「で、今回はどの枠でも大差ないと思うから、作戦は変えずに最後の400mくらいから勝負を……」
タブレットのペイント機能を駆使してコースに線を書くキリノ。ホワイトボードが無くてもこんなことを出来るわけだから、いい時代になったと東条トレーナーが言っていたのを思い出した。
しかしこう、違和感というか。昨日と打って変わって真剣な表情でレースの作戦会議をしている姿はなかなか調子を狂わせてくる。
「どうしたの?」
キリノがこちらを振り返る。左耳につけた桃色の耳飾りがその動きに合わせて揺れた。
買ってきた次の日には机にしまい込んでなかなか付けようとしなかったキリノが、どういう心境の変化でこの耳飾りを付け始めたのはわからない。しかしこのキリノの変わりようを見るに、関係あることなのだろう。
「いや、すまない。なんでもない」
「あたしの顔じゃなくて画面見てよー。もう1回言うね?」
そうしてまた説明に戻るキリノ。私が慣れるまでにしばらく時間もかかるだろう。
結局昨日の夜はキリノに声もかけられず、彼女はただ一言「ごめんね、明日から頑張るから」と言うと布団に潜って寝息を立て始めた。なんとなく無力感を感じながらも無理やり目を瞑ると、朝にはこうなっていた。きっと喜ばしいことなのだろうが、漠然とした不安を拭い切れない。
「まあ心配はないと思うけどね。ルドルフのレースセンスは信用してるし、最終的には臨機応変に戦ってとしか言えない」
「ああ、そこは任せてくれ」
「うんうん。トレーニングはそんな無理はさせないから、適度に休憩を取って。最低でも3日か4日のうち1日は休みの日を作ること。もちろんコンディションと相談ではあるけどね。あたしも一応ついて行くけど、見てないところで自主練するのは今日から禁止ね」
「心配しなくても、そんな事はしないさ」
「昨日の今日で急に態度を変えるなって話だよ」
「そんなこと言うわけないだろう。驚きはしても、そこに対して文句はないよ」
「ならよかった」
いいや、悪い方向に考えるのは私の悪い癖だ。キリノは昨日の叱咤を受けて変わろうとしている。私に出来ることはその変化を受け入れる事だけだ。
むしろキリノは私のためにやってくれてるんだ、何を不安に思うことがあるというんだ? これは急な変化に心が追いついていないだけだ、そうに違いない。それよりも日本ダービーに集中するべきだ。
「じゃあ今日はコーナーの加速の練習中心で行こっか」
キリノは立ち上がるとトレーナー室を出た。誰も使っていないため何も置かれていないが、気軽に使える教室のひとつだった。
ちらりと机を見ると、書き込まれた資料や一晩では出来ないであろう書物の山が目に映った。以前からキリノはここを使用していたのだろう。ならば、あの時東条トレーナーに反論しても良かったのではないだろうか、『やることはやっている』と言えば信じてくれたのではないだろうか。
……いや、私が判断することではないな。
「じゃあ今日はここまでにしようか」
キリノの言葉を合図にトレーニングを終了する。トレーニングが始まってしまえば思考はクリアになり、自然と最適化されていった。芝の上に立てばそれ以外のことにうつつを抜かすようには育っていない。
やはり彼女が私のトレーニングに口出しすることはなく、自ら調整していく私を眺めては何かをタブレットに打ち込んでいた。しかしながらいつもの事でもあるので、特に何か感じるところではなかった。
「ねぇねぇ、この後駅前の喫茶店行かない?」
「か、構わないが……珍しいな、キリノから誘ってくるなんて」
「トレーナーとウマ娘の交流は大切だからね、新作のスイーツも大切だし」
「おい、私を新作スイーツと同じ秤に載せるな」
「大丈夫だよ、ルドルフの方がちょっと傾いてるから」
「ちょっとなんだな……」
ケラケラと笑うキリノにため息を吐きつつも、どこか安堵している自分がいた。うん、いつも通りだ。
「体重も大丈夫そうだし」
「……え? 見えてるのか?」
「正確な数字は無理だけどね」
大体はわかるってことだ。別に隠さなければならないほどではないが、恥ずかしさは感じてしまう。
「じゃあ賛成ってことで。いやー食べたかったんだけど一人で食べるのもなんかなーって思ってたんだよね」
「おい、本当に私の方がスイーツより比重が大きいんだろうな?」
「もちろん、あたしにとってルドルフより優先するものなんてないよ」
「そんなに優先された覚えがないんだが……」
私の文句は上機嫌なキリノに流され、早々と帰り支度を初めたキリノに急かされるように私はターフを後にした。
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「むむむ……」
キリノが唸り声を漏らした。ここは駅前の喫茶店…………ではなく、その少し裏にある別の店の前だ。キリノと対峙するのは店の前に置かれた手書きのメニュー表、そこに掛けられた木の板には大きく書かれた新作のスイーツの宣伝。きっと今のキリノにはその文字が光り輝いて見えているのだろう。
「くぅ……っ!」
かつてこれ程までに葛藤しているキリノを見たことはない。何が彼女をここまで追い詰めているのか。
「なぁ、両方食べればいいじゃないか」
「そんなことしたらあたしの体重さんが大変なことになるでしょ」
思ったよりも普通の理由だった。なんだ体重さんって。
「あたしはルドルフと違って太ったらなかなか戻らないんだよ……」
「私もそんな簡単に戻るわけじゃないぞ?」
「嘘だ!!!」
「怖いって」
凄まじい顔で詰め寄るキリノを宥めつつ、ちらりとメニューの方を見た。そこにはパンケーキの上にこれでもかと言うくらいトッピングが載っており、生クリームにプリンにフルーツとなんでもありだ。もはやトッピングというかデコレーションじゃないのかコレ。
「こんなの2つも食べたらどうなるかなんて、考えなくてもわかるでしょ」
「ちょっと待て、もしかして向こうのもこんな感じなのか?」
「そうだよ、パンケーキの上にこんな感じでトッピングがてんこ盛りになってるのさ」
なるほど、つまりこれは勝負なわけだ。同じようなものを作って客の取り合いとはなかなか不毛だが。
「そんな事ないよ。こっちはフルーツ多めで、あっちはチョコをふんだんに使ってるんだ」
「そこはちゃんと差別化してあるんだな」
どのみちこんなとんでもない量のスイーツを普通の人間が食べ切れるとは思わないが、世界は広いのでウマ娘以外にも食べに来る客は多いのだろう。実際に店の前には長蛇の列が出来ており、店の中も大賑わいだ。窓から見えるパンケーキの山は私を戦慄させるのに十分だった。
「うう……どっちも捨て難い……」
「また今度来ればいいじゃないか」
「そうじゃないの! 今日! 食べたい気持ちが! あたしを責め立てる!」
やっぱりストレスのあまり壊れてしまったのか、それともたった今壊されたのか。真相は知る由もないが、少なくとも冷静ではないことは確かだ。
なんとも可愛い悩みだ。幼さが見られる部分もあるものの、基本的には大人びた……東条トレーナー曰く、背伸びしているような性格のキリノが年相応にどこぞのスイーツで迷っている姿は、私にとっては新鮮だった。
しかしながらそういう話を聞かないわけでもなく、先輩として慕われているようなウマ娘も年上のトレーナー相手だと甘えたがりな一面が見られると言った噂が流れてくることもある。であればキリノもまた、『そのような一面』を抱えた人物なのだろう。
「じゃあこうしよう。私とお前でジャンケンをして、私が勝ったらこの店、お前が勝ったら元々行く予定だった店に並ぶ。これなら手っ取り早いだろう?」
「そ、それは名案……! だけど! あたしは勝てばいいの!? 負ければいいの!? どっち!?」
「そうならないようにジャンケンするんだろ……」
最後の最後まで決めきれないキリノであった。
「んん~~~っ! 新鮮なフルーツの甘みとパンケーキのフワフワが優しい生クリームによって引き立てられる……パーフェクト……!」
グルメリポーターのようなことを言い出したキリノを無視して、1口サイズに切ったパンケーキをフルーツと共に口に放り込む。
これは……美味しい。人が並ぶだけのことはある。大袈裟な感想は出てこないが、くどい甘さはなく上品だ。喫茶店と侮るなかれ、というわけか。
しかしこれを全て食べるとなると凄まじいカロリー摂取量になるのでは? まさかキリノが私の管理を間違えるわけがないという信頼はあるが、それでも流石にこの山を前にすると不安が拭いきれない。
……いや、カロリーは燃焼させれば元に戻るのだから気にする必要は無い。それよりも今は、この目の前の笑顔を見れたことに感謝をして、残りを頂くとしよう。
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「……貴方の言った通りになったわね」
「でしょ?」
日本ダービー。数多のウマ娘が夢を懸けて、そして数多のウマ娘の夢を終わらせてきたこのレース。
私は内心不安だったのだ。こいつは日本ダービーをナメている。気の抜けた放任主義を見た時も真剣に怒ったし、ルドルフと死闘を繰り広げたウマ娘を軽んじるような態度も正直腹が立った。
お前が走るわけじゃない。そんな地雷を踏み抜きそうになった事もあった。彼女に言ってはいけない一言だとわかっていながら、彼女自身がターフを軽視するような発言が増えて来た時は嫌味の1つ2つが口から溢れそうになった。
そしてそれが自身の葛藤に苦しんだ末に出てきた発言だとわかると、もはや痛ましくさえ思えた。
だが結果を見てみれば日本ダービーはルドルフの一着。距離適性がないと一蹴された彼女は着外どころじゃない。キリノの目は正しかったのだ。
「でも正直なところヒヤッとはしたよ。スパート掛けるの遅くて思わず席を立っちゃったしね」
「あれはそういう事だったのか」
レースの終盤、ガタリと横から音がしたので目を向けるとキリノが席を立って前のめりで手すりに掴まっていた。食い入るようにレースを見る彼女の瞳には不安の色が宿っていた。
「まあレースに関してはルドルフの方が遥かに上だからね。勝負どころがわかっていなかったのはあたしの方ってワケ」
やれやれ、と自嘲するように首を横に振るキリノ。確かにルドルフのレースプラニングは完璧だった。しっかりと余裕を持ってゴールした彼女は、私たちにピースサインを向けてみせた。二冠目、という事だろう。
「でもよかったわ、やる気を出してくれて。言い過ぎたって後悔するところだった」
「あはは。まああたしも覚悟決まったっていうか、それはみんなのおかげだからさ。ハナちゃんもありがとね」
私は驚愕のあまり言葉を失った。目の前のこいつは誰だ? 素直に感謝の言葉を述べるような奴じゃなかったはずだ。
「……病院、行く?」
「失礼が過ぎるでしょ。もう二度と感謝なんてしてやるもんか」
「ごめんごめんごめんごめん!」
「ふーーんだ、もう謝っても遅いんだから!」
耳を立ててご機嫌斜めなキリノは、いつも通りのキリノだった。子供の成長は目覚しいと言うが、そりゃ大人もびっくりするわけだ。こんな短期間で色々な変化をしていく子供たちに、私たちはきっと追いつけないのだ。
……いや、私が子供の時もきっとそうだったのだろう。ただ覚えていないだけ、自覚がないだけで私も経験してきたことなのだろう。いざそれを目の当たりにすると怯んでしまうが、それを見届けて邪魔しないのが私たち大人の責務だ。かつての自分たちが、大人達にそうやって見守られてきたように。
「……なに、慈愛の目で見ないでよ」
「そんな目してないわよ」
「してた! 絶対してた! 『あーあーガキが拗ねてら』くらいに思ってんでしょどうせ!」
「思ってないって! めんどくさいなこいつ!」
やっぱりいつものキリノだった。
キリノちゃん復活!曇らせなんてなかったんや!