雨の日は憂鬱になる。きっと多くの共感を得られる意見だろうが、ことウマ娘の価値観においては天候というものは人間が思うそれよりもずっと多くの意味を持つ。きっとウマ娘という種族そのものに植え付けられた本能のようなものなのだろう。
それはレースに出ないこのウマ娘も同じだった。最近恐ろしい湿気とあまりの気温の高さに髪をバッサリとカットした鹿毛のウマ娘、もちろん雨と晴れなら断然晴れの方が好きだ。
「あ~~~ぢ~~~~~……」
が、それにも限度というものがある。夏に迫らんとする日本列島では太陽が容赦なく地上の民を焼き、そしてこのウマ娘、キリノアメジストのやる気を奪い尽くしてしまった。
「水いる? 飲みかけだけど」
「ぁりがと……」
隣の席に座るウマ娘から水の入ったペットボトルを貰い、その中身を口に流し込む。すっかり温くなった水、もといお湯では彼女の体温を下げることは敵わなかった。
「フジは平気なの?」
「私? まあ流石に暑すぎるとは思うけど」
フジ、フジキセキ。その笑みは見るもの全てを魅了し惹きつけるといわれている(キリノ談)ウマ娘だが、爽やかな笑顔の彼女も頬に伝う汗をタオルで拭きながら話している。夏は平等に訪れるのだ。
「はぁっ……」
呼吸が浅くなる。教室全体の酸素濃度が著しく低下しているのは、この暑さのせいだろう。1度に吸い込める酸素の量は朝と比べて明らかに少なくなっていた。
「今日の練習は中止だ~~~……」
「そんな私情を持ち込んでいいのかい?」
「良くない……」
「はははっ。じゃあ頑張らないとね」
「撫でるなぁ~~~~」
暑さで溶けきってしまったキリノアメジストの抵抗などあってないようなもの。フジキセキはお構い無しにキリノアメジストの頭を撫で続けた。
「フジも練習、するの?」
「もちろん。まだトレーナーは見つかってないけど、練習しなくていい理由にはならないよ?」
「えらいねぇ~~~~……あれ」
「君じゃ私の頭には手が届かないんじゃないかな?」
「うう~~~~」
プルプルと身体を震わせながら手を伸ばすも、キリノアメジストの手はフジキセキには届かない。机に突っ伏している彼女の手が届くはずもないわけだが。
「ルドルフも溶けちゃったんじゃないかな? やっぱり今日の練習は中止」
「あのルドルフがそんな事で練習を休むとは思えないけど……」
「同意」
キリノアメジストは諦めて、暑さで爛れた脳をフル回転させて練習内容を考え始めた。
「えっ!? ルドルフが暑さで溶けた!?」
「実家に用事があるそうだ」
放課後、トレーナールームへと足を運んだキリノアメジストは衝撃の事実を知る。東条トレーナーの言葉が届いていないのか、キリノアメジストは口元を手で隠し震えている。
「じゃあ今日の練習は……」
「無しね。マルゼンスキーの方も手伝いはいらないわ」
「ぃやったぁー!!!!」
トレーナールームを飛び跳ねて回るキリノアメジストを押さえつけながら、東条トレーナーは「ああ」と呟き、
「合宿の練習メニュー、明日までに提出してね」
「うぐぅ……っ!」
キリノアメジストに釘を刺すのであった。
数分後、廊下をフラフラとおぼつかない足取りで進むキリノアメジストの姿があった。
「どうしてトレーナールームにはクーラーがあるのに……」
涼しい部屋からの退出を嫌がるキリノアメジストと、鍵をかけて出たいためキリノを部屋から追い出したい東条トレーナー。2人の激しい攻防の末トレーナールームから追放されたキリノアメジストは、合宿メニューの作成のため資料室を目指していた。
「そうだ、ルドルフの稼いだ賞金で学園にクーラーを完備しよう。幅1m感覚で全ての廊下に設置して、ありとあらゆる教室に3個ずつ……ふふふ」
などとおかしな事を宣いながら濁った目で蠢く姿は、さながらバイオハ○ードのゾンビだった。ドイツのウマ娘が見たら卒倒していただろう。
そして目的の資料室に着いたところで、キリノアメジストに声をかける人物がいた。
「あら、キリノさん。どうかされましたか?」
「んぁ? たづなさん……」
駿川たづな、トレセン学園の理事長秘書というポジションについていながらトレーナー達のサポートに日々奔走する(本人談)謎多き女性である。
「資料室に行きたくて……」
「あ、奇遇ですね。私も用が……って、大丈夫ですか?」
「わ、わわわわ」
その場でフラフラと回り始めるキリノアメジストに慌てて駆け寄るたづなさん。
「熱中症みたいですね……一旦中に入りましょう! 資料室はクーラーもありますし」
目を回しながら倒れ込むキリノアメジスト。たづなさんがいなかったら今頃資料室の前に墓石を作っていたところだっただろう。
「ううん……」
「ああ、目を覚ましましたか」
ホッと息を吐き胸を撫で下ろすたづなさん。現状を理解しきれないのか、キリノアメジストは目をぱちくりとさせた。
状況はたづなさんが上、キリノアメジストが下。俗に言う膝枕の状態で頭をたづなさんの膝に載せたキリノアメジストが困惑しているといったところか。
「たづなさっ……!? うぐぅ……」
「ちょっと! 危ないですよ、急に起き上がったら倒れちゃいますから」
ようやく置かれた状況を理解したキリノアメジストが再びダウンする形で事態は終息した。
「すいません、ご迷惑をおかけして……」
「いえいえ、ご無事で何よりです」
ぐったりと膝の上に横たわるキリノアメジストの頭を撫でながら、たづなさんは微笑んだ。キリノアメジストは今日よく頭撫でられるなぁとか思ってた。
「どうしてそんなに無理をしたんです?」
「いやぁあんまり覚えてなくて……。確か夏合宿用のメニューを考えないとって思って、それで資料室を目指していた気が?」
「なるほど、メニューを……。本当にトレーナーみたいですね」
「見習いですけどねー」
なでなで。
「東条さんも褒めてましたよ? 羨ましいくらいって」
「それはあたしの目が、ってことですよね」
「さあ、それはどうでしょう?」
「そうに決まってます。あたしにとっては呪いみたいなもんですけどね」
なでなでなでなで。
「呪いですか」
「あたし、走りたかったんです。走るの好きだったんです。でも皆がこんなに速いなんて、あたしがこんなに才能がないなんて知りたくなかった」
「……」
「でも、もういいんです。あたしにはあたしの出来ることがある、それだけでいい。やりたいことと出来ることは、必ずしも一致しないってことです」
なで。
「……そんなに早く大人にならなくてもいいのに」
「たづなさん?」
「……私からは何も言えません。貴方を傷つけたくはありませんから。でも、そうですね……これからの未来は貴方が決めるものです。それに、何ができるか、何が出来るようになるかなんて今はまだわからないじゃないですか。これは慰めじゃなくて本当のことです」
なでなでなで。
「……はい」
「ごめんなさい、お説教のつもりじゃないんです。ただ、そんなに悲しいことを言われたら、どうにかしてあげたいって勝手に思っちゃって。お節介ですよね」
「そんな事ないです! ……それに、最近変わったんです。今まではこんなこと人に言えなかったけど、今はこうして打ち明けられる。自分の中である程度踏ん切りがついたんです。納得して前に進めるようになった……後悔がないと言えば嘘になりますけど、ようやく1歩踏み出せた気がします」
「……そうですか」
「だから、あたしはもう大丈夫です!」
キリノアメジストの心からの笑みに、たづなさんは少し寂しそうに笑った。
「でも私も気になりますね、貴方の目のこと。一体どんなふうに見えるんです?」
「うーんと、なんて言えばいいのかな。色んな項目があって、スピード、スタミナ、パワー、メンタル、技術みたいな感じで。で、それぞれn/xみたいに分数になってて、nが現在の値、xが限界値って感じです。他にもそのウマ娘の調子だったり、後は得意としてる戦術とか、脚質とか適性距離とか。場合によっては怪我なんかも見えたりします」
「俄には信じ難いですね。それで、限界値を見て才能がある、ないと評価をしているわけですか」
「まあそうなります。ルドルフなんかは1200くらいまで伸び代があって初めて見た時は固まっちゃいましたね」
「では、見た中で1番大きかったのは誰ですか?」
「それはもうたづなさんで……あっ」
ぴたり。キリノアメジストの頭を撫でていたたづなさんの手が止まる。表情も笑顔で固定されている。
まるで時が止まったかのように音は世界から消え、色褪せていくように感じられた。
「あっ……いや、えと、違くて。あ、あは、あはは、冗談ですよ冗談! あははは、た、たづなさん?」
「………………」
キリノアメジストは気づいていた。彼女が何故かウマ娘同様ステータスが見えていることに。そして同時にウマ娘であることを隠しているようにも感じた。尻尾も耳も見せないのだ、たづなさんが超人的な人間で偶然ステータスが見えてしまっているのでは無いとしたら、後はもう答えはひとつしかない。
「そ、そうだ! メニュー! メニュー作らないと! あっあれ? おかしいな起き上がれない」
キリノアメジストを撫でていた右手はいつの間にか彼女を膝の上に固定しており、到底抗えない程の力でキリノアメジストを押さえつけていた。
「た、たづなさん? なんで黙ってるんですか? なんで笑ってるんですか? あ、あたしそんなつもりじゃ…………や、やだ。やだ! 誰か! 誰かぁ!」
もう半泣きというかほぼ全泣きのキリノアメジスト。助けを呼ぶが応える者はいない。
「い、言わない! あたし黙ってます! 絶対にバラしたりしません! だから、命、命だけは……」
「ぷっ、ふふ、んふふ。ごめんなさい、ちょっと意地悪が過ぎちゃいましたね」
「ふぇ……?」
止まった時が動き出したかのように、世界に色が戻る。
「そんな怖がられるなんて思いませんでした。ちょっとショックです」
「だって! だってぇ……」
「心配しなくてもそんなことしませんよ」
「うう~~~~……」
安心したのか、キリノアメジストは目から大粒の涙を流してたづなさんに抱きついた。彼女の生の中で最も怖い瞬間だったと、キリノアメジストは後に語っている。
「ぐすっ。それで、たづなさんはウマ娘なんですか?」
「それはどうでしょう? 私は駿川たづな、それ以外の何者でもありません。ただ……そうですね、走るのは好きだったし、得意でしたよ?」
再びたづなさんの右手はキリノアメジストの頭を撫で始めた。
「ですが私は怪我で走れなくなってしまいました。もちろん、競技としての話ですけど」
「そう、なんですか」
「ええ。だからこそ、この学園に通うウマ娘達には1番に健康でいることを考えて欲しいんです。勝つことも、勝つためのトレーニングももちろん大事です。それでも健康に怪我なく過ごして欲しい……1番大事なのはその体なのですから」
たづなさんの視線はどこか遠くを見つめている。
「怪我で引退してきた子も沢山見てきました。怪我と隣り合わせのこの競技に携わっているのですから当たり前ですけれど。でも、わかってはいても、そんな事が起きる度に胸が苦しくなる。やるせない気持ちになる」
「……」
「すいません、私の方がカウンセリングを受けてるみたいですね」
「い、いえ! ……でも、やりたいことが出来なくなる苦しみはわかる……つもりです。だから」
「だから安心してください! あたしの目が黒いうちは……まあ、ルドルフしか面倒みれないですけど! 怪我なんてさせませんから」
キリノアメジストの言葉にしばしキョトンとしていたたづなさんだったが、やがて優しい笑みで返すのだった。
「はい、約束ですよ」
その後、キリノアメジストのメニュー作成を手伝ったたづなさんは資料室を後にした。その日を境に、たづなさんに甘えるキリノアメジストの姿がたまに目撃されるようになったとか。
今は今で、誓いは笑みで。
マルゼンスキーとたづなさんが仲良いのも、そういうウマ娘だからなのかなとか妄想したり。