きっと私は、ターフが好きだった。小さい頃から芝の上が好きで、辺り一面に広がる緑色に胸が踊った。植物の絨毯の上を歩けば、私の足の下から溢れんばかりの生命力がそれ以上の力で私のことを持ち上げているような感触を覚えた。
今でも忘れられないのが、初めてレース場に連れて行ってもらった時のことだ。懸命に走り、お互いのプライドをぶつけ合うウマ娘たちの姿に涙を流すほど感動した。いつか自分もあの舞台に立ちたいと強く願った。しかし、そう言うと母親は申し訳なさそうな顔をした。
程なくして私に異変が訪れた。鏡に映る自分の姿に色々と余計なものが見えるようになったのだ。スピード、スタミナ、パワー、まるでゲームのステータス画面みたいだった。
それは私以外のウマ娘も例外でなく、テレビに映ったウマ娘にも同じようにその力が働いた。そして気づいたのだ、私の能力は著しく低いのだと。
学校に入ってからは早かった。同学年でも能力の数字は既に差が開いており、年月を重ねる毎にその差はどんどん大きくなっていく。そのうちに能力に上限があることに気づき、私はどう頑張っても彼女たちに追いつけないのだということを思い知らされた。だってそうだろう、私はどう頑張っても200にしかならないのに、どうして1200まで進む可能性のある奴がいるんだ?
人がそれを才能と呼んでいることを知るのに、そう時間はかからなかった。学校生活が折り返しを迎えた時には既に私は走ることを諦めていた。
私は両親にこのことを打ち明けた。小さい頃に数字が見えると話した時には両親も首を傾げていたが、この数字の意味を私自身が知るようになってからは、この数字がどういうものかを説明することが出来た。
両親は信じられないものを見るような目をしていたが、やがてレースを走るウマ娘を指差して細かく順位付けをすると、私の話を信じるようになった。
私はその時に初めて両親のことを知った。私の母は昔トレセン学園に在学していた生徒で、父はその時に勤務していたトレーナーだった。母は父にとっての初めての担当ウマ娘だったのだ。
しかしながら母の成績は決していいものではなく、結局未勝利のまま現役を引退することになった。父は新しい契約を結んだようだが、母はその後も父のサポートをし続けたらしい。
最終的に父はGⅠレースにおいて何回かの勝利を担当ウマ娘と共に勝ち取り、トレーナーとしての功績もそこそこに良いまま今ではもう少し上の役職に居るそうだ。そして献身的に父を支え続けた母は卒業後に父と結婚、その結果今の家庭があるというわけだ。
父は今でも未熟な新人時代に母を勝たせてやれなかったことを後悔しているらしく、その話をする時の父の表情は浮かないものだった。だから私は言ってやったのだ。
「知りたい?」
何を、と言いたげな父の口から言葉が出てくることはなかった。代わりにゴクリと生唾を飲む音。父はすぐに理解したようだった。
そう、私にはウマ娘の能力が見れる。包み隠さず全て話した今ならわかるだろう、私はこの時父に答え合わせをしようと持ち掛けたのだ。十数年前に母が勝てなかったのは父が悪いのか、それとも母は元々その程度のウマ娘だったのか。今思えばなんて残酷なことを言い出す娘だったのだろう。
父は何も言えず固まっていた。私に悪意があったわけではないが、トラウマをほじくり返された挙句その傷口を今無理やり広げられようとしているのだ。誰だってそんなことはされたくない。当の私は父が固まってしまったことに困惑しているばかりだったが。
そんな空気の中、母は私を優しく抱きしめて頭を撫でながらこう言った。
「いいのよ、もう過ぎたことなんだから。それに、なんとなくわかってるしね」
ごめんね、と謝って母は私の頭を撫で続けた。私はいつかの謝罪を今の母の言葉に重ねた。そういう意味では、私は真にこの時走ることを諦めたのだろう。
結論からいえば、母が勝てなかったのは母自身の能力が低かったせいだ。母は強いウマ娘ではない。レースに勝つための要素も成長の見込みがない。どれだけ頑張っても……いや、実際に頑張ったのだろう。精一杯やって勝てなかった。勝てるウマ娘ではなかった、それだけの話だ。
しかしそれだけではこの話は終わらなかった。ウマ娘の体というのは親の影響を色濃く受ける。母は強いウマ娘ではなかった、そしてその母から生まれた私も強いウマ娘ではない。この世界には血統というものがあるのだ。だからあの日、母は私に謝ったのだ。
それから私は取り憑かれたように色んなことに手を出した。
クラスの人気者の一人称が『あたし』だったから、自分のことを『あたし』と呼ぶようにした。その日から私はあたしになった。
父の部屋にあったギターを手に取った。暫くして上手いこと弾いてみせたその年の私の誕生日プレゼントは、かなりいい値段のギターになった。父が如何に稼いでいるかよくわかる。
でも、やればやるほどわかってしまう。真実に辿り着いてしまう。私じゃなくていいのだ。クラスの人気者も、ギターを弾くことも、私じゃなくていい。私よりもっと上がいる。私じゃ1番になれないのだ。練習するために弾くこの曲だって、誰かが作ったものだ。私じゃない。私じゃなれない。代わりがいくらでもいるようなものにしか、私はなれない。自分の未来図を描こうとして、クレヨンで黒く塗りつぶした。
この頃から私は父の背中を追うようになった。私の目があればトレーナーなんて楽勝じゃん、そう思ったからだ。知識が必要なことに気づくのはもう少し後だったが、それでも私の進むべき道はこの時にほぼ決まった。走れないのなら、走らなければいい。私じゃなくていいのなら、私以外がやればいい。向き不向きというものがあるのだから、走れないウマ娘が走る必要は無い。ギターを弾くのはもっと上手い人がやればいい。私は、私がやれる事をやればいい。
トレーナー業はその点、私から見れば魅力的だった。ウマ娘の体を見て、何が強くて何が足りてないのかを教えればあとはその子の才能のままに育つのだから、私じゃなくてもいいが私がやったって結果は変わらないだろう。私は父にトレーナーになる道はないかと尋ねた。
さすがにこの特異な才能をどうにかしたいと思ったのだろうか、父も色々と画策していたみたいだ。しかし普通にトレーナーの勉強をするのではこの目を活かす機会は無い。考えた父は、きっと過去に勤務していた中央のトレセンを頼ったのだろう。その結果、卒業まで半年になったところで私に中央のトレセンへの入学の話が舞い込んできたのだ。
つまるところ、私は100%コネクションでこの中央へとやって来たのだ。運が良かっただけ、私の父がレース業界のお偉いさんで、私がたまたま変な目を持って生まれてきただけ。中央に行きたくて仕方がないウマ娘なんて山ほどいるだろうに。
でも申し訳ないなんて思わなかった。私には走る才能がなかったのだから。才能がないのが悪い。同じように才能がなかったウマ娘は普通ならば中央には行けないのだ。その子たちも同様に才能がないのが悪いと割り切るしかない。芝を見るだけで胸が痛むのも、思い切り走るウマ娘を見て歯軋りをするのも、気持ちよさそうに風を切る君を突き飛ばしてやりたくなるのも、全部才能がないのが悪い。
別に、私の代わりに走って欲しいんじゃない。無念を晴らして欲しいなんて思ってない。それでも私じゃ私を救えないから、私に無いもの全部持ってる君に託すんだ。
君に勝って欲しかった。精一杯手伝ったつもりだし、1番の友達だし、何より君の走りを見るのは好きだから。
君に負けて欲しかった。ビゼンニシキが勝ってれば、きっと私は後悔しただろうから。私にも勝てるチャンスが、走る機会があるかもって思えたかもしれないから。走るのを諦めたことを、ターフの上の夢を捨ててしまったことを嘆きたかった。
ぐちゃぐちゃだ、全部ぐちゃぐちゃだよ、シンボリルドルフ。君が好きだ、嫌いだ。応援してるから負けないで欲しい。誰かが玉座から君を引き摺り下ろして欲しい。どっちが本音か建前かもわかんない、どっちも本音で建前だ。ううん、違うよ。結局私が、私の問題なんだ。私は走りたかった。走りたかったよ、ルドルフ。でもダメだね、君がいるんだもん。私じゃ無理だよ。私じゃ君に勝てないから、走る意味なんてないから、走るべきじゃないって君が教えてくれるから。
ねぇルドルフ、一つだけ約束してよ。どうせ君に話すことなんてないから勝手に結ぶけどね。ね、私だけ不幸なんてズルいじゃん? だからさ、みんなみんな不幸にしてよ。君の走りで、君のその圧倒的な強者の力でさ、みんなみんな勝てない不幸なウマ娘にしようよ。そしたら私も私以外も、ううん、君以外のウマ娘みんな平等に負け組だ。その方が公平でしょ? みんな君を恨んで妬んで羨んで、みんな幸せだ。
だからお願い、私を幸せにしてよ、ルドルフ。
あの相部屋、湿度高くないか?