織田信奈と銀の鈴(完結)   作:ファルメール

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第09話 戦の前の戦

 

 駿府、松平元康の屋敷近くの森。

 

 今や草木も眠る丑三つ時ながら、しかしこのような時であるからこそ、昼間よりも余程激しく動いている者達が居た。

 

 今宵は新月。その闇の中に、時折甲高い金属音と共に僅かながらの光が走る。苦無や手裏剣がぶつかり合った事で生じる火花だ。

 

 闇の中に尚黒い影が幾筋も走っている。もし梟でも飛んでいて上空からこの一帯を俯瞰視点で見たのなら、それらの影はただ乱雑に動いているのではなく、一つの意思の下に統率された集団としての動きを取っているのが分かったであろう。

 

 無数の影は、二つの影を追って囲い込むようにして動いている。やがて森の一角で完全に包囲が完了して、全ての影の動きが止まった。

 

「飛び加藤、こんな所で貴様とまた相まみえるとはな」

 

「…………」

 

 周囲を包囲する無数の影、松平元康配下の忍者集団「服部党」を指揮する棟梁・服部半蔵が、輪の中心にいる二つの影の一つ、全身を隙間無くボロボロの黒布で覆い、闇から浮き上がるような白い狐面を髪飾りのように頭に付けた男とも女とも分からぬ者、加藤段蔵へと言い放った。

 

 服部半蔵と加藤段蔵。共に忍びの世界では知らぬ者なき凄腕であり、血で血を洗う争いを幾度も繰り返してきた宿敵同士である。

 

 敵対する立場となる事が多かったのもあるが、父の代から松平家に仕え元康を無二の主と定めて忠を尽くす半蔵と、傭兵として金で主を変える段蔵は思想面でも水と油。顔を合わせれば殺し合う仲であった。

 

「上杉の元からは離れたと聞くが……今度は何処の大名に雇われたのだ?」

 

「…………」

 

 当然ながら、段蔵は答えない。彼あるいは彼女の声を聞いた者は伊賀にも甲賀にも居ない。ボロ布で隠された口元は、あるいは本当に糸で縫い合わされているのではないだろうかという噂まで流れた事があった。

 

「ふん……黙して語らず、か。まぁ、誰に雇われたのかは知らぬが、大方姫様を拐かすか命を奪えとでも言われてきたのであろう」

 

 「だが」と、半蔵の口が動くと同時に服部党が一斉に忍刀を構える。

 

「この俺と服部党ある限り、それは叶わぬと知れ」

 

「飛び加藤殿、そろそろ潮時でござろう」

 

 段蔵と背中合わせに周囲を囲む服部党に向き合っていたもう一人の忍者、五右衛門が彼等を牽制するようにじりじりと姿勢を変えつつ、言った。

 

「…………」

 

 段蔵は無言のまま頷き、彼あるいは彼女の纏ったボロ布の袖口から、ボトボトと着火された焙烙玉が地面に落ちる。

 

「「「………?」」」

 

 この不可解な動きには、半蔵も含めた服部党全員の動きが止まってしまった。たった今焙烙玉が落ちたのは、段蔵と五右衛門のすぐ足下。あれでは吹き飛ばされるのは自分達ではなく、二人の方だ。よもや飛び加藤ほどの者が忍び道具の扱いを誤る訳も無く。微塵隠れを試みるにしてもぐるりをその手を承知している忍び者に囲まれていては成功する訳が無い。それが分からぬ飛び加藤でもない筈。

 

 ならばこれは、一体……?

 

 当惑によって自分達を包囲する忍者達の動きが止まったのを見て取ると、五右衛門は事前に言われていた通り両手で耳を塞いであんぐりと口を開ける。背中合わせになっている段蔵も同じように動いた。布越しの手を、フードのようになったボロ布の上から耳に当てる。

 

 この動きは……?

 

「……!! いかん!! お前達、目を逸らせ!!」

 

 漸く二人の不可解な動きの意味を理解し、半蔵が声を上げる。だが部下達は命令の意味を図りかねたように視線を彼に向けるだけだ。その反応の遅さに苛立ってもう一言を与えようとするが、遅かった。

 

 

 

 夜が昼になって、天地がひっくり返った。

 

 

 

 無論、時が何時間か先に進んだり天変地異が起こったのではない。

 

 五右衛門と段蔵の足下に撒かれた焙烙玉が炸裂して、およそ彼等忍び者が扱う火薬というものの常識を超えた轟音と閃光が走ったのだ。

 

「うぎゃあああっ!?」

 

「ひいいっ!?」

 

「め、目が!? 耳が!?」

 

「お、おのれっ……!!」

 

 咄嗟に防御態勢を取った半蔵だけは何とか正常な意識と判断力を残せたが、彼の部下達は酷いものだった。全員が全員、頭を抱えて身を丸くしてうずくまってしまっている。

 

 漸く光と音が治まった時には、当然と言うべきか二人の忍者の姿は何処にもなかった。

 

「ぬうっ……姫様の元へ向かったか……!?」

 

 すぐに自分も駆け付けねばとその場を離れようとする半蔵だったが、しかし彼は先程まで段蔵と五右衛門が立っていた場所に、一枚の書状が残されているのに気付いた。

 

「これは……」

 

 拾い上げた書に記されていた宛名は松平元康。彼の主人たる姫大名。差出人の名は……織田信奈。

 

 どうやら元康は、今すぐに命の危機に晒されている訳ではないらしい。あの二人は彼女を害そうとしてやって来たのではなく、この密書を確実に届ける事が役目だったという所か。

 

「……いずれにせよ、俺は一度姫様の元へ行かねば……」

 

 無論こんな思わせぶりな手紙で安心させておいて実はやはり元康を、という事も十分に有り得る。そう判断した半蔵の行動は早く、彼の姿は次の瞬間には消えていた。

 

 未だにうずくまっている部下達は放置された。

 

 まぁ、見る限り命に別状がある者は居ないだろうし、最後の一人になっても姫様を守り抜くのが服部党の任務。その内回復して、ゆっくり追い付いてくるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「服部半蔵殿は、密書をちゃんと見付けてくれたでござりょうか?」

 

「…………」

 

<彼なら必ず、見付ける>

 

 尾張への帰路、常人を遥かに超えた速度で駆けながら少しだけ不安を滲ませた声で言う五右衛門に対して、段蔵はいつも通り紙面を寄越す。

 

 彼あるいは彼女と半蔵は幾度も殺し合った仲だが、それ故に二人とも互いの実力を誰より正確に知っており、確信が持てた。

 

「それにしてもあの焙烙玉、凄まじい威力でござったにゃ」

 

<銀鈴は”素炭愚零寧怒”と言っていたっけ>

 

 二人が服部党から逃げ出す時に使用した焙烙玉は通常の物ではなく源内が開発した新型で、今回の任務で実地試験を行ってこいと持たされた物だった。

 

 源内曰く爆発すれば凄まじい閃光と轟音で相手の視力・聴力・思考力を奪う、逃走・制圧用の新型爆弾という事で、既に専用の実験場として与えられた広場で、彼女は何度となく昼も夜もなくあれの試作品を爆発させては周りの者からひんしゅくを買っていた。五右衛門と段蔵も、口には出さないものの似たような感想を抱いていたが……

 

 しかし先日の稲生の戦いで一夜にして砦を築いた技術もそうだが、今回新型焙烙玉の威力を目の当たりにした今は、もうそんな事は言えない。轟音や爆発に紛れての遁走は忍びの常套手段だが、あれほどの音と光を発する爆弾など二人は見た事も聞いた事もなかった。あれは乱波の戦術に確実に一石を投じる発明だ。

 

 恐るべき、そして頼もしきは源内の頭脳と技術。そして、

 

「流石は銀鏡氏。源内殿を最上位の食客として厚遇している理由がやっとわきゃっちゃでごじゃ……」

 

<私も十分過ぎるほど報酬をもらってる。銀鈴とは大事に付き合わせてもらう>

 

 

 

 

 

 

 

 時は数日前に遡る。

 

 今川義元が再び上洛の為の軍を起こす気配がある。五右衛門が指揮する諜報部隊によってもたらされたその情報を聞くや、清洲城内はにわかに色めき立った。

 

 早速、織田家臣団全員が招集され軍議が開かれる。

 

「先日は五右衛門や段蔵の流言によって国境より陣払いをさせましたが、あのような手は二度と通用しないでしょうね」

 

 と、深鈴。寧ろ「よくも武田・上杉が同盟して留守の駿府を急襲するなどと謀ってくれたな」と、怒りに燃えて尾張に襲い掛かってくるだろう。

 

「銀鏡殿が余計な事をしたばかりに、今川の逆鱗に触れたのでは?」

 

 家臣の一人が指摘してくる。それを受けても深鈴は反論しない。概ねの所事実だと認識していたからだ。

 

 一方で未だ正式な織田家家臣ではなく客将的立場ながら、猫の手も借りたいという理由から列席していた明智光秀はその言を聞いて顔を顰めた。

 

 聞いた話では信奈が道三救出の為に軍を出せたのは深鈴が流言戦術によって、一時的にせよ国境から今川軍を退かせたからだという。故に彼女は主の危機を救うお膳立てを整えた深鈴に一定の敬意と感謝の念を抱いており、その深鈴がなじられる事は本人だけでなく、主である道三が生き延びた事まで否定されているように聞こえていた。

 

「今は責任の所在を話し合っている時ではないでしょう。三十点」

 

「そうだ!! 皆でどうやって今川軍と戦うかを考えるかの軍議だろう!!」

 

 しかし長秀と勝家の取りなしもあって、彼等は「むう」と押し黙る。確かに今は織田家存亡の瀬戸際。一家臣の処遇を議論している場合ではない。

 

「籠城するという手は? 今川義元の目的はあくまでも上洛。こちらから手出しをせねば、尾張を素通りする可能性も……」

 

「素通りしなかった時は? 美濃が斉藤義龍の支配下となった今、援軍が来る当てはありません。その時は滅ぶしかないでしょう。三点です」

 

 家臣の一人から出た意見に対し、長秀が辛辣な批評を下す。とは言え彼女の意見も正論だった。古来より籠城とは同盟国などから援軍が駆け付ける事を前提としての戦法。それ以外で籠城して、勝った試しは無い。外部からの支援が無い籠城は、落城を先延ばしにするだけの意味しかない。

 

 美濃が未だ道三の統治下であればまだ話も違ったろうが……と、同席していた光秀は「くっ」と歯噛みする。自分がしっかり道三様を支え、義龍派に付け入る隙を与えなければ、あるいは……

 

 だが過去を悔いる事よりも、今は今の最善を考えねばならない。彼女は無言のまま、その頭脳を最大に回転させる。

 

「降って時節を待つという手もあるが……」

 

「姫様を敵に差し出すと? 家臣にあるまじき発言。零点です!!」

 

「っ、女子の分際で……!!」

 

「男の癖に女々しい方が情けないよ!!」

 

 徐々に場を支配するのが理ではなく感情になっていき、降伏か徹底抗戦かの二派に分かれて作戦会議というよりも痴話喧嘩に近い様相を呈し始める。

 

 上座に腰掛ける信奈は苦々しい顔でその様子を眺めていたが……肘掛けをとんとんと指でつつく様子から明らかに苛立っており、今にも付き合いきれないとばかりに席を立ちそうだ。

 

 これは、いけない。何とか話の流れを変えなくては。そう考えて発言したのは、

 

「皆様、落ち着いて下さい。戦には五つのやり方があります。それに則って、順序立てて考えましょう」

 

「ん、銀鈴?」

 

「貴様は黙っておれ!! そもそも誰のせいでこうなったと……!!」

 

「まぁ、聞いてみようではないか。して銀鏡殿、五つの戦い方とは?」

 

「攻められるのなら攻め、攻められぬなら守り、守れないなら逃げ、逃げられないなら降り、降る事も出来ないのなら最後は死……ですね? 銀鏡殿」

 

 深鈴に代わって答えたのは、光秀だった。無言のまま頷く深鈴。光秀は彼女の言わんとしていた事を完全に理解し、代弁してくれていた。

 

 この二人の弁もあって、白熱していた場の雰囲気もひとまずは落ち着く。同時に、彼女達の言わんとする事も全員に伝わっていた。つまり、籠城や降伏をまず考えるのは考え方の順序が間違っているという事。まず第一に論じられるべきは、

 

「で? 銀鈴、十兵衛の言に従うならまずは攻める事が出来るかを考えるべき、と言うのでしょうけど……貴女に何か考えがあるの?」

 

 軍議が始まって半刻(約1時間)が過ぎて、初めて信奈が口を開いた。

 

「はい、ではまず一同、これをお聞き下さい」

 

 そう言うと深鈴は懐から一枚の書面を取り出して、読み上げていく。そこには以前国境に布陣していた時の、今川軍の陣容が記されていた。あらかじめ五右衛門達に調べさせていた情報だ。

 

「先鋒に松平勢が三千、第二陣に朝比奈勢がこれも三千、第三陣鵜殿勢・三千、第四陣三浦勢・三千、第五陣に葛山勢・五千。そして今川義元の本陣が五千。その他小荷駄隊がこれも五千……勿論これは以前の今川軍の陣容で、今回尾張に侵攻してくる陣立てについては改めて調査させますが……本国に武田・上杉に備えて守備隊を多めに残してくるぐらいで、さほど変わったりはしないでしょう」

 

 今川義元が駿遠三の全軍を動員すれば総兵力はざっと四万。各地の城に守備隊を残したとしても、二万五千は尾張に侵入してくる。対して迎え撃つ尾張の兵は……

 

「こちらは全軍で五千。丸根・鷲津・丹下……他の各砦に守備隊を配置した後で動かせる兵力は、良いとこ三千、です」

 

 と、光秀。つまりこれは三千対二万五千の戦い。その差実に八倍以上。絶望的な戦力差に再び「籠城じゃ」「いや降伏だ」と声が上がるが、長秀が一喝して黙らせた。意見はどんどん言うべきだが、話を全て聞いてからだ。

 

「既に皆様が議論されている通り、真っ向勝負では万に一つの勝ち目も無いでしょう」

 

 「一人が十人を討ち取る術をご存じの方が居れば、話は別ですが」と付け加える。当たり前の事だがそんな妖術を知る者は居ない。そんな奴が居れば、そいつがとうの昔に天下を取っているだろう。

 

「逆にこの状況で攻めて織田勢に勝ち目があるとすれば……」

 

「義元の本陣への奇襲です、か」

 

 言葉を継いだ光秀に、深鈴は頷く。

 

「故にその際には五右衛門・段蔵以下、私直轄の諜報部隊を総動員して必ず本陣を突き止める所存ですが……信奈様、本陣発見に確実を期すなら、もう一手を打たねばなりません」

 

「もう一手?」

 

「はい、今川義元も織田が自分達を破るなら本陣を攻める以外は無い事ぐらいは予想しているでしょう。故に、乱波や斥候に本陣を探られないよう、向こうも乱波達を使って警戒させている事が考えられます」

 

「今川方の忍びと言うと……」

 

「松平元康麾下の服部党、ですか」

 

 再び的確な意見を述べた光秀に、信奈・深鈴共に頷く。

 

「その服部党の目を封じる為に、信奈様から松平元康へ、密書を送られてはいかがと」

 

「成る程、元康は姫様とは旧知の仲。織田に内応して今川を裏切るよう仕向けるんだな!!」

 

 それは良い考えだと意気揚々に言い放った勝家だったが……

 

「「「「…………」」」」

 

「……あ、あれ?」

 

 信奈、長秀、光秀、深鈴。知恵者連中四人から同じように同情とも呆れとも付かない視線を向けられて「え、違ってた……?」と、引き攣った気まずい笑みを浮かべる。

 

「当たらずしも遠からずですが……四十点です」

 

「松平元康は家族を人質を取られてます。そんなおおっぴらには逆らえないです」

 

「それに仮に松平勢が全て織田に付いたとしても、三千対二万五千が六千対二万二千になるだけ。あくまでも織田勢による本陣の奇襲が、勝ち筋の肝です」

 

「六、取り敢えず最後まで銀鈴の話を聞いてみましょう」

 

「……は、はい……」

 

 顔を真っ赤にして勝家が引き下がった所で、深鈴が話を再開する。

 

「文面には、服部半蔵以下服部党に、もし織田方の忍びや密偵が今川の本陣を探っているのを見付けても、見逃すように指示しろと書いておく」

 

「……そんな重要な事を手紙に書いたら、元康から義元に伝わるんじゃないの?」

 

 犬千代の指摘も尤もである。だから、それをさせない為の文を密書には書かねばならない。

 

「もし今川が打倒された場合、織田は松平家と対等な同盟を結び、独立を支援すると約束するのです」

 

「……確かに、私の目的はあくまで美濃の攻略。それに元康が独立して同盟を結べば、武田への備えという意味でも私達に有益な話ね」

 

「だが、それだけでは松平元康があくまで今川に義理立てする場合もあるだろう。やはり情報が漏れる危険があるのでは?」

 

 家臣の一人が言うその意見も尤もである。だが、元康が絶対に義元に密書の内容を伝えないようにする手は、既に考えてある。

 

「はい、ですから……」

 

「今川が勝った場合の話も一緒に書いておく、ですよね? 銀鏡殿」

 

「その通りです、十兵衛殿」

 

「……よく、分からないな? 銀鈴、噛み含めて説明してくれ」

 

 勝家の要望を受け、深鈴は密書に書くべき次の内容を述べていく。

 

 つまり織田が勝った場合は対等な同盟を結んで独立を支援するが、仮に今川が勝って織田が負けた場合でも、松平家・三河衆に損は無いと思わせるのだ。

 

 具体的には、

 

「仮に今川が勝つとしても、織田勢三千が本陣の五千に切り込むとなれば、無傷とは行かないでしょう。今川方も義元の側近である優秀な武将が大勢討ち死にする事態が想像出来ます」

 

「確かに」

 

「結果……今川の陣容に空洞化が生じ、相対的に松平勢の立ち位置が上昇。今川義元の心情がどうあれ、少なくとも今までのように簡単に使い潰す事は出来なくなるです」

 

 そこまで聞けば「成る程」と勝家も得心が行ったという表情で頷く。織田が勝てば三河独立。今川が勝てば現在の使い走りのような立場からは解放される。少なくともそうなる機会は与えられる。要はどちらに転んでも損は無いと元康に思わせる事が肝要なのだ。

 

「ダメ押しで密書の最後に「松平家にとって一番の損は今のまま今川のパシリで終わる事です」と書く、これで完璧です」

 

「良い案です、十兵衛殿」

 

 元康ならばどのみち最終的には同じ結論へと至るだろうが……しかしこちらは彼女が最終的に出すであろう結論を先に見抜いていると思わせ、更にその一文によって思考の方向を誘導する事で、万一にも彼女の口から義元に伝わる事はなくなる。

 

 その後もしばらく軍議は続いたが、結局今川本陣への奇襲・それを補助する為の松平家への密書。この二つに勝る意見は出ず、信奈が深鈴と光秀が述べた通りの内容の手紙を書き、それを届ける役目は五右衛門と段蔵が担うという事が決議され、この日の軍議はお開きとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 時は現在に戻り、深鈴の屋敷。

 

 日当たりの良い縁側では道三と深鈴が、碁盤を挟んで向き合っている。二人の傍らには深鈴の側に犬千代、道三の側には光秀が、それぞれ控えていた。

 

 救出されて後はすっかり隠居生活の道三は、蝮と呼ばれていた頃のぎらぎらした雰囲気がすっかり影を潜め、絵に描いたような好々爺として柔和な笑みを浮かべている。

 

 対して深鈴はいつになく真剣で難しい表情。

 

 小姓である光秀は道三の背後でにやにやと笑っている。

 

 犬千代には碁は分からないが、三者の表情を見れば盤上の勝負はどちらが優勢なのかは一目瞭然であった。

 

 ぱちん、と乾いた音が鳴る。道三の黒の石が盤上に置かれて、より一層深鈴の表情が険しくなった。

 

「ま……」

 

「待ったは無しじゃぞ」

 

「ぬくく……」

 

 今や織田家中随一の切れ者とされる彼女も、碁ではまだまだ美濃の蝮の敵たり得ないらしい。光秀はくすくす笑っている。

 

 体をメチャクチャに捻るようにして考えている深鈴を見て流石に哀れに思ったのか、道三が助け船を出した。

 

「光秀から聞いたが此度の今川の侵攻、如何にして迎え撃つか。随分と悩んでいるようではないか?」

 

 そう、話題を切り替える。

 

「はい……今の所、乱波を放てるだけ放って本陣を突き止め、そこを奇襲する方向で話を進めていますが……」

 

 盤面を見たまま答える深鈴だが、既に表情は遊戯に興じている時のそれではなくなっていた。五右衛門と段蔵は駿府より無事に帰還し、作戦の第一段階は成った。しかし第二段階以降も決して楽な達成条件ではない。

 

 奇襲するとしても義元の本陣は五千は居るだろう。対する織田はどれだけ集めても三千。場合によっては返り討ちに遭うかも知れない。それだけでなく、あまり長引かせれば本陣に何かあったと他の陣が察知して援軍に駆け付けてくる可能性も十分にある。

 

 つまり短期決戦で今川義元を討ち取るなり捕らえるなりするのが最善の形だが……

 

 ばさり、と床に尾張の地図を広げる。

 

 信奈に倣ってこうした時の為に尾張の地形を調べていたが、奇襲を行うのであれば適地はやはり史実通りの田楽狭間か土地の者が「桶狭間」と呼ぶ早口言葉のような名前の谷間。どちらも攻め手は坂の上から一気に襲い掛かる高所の利を得る事が出来るし、特に田楽狭間は丘陵が重なり合って普通の谷間よりも細く長いので大部隊では身動きが取れず、しかも丘の上に見張りを立てても前方の窪地と向こう側の丘が見えるだけで、展望はまるで利かない。

 

 もしここに義元が本陣を構えて休息するなら、織田勢は敵に気付かれずに義元へ近付く事が出来るという事になる。

 

『田楽狭間に今川本陣を誘き出す事が出来れば、勝負は決まる……!!』

 

 だが、問題はどうやって誘き出すかだ。いや、それだけでは不十分。信奈率いる織田の本隊がそれなりの距離に近付くまで、今川本隊がそこに留まっていなければならない。

 

『……史実では、田楽狭間で休息中の今川軍を降り出した雨に乗じて信長軍が奇襲、義元の首を挙げる訳だけど……』

 

 既に深鈴の生きているこの今は史実と乖離しているのだ。歴史の知識ばかりを当てに動く訳には行かない。とは言え、田楽狭間で戦う事が有利なのは厳然とした事実。

 

『天候はどうにもならない、文字通り運を天に任せるとして……今川義元を田楽狭間に留めるにはどうするか……』

 

 また、何か策を考えなくてはならない。深鈴は、彼女自身は戦う事は出来ない。故に、戦が始まるまでに何をするか。それが彼女の戦なのだ。

 

 だが今回は良い案が出ない。思考が煮詰まって、再び「ぬくく」と唸り始める。彼女だけでなく道三、光秀、それに犬千代まで思案顔だ。最早碁の勝敗など誰の頭からも吹き飛んでしまっていた。

 

 そうして四人が四人とも難しい顔を突き合わせていると、襖がすっと開き、

 

「皆様、お茶が入ったでございまする!!」

 

 茶と菓子を乗せた盆を持ったねねが、元気のいい声で入ってきた。

 

 彼女は深鈴が織田家に仕官した日に開かれた宴会に招かれたのが縁で、しばしばこの屋敷に遊びに来るようになり、食客達への賄いを手伝ったりして給金を貰ったりもしていた。

 

 一方で深鈴の方も働き者のねねを妹のように可愛がっており、うこぎ長屋の近くを通り掛かった時には必ず浅野の爺様に良い酒や肴を付け届けするなど、家ぐるみで親交が深い間柄であった。

 

 幼いながらもきちんとした作法で、ねねは四人それぞれに茶と菓子を配っていく。

 

「美味しい……もぐ……もぐ……」

 

 大好物のういろうを前にした犬千代は自分の前に皿が置かれた瞬間にはもう辛抱たまらんとばかりに手を伸ばして、一心不乱に頬張っている。

 

 それを見て思わず相好を崩す深鈴、道三、光秀、ねねであったが……

 

 ややあって「はっ」と閃く。

 

『ん……? そうか……!!』

 

 脳内に生まれたその可能性を素早く検証した後、深鈴はねねへと向き直った。

 

「? 銀鈴殿、いかがなされましたか?」

 

「ねね、今回の今川との戦が織田家の存亡に関わるものであるのは、知っているわね?」

 

 真剣な顔で問われて、幼いながらも利発な少女はこちらも表情を引き締めて、答える。

 

「はい、爺様も毎日長屋の皆様と、難しい顔で話し合っておりまする」

 

 その返答を聞いて、深鈴は満足そうに首肯する。それだけ分かっていれば十分だ。

 

 そして次に深鈴の口から出た言葉に、道三、犬千代、光秀。三者の表情が一様に、驚愕の色に染まった。

 

「そこでねね……あなたを見込んで、この戦の趨勢を左右する重要な任務を、お願いしたいのよ」

 


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