織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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最終話 新たなる戦いへ

 

 東北地方、出羽国にそびえる米沢城。奥州に割拠する大名の一人、伊達輝宗の居城である。

 

 その米沢城の一角には鬱蒼と茂る森があり、木々に隠れるようにして漆黒の南蛮教会が建っている。良く見ると屋根に掲げられている十字架は、何故か上下逆さまになっていた。

 

 そんなアンチクライストな南蛮教会の礼拝堂では、ひっきりなしにパン、パンという乾いた音が響いている。

 

「姫ぇ……もう勘弁して下さいよぉ……」

 

 涙目になってそう訴える男装の麗人は片倉小十郎。梵天丸こと伊達政宗の第一のお供であり、彼女が生まれた時からずっと甲斐甲斐しく仕えてきた側近である。

 

 そんな小十郎の最近の悩みは、堺から返ってきた梵天丸が一つの謎を解くのに夢中になっている事だった。

 

 帰ってきて早々、梵天丸は小十郎を呼び付けるとこう言った。「パンパンと、出来るだけ大きく手を鳴らしてみよ」と。妙な命令に首を捻った小十郎であったが、取り敢えずは言われた通りに手拍子を打ってみる。するとやはりパンパンと、気持ちのいい音が鳴った。

 

 それを聞いた梵天丸は「うーむ」と首を捻る。

 

「なあ小十郎。今、そなたの右手が鳴ったのであろうか、それとも左手が鳴ったのであろうか?」

 

 そう尋ねられて、この妙な質問には小十郎も難しい顔になった。果たして右手が鳴ったのか、左手が鳴ったのか?

 

 堺から帰ってきてからと言うもの、梵天丸と小十郎はこの難問を解く為に朝から晩まで教会に籠もりっきり、食事も摂らずにぶっ通しで手拍子ばかり打っている(勿論、手を叩くのは小十郎で、梵天丸は考える役)毎日だった。

 

 だが連日連夜の手拍子で小十郎にも疲れが見えてきている。彼女は涙目になって、真っ赤になった掌を見せた。これを見ては流石の梵天丸も罪悪感を覚えたのか「ううっ」と呻いて、少しアプローチを変えてみる事にした。

 

「では小十郎、今度は片手で素振りしてみよ。右か左か、手を振る速さの違いが関係しているのかも知れん」

 

「は、はい。それでは……」

 

 言われた通り、まずは右手をぶんと振る小十郎。彼女は続いて左手を振ろうとするが、「待て!!」と梵天丸に制された。

 

「…………」

 

 梵天丸はきょとんとした表情になっていたが、ややあって「もう一度右手を振ってみよ」と命令する。小十郎が同じようにすると、再び彼女の右手が空を切った。その後、しばらくは沈黙が続いて「あ、あの姫……?」と小十郎が心配そうに覗き込んだ、その時であった。

 

「ふ……ふふふ……」

 

「ひ、姫……?」

 

「ふはははははははは!! 分かった、分かったぞ銀鈴!! そなたが我に掛けた謎の答え!! その教えの意味がな!!」

 

 突然の高笑い、そして急激にテンションを高めた梵天丸。この落差には小十郎も圧倒されっ放しであったが、しかし続いて出て来た言葉は更に衝撃的なものだった。

 

「ようし、では我は早速元服して伊達家の当主になるぞ!! 父上には楽隠居してもらうのだ!!」

 

「ええ~? 姫はまだ幼すぎます~。そんなの無理です~」

 

「つべこべ言うでない!! 我は必殺の邪気眼で以て奥州を席巻し、やがては京へと攻め上るのだ!! 我が望みは天下覆滅、世界大乱!! 聖書に預言されておる”黙示録のびぃすと”として大暴れしてくれるわ!! 付いてこい小十郎!!」

 

「あああ~ん。姫が、姫が~!! 元気になられたのは良いのですが、堺でどんな影響を受けられたのかすっかり変になってしまいました~!! 僕はどうすれば良いんでしょう~?」

 

 ばぁん、と蹴破る勢いで教会の扉を開け放ち、城へと駆けていく梵天丸のすぐ後ろを、涙目になった小十郎が付いていく。どうやら彼女の苦労は、まだまだ絶えそうになかった。

 

「待っておれよ銀鈴!! この邪気眼竜政宗!! すぐにそなたに会いに行くぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 東国、甲斐国。

 

 その躑躅ヶ崎の館で茶会に興じるは戦国最強の呼び名も高い「甲斐の虎」武田信玄。接待されているのは姫巫女の実兄であり叡山の天台座主を務める高僧・覚恕(かくじょ)である。そこに、関白・近衛前久からの手紙が届けられてきた。

 

「関白からは何と言ってきたんだ?」

 

「それが、浅井・朝倉を受け入れて乱世に与した叡山は仏罰を受け魔界の亡者共に焼かれるも、織田信奈が陣頭に立って救助・消火作業を行い、また再建費用として五十万貫を寄付。全く信奈の信心深さは日ノ本一でおじゃると……」

 

「ふぅん……? ちょっと見せてくれるか?」

 

 そう言って手紙を受け取った信玄は、文面に目を通していく。彼女が手紙を読んでいる間、覚恕は「信奈殿は噂通りの功労者、拙僧も帰ったら丁重に礼を述べねば……」などと呟いていた。既にこの甲斐にも叡山が鬼火に焼かれ、織田軍が敵味方の立場を越えた救助活動を行いしかも再建の為の資金まで寄付したという噂は流れてきている。手紙の内容とも一致するし、彼はすっかりその気だったのだが……

 

 信玄は手紙を読み終えると、

 

「これは偽手紙だな」

 

 そう言い切ってぽいと捨ててしまった。覚恕は慌ててそれを拾うと「ええっ?」と上擦った声を上げる。

 

「考えてもみろよ。川中島で睨み合っていた謙信ちゃんとあたしを和睦させたのは他ならぬ近衛前久だぞ? それは奴が、東に脅威を作って織田を京から撤退させようとさせようとしたからだ。この事からも関白が織田信奈を疎んじているのは明々白々。なのに今回はその功を歯が浮くほど褒め称えるような手紙を送ってくるなんて、おかしいじゃないか。あたしが関白でもこの状況なら織田信奈に濡れ衣を着せる内容の手紙を書いて寄越すぞ?」

 

 という、信玄の言葉は成る程道理である。だが、これを受けても覚恕は腑に落ちないという表情であった。

 

「しかし、この手紙の字は間違いなく前久殿のものですぞ? 使われている印鑑も紛れもなく彼の物ですし……」

 

「だから、それら全部偽物なんだよ。紙も、墨も、朱肉も、恐らくは筆も。全部関白が使っているのと同じ物を揃えて、印鑑も全く同じ物を新しく彫って拵えて、寸分違わぬ筆跡で真逆の内容を記して、偽物……いや、本物の手紙をもう一つ作って、それを送り付けてきたんだ」

 

「まさか……そんな事が?」

 

 信じられないという表情を見せる覚恕。信玄のその言葉はあまりにも論理が飛躍した暴論である。第一そんな事を言い出したら、今後武田に届く手紙は何一つ信用できない事になるではないか?

 

 覚恕にそう言われて、「それなら心配要らないさ」と信玄はからからと笑った。

 

「こんな事が出来るのは、恐らくは今の日ノ本には一人だけだろうからな」

 

「……それは、一体?」

 

「織田の、今信陵君だよ」

 

「銀の……鈴……」

 

 覚恕は息を呑み、そして畏敬の念が籠もっているような声で呟いた。この甲斐にも、深鈴の噂は届いている。墨俣に一夜で城を築いた美濃攻略の立役者であり、先の金ヶ崎の撤退戦ではたった千人の兵を率いて三万五千の浅井・朝倉勢をキリキリ舞いさせた知勇兼備の将だと。

 

「奴が一芸の士を千人以上も、食客として囲っているのは有名だろ?」

 

「ええ……」

 

「つまりこれは、唐土で言う鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の喩えだ」

 

「……孟嘗君(もうしょうくん)、ですか?」

 

 そう返してきた覚恕に、信玄は「流石は叡山の天台座主、博識だな」と感心したように笑う。

 

 信陵君と並ぶ戦国四公子の一人、斉の孟嘗君は三千人もの食客を抱え、当代一流の人物として有名だった。ある時彼を招待した秦の昭王は、斉にそんな人物が居る事は秦にとって脅威であると考え、秦に居る内に彼を殺してしまおうと兵を出して逗留先である迎賓館を包囲した。

 

 とても警備とは思えぬ物々しさに身の危険を感じた孟嘗君は、昭王が溺愛している側室の幸姫に屋敷の包囲を解くよう口添えを頼んだのだが、幸姫はその対価として狐白裘(こはくきゅう)という宝物を求めてきた。これは狐の脇毛の白い部分だけで作られた毛皮のコートで、一着を作るのに数万匹の狐を必要とするまさに天下一品の品物である。

 

 この要求を受けて孟嘗君は頭を抱えた。確かに狐白裘は彼の持ち物だったが、既に昭王に献上してしまってもう手元には無かったのだ。その時名乗りを上げたのが彼の食客の中で、盗みの名人であった。「学問は分からないが盗みの腕なら誰にも負けない」と豪語した彼は、その言葉通り見事城の宝物庫に忍び込み、目当ての狐白裘を盗み出すと孟嘗君の元へ持ち帰った。

 

 こうして狐白裘を献上された幸姫の口添えもあって迎賓館の包囲は解かれ、孟嘗君一行は慌ただしく秦を出発したのだが、昭王はすぐに気が変わって追っ手を差し向けてきた。

 

 この時、孟嘗君一行は関所に差し掛かったのだがまだ真夜中であり、夜が明けるまで門は開かない。モタモタしていては追っ手に捕まってしまう。そこで今度名乗りを上げたのは、物真似の名人であった。彼が鶏の鳴き真似をすると、途端に周りの鶏達が鳴き始めた。当時は鶏が”とき”を告げたら門を開くというのがしきたりであった。そうして門を開いた関所を、孟嘗君一行は通行手形を見せて通り、追っ手から逃れたという。勿論この通行手形も、食客の中に居た偽造名人が作った物であった。

 

 孟嘗君が彼等を屋敷に招いた時、他の食客達は「自分達食客は学問を学び政治を語り、良いと思う事を進言するのが役目であり、盗人や物真似芸人と一緒にされるのは心外です」と、嫌悪感を露わにしたが孟嘗君は「気持ちは分かりますが彼等も一芸に秀でた者達、必ずや役に立つ日も来るでしょう」と取り合わなかったという。彼の先見の明が正しかった事が、この時証明された訳だ。

 

 ……と、こうした故事から転じて、つまらない事しか出来ない人でも何かの役に立つ事を「鶏鳴狗盗」と言うのだ。

 

「それと同じさ。多分、奴が囲っている千人の中に筆跡模倣や彫り物の達人が居たんだろ。筆跡は、本物の手紙を持って御所を出た使者を捕まえて手紙を見てしまえば分かるからな」

 

 証拠は何一つとて無いが、しかし信玄の推測は全く完全に事実と一致していた。深鈴は段蔵率いる諜報部隊にやまと御所から出た使者を襲わせるとその手紙を奪い、近衛前久の筆跡を手に入れ、そうして食客達に偽造させた手紙を覚恕へと送り付けてきたのである。

 

「それにしてもこの手際の良さは、見事としか言い様が無いな」

 

 そう言うと、戦国の巨獣は感心した表情になった。

 

「既に、世間では織田信奈は燃える叡山で救助活動を行い、更に復興の為に多額の寄付を行った事になっているが……いや、それは事実だろうが、日数から計算すれば噂の回りが早過ぎる。多分、乱波とかを使って意図的に情報を広めたんだろ」

 

 近衛前久にしてみれば覚恕に送った手紙だけではなく甲賀忍者も使って噂を流し、信奈を叡山焼き討ちの黒幕に仕立て上げるつもりだったのだろうが、深鈴が五右衛門達に命じてそれに先んずる形で正確な情報を発信した事で、それも不可能になった。

 

「浅井を離反させ、朝倉との山路での挟撃によって織田軍を壊滅させようとする目論見は破られ、織田信奈を仏敵に仕立て上げる手も封じられた。銀の鈴は武将としてだけではなく政治家として、関白の策を完全に打ち砕いたって訳だ」

 

 語る信玄は笑顔のままだが、しかしその笑みから肉食獣のような獰猛さを感じ取って、覚恕は思わず後ずさった。

 

「それに、実にしたたかだ」

 

 そう言って覚恕の手から偽手紙を奪い取ると、ひらひらと動かしてみせる。

 

「多分、銀の鈴はバレても良し、バレなければ尚良しというつもりでこの偽手紙を送ってきたんだろう。世間では織田は燃える叡山から浅井・朝倉・僧兵問わず多くの人間を救出した英雄という事になってるし、この手紙にしたって筆跡から印鑑から何から何まで全て本物と同じの偽物で、だから武田が公文書を偽造・改竄した逆賊を成敗する為に上洛……なんて主張は、流石に通らないだろうからな。証拠は何一つ無いし。奴はそこまで全て承知の上で、この情報操作を仕掛けたに違いない」

 

 更に言うなれば、どちらの場合でも織田家の実力と存在感をアピールする効果はあった。にやり、と信玄が口角を上げる。

 

「話に聞いていた通り、大胆で沈着な奴だ……謙信ちゃん以外に、ここまであたしをワクワクさせる奴が、まだ日ノ本に居たとはな……流石に、今信陵君なんて呼ばれるだけの事はある。部下に欲しいぐらいだ」

 

 中国に於ける春秋戦国の時代には多くの英雄が現れたが、その中でも魏の信陵君は各国から一目置かれた人物であった。その影響力を現す逸話は枚挙に暇が無い。

 

 信陵君が故あって趙の国に滞在していた時であった。彼や孟嘗君と同じ戦国四公子の一人であった平原君は信陵君が市井の賢者と交遊を持っていると聞いて、「信陵君は天下に二人といない人物と聞いていたが、身分の低い者と交際するなど本当はだらしのない人間なのではないか」と言った。この無礼に怒った信陵君は国を出ようとしたが、これに驚いたのは他ならぬ平原君である。信陵君が居るからこそ、大国である秦は趙に攻め込んでこないのだ。平原君は慌てて冠を外し、信陵君に詫びた。これを聞いた平原君の食客の半分は、平原君を見捨てて信陵君の元に身を寄せたという。

 

 また、信陵君が居なくなった魏の国は度々秦に攻められるようになった。魏王はこの事態を重く見て信陵君を趙から呼び戻し、上将軍に任じた。彼が将軍となった事を聞くと、楚・趙・韓・燕が続々と援軍を送ってきて、信陵君はその連合軍の総帥として秦軍を打ち破った。

 

 その後、秦は謀略によって魏王を動かし、信陵君を将軍から解任・政治の席からも外させてしまうのだが……やがて大陸を統一する事になる強国がそこまでした事からも、信陵君の実力が並外れたものだった事を窺い知る事が出来る。そして今信陵君の名前で呼ばれる深鈴も、また。

 

「面白いじゃあないか」

 

 そう言った信玄が、

 

「勘助!! 勘助はまだ生きてるかぁ!?」

 

 と、床を踏むと覚恕の背後に音も無く、頭髪を剃り上げた僧形隻眼の男が姿を現した。武田の軍師・山本勘助である。

 

「は。ここに……」

 

「かねてからの懸案だった花沢城攻め、実行に移すぞ!! ただちに四天王を招集しろ!! 伊丹康直(いたみやすなお)を味方に付ける!! 武田に水軍衆を組み込むのだ!!」

 

 命を受けて「ははぁっ!!」と足早に退出していった勘助を見送り、覚恕は驚いた表情になった。

 

 無敵の騎馬軍団を擁する武田が水軍を得れば、その騎馬隊を海に囲まれたこの国のどこにでも運ぶ事が可能となり、採り得る戦術・戦略の幅は飛躍的に広まるだろう。

 

 これはかなり以前より武田諸将から挙がっていた案であった。だが実行されてこなかったのは、上杉謙信との戦いや拡大した領土での内政など優先される事項が多く、先送りにされてきたからである。信玄が今それを実行に移すという事はつまり、百戦不敗の武田軍がそこまでせねば織田には勝てないと見ている証拠だった。

 

 これは信玄の、敵に対する最大級の評価と言って良い。これまで常勝の王者として戦国に君臨してきた信玄が目の前に現れた壁を前に、挑戦者として挑もうとしている。だが彼女はこれを屈辱に覚えるどころか、歓びすら感じていた。覇王の血を熱く滾らせ、燃やす者を見付けた歓びだ。

 

 襖を開き、縁側に出た信玄は抜けるような蒼穹を睨み、不敵に笑った。

 

「いつの日にか見えるだろう織田信奈、そして今信陵君・銀の鈴……この武田信玄、お前達に会えるその日を、楽しみとする事にしたぞ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「お市、気をしっかり持つんだ。助けは必ず来る」

 

「はい、勘十郎こそ」

 

 琵琶湖の孤島、竹生島。この島に幽閉された長政と信澄は互いを励まし合って耐えてきたが、やはり疲労の色は隠せない。特に信澄の方は、食事と言えば一日一杯の薄い粥が差し入れられるだけで、身を起こせないほど天井が低い岩牢に入れられている事もあって肉体的・精神的にも消耗が激しい。

 

「勘十郎、私はこの牢から出たら、浅井の家督を父から奪い返します。ほとんど近江から出た事がなかった父には、何も分かっておられないのです。この国の内で争っていて良い時期は、とうに過ぎていると言うのに……」

 

「決心してくれたかい。さぞ、辛いだろうが……」

 

 二人がそんな言葉を交わしながら、僅かな光が差し込む洞窟の出口を祈るような心持ちで眺めていると……ぎぎぎ、と何かが軋むような音がして、入ってくる光が強くなった。

 

 助けが来た!! 二人ともその確信と共に、光の方に目を向ける。

 

「浅井氏、津田氏、お待たせしたでござる!! 泣く子も黙るはちちゅかぎょえみょん、ただいみゃさんぢょう!!」

 

 まず洞窟の中に入ってきたのは、五右衛門以下川並衆だった。副長である前野某は不在であり、本来であれば五右衛門の主として彼等を率いる深鈴に代わって、光秀が指揮を執っていた。

 

 牢から助け出された夫婦は互いに走り寄って固く抱き合った。

 

 しばらくの間そうしていた二人だったが、やがて光秀がわざとらしく「オホン!!」と咳払いすると、真っ赤になって体を離した。そうして相手方に話を聞く準備が整った事を見て取ると、光秀は長政の前に膝を折った。

 

「明智十兵衛光秀、我が主君・織田信奈の名代としてお迎えに上がりましたです。同盟国浅井家当主・姫大名、浅井長政様並びにその伴侶・津田信澄様」

 

「同盟国……? 浅井が……? それに私が、当主はともかく姫大名……?」

 

「い、一体……何がどうなってるんだい?」

 

 戸惑う二人であったが話は船の上でと、光秀と川並衆に護衛されて洞窟を出た。そして天空と湖面、二つの月に挟まれながら両者へと伝えられた話からは、二人とも琵琶湖へ転落しそうになるぐらいの衝撃を受けた。

 

「織田と浅井が再び同盟!?」

 

「はい、鬼火によって燃える叡山から浅井久政殿を救出し、事後処理も一段落付いた所で、信奈様から切り出されました。再度、織田は浅井と友好不戦同盟を結ぶ事を望んでいると」

 

 ただし、これは提案・要望の形を取ってはいるが実質的には”命令”と言って良かった。

 

 朝倉への援軍として小谷を出た一万五千の浅井兵の内、坂本での大敗と叡山大火によって生き残ったのは僅か八百余名。しかも久政が頼みの綱としていた朝倉義景は煙を吸ったのか迫り来る炎と亡者を目の当たりにて精神の均衡を崩したのか前後不覚となってしまい、真柄姉妹に伴われて一乗谷へと帰還。これで朝倉から援軍が来る望みも絶たれた。今の浅井の戦力は生き残ったは良いが戦の恐怖で武器を取る事にすら強烈な拒否反応を見せる八百余名と、守備隊として小谷に残してきた僅かな兵しかない。

 

 つまり同盟を断った場合、和睦の期間が切れると同時に織田は北近江へと攻め入り、浅井家は確実に滅亡するのだ。いやこの状況では生き残った将兵が我が身可愛さで他国へ走って、戦国大名としての体を保てなくなって自然消滅する方が早いかも知れない。この大きな流れは、長政が当主に返り咲いたとしても最早変える事も止める事も叶わぬだろう。

 

 これを説明された久政はしかし最初は、「ならば最後の一兵まで戦って散る事こそ武家の誉れ!!」と食い下がったが、だがそれを聞いた信奈が激昂して、

 

 

 

『叡山で私が言った事、もう忘れたの!? 良いわよ、そこまで死にたいなら是非に及ばず!! こっちも堂々受けて立ってやるわ!! 言っておくけど、いくら小谷城が堅牢な城塞だろうと、織田軍相手に役に立つと思わない事ね!! 轟天雷の乱射で、観音寺城と同じく瓦礫の山に変えてやるわ!! そしたら後はもう、一族郎党皆殺しよ? 成る程あんた一人なら討ち死にしようが腹を切ろうが好きにすれば良いだろうけど、家来にはお嫁さんも子供も両親も居るでしょう!? あんたの言う武家の誉れとは、彼等全員と引き替えにしても通す価値のあるものなの!?』

 

 

 

 と、脅しを交えて説得したのが効いたらしい。同盟条約の締結に応じた。

 

 尤も、信奈とて本当に実行しようなどとは思ってはいない。交渉事にブラフは付き物。特に久政のようなカタブツの考えを変えるには、これぐらいかまさなければならなかったろう。久秀が言っていたように「交渉の基本は飴と鞭」なのだ。

 

 とは言え、最早消滅寸前の浅井に対等な同盟関係など望むべくもない。当然ながら条件が出された。

 

「その条件は、浅井久政が家督を長政殿に返して隠居し、身柄を織田家の監視下に置く事です」

 

「それは……」

 

「人質、か……」

 

 信澄と長政の表情が曇る。だが、二人とも浅井が文句を言える立場ではない事も理解していた。この戦国乱世、戦に敗れれば姫大名が髪を下ろして出家せぬ限りは殺されても文句は言えない。ましてや婚姻を結んだ織田を裏切った浅井は、問答無用で撫で斬りにされても仕方無い所なのだ。

 

 それを久政一人が人質となる事で長政を当主とした自治を許し、また十分な国力が回復するまでは復興を支援し、外敵の襲来に際しては織田から援軍の派遣を約束するなど、光秀から説明されたのは異例・破格を通り越して、「織田信奈は甘過ぎる」と笑われても仕方無いほどの好条件だった。

 

「光秀殿にお尋ね申す。義姉上……あ、いや、信奈殿は父上のお命を奪うような事は……?」

 

 裏切りを止められなかった立場故か、長政はかつてのように信奈を義姉と呼ぶ事を躊躇った。

 

「はい、それは万が一にも。それに人質ではなく、賓客としてお招きしているです。仮にも信奈様の弟君の義父上。粗略には扱わないです。それにこれは、信奈様が織田家の一部の将を納得させる為の、一時的な措置だとお考え下さい」

 

「と、言うと……」

 

「……申し上げにくいのですが……今回の同盟締結に当たり、諸将から反対の声が上がったです。浅井・朝倉連合に圧勝した我等が、何が悲しくて裏切り者と今更対等な同盟関係など結ばねばならないのか、と。同盟を結ぶにしても条件として、北近江の半分を織田の領地にさせろとか毎年の貢ぎ物を約束させろとかいう意見も出たです。この処置は、信奈様が家臣の不満を抑えられるギリギリの一線なのです」

 

「……姉上も、難しい立場なのだね……」

 

 信澄の言葉に光秀は頷き、

 

「ですが先程も言った通りこれは家臣達の不満をかわす為の一時的な措置であり……いずれ折を見て、親子水入らずで暮らせるよう取り計らうとお言葉を頂いてるです。織田家は今後とも浅井家とは親しい付き合いを望んでいる、とも」

 

「……お市、いや……長政殿……」

 

 聡い長政は信澄からの視線の意味を悟り、頷く。これは信奈が姫大名としての自分の分を越えずに、だが弟である信澄と伴侶である自分を守ろうと配慮してくれた最大限の妥協点なのだと。また彼女としても、これ以上は望み過ぎだと理解してもいた。

 

「光秀殿、信……義姉上は、今何処に?」

 

「現在は安土の常楽寺に逗留されてるです。そこで、お二人の到着を待っておられるですよ」

 

「では、到着次第お取り次ぎ願いたい。会って、お伝えせねばならない。感謝と、お詫びの気持ちを」

 

「承知しましたです」

 

 光秀から合図を送られた五右衛門は頷くと、船の櫂を操る動きを早くした。そうして速度を高めた船に揺られながら、光秀や五右衛門は少しだけの後ろめたさを感じていた。

 

 この浅井との同盟には二人には語られない、一部の者にしか知らされていない、全く別の狙いがあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 浅井久政へと同盟話が切り出される前夜。勝家や長秀、犬千代や光秀、久秀といった側近達が信奈から密やかに招集を受け、会議が開かれた。集められた中には勿論、五右衛門や半兵衛を伴った深鈴の姿もあった。

 

 議題は当然、その時点では織田家に捕らえられたも同然だった浅井久政、引いては浅井家に対して織田家が採るべきオプションについてだった。

 

 武人気質の勝家は一旦和睦した後に堂々と決着を付けようと主張し、過激派の久秀などは叡山大火によってやまと御所からの和睦調停は有耶無耶になってしまっているので、話が再び纏まる前に久政を見せしめとして処刑し、そのまま北近江を織田が支配してしまうべきだと提案した。

 

 そうして深鈴は、こう提案したのだ。

 

「浅井と同盟を結び、織田から北近江へ、産業を輸出してはいかがでしょう」

 

 いつもながら彼女の案は奇抜であり、それ故に集まった全員の興味を惹いた。「詳しく言ってみなさい」と信奈に促されて、深鈴は説明を始めていく。

 

「まず大前提となるのは、浅井が先の坂本の戦いの大敗、そして今回の叡山大火によって多数の兵と、兵糧など軍需物資を大量に失ったという事です。浅井久政は今回の出陣を浅井家の命運を懸けた決戦と見ていたでしょう。それがこの大惨敗。元通りの国力を取り戻そうとすれば、長い年月を必要とするでしょう」

 

「確かにね……続けて」

 

「ですから、織田家が浅井の復興を手助けするのです。既に銀蜂会では紙、漆、蝋燭、木綿、牧畜、養蚕など様々な産業の研究が進んでおり……他に治水技術についても諸国の堤防の長所だけを参考とし、新しい理論が確立されております」

 

「……つまり浅井の復興にかこつけてそれらの技術の有効性を、実験するという事ですか」

 

 光秀の指摘に、深鈴は頷く。言い方はキツイが、キツイ言葉ほど当たっている場合が多い。今回もその例外ではなく、深鈴も自分の案の本質がそういう事だとは理解しているので、反論しなかった。

 

「勿論、その為の資金は全て銀蜂会から出します。そしてもう一つ強調しておきたい事は、この辺りで織田家は戦の方法を変える、あるいは新しい戦い方を取り入れる必要があるのではないか、という事です」

 

「戦の方法?」

 

「新しい戦い方?」

 

「はい、これまでの戦国大名は他国へ武力で侵攻し、制圧した場合は主に降将らが指導するその土地での反乱を防ぐ為、見せしめ目的の殺戮や、要人を人質に取るという手段を採ってきましたが……そうした従来の威圧侵略に代わる、あるいは並行して行うものとして経済的侵略を提案します」

 

「経済的侵略?」

 

「……何それ?」

 

 耳慣れない言葉に勝家と犬千代がぽかんとするのを見て、深鈴は説明に移っていく。

 

「つまり、平定した国や交易を行っている国に対して産業や技術を輸出し、大名や侍ではなくその国の民の支持を取り付けるのです。その後その土地を治める大名や土豪が敵対しようとしても、それは民衆を敵に回す事になります」

 

「自分達の生活を豊かにしてくれる相手に刃を向ける指導者など、民が支持する訳がありませんからね」

 

 長秀が補足する。分かり易いその説明を受けて、難しい言葉の羅列に頭を捻っていた勝家と犬千代は「成る程!!」と、手を叩いた。

 

「首に縄を掛ける事を免じて相手が安心した所で、手も足も縛ってしまおうという事ですか。中々、いやらしい手を使いますわね」

 

 これは、妖しく笑いながら言う久秀の意見である。これも深鈴の案が持つ側面を的確に捉えた表現である為、彼女は頷いて返した。

 

 そうして各将からの意見が出た所で、信奈が「その経済的侵略に、他の利点はあるの?」と、続きを促した。

 

「最も重要な事は、これから先の天下に於ける戦の火種を消していく事です」

 

 深鈴がそこまで言った所で、彼女の補佐として付いてきた半兵衛が発言した。

 

「これまで各国の大名が行ってきた対応は、医学で言う対症療法と言えます」

 

 つまり症状に合わせて手術や投薬を行い、症状を緩和・排除しようというものである。その為根本的な治癒は難しく、治療が治療を生む連鎖反応や副作用の恐れもある。

 

「この日ノ本には百年前から……平安の昔から……いえそれ以前から戦の絶えた時代はありません。”戦”とは、ずっと長い間この国を蝕んできた悪性の病だとも言えます」

 

「……それで?」

 

「我々はこれまで見せしめという劇薬の投与や、人質という困難な手術によって対応しようとしてきましたが……」

 

 それらが有効な手段であったとは、今の日ノ本を見る限りとても言えない。残虐行為による見せしめは限りなくその土地の人々から恨みを買い、叛かせ、土地の者悉く叛いて死んでも尚、草木が恨む程の遺恨を残し。

 

 人質にしても、決して確実な手段とは言えない。例を挙げるならかつて甲斐が武田信玄の父・信虎の統治下にあった時代。同盟関係にあった諏訪家当主・諏訪頼重(すわよりしげ)へは信玄の実妹であった禰々御料人(ねねごりょうにん)が輿入れし、信虎はその代わりとして頼重の長女で勝頼の姉である湖衣姫(こいひめ)を信玄の妹に迎えた。要するに人質交換である。だがその結果はどうだったか。

 

 諏訪家は武田家に攻め入り、内政開発を行う領土を欲していた信玄にそれを口実としてあべこべに攻め込まれ、勝頼一人を残して滅ぼされてしまったではないか(湖衣姫は労咳によって病死)。

 

「対して、銀鈴さんの手段は体質療法と言えます」

 

 これは病人の体質そのものに原因を求め、体質改善をゆっくりと行う事で人体が持つ本来の治癒能力を引き出そうとするものだ。その為、病気になりにくい体を作り、副作用も最小限に抑える事が出来る。

 

「織田に叛旗を翻し、新たに戦を始めようとすれば自国の民の手によって倒される……」

 

「……戦に向かおうとする国の体質そのものを改善し、治す事が出来たのなら……あるいは本当にこの国から戦を根絶する事も、可能になるかも知れないですね」

 

「新領土で内政を積極的に行い、民の支持を得る事は既に武田信玄が実行していますが……」

 

 ただ、信玄はあくまで内政マニアである彼女の嗜好が先に立って行っているだけで、戦の根絶などといった超長期的な視点を持っている訳ではない。深鈴の案はそれを最終目標として念頭に置いた上で、計画的に行うというものだ。

 

「実に面白い案だと思います。八十点」

 

 と、長秀。まだ計画段階で実行もされていない策に対する評価としては、破格の高得点と言えるだろう。彼女のお墨付きを受けても、信奈は難しい顔だ。

 

「銀鈴、あんたの望みはその策が有効かどうかを見極める為に、北近江丸ごと使って実験がしたいって事よね?」

 

「はい、信奈様。それに遺恨だけではなく、貧困もまた戦の火種と成り得るものです。私の案がどこまでその対策と成り得るのか……今後の北近江がどれだけ豊かな土地となるかで、見極めてみたいのです」

 

「……長政や信澄には、言えないわね」

 

 いくら裏切り行為を働いたとは言え、「あなたの国の不幸を私達の実験に利用させてもらいます」などとは言える訳がない。だがそこで、光秀が発言した。

 

「信奈様、それは考え方の違いです。先輩の銀蜂会、引いては織田家が北近江の復興を手助けする事には何の変わりも無いです。ただその過程で、様々な可能性を確認・検証するだけです」

 

「そうです。それに、信奈様が天下を取った時、銀鈴さんの言う方法で戦の無い世が訪れたのなら、その平和の流れは北近江から始まった事になります。つまり織田は新しい時代に一番乗りした名誉を、浅井家に与えるとも言えるのです。そう考えれば、信奈様や銀鈴さんに非はありません」

 

 続くように半兵衛が言う。二人のこの言葉を受けて信奈も深鈴もどこか胸につっかえていた物が外れたような心地になった。そして彼女達からこのような意見が出るのは、この秘密会議の意見も大方纏まりかけているという事でもあった。

 

「決まったわね。明日、久政には再度の同盟締結を持ち掛けるわ。銀鈴、あんたは数日中に復興支援計画の草案を書き上げて、私に提出しなさい!! 他の者は、南近江に陣取った六角承禎との戦の仕度を!! 美濃と京の往復の為にも、近江の道は絶対に確保しておかねばならないわ!! すぐに準備を整えなさい!!」

 

「「「承知!!」」」

 

 声を揃えて返事した諸将が次々退室していき、一人だけになった信奈が、ふと呟いた。

 

「戦の無い天下……か。戦い方だけではなく、戦う相手も変える時が、来ているのかも知れないわね……」

 

 

 

 

 

 

 

 京に建てられた南蛮寺。

 

 その裏手では、ルイズ・フロイスがひっそりと建てられた墓の前に膝を折って祈りを捧げていた。

 

「……天にまします我等の父よ……御名をあがめさせたまえ……御国を来たらせたまえ……御心が天にありますように……」

 

 真新しいその墓には、この冬の季節に集められる精一杯の花が手向けられていた。

 

「宗意軒さん……」

 

 祈りを終えたフロイスは立ち上がると、その墓へと語り掛ける。そこに遺体は無いが、それでも母国の土に還ってここに葬られている彼の魂に、彼女は話していた。

 

「あなたと最初に会って、もう十年にもなるんですね……あなたと会えなかったら、今の私はなかったと思います。忘れません、一生……」

 

 傍らに置いてあった山高帽を墓へと捧げるフロイス。これは彼女にとっては預かり物という認識だった。それが今、本来の持ち主へと返されたのだ。

 

「……どうか、安らかに眠って下さい。雪は、払いに来ますから」

 

 フロイスはそう言い残して、教会へと入っていった。今日も救いを求める人達が、彼女を待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 やまと御所では、近衛前久が荒れていた。

 

「うぬぬ……武田信玄は何をしているでおじゃる……!! 麻呂の手紙はとっくに届いている筈でおじゃるぞ……!!」

 

 仕掛けた策を破られた前久は次の策として、「信奈が叡山をまるっと焼いたでおじゃる」という手紙を、甲斐を訪ねている覚恕へと送り付けていた。仮にも天台座主である彼がそのような手紙を受け取れば、武田信玄が上洛の軍を起こす口実としては十分である。

 

 ……にも関わらず、武田軍に上洛の気配は一向に見られない。一体全体、これはどうなっているのか。

 

「おのれおのれ、どいつもこいつも麻呂を軽んじおって……!!」

 

 こんな調子で頭から湯気を出す勢いで怒りまくっている前久を尻目に、姫巫女は御簾越しに空を見据えて微笑み、呟く。

 

「てんはのぶなをえらんだか。ゆめは、ただひとりでみるものではない。ぎんれいをたいせつにな」

 

 

 

 

 

 

 

 近江・安土の地。

 

「で……できた……」

 

 その旅籠の一室の襖が音も無く開いて、中から目の下に真っ黒い隈をこしらえ髪はぼさぼさ、げっそりとやつれた深鈴が這いずるように出て来た。彼女はこれで徹夜三日目であった。

 

 深鈴の手には「北近江復興計画」と大きく表紙に書かれた書類が抱えられている。まだ草案だがこの三日間で知恵を絞って書き上げた力作である。

 

 久政に浅井との再同盟を取り付けた後、信奈はすぐに本拠地である美濃との連絡路を確保すべく南近江に侵攻。折しも半兵衛の策に従い横山城を攻めていた斎藤道三もこの動きに呼応して転進し、挟み撃ちを受ける形となった六角勢はひとたまりもなく敗走した。観音寺城を粉々にされたトラウマから織田軍に恐怖心を持っている六角承禎は足早に戦場から離脱し、命からがら甲賀へと逃げ込んだので討ち果たす事は叶わなかったが、これで再び京と美濃が結ばれた事になる。

 

 まだ問題は多いが、取り敢えずは一安心。越前への進撃からこっち戦い通しだった事もあって信奈はこの安土で一度軍を止めて全員に休養を命じた。のだが……

 

 深鈴に休息は無かった。彼女には同盟を結んだ北近江へ産業を輸出し、その復興・発展を手助けするプランを出す仕事が待っていた。計画の言い出しっぺでもあるし、この仕事は自分にしか出来ないとも理解していたが故に気合いを入れて取り組んだのだが……叡山大火にあっては後方指揮で膨大な仕事を捌き切り、その後も事後処理に奔走し、そこから休む間も無く三日間の完徹である。いくら若いとは言え流石に体力の限界が見えてきた。

 

「ぎ、銀姉さま……大丈夫でございますか?」

 

 お茶を持ってきたねねも心配そうだ。

 

 そんな彼女の頭を「大丈夫よ」と笑って撫でてやると、別の部屋から顔中に無精ヒゲをたくわえた前野某が出て来た。彼もまた目の下にくっきりと隈が出来ている。

 

「じょ、嬢ちゃん……よ、予算の見積もりが、終わりました……ぜ」

 

 銀蜂会の副会長補佐であり、実質的な№2である彼もまた「北近江復興計画」に於ける予算の捻出、それに伴う膨大な書類仕事に追われていた。本来なら五右衛門や川並衆を率いて信澄・長政を救出する深鈴の役目を光秀が代行し、前野某が随行しなかったのもこうした事情からだった。

 

「しっかし、叡山に五十万貫寄進してすぐに北近江への産業の輸出とは……えらい出費ですぜ」

 

「あはは……」

 

 苦笑いする前野某に、深鈴もまた苦笑して応じる。

 

「まぁ、もっと先を見ましょうよ。同盟国の発展は必ずや我々に莫大な報酬、巨大な生産需要をもたらすわ。金は天下の回りもの。止めるのではなく、取引される物と一緒にブンブン回すのが人の道であり商道というものよ」

 

「へえ」

 

「ああ、深鈴様。ここにおられましたか」

 

 話していると、今度は源内がやって来た。のっそりとした足取りで、手には丸めた紙を持っている。彼女の姿を見て、深鈴も前野某もねねも一様に絶句した。これで、目の下を真っ黒にした人間が三人も揃った。

 

「ど、どうしたの? 源内」

 

「新しい城の設計図が完成しました。私がこれまで培ったカラクリ技術の集大成とも言うべき傑作です。是非ご覧になって、予算についてご一考の程を……」

 

 深鈴は最初は徹夜明けという事もあって目を通すのは自分の計画書を信奈に提出した後に一眠りしてから、と思っていたが……源内も何日かの徹夜を経てテンションがおかしな事になっているせいか、異様な鬼気を纏っている気がする。深鈴はその迫力に圧倒されるように思わず設計図を開き、そうして彼女と左右から覗き込むようにして見る前野某とねねは「おおっ」と声を上げた。

 

 その設計図に書かれていたのは地上七層・地下二層と都合九層構造にもなる巨大な建築物だった。しかもこれは城そのものだけではなく、建てる事になる周囲の土地にまでカラクリ細工を組み込んだ改造を施すという技術の粋を凝らした物であった。

 

 武装についても充実している。副砲として轟天雷だけで三十門を備え、主砲にはこれまでの轟天雷の運用によって蓄積されたデータから新しく開発した口径十一尺(約330センチ)の大筒を二門も搭載。

 

「いかがでしょうか?」

 

 尻尾を振る子犬のように目を輝かせて源内が尋ねてくるが……この設計図を見た深鈴としては、いくつか確認しておかねばならない事があった。

 

「源内、質問良いかしら?」

 

「はい、何なりと」

 

「まず、この城の外周部分に付けられた無数の鏡と、天守の部分に付けられた大鏡は、何?」

 

「ああそれは、百を越える小鏡で太陽光を反射・増幅、大鏡へと収束して放つ光学兵器です。その性質上日中、しかも晴れの日にしか使えませんが、威力は十一尺の大筒をして比較になりません。勿論、十分な試験を経て既に理論は確立しております」

 

 観音寺城攻めの時、今は亡き森宗意軒は希臘(ギリシャ)には二千年も前から太陽光を用いた兵器が実用化されていると言っていたが……源内はそれについても研究を行っていたという訳だ。

 

「じゃあ、この城の最下層部には無数の車輪を組み込む事になっているようだけど……何でこんな物が必要なの?」

 

「はあ」

 

 尋ねられた源内は、何故にそんな当たり前の事を聞くのかという顔だ。

 

「車輪が無いと城が動かないじゃないですか」

 

 太陽が東から出て西へと沈む事を話す調子でカラクリ技士の口から飛び出たこの言葉には、ねねや前野某は勿論の事、未来人の深鈴ですらもが固まった。

 

「攻められて寄せ付けない城は、北条家が所有する小田原城が既に一つの完成形として存在します。我々が新しく築く城はその思想を更に推し進め、こちらから攻めて押し潰す城としたいのです」

 

「げ、源内殿、少しお疲れなのでは……」

 

「そ、そうだぜ……ちょっと休んだ方がいいんじゃ……」

 

「二人とも、黙って」

 

 遠巻きに話を切り上げようとしたねねと前野某は、深鈴によって制された。

 

「この満載時排水量一億三千三百万斤(約8万トン)というのは?」

 

「排水量というのは船舶が水上に浮かべられた時に押し退けられる水の重量を現したもので、この場合……」

 

「……つまり、この城は船のように水の上も進むという事?」

 

 上目遣いでじろりと睨むような深鈴の視線に、「はい、その通りです!!」と源内は目を輝かせて答えた。

 

「以前に、深鈴様は聞かせてくださったではないですか。信奈様がこの国を制した暁には、日本を飛び出して七つの海へと漕ぎ出されると。この城は単なる城塞ではなく、その世界を巡る冒険に於いて、信奈様が率いられるであろう船団の旗艦としての役目も果たすよう、設計しました」

 

 カラクリ技士の目は爛々と燃えていて、どこまでも本気だ。言葉や仕草の一つ一つからも、熱が伝わってくる。

 

「旗艦(フラッグ・シップ)……」

 

 ぼそりと呟いて、深鈴は頭に最後のフル回転を掛ける。良く考えれば自分の時代に存在する空母や戦艦、あるいは豪華客船などは、それこそ巨大な船の上に城が乗っかっているようなものだ。それを思えば源内のこの城の設計図も時代を先取りした結果と言えるかも知れない。彼女の頭の中の時差を見くびっていた。百年どころか、四百年近くも進んでいる。

 

 断言出来る。もし正史に於いてどこの戦国大名でも彼女の才能を認めていたのなら確実に日本、いや世界の歴史は変わっていた。

 

 敵にしなくて本当に良かったと胸を撫で下ろしながら、深鈴は質問を再開する。

 

「……仮に信奈様から築城の許可が下りたとして、あなたとしてはどの地に築くのが良いと思っているの?」

 

「されば、この安土の地がよろしいかと。京にも岐阜にも尾張にも近く、北は越前にも目が届く要所ですし」

 

 尋ねられて、源内は思いの外すらすらと回答した。やはり彼女としてはこのとんでもない城の設計は、どこまでも本気であるらしい。

 

「それに何より琵琶湖に面していますから、水の便が良い以上にこの城の試験航行にも適しているかと」

 

 「成る程」と深鈴は頷く。単純に技術を追求するだけではなく、立地条件についても源内なりに良く考えている。

 

「……建造にどれぐらい掛かると思う?」

 

「私の試算ではざっと二百万貫ほど必要になるかと」

 

「に、二百万貫……」

 

 ねねは思わずくらっと倒れそうになった。

 

 実感が湧かない程にとんでもない大金である。小国では破産しかねないが……

 

「今の尾張・美濃・京は堺を凌ぐ規模で人が集まり、どんどんと金が落ちていく日本一豊かな土地です。それらの土地での商売を取り仕切る銀蜂会ならば、出せない額ではないかと」

 

 金食い虫の技術者ながら源内の分析は中々に正確だった。勿論、出せると言っても相当無理をして、だが。前野某がとんとんと肩を叩くと、深鈴に耳打ちした。

 

「……嬢ちゃん、源内さんの技術力は認めるけど、今後の織田家にはまだまだ金が入り用になるんですぜ? 天下の行方が未だ定まらない現在、二百万貫もあれば軍費など、他にいくらでも使い道が……」

 

 彼の意見も尤もだが……しかし深鈴の考えは少し違っていた。

 

 天下が定まらぬからこそ、それほどの巨額を投入した城が必要なのだと。

 

 まずその城に腰を据える事で、織田信奈が天下人なのだと全国に示し、諸大名に威厳を見せ付ける事。それに今これだけの城を建てておけば、後世にこれ以上の城を建てる必要は無い。そうした長期的な視野で見れば、結果的にこの築城は節約だったと言えるかも知れない。

 

 それに深鈴としては今後の織田家は威圧侵略と経済的侵略の二本柱で天下布武を進めていくのがベストだと考えている。そして経済的侵略の切り札として銀蜂会があるようにこの新兵器は、威圧侵略の切り札としても期待出来る。

 

「無論、つぎ込んだ金に見合うだけの性能は保証します。完成すれば武田の騎馬軍も毛利の水軍も北条の小田原城も、思うまま悉く打ち破ってご覧に入れますよ」

 

 源内のその言葉が決め手であった。

 

「よろしい、信奈様に提案してみます」

 

 深鈴がそう頷いて、そうして源内へ顔を向けたまま彼女の手がにゅっと伸びて、そろりそろりと抜き足差し足でこの場から離れようとしていた前野某の襟首を掴んだ。彼が寝室に逃げ込むよりも、深鈴の魔手の方が早かった。

 

「じょ、嬢ちゃん……?」

 

 油が切れたロボットのようにぎこちない動きで振り返った前野某の肩に深鈴の手が置かれて、

 

「予算の確保、お願いするわね」

 

 無慈悲に、デスマーチの行軍命令が下された。涙目になりながら自室へと引っ込んでいく前野某。その後ろ姿を見送りつつ、深鈴はふと呟く。

 

「安土城の建設……また、大仕事になるわね」

 

 彼女の中には既に確信があった。信奈は築城にゴーサインを出す。この事業は北近江の復興と合わせて天文学的な経済効果を生むだろうが……

 

「でも、銀蜂会を軍産複合体にする訳には行かない……戦の無い世こそが巨大な利潤を生むのだと、全国はおろか海外の商人にまで知らしめねばならない……腕の見せ所ね」

 

 溜息を吐きつつ、だが深鈴は不敵に笑う。全く、商売の世界もまた戦場だ。

 

「む、難しい話ばかりで……ねねは頭が割れそうですぞ……」

 

 むすっとした表情のねねが見上げているのに気付いて、深鈴は今度は優しく微笑むとくしゃっと彼女の頭を撫でた。

 

「まぁ……要するにねね、あなたが私ぐらいになる頃には、この国が平和になっているように……私達はそれぞれ出来る分野で、信奈様をお手伝いするという話よ」

 

「私の技術も今は戦に使われていますが、いずれこの国の平和と発展に貢献するものでありたいと、そう思っています」

 

 と、源内。深鈴は我が意を得たりと頷き、北近江復興計画書と予算の見積書、それに城の設計図を持って旅籠を出て行った。

 

 すると、今度は子市と段蔵がやって来た。

 

「あれ、深鈴様は居ないのか? 先の叡山での焙烙火矢隊の実地運用について、報告書を纏めてきたんだが……」

 

<私も、報告に>

 

 段蔵はいつも通り深鈴の指示を受けて諜報部隊を率い、各国を飛び回って情報を発信してきた。今度広めてきた流言は、「織田が再度浅井と同盟を結び、北近江の復興を援助する」というものである。

 

 これは信奈の仁徳を広める効果もあるが、それ以上に保険としての意味合いがあった。これで万一浅井がもう一度裏切った場合、彼等は「我々は恩人に平気で刃を向ける忘恩の徒です」と日本中に喧伝する事になる。その報告にやって来たのだが……入れ違いになってしまった。

 

 子市が「深鈴様は何処に……」と聞こうとしたその時、旅籠の入り口が再び開いた。そうして入ってきた人物を見て、彼女はきょとんとした表情を見せる。

 

「……お前は……」

 

「腹減ったぁ……握り飯でも、食わせてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 深鈴が常楽寺の広間に入ってみると、そこにはそうそうたる面々が勢揃いしていた。

 

 上座に座る信奈を初めとして勝家、長秀、犬千代、半兵衛、道三、久秀は勿論、京から信奈にくっついてきた義元、昨日織田軍に合流した元康、それに別任務に就いていた光秀と五右衛門、そして信奈に向かい合うようにして、女物の衣装を纏った長政と彼女の隣に、輿入れする前と同じで男物の服を着た信澄が並んでいた。

 

「皆様、既にお揃いでしたか……」

 

 深鈴の姿を認めると、長政・信澄夫婦は彼女の方にも向き直って頭を下げてきた。

 

「銀鏡殿、この度は銀蜂会が北近江復興の陣頭に立って下さると義姉上から聞かされました。この浅井長政、何とお礼を言って良いか……」

 

「銀鈴、僕からもお礼を言わせてもらうよ」

 

 長政が女性である事には、既に久政から説明があったので驚きは無い。

 

「で、銀鈴!! ちょうど良い所にやって来たわね!!」

 

「は、信奈様……各種書類が仕上がったので確認をお願いしたいのですが……それと新しい城の設計図を……」

 

「それは後回しで良いわ!! それより銀鈴、この場であんたに伝えたい事があるの」

 

「は……」

 

 それを聞いた深鈴は抱えていた書類を置くと、末席に座った。

 

「あんた、前に畿内の大名を集めて開いた宴会で私に手を打たせて、右手が鳴ったのか左手が鳴ったのかって聞いたわよね」

 

「はい……あれは梵ちゃんと一緒に、信奈様に出した宿題でもありましたが……」

 

「あれは『孤掌は鳴り難し』って事でしょ」

 

 にやりと笑いながらそう言う信奈に、深鈴はぴくりと眉を動かした。

 

「右手だけでも左手だけでも手を打ち鳴らす事は出来ない。人間、一人だけでは生きてはいけない、夢を成し遂げる事も出来ないという教えでしょう?」

 

 信奈の答えはまさに満点。深鈴は居住まいを正すと、深く頭を下げた。

 

「その答えをお聞き出来ただけでも、今日までお仕えしてきた甲斐がありました」

 

 微笑みつつ顔を上げた深鈴と目を合わせた信奈もまた笑い、そして立ち上がる。

 

「みんなもよ。これからの私達の戦いは敵国の大名や軍団だけではなく、”戦”という、日ノ本に生きる全ての者に共通する真の敵を相手としたものになるわ!! 私にはみんなが必要なの!! これからもあなた達の力を、私に貸してくれる?」

 

 この問いを受け、勢揃いした織田家武将達も一斉に立ち上がった。

 

「あたしには難しい事は分かりませんが、姫様の為ならたとえ火の中水の中!! 粉骨砕身、ご奉公致します!!」

 

 勝家が立派な胸をどんと叩き。

 

「流石は姫様。百二十点です」

 

 にっこりと笑った長秀は過去最高点を付け。

 

「……ん、頑張る」

 

 犬千代はガッツポーズを決めて。

 

「私もバリバリ働かせてもらうですよ!! 信奈様の第一の家臣の座は、誰にも譲らないです!!」

 

 光秀が自信満々にそう宣言し。

 

「ワシも、老骨に鞭入れるには良い機会かの」

 

 禿頭を撫でつつ道三は「ふぉっふぉっふぉっ」と豪快に笑い。

 

「うふ。これからも私達の行く手には現世で最も美しい紅い華が咲き乱れる事でしょう」

 

 久秀は未だ毒の抜けぬ蠍を思わせる、妖艶でありどこか危険な笑みを浮かべ。

 

「おーっほっほっほっほっ!! 今川幕府の天下統一が成った暁には、皆様の苦労にはきっと報いさせていただきますわ!!」

 

 義元は相変わらずご機嫌で。

 

「私も精一杯お手伝いさせてもらいます~」

 

 元康は信奈のぶち上げた新しい戦いのスケールの大きさに圧倒されて身を小刻みに震わせつつも、しっかりと付いていく意思を示し。

 

「父の行動は、今後の働きで償わせていただきます」

 

「僕も、一緒にね」

 

 長政と信澄はぴったりと息の合ったおしどり夫婦っ振りを見せ付けて。

 

「拙者以下川並衆も銀鏡氏の下、いにょちをとしてはたりゃきゃしぇていただきゅでごじゃりゅ」

 

 五右衛門は相変わらず噛み噛みで。

 

「私も、その戦いに勝利する日が訪れるまで持てる才智の限りを尽くし、生きて戦い続ける事を誓います。銀鈴さんの義に応える為、この国の未来の為にも」

 

 今やすっかり丈夫な体になった半兵衛は、力強くそう言い放って。

 

「尾張にて騎士の叙勲を頂いた時以来、私の命は信奈様にお預けしております。信奈様が創る新しき世の為に……今後とも、一命を懸けて尽くす所存であります」

 

 最後に深鈴が穏やかだが、しかしより良き未来を信じた瞳を輝かせて。

 

 そうして家臣団の心意気を受け取った信奈は会心の笑みを見せて、こう言うのだ。

 

「デアルカ!!」

 


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