私の皐月賞が終わり、マルゼンスキーのメイクデビューも終わった。私がかなり接戦だったのに対してマルゼンスキーはぶっちぎりの大差で1勝を取ってきたらしいが、まあ彼女の脚に追いつく未勝利のウマ娘などそうそういないだろう。東条トレーナーも色々と終わりほっとしているようだ。
しかしながら私は一ヶ月後に日本ダービーを控える身、決して気を抜けない時期だ。だというのに、更にトレーニングを重ねなければという私に対してキリノは消極的だった。
「理由を教えてくれ。日本ダービーは皐月賞よりも長い2400m、今以上にスタミナが……」
「いらないよ。今まで通りのトレーニングでいいって言ってるじゃん」
はぁ、とキリノはため息をついた。
「いい?本来君は中~長距離の方が得意なの。一番の不安要素だった皐月賞をとった今、君には敵はいないよ。筋トレはもうあんなにやらなくていいけど、体を鈍らせないように走るのだけは怠らないでね。あと基本的には短距離走はなしで」
「そんな適当でいいのか?」
「適当にやらないでよ?」
「そうじゃなくて!…こほん、皐月賞の前には急に筋トレに力を入れたりしたじゃないか」
「もう必要ないよ、君に足りないものは無いからね。大体1ヶ月間隔で3連続レースに出てるのに、そんなハードなトレーニングさせられるわけないでしょ。なんなら2日に1回でもいいくらいだよ。テスト勉強でもしたら?」
「……信じていいんだな?」
「いいよ。君は負けないから」
妙な説得力と絶大な信頼の上に、ついに私は何も言えなくなった。そこまで言われたら勝つしかない。
それに彼女の言うことも一理ある。レースの前にトレーニングで怪我でもしようものなら一番悲惨な結果になるのだから、ハードなトレーニングは避けるべきだ。適当にするな、というのもそういう事だろう。
しかし、それとは別に最近キリノの様子がおかしい。おかしいというか、ボーッとしていることが増えたように感じる。ちょうど皐月賞が終わった頃からだ。何かあったのだろうか。
「ん?んー……わかんない。思ったより皐月賞に向けてあたしも力を入れてたのかも。燃え尽き症候群かな?」
「おいおい、まだ1冠だぞ?ここからだというのに……」
「いやぁ、さっきも言ったけど負けるとしたらここだなって思ってたからね。ホッとしてるのさ」
「そうか……」
結局曖昧な答えのまま会話は途切れた。本人もそれを自覚している様子がなかったので、もしかしたら私の思い過ごしなのかもしれない。
「じゃああたしは先に寮に戻ってるから、なんかあったら連絡して。あんまり走りすぎないようにね。あとストレッチは忘れずに」
「もちろん、欠かさずにやっているさ。行ってくるよ」
「頑張ってね~」
結局その日はトレーニング前に別れ、寮に戻るまでキリノに会うことはなかった。
次の日、東条トレーナーとのミーティングのためにトレーナー室を訪れると、キリノと東条トレーナーが何かを話していた。扉を開けずにドアにそっと聞き耳を立ててみると、二人の会話が聞こえてくる。
「この話はもう少し後回しにしたいわね……」
「臆病だなぁ……ま、ちょっと忙しすぎるかもね。せめて日本ダービーが終わってからかな」
「それに未だに納得してないわよ。マルゼンスキーだってメイクデビューが終わったばかりなのに、ちょっと判断が早すぎるんじゃないかしら」
「そりゃもう、人手不足だからね。こうしている間にも希少な才能が担当トレーナーを見つけられずに消えていってるかもしれないよ?」
「それはそうだけど……」
「学園側も焦ってるんだろうね。だから結果を出しているトレーナーには是非ともチームを持ってもらって、多くのウマ娘を見てもらいたいのさ」
「わかってるわよ。ただその、仕事が追いつかなくて」
東条トレーナーが声のトーンを落とす。
「それにマルゼンスキーのレースのこともね……」
「何かあったの?」
「2つほどね」
「……1つは予想がつくけど、もう1つは?」
「登録が難航してるレースが幾つかあるのよ」
「どうして?」
「……国籍がね」
「えっ、もしかして生まれが日本じゃないの?」
「そう、アメリカなのよ。だからその、出走できないレースがあって、もしかしたらクラシックも……」
「そっかぁ……」
キリノも落ち込んだように声のトーンを落とした。
「一応そういう声が上がってはいるんだけど、年内は有馬記念以外は多分難しい……もしかしたらマルゼンスキーが現役のうちは無理かもしれない」
「呆れるよねぇ、お国柄ってやつだ。実力主義みたいな顔しといてそういうとこはキモいんだから」
「仕方ないでしょ、別に全部が全部悪いことじゃないわ。ただ、運がなかっただけ」
「マルゼンスキーはこのこと知ってるの?」
「ええ。本人も悔しそうだったけど……」
「勿体ないねぇ。ミスターシービーからすればラッキーかな?」
「……マルゼンスキーが彼女に並ぶ器だと思う?」
「並ぶなんてそんなもんじゃないよ。ミスターシービーがなりふり構わず全速力で走って、それで対等だ」
「随分と高く買ってくれてるのね」
うん、とキリノが相槌を打つ。
「ミスターシービーはかなり早い段階で結果を出したけど、別に早いから強いわけじゃないよ。大器晩成って言葉があるでしょ?」
「それは知ってるけど、ミスターシービーの出した結果はそんなに軽く語れるものじゃないでしょ」
「もちろんだよ。彼女は強いウマ娘だし、間違いなく今最強格の1人だ。他のウマ娘じゃ手も足も出ないし、実際にあの追い込みと末脚に勝てるウマ娘は多くない」
1拍置いて、キリノが再び口を開く。
「でも、彼女は怪物じゃない」
「本気で言ってる?」
「うん、本気だよ。彼女はああ見えて、かなり上手いこと走ってるんだ。天賦の才にも見えるあのレースセンスも、実際には相当計算された上でやってるんじゃないかな?まさに秀才だね」
「つまり、天賦の才で上回る者がいるって言いたいの?」
「そうだよ。だってハナちゃんは今のところ怪物の担当しかしてないからね」
「……二人が、そうなの?」
ごくり、と生唾を飲む音が聞こえる。私だ、私のものだ。
「ルドルフはとっても努力家に見えるでしょ?あれでいて彼女はかなり感覚派でね、その努力すらも自分の感覚で正解を導いてしまえるんだ」
私がミスターシービーを超える逸材だと、お前はそう言うのか。
「あたしが直接トレーニングに口出ししたことなんて1度もないよ。ただ何を鍛えるかを伝えるだけ。どうすれば何を鍛えられるか、それはルドルフ自身がよくわかってるんじゃないかな。ていうかあたしにはよくわかんないし、優秀なトレーナーなら違うのかもしんないけど」
そういった点ではハナちゃんの方が上だね、と小馬鹿にしたような口をきくキリノだったが、東条トレーナーは無言だった。
「マルゼンスキーも……ううん、あれはもっと感覚派だね。と言うよりも作戦なんて考える必要が無い。思い切り走るだけでそこら辺のウマ娘は影すら踏めないし、全速力のマルゼンスキーを捉えるのはルドルフでも多分無理だ」
適正距離がそもそも違うけど、とキリノは付け足す。
「あたしがマイルまでしか走らすなって言ったのは、別にマイルまでしか走れないからじゃないよ。あ、ルドルフと戦わせたくないからでもないからね?……そうじゃなくて、マルゼンスキーはちょっと脆いんだ。当たり前だよね、普通に考えてあのスピードで走るウマ娘がどれだけ頑丈だったとしてもリスクが小さくて済むはずがない」
「……それは」
「これは体作り云々でどうにかなる話じゃないよ。もちろん、怠っていいって言ってる訳でもない。ただ、長い距離を走らせるのは彼女の体の負担が大きすぎるからね。だから走らせるとしてもマイルまで。それに、その日のコンデションによっては抑えて走らせることも視野に入れないといけない」
キリノの言葉を最後に暫く会話が途切れていたが、やがて東条トレーナーが口を開いた。
「つくづく、ちゃんと走らせてはくれないのね」
「こればっかりは仕方ない。むしろそういう点で、ルドルフは本当に怪物だったのさ。フィジカル面での不安が極端に少なく、最高速も速いし頭も切れる。全速力で走れば強いウマ娘は沢山いるかもしれないけど、全速力で走っていいウマ娘はそんなに多くない」
「そうね、その通りだわ」
「マルゼンスキーには悪いけど、自分の体のことを考えるのなら全力を出さないのが一番いい。……出来れば、あたしも見たかったけどね」
「手は尽くしてみるわ。担当トレーナーだからね」
「うんうん、そこはあたしじゃなくてハナちゃんがやるべき事だよね」
「当然よ。見習いに任せることなんてないんだから」
「本当に~?」
「ぐっ……!まあ、マルゼンスキーのことを色々気にかけてくれたのはありがとう。私じゃわからないことだってあったかもしれないわ」
「素直じゃん。まあそんなわけないけどね、あたしがやることなんて君にもできることしかないんだから。そうでしょ?東条トレーナー」
「……はぁ、素直じゃないわね」
なんだか、すごい話を聞いてしまった気がする。
「なんだか、すごい話を聞いてしまった気がするわね」
「っ!?マルゼンスキー!?」
「やっほ、ルドルフちゃん」
突然目の前に現れたマルゼンスキーに思わず声を上げてしまった。ということは、当然中にいる2人にも聞こえてしまったわけで。
「盗み聞きは良くないねえ、ルドルフ?」
「うっ……すまない」
「メンゴ~」
中から出てきたキリノに見つかってしまった。呆れた表情のキリノの後ろで、ソワソワと落ち着かない様子なのは東条トレーナーだ。
「……じゃあまあ、このままミーティングだね?」
「……ええ」
そんな気まずい雰囲気のままミーティングが始まる。
そこからは特に変わったことはなく、今後のスケジュールや先程聞こえたマルゼンスキーのレースの予定等、トレーニング面ではないところでの話ばかりだった。しかし私は気になっていることがあり、ミーティングもあらかた終わったところで話を持ち出していた。
「ひとつ聞きたいんだが、さっきマルゼンスキーが出られるレースが少ないという話をしていただろう?」
「あーね、あんまりいい話じゃないけど」
「2つ理由があると言っていたが、もうひとつの方は何なんだ?」
ああ、とキリノは相槌を打った。私は、キリノが少し目を細めたように見えた。
「メイクデビューの映像見たでしょ?あんな反則級のスピードを持ったウマ娘と同じレースに出たいと思う?」
「……戦ってみたいとは思うが、なぜ?」
「まあルドルフにはわかんないよねー。結論から言うと、マルゼンスキーが出るレースを敬遠するウマ娘が多いのさ」
なるほど、つまりレースが不成立になる可能性が高いということか。
「この前なんて、マルゼンスキーが出走表明したレースに出走予定だったウマ娘の半数以上が辞退しちゃって、結局なくなっちゃったしね。そういう意味でも出れるレースが少なくなってるんだ」
「…………」
「ま、賢い選択だとは思うけどね。わざわざ勝てない勝負をするくらいなら勝てるレースに出た方がいい。走るウマ娘としても、その子のトレーナーとしてもね。野球で敬遠球投げられるのと変わらないさ」
正直に言うと、私は肯定したくなかった。むしろこんな才能と出会えて喜ぶべきことじゃないか。マルゼンスキーと戦えて幸運だと思わないのか。心の中ではそう思っていた。だが、現実はそうではないことも知っている。勝つことこそを正義だとするのが、勝負の世界だからだ。
「あたしもトレーニング以外で走ってるとこ見たいんだけどなー」
「それでも、一個も出れないわけじゃないんでしょ?なら私は、出れるレースに全力を尽くすわよ!」
「全力を尽くすと脚を痛めるって話してたでしょ?忘れたの?」
「ああー……そっかぁ」
「その日の調子次第だね」
マルゼンスキーはガッカリしている様子だったが、それでも彼女の瞳は曇らなかった。私だったら、この世界を憎んでしまうかもしれない。そう思えるほど彼女の境遇は悲惨なものに思えた。
「暗い話ばっかしてもしょうがない!ルドルフは日本ダービーもあるしね。各自できることを精一杯やろうってことで、良くない?」
「ええ、私からも同じことを言うわ。ルドルフは目の前の日本ダービーに集中すること。マルゼンスキーの件に関しては、私も色々と掛け合ってみるから」
「ハナちゃん……!」
「うん、任せなさい!」
その日のミーティングはそこで解散となった。
寮に戻ってからも私はずっと考えている。マルゼンスキーのようなウマ娘を1人でも多く救いたい。環境に恵まれずに夢を追うことすら叶わないウマ娘を1人でも減らしたい。私の願いはいつだってそこにあった。
「なぁ、キリノ……」
「なに?」
「お前は、マルゼンスキーを見てどう思う?」
「どうって……残念だとは思うよ。恵まれるって、才能だけの話じゃないからね」
「私は……私は悔しいよ。こんなことがあっていいはずがない」
悔しかった。怒りすら覚えた。彼女に言葉のひとつも掛けてやれなかった自分自身が不甲斐なくて仕方なかった。
「私はいつか全てのウマ娘が幸福に暮らせる世界を作りたい。彼女のようなウマ娘が救われるような世界を作りたい。キリノ、私に出来ると思うか?」
今は無力だ。私ではマルゼンスキーを救えない。以前の私ならそれでもいつか、いつか私が世界を変えてみせる、そう思えただろう。だがこの現状を前に、私は少し夢を見失いそうになっている。私では力不足なのではと、そう思ってしまう。
「あたしに聞くの?」
「ああ、親友であるお前に聞くんだ。どんな言葉だって受け止めるさ」
「ふーん…」
キリノはしばらく黙っていた。顔を向けると、ボーっとしているようにも、何かを考え込んでいるようにも見えた。どこか遠くを見つめているような気がした。
「あたしの目じゃわからないからなぁ」
「別にお前の目の話じゃないさ。ただ1人の友人として、お前の言葉が聞きたい」
「ふふ、変なの。そんなの今決めなくてもいいじゃん」
「……そうだろうか」
「出来るかどうかなんて、死んでからわかることだよ。死ぬまではいくらでも未来があるでしょ?精一杯やって、それでも志半ばで息絶えるなら、その時初めて『出来なかった』って言えばいいんじゃないかな?」
キリノの言葉は薄暗くて、それでも仄かに光を感じる。ネガティブでリアリストだが、決して後ろを向かない。そんな彼女の考え方が私は好きだった。
「……それもそうだな、ありがとう」
「いえいえ」
目を閉じれば、深く意識が沈みこんでいく。心にかかった霧は、少しずつ薄れていっているような気がした。