は久秀の体を突き飛ばすと口に指をやるが、示指と中指が前歯に引っ掛かった所で彼の動きは止まってしまった。口端からは涎が垂れて、目からは意思の光が消え失せている。口移しで飲まされた薬が、覿面に効果を発揮したのだ。

 

「くすっ。これであなたさまは、私の傀儡。現世がお嫌なれば、いつまでも終わらぬ夢の世界へ旅立ちなさいませ」

 

 先程まで義景が見ていた信奈の姿は、久秀が仕掛けた幻術だった。彼は術の効果も手伝って、自身の願望を久秀に投影していたのだ。

 

 久秀としては幻術に落としてしまった時点で義景を殺してしまう事も簡単だったが、それはしないでおいた。今回の救出作戦を成功させる絶対条件として、浅井・朝倉・叡山それぞれの代表者である浅井久政、朝倉義景、正覚院豪盛の三名には少なくとも生き残ってもらわねばならない。もし三名の内一人でも死んでしまえば、この叡山大火のどさくさに紛れて織田家が暗殺したのではという疑惑を拭い去る事が不可能となるからだ。その疑惑はそのまま、この大火が織田の手によるものではという疑惑に直結する。

 

 信奈を実の娘のように想っている久秀としては、彼女の望みは出来る限り尊重してやりたかったが……しかしだからと言って朝倉義景をただ助けるという選択肢も有り得なかった。

 

 浅井久政は戦下手の無能故、放っておいてもいずれ自滅する。

 

 正覚院豪盛は押し寄せた亡者達によって恐怖を潜在意識にまで刷り込まれ、闘争本能を完膚無きまでに破壊されている。今後織田家に敵対するどころか、二度と武器を手に取る事すら出来はしない。

 

 だが朝倉義景はだけは拙い。彼の武将としての器量を久秀は知っている。野放しにしておくのはあまりに危険過ぎるし、傀儡達によって掴んだ情報によればこいつは常々「織田信奈を我が館に連れ帰りたい」と口走っていたという。許せない、こんな奴は生かしておく訳には行かない。……と、言いたい所だが先の理由から彼には生きていてもらわなければならない。少なくとも今しばらくは。

 

 そう、”生きてさえいれば良い”のだ。誰が見ても様子がおかしい事は、正覚院豪盛がそうであるように亡者に襲われて精神の均衡を崩したなどいくらでも言い抜けの道がある。

 

 付け加えるなら、今回の火災で浅井家は保有していた戦力の殆どを失い、久政が生き残ろうが長政が跡を継ごうが、最早織田の脅威には成り得ない。だが朝倉は、未だ本国に一万の兵を残している。久秀としては絶対に、ただで帰す訳には行かなかった。

 

「では義景殿、ここは危険ですわ。私共々、織田の陣までおいでなさいませ」

 

「……あいわかった」

 

 蠍の毒にやられた新しい犠牲者を伴いながら、久秀も叡山を下りていった。後には燃えるお堂と、そのすぐ外に倒れた真柄姉妹以下十数名の朝倉兵だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……そろそろ、潮時か」

 

 燃える根本中堂を背にしながら、宗意軒は呟いた。

 

 織田軍による救助活動は順調に進んでおり、麓からは霊力の集中が感じられる。恐らくは竹中半兵衛が大規模な術を発動する前触れであろう。

 

 信奈が滅ぼす為ではなく救う為に叡山に兵を進めた事は、嬉しい誤算だった。これでは彼女はその身も顧みず燃える叡山から敵をも助けようとした英雄になる。宗意軒が、望んだ通りに。この場所で彼がやる事は、後は二つだけだった。

 

 指を鳴らす。ぱちんというその音を合図とし、彼の周りに護衛として置いていた亡者達に鬼火が着火し、彼等がその身が果てるまで焼かれて、消えていく。同じ事が、この山中に展開した全ての屍兵に起こっている筈だ。まずこれで、亡者達の始末は完了した。

 

「では、最後の後始末に掛かるとするか……」

 

 もしこの叡山大火で主犯である自分と織田家との関係が明らかとなれば、当然ながら救出活動は織田家の自作自演であったと見なされ、信奈の評価は英雄から一転、魔王より尚悪い鬼畜外道の烙印が押される事だろう。宗意軒としては、それだけはやってはならなかった。ここまで積み重ねてきた事、自分が殺した何千という命、全てが無駄になる。

 

 露見するのが万に一つの可能性であろうと、全ての証拠は消さねばならない。

 

 思い残す事は無い。織田信奈と銀鏡深鈴。あの二人ならきっと、自分が望む天下を築いてくれる。未来を見る術など使わずとも今の彼にはそれが無根拠の直感で、だが確信として分かっていた。

 

「ではな。織田信奈、深鈴様……そしてルイズ……おさらばだ」

 

 呟いた宗意軒は振り返ると、蒼い鬼火が燃え盛る根本中堂へと歩き出して。

 

 そして彼の姿は炎の中へと、消えていった。

 

 半兵衛の陰陽術によって作り出された雲から雨が降り注ぎ、火を消していくのはこのすぐ後の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 これが後の世に語られる「叡山大火」の顛末である。一万数千は居たとされる浅井・朝倉・叡山連合の中で、生き残った者は二千余りであったという。

 


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