織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第08話 尾張の内乱(後編)

 

 夜が明け、信勝派の蜂起の日がやってくる。台風一過と言うが、この日の朝は昨夜の暴風が嘘のような快晴となった。

 

 信勝派の家臣達はかねてからの予定通り信勝を総大将、勝家を副将かつ実質的な指揮官として、未明より名塚へと向かった。まずは砦を築いている最中であろう深鈴を討つ為である。

 

 彼女は仕官と同時に一足飛びに鉄砲奉行として迎えられて後も「それしかない」と言うような見事な妙手・奇手を打ち続け、今や信奈からの信頼も篤い懐刀。その深鈴を捕まえるなり討ち取るなりすれば、それは良田地帯を制圧するよりもよほど、うつけ姫の心を逆撫でするだろうと読んでの事だ。

 

 そうして怒り狂った信奈が誘い出されて清洲城を空ければ、後はこちらのもの。

 

『銀鈴……大丈夫なんだろうな……?』

 

 騎乗して先頭を行く信勝のすぐ隣を同じく愛馬に乗って進んでいく勝家は、内心で同僚へと聞こえる筈もない不安をこぼしていた。

 

 先日、自分の屋敷へ彼女がいきなりやって来た時は何事かと思いつつも取り敢えず接待したが、開口一番に「信勝様が謀反した時の事について」と切り出された時には鬼柴田と恐れられる彼女も流石に度肝を抜かれた。

 

 深鈴の言によれば、

 

 

 

「もし信勝様が再度謀反される事になっては、勝家殿は逆らえないでしょう」

 

「しかし国を守る為に外敵と戦って死ぬならいざ知らず、内輪のお家騒動で命を散らせるのでは兵が報われませぬ」

 

「故に、犠牲を最小に抑える為に……信勝様が蜂起した場合、勝家殿は私の築いた砦に遮二無二攻め寄せて下さい」

 

 

 

 後はこちらで何とかする。との、事であったが……しかし、斥候からの報告によれば銀鈴の手勢が砦の建設に取り掛かったのは昨日の事だというではないか。あいつは確かに切れ者だが、一日で砦を建てられるものだろうか?

 

『銀鈴の手勢はあいつ個人で囲っている食客全てを合わせてもざっと五百……こちらは千五百強。しかも食客達は全てが兵ではないだろうから……もし、砦が出来ていなければ私はお前達を、戦ではなく撫で切りの根切りにする事になるぞ……』

 

 報告を聞いた時からずっとそうした懸念が頭の中を回り続け、胸の中に黒いものがムンムンと湧き出て溜まっていくような不快感を、勝家はずっと感じていた。

 

 何とか謀反を事前に防ごうと昨日も信勝に「何卒、お考え直しを!!」と直訴してみたが、挙兵取り止めどころか些か数を減じた家臣達に「信奈に通じているのではないか」「槍を遣わせては尾張一という話は嘘だったのか」などと責められる始末。豪放磊落な気性で天は二物を与えずという言葉を絵に描いたような彼女では、弁舌によって彼等を論破する事も出来なかった。

 

 こうなると後は、深鈴がちゃんと砦を築いてくれている事を祈るのみ。砦が完成しているのなら彼女の事だ。必ずや万事が上手く行く策を練っているのだろう。しかし、やはり一日では……

 

『い、いや……あたしは頭が良くないからそんな方法は思い付かないが……あいつの事だ。きっと思いも寄らぬ方法で、一日で砦を建てているに違いない……な? そうだよな? 頼むぞ、銀鈴……』

 

 そんな勝家の胸中の苦悶・不安など知らぬげに軍は進み……果たして、深鈴への期待は裏切られる事はなかった。

 

 名塚の小高い丘の上には、流石に急拵えの感は否めないが確かに砦が完成していた。

 

「おおっ」

 

 銀鈴の奴、やったな。と、勝家は胸中で歓声を上げる。

 

「なんと」

 

「これはどうじゃ、砦が出来上がっているぞ」

 

「銀鏡の小娘め、今度はどのような手品を……」

 

 随伴している重臣達からはそんな声が上がり、勝家は彼等を制するように信勝へと進み出た。

 

「信勝様!! あのような一夜作りの砦など、私がたちどころに落としてご覧に入れましょう」

 

「う、うん……勝家、頼むよ」

 

 一日で砦を作るなどという常識外の出来事を前に圧倒されている様子の信勝は、すぐに彼女の進言を取り入れた。

 

 これは勝家にしてみれば、深鈴への最大限の援護と言えた。こちらの手勢を砦へと攻め寄せさせるのが彼女の策なのだから、他の者達が何かそれ以外の余計な考えを起こす前に自分が実行する事にしたのだ。

 

「それっ!! あんな案山子砦など一息に踏み潰せ!!」

 

 愛用の槍を振り回して号令すると、足軽達は一斉に走り出して坂を上ろうとする。ところが、

 

「な、何だみゃぁ!?」

 

「す、滑る!!」

 

「足が、泥に取られるみゃあ!!」

 

 彼等の中の一人も、坂の半分ほどの位置にすら至れなかった。昨日の雨で丘は泥山のようになって、坂が滑るようになっていた。しかも、最初に上った者が滑り落ちると下にいる者達まで巻き込んで坂の麓まで転がり落ちてしまい、大混乱となってしまった。

 

「どうした、柴田の兵はこんな坂一つ上れにゃあか!!」

 

「腰抜けめ、よくそれでこの乱世が生きてこれたもんだみゃあ!!」

 

 ここぞとばかりに深鈴の兵に挑発されて、これが手筈通りと分かっている勝家も段々熱くなってきた。

 

「うぬぬ、たかが一夜作りの砦だ!! 中には何の備えも無い筈だ!! 人梯子を掛けてでも中へ切り込むんだ!!」

 

 勇将の下に弱卒無し。如何に弱兵とされる尾張の兵でも、それでも名にし負う鬼柴田の部下である。主君の命を受け、果敢に坂へと駆けていく。それを見た砦の兵達は、

 

「よし、今度は水を飲ませてやるにゃあ!!」

 

 足軽大将の合図と共に大桶を倒す。その中には昨日の雨水が溜め込まれており、それが滝のように柴田勢に襲い掛かり、兵士達は再び坂を滑り落ちる事となった。

 

「ええい、だらしのない!! あたしが手本を見せてやるからようく見ていろ!!」

 

 遂に頭に血が上った勝家は愛馬から下りると駆け出して、足軽達に混ざって坂を上っていく。

 

 流石は織田家最強武将の身体能力。足軽達が転ぶ場所でも彼女はぐっと足で地面を掴んで、鹿のように坂面を踏破すると数メートルも跳躍して柵を跳び越え、砦の内部へと飛び込んだ。

 

「うわっ!! 鬼柴田じゃあ!!」

 

「勝家どのが出た!!」

 

 砦の中の者達は勝家の登場に右往左往して、一人が鉄砲の銃口を彼女に向けたが、隣に立っていた者がぐっと押さえて下ろさせた。

 

「我が砦へようこそ、勝家殿」

 

 鉄砲を下ろさせたのは深鈴だった。見知った顔に会って、勝家も急激に頭を冷やした。ひとまず警戒を解いて、数百の兵に囲まれている事を忘れたように槍を下ろす。

 

「……と、こんな具合で良いのか? 銀鈴。ここまで全てお前の作戦通りに進んだ筈だが……」

 

「ええ、勝家殿……ここまで全て私と信奈様の作戦通りです」

 

「……姫様の?」

 

 勝家がそう問い返した時だった。にわかに砦の外が騒がしくなる。何が起こったのかと深鈴と共に物見櫓に上って、そして思わず息を呑んだ。

 

 砦へ攻め寄せていた信勝派の手勢は、いつの間にか現れた信奈の軍勢にすっかり包囲されていた。

 

「あ、姉上……」

 

 軍団の先頭に立つ信奈の姿を見て、怯えた声を上げる信勝。そんな自軍の大将を見た重臣の一人が「それっ、今こそうつけ姫を討ち取れ!!」と、足軽達をけしかけるが、

 

「誰も動かないで!! 鉄砲の威力を見たいの!!」

 

 信奈にそう一喝されたのと数百の銃口が自分達に向けられているのを見て、彼等の足は止まってしまう。元より同じ尾張の兵同士で戦う事も、尾張の民である自分達が尾張の主である信奈と戦う事も乗り気になれなかったのだ。今や士気はどん底と言って良い。

 

「今頃は清洲に向かった別働隊も、長秀が残らず捕まえている筈よ!! 大人しく降伏なさい!!」

 

 待ち伏せたようにこの場に信奈が現れた事と言い、清洲の守りと言い、全ての作戦が読まれていた。それを思い知らされては、もう信勝にも家臣にも為す術などあろう筈が無かった。元来より弱気な気性の信勝の事。完全に戦意喪失状態に陥り……

 

「こ、降参だ!! 降参します!!」

 

 総大将のその宣言が決め手となり、傍の家臣達から足軽に至るまで、一斉に武器を捨てていく。

 

 その一部始終を、櫓の上から深鈴と勝家は眺めていた。

 

「これが、お前と姫様の作戦か……」

 

「ええ……この砦は、ここに立て籠もるのが目的ではなく、信勝様派の目をこちらに引きつけるのが目的だったのですよ」

 

 佐久間大学からの情報で信勝達がこの篠木三郷に現れるのは分かっていたから、まず深鈴が砦の建造を始めて注目をそちらに集める。信奈はその間に動いて、周辺に兵を伏せて待機しておく。

 

 信勝派の軍が砦への攻撃を開始すればしばらくは静観しておき、皆の意識が砦に集中して周囲への警戒をおろそかにし始めた頃合いを見計らって、彼等を包囲する。

 

 見せ勢の派手な動きを煙幕に、本隊を影として動かす。定石通りの伏兵戦術であるが、それ故に今回の策はこれ以上無いほどに、見事に決まった。

 

 こうしてこの尾張の内乱は、先の道三救出戦に続き信奈の実力を尾張の皆に思い知らせる結果となって幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして反乱を鎮圧して後の清洲城。

 

 しかし今の天気は朝からの快晴が嘘であるかのような曇天。同じように城内大広間に勢揃いした織田家重臣達の表情も、一様に沈痛であった。

 

 信勝は白装束になって登城した勝家のすぐ傍でぶるぶると震えていて、彼へと向けられる視線も、

 

『もはや信勝殿は助かりますまい』

 

『信奈様も、考えに考えてのご決断であろう』

 

 と、同情の色一色に統一されている。たまらず誰彼構わず命乞いをするように頼む信勝であるが、この場に味方は一人。着ている衣装からも分かるように死の覚悟を決めてここに居る勝家だ。

 

「信勝様をお諫め出来なかったは、家老であるあたしの不始末。どうか、この場はあたしの首一つでお許しを……」

 

「あんたが居なかったら、どうやって今川と戦うのよ。却下」

 

 たった一人の味方による助命嘆願もすげなく退けられ、いよいよもって事態は彼にとって「詰み」となっていく。

 

「では、信勝様を除名なさるので……?」

 

「六は私付きの家老に配置換え、信勝には切腹を申し渡すわ」

 

 長秀がせめてもの妥協案としてもう兵を集める事も出来ない立場に落とす事を提案したが、その案も簡単に却下された。

 

「うわああん!! 姉上、二度と逆らいませんからお許しください!! 先の名塚の戦いでも姉上の実力がハッキリと分かりました!! それを知らずに何度も謀反していた僕が愚かでした!!」

 

 いよいよもって助かる見込みの無くなってきた信勝は、最早恥も外聞も無く泣き散らしながら命乞いを始める。

 

「そ、そうだ!! 銀鈴!! 君は姉上からの信頼も篤い!! 君からなんとか姉上に取りなしてくれ!! そうしたらきっと君には報いるから……」

 

「信勝様、見苦しいですよ」

 

「ええっ」

 

 一縷の望みとして縋った相手から氷よりも冷たい返答を返され、信勝の顔が哀れなほど蒼くなる。

 

「私は新参なのでそれを見た訳ではないですが、信勝様は何度も信奈様に謀反を起こして、その度許されていたと聞いています。悔い改める機会は今まで幾度もあった筈。改心するのなら何故その時なされなかったのですか? このような結果になったのも今までの積み重ねがあったからだと、諦めてください」

 

「そ、それは……」

 

 ぐうの音も出ないほどの正論で押し出されて、思わず言葉に詰まる信勝。そうして後ずさった彼の背中に何かがどんと当たる。

 

「へ……?」

 

 恐る恐る振り返ると、そこには一切の表情を消した信奈が立っていた。手には既に愛刀を握っている。それを見た信勝は再び後ずさって姉から距離を取る。だが、逃げ場など何処にもある筈が無い。

 

「銀鈴の言う通りよ。私は母上に助命を頼まれたのもあったけど、それでも何度もあなたを許してきた。あなたが心を入れ替えていれば、こんな事にはならなかったのよ!!」

 

「あ、姉上!! 切腹なんて嫌です!! そんな痛そうな死に方は無理です!!」

 

「そう、なら私自らの手で打ち首にするまでよ」

 

「姫様、信勝様は実の弟君です!! 何卒お慈悲を!!」

 

「くどいわよ、六!! 身内だからって何度も何度も許していたら、他の者に示しが付かないでしょう!? みんなもよく聞いておきなさい!! 今後私に逆らった者は、家族であろうと殺すわ!! それが尾張の民の為、ひいては天下の為なのよ」

 

 そこに居たのは既にうつけ姫ではなかった。今の信奈は第六天より来たりし魔王の化身、いやそのものとさえ言って良いだろう。それほどに恐ろしく、神々しく、侵しがたく、そして美しい。

 

 信奈は勝家のすぐ脇を通り抜けて、腰を抜かして動けない信勝のすぐ前までやって来ると、既に鞘より抜き放っていた愛刀を大上段に振りかぶる。

 

「ひ、姫様……」

 

「銀鈴……何とかならない?」

 

「……どうにも、なりませんね。さっきも言いましたがこれは信勝様の自業自得でしょう……」

 

 先程は厳しい言葉を投げかけはしたがそれでも深鈴なら何か助け船を出してくれるのではと考えて袖を引いた犬千代だったが、しかし返された彼女の言い分が正論であるが故に、押し黙るしかなかった。

 

 遂に誰も止め立てする者が居なくなり、信勝の首めがけて信奈の刃が振り下ろされ……

 

 びしゃり。

 

 間欠泉のように吹き出た血が床と襖に何とも言えぬ紅い紋様を描き。

 

 ごろり。

 

 信勝の体格相応の小さな首が、床に転がった。

 

 しん……。

 

 家臣団の誰もが言葉を失い。

 

 ひゅん。

 

 弟の返り血で全身を真っ赤に染めた信奈が、刀を振って血糊を払う。飛んだその血が、深鈴の頬に当たった。彼女は指でそれを拭うと、

 

「良いわよ、段蔵」

 

 そう、口にした。すると、

 

 ぱん。

 

 手を打つ乾いた音が一つだけ響き。

 

「「「はっ!?」」」

 

 場の全員が驚愕の声を上げた。

 

「へ? つ、ついてる?」

 

 信勝が自分の首筋をぺたぺたと触りながら自分の体や周りを見渡し、

 

「え? 刀は? 信勝は……?」

 

 上座に腰掛けていた信奈も、同じようにきょろきょろと視線を動かす。おかしい。たった今自分は信勝の首を刎ねる為に大広間の中程に立っていた筈なのに。それに見れば、手にしていた筈の刀も両手のどちらにもなく、小姓が持ったままだった。

 

「い……一体?」

 

 まるで狐につままれたようだと、勝家も頭の上に疑問符が見えそうなほどに頓狂な表情であちらこちらを見回している。良く見れば床にも襖にも、信勝が流した筈の血が見当たらず、消えていた。

 

 まるで信勝が頸を刎ねられた事など、最初から無かった事であったかのように。

 

「これは……!!」

 

 犬千代だけは、反応が違っていた。これと同じようなものを、彼女は前にも一度見た事があった。

 

『あれは確か、銀鈴の屋敷での面接で……!!』

 

「ご苦労様、段蔵」

 

「!!」

 

 いつの間にか背後に立っていたボロボロの黒布を纏った忍びを振り返って、深鈴がくすりと笑う。

 

「…………」

 

 天才忍者はいつも通り何も言わなかったが、いつも通り一枚の紙を寄越して、そして消えた。

 

「ん……?」

 

<いくら雇い主でも、こんな三文芝居に私を使うのはこれきりにして>

 

 そう、三文芝居であった。どこからかは分からないがこの場の全員が加藤段蔵の幻術に掛かり、信勝の死ぬ幻を見せられていたのだ。

 

 未だ犬千代以外の場の全員が何が起こったのか分からずに当惑している様子。付け入るなら動揺が収まっていないここしかない。

 

 すっくと立ち上がった深鈴は信奈のすぐ傍に傅くと、

 

「信奈様……この場はどうか……信勝様をお許し願えないでしょうか……」

 

 今更ながらに助命嘆願を行う。

 

「銀鈴、これは……いや、今のは……!!」

 

 信勝が死んだ、いや自分が斬ったのは一体何だったのかと尋ねようとして、しかし明晰な彼女の頭脳はもう、全ての答えを導き出していた。

 

 一体何が起こったのか。

 

 深鈴が何を思ってそれをさせたのか。

 

 全て分かった。

 

『……これしか、なかったのね』

 

 全てを理解した彼女は瞑目して頷き、そして立ち上がる。信勝はまた姉が自分の首を刎ねに来るのかと上擦った声を上げる。だが、違っていた。

 

「信勝、今回は銀鈴に免じて許してあげるわ。でも、これが最後よ」

 

 ”最後が何度もある”などと楽観的に思える者は、この場には居なかった。勿論信勝も。今度ばかりは比喩では無しに本当に死んだかと思ったのだ。二度とこんな体験をしたいとは思わない。

 

 だが、今回の一件は彼にとっても学ぶ事が多くあった。

 

 どうして母や家臣達が口を揃えて姉の廃嫡を迫っても父が頑とそれを許さなかったのか。

 

 どうして織田の知恵袋と呼ばれていた平手のじいがどこまでも姉に望みを繋いできたのか。

 

 それが全て分かった気がした。いみじくも彼自身が口にした通り、これまでの自分が愚かだった。姉はうつけ姫などではなく、逆に尾張を担う事の出来るのは姉しか居ないと思えた。少なくとも自分よりも遥かに上手くやってくれる筈だ。

 

「姉上、僕は二度と取り巻き連中に担がれないよう、織田の姓を捨て、分家の「津田」を名乗ります。名前も「信澄」に改め、生まれ変わったつもりで姉上の為に働きたいと思います!!」

 

「津田……信澄……デアルカ」

 

「これにて一件落着……九十三点」

 

 長秀がぱっと扇子を翻して、これでこの話は終わりだと全員に告げる。糸が切れたように緊迫した雰囲気が和らいで、全員がたまりかねたように大きく息を吐いた。

 

 この後、信勝改め信澄は勝家の与力としてしばらく修行する事となり、その取り巻きだった者達はしばらくの蟄居(つまりは謹慎)の後、配置換えを行って別の部署に移す事でこの一件は手打ちとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 この日の夜は昼間の曇天が嘘のように再び晴れ渡り、現代人の深鈴が見た事もないような大きく美しい満月が天上に輝いていた。

 

 尾張で一番天に近い場所、つまり清洲城の信奈の部屋からは二人の人物がその月を眺めていた。一人は当然部屋の主である信奈。もう一人は彼女に呼ばれてそこに居る、深鈴であった。

 

 信奈は湯帷子姿で肩の力を抜いた風だが、一方で深鈴は緊張した面持ちである。何故自分が呼び出されたのか。彼女には心当たりがありすぎた。

 

 どう考えても昼間の一件、それしかない。

 

 無言のまま膝を折り、忠節の姿勢を示す。

 

「信奈様、昼間はまた勝手な事を致しました……何なりと罰をお与え下さい……」

 

「……銀鈴、顔を上げなさい」

 

「はい……」

 

 命ぜられるままに上げた視界に入った信奈の表情は、穏やかな笑顔だった。

 

「昼間は……その、ありがとね……こんな事、皆の前じゃ言えないから……」

 

 それはそうだ。功のあった時でさえ臣下へ頭を下げる主君など何処にも居ない。ましてそれが、独断専行を行った不埒者相手ならば尚の事、他の者への示しが付かない。

 

 だが恐らくは、深鈴の策略以外に信勝を処断する事と信奈の心を汲む事、その二つを同時に成す術は無かったろう。

 

 とは言え独断専行は咎められるべき行為で、しかも深鈴には前科があるが……しかしこの場合は情状酌量の余地もあると、信奈は考えていた。

 

 今回の事は彼女に報告して許可を仰ぐ訳には行かなかったのだ。

 

 そもそも信奈が信勝を処断せねばならない理由は、如何な立場にある者であろうと法を犯せば裁かれると家臣団に強烈に印象付ける為だ。

 

 だがその裏で一個人としての信奈は、弟を殺したいなど夢にも思っていない。

 

 こちらを立てればあちらが立たず。ならばどうするか? そこで横車を押すようにして、無理矢理のギリギリで二つを満たすのが深鈴の今回の策であった。

 

 つまりは、飛び加藤の幻術。それを使って重臣達が勢揃いしている場で、信奈が信勝を斬る所を見せる事。(幻術であったのだから当然と言えば当然だが)結果的に信勝、いや信澄は生き残った。だが、もし飛び加藤が横槍を入れなければ、つまり深鈴が裏で色々と糸を引かねば間違いなく死んでいた筈なのだ。後で口さがない者が「あれは信奈様が裏で仕組んでいた事だ」と喚いたとしても問題ではない。あの場の参列者達は、”信奈が信勝を斬る所を見ている”のだ。文字通り百聞は一見に如かず。あの場の体験は、どんな言葉よりも彼等の心に強烈な一撃となって響いたろう。

 

 これで織田家中はぴしりと引き締まる。

 

 それを為し、尚かつ信勝を殺さない事。その二つを両立させるにはこれしかなかった。そして万一にも素振りや表情から気取られぬよう、深鈴はその事を信奈には告げなかった、否、告げられなかったのだ。

 

 深鈴は恐らくだが先日の遠乗りでの密談の時から、ここまでの展開を予測して全ての絵図面を描いていたに違いない。そしてほぼ全てが彼女の思惑通りに進んだ。

 

 信奈は僅かな情報からそうした全ての事情を推理し、理解していた。

 

 分からない事は、一つだけ。

 

「銀鈴、一つだけ、正直に答えなさい」

 

「はい……」

 

「あなたはどうして私に、ここまで尽くすの?」

 

 勝家のような譜代の家臣でもない。長秀のように昔から小姓として自分に仕えていた訳でもない。新参の家臣に過ぎない彼女が……

 

「それは……」

 

 深鈴は僅かに言い淀んだ。その本心を口にすれば、信奈は怒るかも知れない。

 

 だが……ここまで来て偽りを口にするのは信奈と自分の一度に二人を貶める行いであるとも、心中の純粋な部分が言っている。

 

 だから、真実を言おう。

 

「信奈様と……共に歩みたいと願うが故です」

 

 彼女が誰にも理解されない事を哀れに思うのではなく。

 

 ただ彼女の背中を追うだけでもなく。

 

 天下統一をも越えた、この時代には恐らく彼女だけが持つであろう夢を共に。

 

 信奈の願う夢だからこそ手伝うのではなく、同じ未来を夢見る事の出来る自分であるからこそ、共に歩みたいと願う。

 

 それが、深鈴の本心だった。

 

「……優しいのね」

 

 ふっと信奈は微笑する。

 

「あなたが私の為に動いてくれる事は、よく分かったわ」

 

 五右衛門達を使った諜報戦術で今川を一時的に国境より撤退させ、道三へと援軍を出せる時を稼いだ事。

 

 そして今回、家臣達を一枚岩に纏めてかつ信澄の命を救った事。

 

 どちらの時も深鈴は一個人としての信奈と尾張の大名としての信奈、その両方の彼女に配慮して、両方が立つように動いてくれていた。

 

 その赤心には、応える所がなくてはなるまいが……

 

「褒美はまた考えるとして……」

 

 そう言うと信奈は立て掛けてあった刀を取り、躊躇いなく抜き放つ。思わずびくりと体を震わせる深鈴。そんな彼女を見て信奈は笑うと、

 

「貴女とは、主従の儀式がまだだったでしょう? 折角だから南蛮風にしましょう。私も詳しい訳じゃないけど……」

 

「南蛮風の、主従……?」

 

 しばらく首を傾げた深鈴であったが「ああ」と頷くと、傅いた姿勢を崩さずにそこで待つ。

 

 信奈はそんな深鈴の前に立つと、問う。

 

「銀鏡深鈴。私への忠誠を、永遠に誓う?」

 

「はい、信奈様……」

 

 その答えに満足したように、信奈は刀の腹で深鈴の肩を叩くと、その刀を彼女へと渡した。

 

 見様見真似かつ略式ながら、恐らくはこの国で最初に行われた騎士の叙任式。立会人の一人とて居ない寂しい式ではあったが、月だけはその優しい光で二人を祝福していた。


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