織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第06話 道三救出戦

 

 道三の援軍として美濃へ入った信奈率いる織田の精鋭達は、国境に差し掛かった所で義龍・道三、双方の陣営が放っていた物見によって発見された。

 

 当然、どちらの物見も「信奈軍来る!!」の報を伝える為に本陣へと走ろうとする。だが道三方の物見が十歩ばかり駆け出した所で、彼の首筋にトンと軽い衝撃が走った。

 

「え……? 何、が……?」

 

 不意に視界がぐらりと揺らいで、走るどころか立っている事も出来なくなってどさりとその場に転がる。

 

「な……? は、早く……道三様に……」

 

 援軍が来た事を、伝えなければならないのに。

 

 だが論理立てた思考を行えたのはそこまでだった。後はもう視界が暗くなって、彼の意識はそこで閉じた。

 

 倒れた物見のすぐ傍に、五右衛門が姿を現す。今、物見を気絶させたのは当然彼女の仕業だ。これで、信奈が援軍に駆け付けたという情報が道三に伝わる事はなくなる。

 

 そう、伝わっては困るのだ。少なくとも今すぐには。もしこの情報がそのまま道三に伝われば、彼はすぐさま尾張勢に痛手を負わせまいと義龍軍へ遮二無二突っ込んで斬り死にを選ぶだろう。それをさせる訳には行かない。

 

 五右衛門へ、援軍よりも先行して美濃に入り道三方の物見を気絶させて情報を遮断せよと命令したのは、信奈だ。彼女は今回に限り、五右衛門と段蔵。二人の忍者への命令権を深鈴から受け取っていた。

 

「さて……」

 

 五右衛門は、周囲に気を張り巡らす。だが何の気配も感じられない。道三方の物見が他に居るかとも思ったが、少なくともこの周辺には居ないようだ。ならばと別の場所へ移動すべく、彼女は姿を消す。

 

 恐らくは今頃、義龍側の物見が本陣に信奈軍来襲の報を知らせているだろう。それを受けて義龍がどう動くかだが……

 

「両軍の合流を阻止するように動けば、こちらのものでござるにゃ」

 

 

 

 

 

 

 

「何ぃ!? 尾張のうつけ姫が、親父殿に援軍だと!?」

 

 長良川のほとり、道三の陣の対岸に敷かれた自陣でその報告を受け取った斎藤義龍は、手にしていた盃を叩き割った。明日には親父殿の首を取り、名実共に自分が美濃を統治する筈だったのに。

 

「それにしても……織田信奈、聞きしに勝るうつけ姫であったか」

 

 この乱世には嫁であろうと妹であろうと、全て政略結婚の道具でしかない。そして織田信奈が帰蝶を妹としてもらい義父として同盟関係を結んだのはあくまでも美濃の大名である斎藤道三であって、斎藤道三という個人ではない。美濃の大名の座を追われた道三には最早利用価値は無い。ならば当然、信奈は一兵の援軍も出さずに見捨てるだろう。と、それは義龍や美濃三人衆の共通した見解であったが……当てが外れた。

 

 だがそれならそれで良い。放っていた乱波の報告によれば今川に手薄にした尾張を衝かれる可能性は無くなったようだが、だが尾張にはこちらと通じている信勝が残っている。

 

 義龍としては、勝利する為に信奈軍と交戦する必要すら無かった。美濃に釘付けにしておきさえすれば、信勝派の家臣が蜂起して清洲を襲い、信奈達は帰る国を失う。そうなれば当然兵の士気はガタ落ちするだろうし、信勝軍と自軍とで挟み撃ちに出来る。

 

 そうなればしめたもの。親父殿とうつけ姫、どちらからでも各個撃破してしまえば良いだけの話。

 

 逆に言うと、この状況で義龍が気を付けねばならない唯一の事は。

 

「義龍殿。うつけ姫と入道どのを合流させては一転、こちらが窮地に陥りまするぞ」

 

「うむ」

 

 美濃三人衆の一人・氏家卜全の指摘に、義龍は頷く。

 

 そう、信奈軍と道三軍との合体。それだけはさせる訳には行かない。

 

「……よしっ!!」

 

 六尺五寸の巨体を床几(しょうぎ)から勢い良く立ち上がらせると、義龍は槍を振り回して全軍に号令を掛ける。

 

「親父殿の軍勢は少数、いつでも叩ける。合流を防ぐ為、うつけ姫を長良川の上流へと誘い込むのだ!!」

 

 下流に布陣している親父殿の軍との間に距離を作り、その狭間に自軍を入れて合流を阻止する。これで勝負は決まる。

 

 尾張のうつけ姫よ、見ているが良い。情に溺れて命を散らせた愚か者として、末代まで汚名を残してくれる。

 

 そして親父殿よ。美濃の「譲り状」などしたためたのが間違いであったと、うつけ姫の首を差し出して思い知らせてくれるわ。

 

 

 

 

 

 

 

「申し上げます!! 信奈どのの援軍が美濃に到着致しました!!」

 

「なんじゃと!!」

 

 駆け込んできた伝令からの報告を受け、道三は思わず床几から腰を浮かせた。そして数秒ほどの間を開けてどすんと再び腰掛けると「馬鹿な!!」と膝を打った。

 

 だが百戦錬磨の老将はすぐに冷静さを取り戻して、状況の把握に努めようとする。

 

「それで信奈どのの軍と義龍の軍、双方の現況は?」

 

「はっ、敵は信奈どのの軍勢を上流へと誘ってお屋形様との距離を作り、その間に自軍を楔として各個に撃破を企てているようです」

 

 その報告を聞いて、道三はほっと胸を撫で下ろした。それならば自分が今すぐにでも義龍の軍に切り込めば、自軍から遠く離れた信奈の軍は痛手を被らずに済む。

 

 援軍は無用と十兵衛にも言伝を頼んだが、しかし信奈は尾張を治める大名である前に一人の少女でもある。一度は、情で動いて判断を誤る事もあるだろう。

 

 だが、聡明な彼女に二度はあるまい。救出すべき対象である自分が死んでも尚、美濃でまごまご戦っているほどバカではない。

 

「バカ娘が……こんな死に損ないのジジイの為に、わざわざ危険を冒しおって……信奈ちゃんの想い、確かに受け取ったぞ」

 

 「その優しさは死んでも忘れん」と、道三は立ち上がる。全く、死出の旅には最高の土産が出来た。

 

 かくなる上は今すぐにでも義龍軍へと突入して織田勢が無傷のまま戦を終わらせねばと、地面に突き立てていた槍を引き抜く。その時だった。たった今援軍の情報を持ってきた伝令が、

 

「更に重ねて申し上げます。上流に向かった織田勢は、実は信奈様の囮隊でありました」

 

「何っ!?」

 

 そう、言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、陸路を行く義龍軍と併走して長良川を遡上する船上で、長秀はすぐ側に立つ信奈に声を掛けた。

 

「姫様、そろそろ頃合いかと」

 

「……」

 

 先頭を進む船の舳先に立っていた信奈は無言のままに頷くと紅い外套をぐっと掴み、脱ぎ捨てる。その陰に隠れて一瞬だけ彼女の姿が見えなくなり、そして再び露わになった時、そこに立っていたのは既に織田信奈ではなかった。

 

 ボロボロの黒布と、爛々と輝く金の両眼。深鈴配下の二人の忍者の片割れ、飛び加藤こと加藤段蔵。

 

 彼あるいは彼女の姿を、山間を進む義龍軍も認めたのだろう。それまでは一糸乱れずに上流へと進んでいたかがり火の動きが、にわかに乱れる。

 

「これで……こちらの姫様が影武者であった事、並びに我々が囮であった事に、義龍も気付いたでしょう……」

 

 誘い出していたつもりの自分達がその実、誘い出されていた事に。

 

「と、なれば……次に彼等の取るべき行動は……」

 

 ややあって右往左往するように揺らぎ、止まっていたかがり火達が、再び整然とした動きを取り始める。先程まで進んでいたのとは、逆方向に。来た道を戻っていく。ただしほんの数分前より、ずっと速く。

 

「ここまでは全て、姫様の策の通り……五十点」

 

 長秀は満足げに頷く。

 

 これでこの先どうなろうと、織田軍は被害を最小に抑えて尚かつ義龍に痛手をくれてやる事は出来る。だが今回自分達が美濃へと入ったのは、斎藤道三を救出する為だ。たとえ何百の兵を討ち果たしたとしても、彼を救えなければこの戦いはこちらの負けだ。

 

 戦いの趨勢、それを託されたのは自分ではない。自分の役目は、義龍を誘い出し、彼等が引き返して後は自分達も引き返し、後方より追い立てる事。

 

「全部隊、反転!! 義龍軍に追い討ちを掛けます!!」

 

 各々に、背負った役目がある。

 

 勝家の役目は、信奈が戻るまで尾張を守る事。

 

 犬千代の役目は、信奈の傍で彼女を守る事。

 

 そして、もう一人。

 

「頼みましたよ、深鈴どの……」

 

 

 

 

 

 

 

「信奈様の本隊は、ここよりほど近い上流に待機しております」

 

「……そなたは」

 

 何故に、この伝令はそんな最新情報を知っているのだ? 大勢の伝令が矢継ぎ早に伝えに来るのならば得心も行くが、たった一人がこれほどの情報を、どうやって?

 

 そこまで考えた所で未だ老いに侵されぬ道三の頭脳は、答えを見抜いていた。

 

「顔を上げられるがよい、織田の軍使よ」

 

「……バレてしまいましたか」

 

 伝令はすくっと立ち上がり、目深に被っていた陣傘を取る。その下から現れたのは灰銀の長髪と度の強い眼鏡。深鈴の美貌があった。

 

「織田軍、銀鏡深鈴。我が主の名代として、斎藤道三さまをお迎えに上がりました」

 

 穏やかな笑みと共に、京の貴族もかくやと言わんばかりの完璧な作法で恭しく優雅に一礼する深鈴であるが、すぐに表情を引き締める。全てが信奈の立案した策の通りに進んでいるとすれば、時間はあまり残されてはいない。

 

 その僅かな時の中で、一度死を決意した道三の心を変えねばならない。それは容易な事ではあるまい。いかな話術を以てそれを為すのか?

 

「ご使者、戻って信奈どのに伝えられよ。生き死にを超えた誠に厳しきそなたの信義、道三は決して忘れぬ。正徳寺に引き続き、またもや見事にしてやられたとな」

 

「……共に参ってはいただけませぬか? 私とて信奈様より全幅の信頼を頂いてお迎えの大任を委ねられた身。連れてこられませんでした、などという返事は持って帰れませぬ」

 

「そうは行かぬ。重ねて言うが、ご使者どのは一刻も早くここを離れられよ。齢六十三、明日死んでもおかしくないようなこの命可愛さにそなたのような若い命を散らせたとあらば、この道三、ただの小悪党に成り下がってしまうわい。そなたのような若者は、この先ずっと信奈どのを支えてゆかねばならぬ筈。ここはそなたの死に場所ではあるまい」

 

 こちらとて一歩も引かない旨を伝える深鈴であったが、道三は取り合わない。テコでもこの場を動かぬと言わんばかりだ。

 

 深鈴にしてみれば意外、という訳でもなかった。老いたりとは言え流石は戦国三大梟雄が一角。この大悪党を前に、小手先の話術は通用しない。

 

「……では、言い方を変えましょう。あなたは信奈様に迷惑を掛けまいと死ぬ気だったのでしょうが、そんなものは余計なお世話です」

 

「なんじゃと!?」

 

「以前、私は信奈様に世間の小さな枡ではあなたの器は測りきれないと申し上げた事がありますが……それはあなたでも、例外ではないと言っています。生涯掛けて美濃一国しか治められないような器で、どうして信奈様を測れると思われたのですか?」

 

 戦場とは言え即刻無礼打ちにされても仕方の無い暴言であるが、しかし道三はこれを受けて怒るどころか、逆ににんまりと笑ってみせる。

 

「まるでそなたなら、測りきれると言いたげだの?」

 

 そう言われると、道三に合わせるように深鈴もまた不敵な笑みを見せた。

 

「さて、どうでしょうか……しかし、もし入道どのが我が主の器がどれほどのものか、今一度測ろうとされるならば、私と共に来られるがよい」

 

「安い挑発だの」

 

 ふんと鼻で笑う道三。その時、二人の頭上から声が掛かる。

 

「銀鏡氏、義龍の軍勢が引き返してきてござる!!」

 

 五右衛門だ。木の枝の上に立って、周囲を見回している。

 

 どうするか。共に行くにせよ、道三を置いて行くにせよ、そろそろ決断の時だ。果たして、道三の答えは。

 

「良かろう小娘。案内(あない)せい!! 見え透いたその挑発に、敢えて乗ってやろうではないか!! この上もし織田勢が痛手を被るようなら織田信奈はその程度の器、そなたの目もワシの目も揃って節穴であったと、笑って死んでやるわ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 道三の陣より十丁(1キロメートル)ばかり上流。数艘の川船と僅かな護衛を伴って、信奈は鞘に収まったままの刀を地面に突き立て、ぴんと水平に伸ばした両腕を預ける姿勢で仁王立ちして、深鈴達の帰りを待っていた。

 

 今回の策は、全て彼女の立案だった。

 

 まず五右衛門を先行させて道三方の物見を制圧し、尾張勢が援軍の為に美濃へと入ったという情報が、彼に伝わらないようにする。

 

 次に義龍は、信奈軍来たるの報を聞けば必ず道三軍との合流を阻止する為に動くだろうから、その策にはまったと見せ掛ける為、長秀に囮隊を率いさせて長良川を遡らせる。この囮隊に織田信奈が居ると見せ掛ける為の影武者役は、天才忍者で当然ながら変装の心得もある段蔵が務める。

 

 その隙を衝いて、深鈴を道三の本陣に説得の使者として送り込む。本来ならば信奈自身が向かいたかったが、彼女は上流へ向かったのが囮隊と気付いて引き返して来るであろう義龍軍に備える為に、本隊の指揮を取らねばならなかった。

 

 この策に今の所問題があるとすれば、深鈴が道三を説得出来ない可能性だが……

 

「大丈夫でしょうか……」

 

 傍らに控えていた光秀がそう不安を口にするが、しかし信奈はにっかりと笑い。

 

「大丈夫、あいつなら必ずやり遂げるわよ」

 

 その言葉が聞こえていた訳でもあるまいが、狙っていたように土手の向こうから十数名の人影が見えて、こちらへ走ってくる。

 

 人影の中に道三と深鈴のそれを確かめて、信奈は「ね」と光秀に笑いかけた。

 

「道三様!!」

 

 光秀は目に涙を浮かべ、もう二度と会う事はあるまいと思っていた主君へと駆け寄る。

 

 深鈴は信奈のすぐ傍まで走り寄ると、さっと跪いた。

 

「信奈様。この銀鏡深鈴、道三様お迎えの任を果たし只今……」

 

「話は後よ、銀鈴!!」

 

 報告は信奈の大声で報告は切られて、そして彼女はたった今道三や深鈴達が駆けてきた方向を指差す。まだ騎馬や武者の姿は見えないが、土煙が上がっているし馬蹄の音も聞こえてきている。

 

 戦に於いて引き上げる時ほど難しいものはない。道三を説得して連れてくるという深鈴の任務は相成ったが、未だ信奈達は道三含めて危険な状況に置かれているのには変わりなかった。

 

「さあ、みんな早く船に乗って!! 川を渡るわよ!!」

 

 道三の部下達を乗せた船は次々に岸を離れ、長良川を進んでいく。五右衛門もその中の一つに、既に乗り込んでいた。

 

「信奈様もお早く」

 

「私は一番最後よ」

 

 深鈴がそう急かすのと、鬨の声を上げて義龍軍が彼女達の視界に現れるのは同時だった。

 

「信奈様、敵です!!」

 

「分かってる、出して」

 

 船頭にそう指示して、信奈、深鈴、道三、光秀を乗せた最後の船が長良川へと漕ぎ出す。駆け付けてきた軍の先頭を走っていた義龍にも、その姿ははっきり捉えられた。

 

「おおっ!! あれは親父殿に、うつけ姫!! 奴等だけは逃がすな!!」

 

 彼の下知を受け、美濃勢の騎馬隊はある者は馬に乗ったまま川の中に押し入り、またある者はほど近い場所にあった船に乗り込んで、一斉に信奈達を追い始める。

 

 だがそれも全て信奈の計算通り。思う壺。

 

「犬千代!!」

 

 信奈が大声で叫ぶ。それを合図として対岸に立つ、織田家中随一の槍の使い手が愛用の朱槍を大きく掲げ、

 

「鉄砲隊、構え!!」

 

 そう指示すると対岸に配置されていた信奈軍の本隊が持つ、信奈が買い揃えた物と深鈴が仕官の手土産として持参した物。そして尾張領内で作られた物。合わせて八百の銃口が一斉に川向こうの美濃勢へと向けられ、

 

「皆、頭を下げなさい」

 

 無論、それは渡川中の船上からも見えていたので、信奈の指示を受けて彼女は勿論、深鈴、道三、光秀は慌てて体を伏せ、頭を低くする。

 

 犬千代はそれを見て頷くと、槍の穂先を義龍軍に向け、同時に叫ぶ。

 

「撃て!!」

 

 響く、無数の破裂音。数百の銃弾が一斉に追っ手へと襲い掛かる。あっという間に第一隊が全滅したのに衝撃を受けた義龍だったが、続いて二の手三の手を繰り出させる。

 

 だが、川の中では当然ながら兵の動きは制限される。彼等が信奈に追い付くよりも、鉄砲隊の弾込めが終わる方が早かった。

 

 銃弾の雨が再び義龍軍へと殺到する。繰り出した追撃隊は一人の例外もなく、丸太のように川面に浮かぶ羽目となった。

 

「義龍様、このままでは……!! 間も無く、上流へ向かった囮隊も引き返して参りましょう、そうなったら……!!」

 

「ぬううっ……!!」

 

 美濃三人衆が一人・稲葉一鉄の進言を受け、義龍は歯噛みする。

 

 確かにこのままでは信奈や道三を逃がしてしまうどころか、長良川の上流へと誘い出される振りをしていた囮隊に背後を衝かれ、挟撃されてしまう。前から飛んでくる鉄砲と、後ろから突き出されてくる槍。如何に数で勝ろうとこれでは勝負にならない。

 

「おのれ……うつけ姫がっ……!!」

 

 織田勢を誘い出すつもりが誘い出され。

 

 信勝の軍と挟撃するつもりが挟撃され。

 

 たった一度の戦で、二度も裏をかかれてしまった。こんな屈辱は初めてだ。だが、その怒りに任せていつまでもここで戦い続けてはそれこそ全滅してしまう。

 

 義龍として百戦錬磨の道三から兵法を叩き込まれている身。ここで無駄な犠牲を出し続けるのは馬鹿げていた。

 

 ここは退くのだ。君主たる自分が生き延び、そして軍団としての体を成すほどの兵が残っていれば再起も図れる。

 

「退けっ!! 退けっ!!」

 

 退却の指示を受け、稲葉山城へと引き返していく美濃勢。

 

 危険は去った。それを見て取ると川向こうの犬千代が大声で「撃ち方、止め!!」と指示を出して、銃弾の雨が止んで数秒が経ち、第二波が到来しない事を確かめると信奈達は顔を上げた。

 

「どう、蝮? これが鉄砲の威力よ」

 

 同じように顔を上げた道三は、しかし信奈ではなく後ろに座っていた深鈴へと振り返った。彼女もまた彼女の主と同じように「どうだ、見たか」と笑っていた。

 

 道三はこれを受けて「うむむ」と唸る。

 

 確かに、これは自分が間違っていた。自分の見立てでは、信奈の軍と義龍の軍がぶつかり合えば双方に多大な被害が生じると見ていたが、実際はどうだ。

 

 織田信奈は大量に備えた鉄砲と緻密な作戦によって、尾張勢に何の傷跡も残さずに義龍を退けてしまった。

 

 この若さで鉄砲に目を付けた才覚と、完璧に義龍軍の動きを読み切って全ての兵を動かした戦略眼。確かに、信奈の器の大きさは道三の考えていたそれを大きく上回っていた。

 

「信奈どの」

 

「ん?」

 

「銀鏡どのはそなたの良き家臣じゃ。大事にするがよい」

 

 確かに信奈の器の大きさは規格外と言うに十分だったが、誰よりも正確にそれを把握していた深鈴もまた、違った意味での規格外であると、道三の目にはそう映った。故に。

 

「そなたと同じ夢を見れるのは、今の世にはそやつぐらいしかおるまいて」

 

 夢とは誰かと共有してこそ。唯一人だけの夢は野望でしかなく。その夢が楽園を創るか地獄を生むかは、当人ではなく周りの者に掛かっていると言っても良い。

 

 主君は夢を示し。臣下は夢を見極め、共に歩む。

 

 それを為すのが、きっと深鈴なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 こうして信奈達によって行われた道三救出戦は、ほぼ無傷の信奈軍に対して義龍軍には痛手を与え、道三の救出も成功させるという尾張勢にとって恐らくはこれ以上無い結果に終わった。

 

 しかも、これらの作戦は出発から帰還まで全て電光石火の動きにて行われたが故に、尾張に残った反信奈派は織田家中最強の勝家を擁しているにもかかわらず、動くに動けなかった。

 

 この出兵により、深鈴が説いた美濃へ援軍を出す事による二つの利は、どちらも信奈にもたらされた。

 

 織田信奈は国内には謀反の常習犯である弟を持ち、またいつ何時上洛を目指す今川に留守の尾張を襲われても不思議ではない苦しい立場ながら、義父の危機には迷わず参ずる鉄壁の信義を持った女として日の本全土に大きくその名を上げ。

 

 更に義龍軍に快勝した事で尾張の者も美濃の者も、敵も味方も。全て彼女の実力を思い知った。これにより信勝派から何名もの家臣が信奈の側に鞍替えし、また美濃では義龍が築き上げようとしていた盤石の体制に一石を投じる事となったのである。

 

 この戦を長秀は、

 

「義龍を討ち取れなかった事以外は文句の付けようの無い戦果……九十七点です」

 

 そう評した。

 


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