照りつける太陽、ふわりと香る潮風、サラサラの砂浜。これらの要素から連想される場所はただ1つ、海だ。
「海だーーーっ!!!」
そう、海だ。私とマルゼンスキー、そしてキリノアメジストは東条トレーナーの引率のもと、海にやってきた。
もちろん遊びに来たわけではない、ここにやって来た目的はトレーニングに他ならない。有馬記念を控えた私達、そしてマルゼンスキーの特訓のためにここに来たのだ。
「海よーーーっ!!!」
キリノに続いてマルゼンスキーも叫びながら浜辺の方へと走っていく。遊びに来たんじゃないんだぞ、と声をかけるトレーナーも優しい笑顔を浮かべている。
聞いた話によると海まで来るのを提案したのはキリノらしい。東条トレーナーとしては合宿こそ計画していたものの海とまでは考えていなかったようだ。
まさかあいつ、遊びに来たかっただけなんじゃないだろうな。
「あたしを捕まえてごらんなさ~い!!」
「うふふ、待て待て~!!」
なんだかとても古い絵を見ている気分になる。というかお前が追われる側なのか、キリノ。2人とも何をやっているんだか。
「あら、交ざってきてもいいわよ」
「遠慮しておきます。……というか交ざりたいわけではありません!」
東条トレーナーまで私を揶揄う始末。浮かれすぎだぞみんな。
「どうせ宿のチェックインもあるし、トレーニングまでは時間があるからね。それに、トレーニングに使う砂浜をチェックしておくことも大切なんじゃない?」
「……っ! はぁ……ありがとうございます」
「素直じゃないんだから」
最後のセリフは聞かなかったことにする。今日の私はいつものキリノみたいな扱いを受けている気がする。
「見て見て! カニさんいる!」
「ちっちゃいわね……合宿終わり頃には食べれるくらい大きくなってるかしら?」
「うーんどうだろう……」
「そんなわけないだろう」
明らかに食用にするには小さすぎるカニを突っつきながら話すキリノとマルゼンスキー。
「ルドルフちゃん!」
「あ、ねぇ! あれやっていい? 海の水ダバァッてかけるやつ」
「今やったら命の保証はしない」
「うぃっす……」
せめて水着に着替えてからにしてくれ。キリノだって私服を濡らしたくはないだろう。
ちらりとキリノのファッションに目をやる。
薄い生地で出来た水色のフリルブラウスに、麻のショートパンツ。いつものデニム好きはなりを潜め、ライトブラウンの落ち着いたモノを穿いてきているようだ。余程暑かったのだろう、とにかく涼しくなるように意識したチョイスに見える。
さらに上に目を向けると、大きめの麦わら帽子が影を作っていた。素材はストロー、シンプルにベージュ色で黒いリボンを巻いている。夏合宿に向けて買ったものの1つらしい。
「な、なに? あたしの顔に何かついてる?」
ジロジロと視線を向けていれば流石に気づかれたか、キリノは不気味なものを見るような表情で私から距離を取った。
「いいや、よく似合っていると思ってな」
「あ、あぁ……それでそんな顔を」
「? どんな顔を?」
「なんか、いやらしかった」
「なっ!? 変な意図で言ったわけではないぞ!」
「あはは、わかってるよ」
キリノが身をよじると一陣の風が彼女の髪を撫でた。この夏にセミロングからショートへと転向をした(というか余儀なくされた)キリノだったが、先日まではなかったはずの変化が起きていた。
「キリノ、お前……」
「今度は何?」
私はキリノに近づいて頭に手を添えた。ちょっとニヤついている時点で何となく察しはつくが、断りを入れて彼女の髪をそっと撫でると先程見たものが幻覚ではないことがわかる。
「やっと気づいたね」
「それはその、今朝合流したばかりだったから……」
「会ったらすぐ気づいてくれると思ったのにな~」
手を退けると、その名残でよくわかる。彼女の髪の中からピンク色が顔をのぞかせていた。私が彼女たちと行動を始めたのは今朝のことで、そこからはずっと被っていた大きな麦わら帽子が私の視界を遮っていたらしい。おかげで今になってようやく彼女の変化に気づいたというわけだ。
「インナーカラー入れたんだよね。ピンクベージュ」
そう言うとキリノは人差し指で左耳のアクセサリーを弾いた。
「ルドルフがくれたアクセサリーと色重ねてみたんだ。原色寄りだとこれが霞んじゃうから、いい感じに薄いのをね。ちなみにヘアカラーもちょっとアッシュ入ってるんだよ? わかる?」
「そ、そうだったのか。そこまでは気づかなかった」
「ルドルフももっとオシャレした方がいいよ? 折角顔も可愛いんだからさ」
「む……精進する」
「うんうん」
キリノはえらく上機嫌だった。と、マルゼンスキーがキリノに抱きついて辺りをキョロキョロと見回す。
「どうしたんだ?」
「こ、こんなに可愛い子がいたら狙われるに決まってるじゃない! キリノちゃんを狙う悪い男から私達が守ってあげないと!」
「親か。……いや、姉か?」
当のキリノは目をぱちくりと瞬きさせて突っ立っている。
「多分貸切だからあたし達以外いないと思うけど……」
「え、そうなの?」
「うん。そもそもトレーニング用のスペースがこんなに広く取られてる宿なんて、トレセンと提携して営業してるに決まってるじゃん。どの道一般客が寄り付くようなところじゃないよ」
「なら安心ね!」
少し考え込んだキリノが人差し指を立てる。
「もしかしたら他の子と期間が被るかも。貸切ではないね」
「そうなの?」
「まあ2ヶ月弱ここにいるんだから、どこかしらでかち合う可能性は高いよ」
「そっかぁ……うん、2ヶ月?」
マルゼンスキーの笑顔が引き攣った。
「そう話してたでしょ。忘れちゃった?」
「お、覚えてるわよ! もちろん! うん……」
どうやらミーティングはあまり意味がなかったようだ。誤魔化すように笑顔を浮かべているマルゼンスキーを横目に、私とキリノは同時にため息をついた。
程なくして東条トレーナーが宿のチェックインを済ませると、戻ってくる。それに続いて私達も部屋に荷物置いて、トレーニングの準備をする。とはいえ水着でトレーニングをする必要があるのかは甚だ疑問だが。
「泳ぐって……そんなわけないじゃん。学園のプールで事足りるよそんなの」
とはキリノの弁だが、それならば余計に水着に着替える意味がわからない。その方が色々気にしなくていいだろうから、ということらしい。
ちなみに私もマルゼンスキーもトレーニングの内容については本当に何も聞かされていない。着いてからのお楽しみという話だったが、トレーニングなのだからわざわざお楽しみにすることもないだろうに。
「あーあー遊び心がないんだから。どんなものもお楽しみにしといた方がいいじゃん」
「それでハードルを上げて苦しむのもお楽しみにした側じゃないのか?」
「そういうこと言わない!」
そんなことを言っていたなと思いながらキリノに連れられて私とマルゼンスキーは砂浜に戻ってきた。東条トレーナーが既にジャージに着替えて待っている。
「じゃあ始めようか」
「というか何故お前が仕切っているんだ?」
「それはもう、今回の特訓はあたしが考えたものだからね!」
フンス、と鼻を鳴らしてドヤ顔をするキリノ。疑わしげな目を東条トレーナーに向けると、彼女はクスリと笑って口を開いた。
「本当よ。私がマルゼンスキーについて考えていたこと……というよりマルゼンスキーの問題点を相談したのよ。そしたらルドルフも同じ弱点を持ってるから、二人一緒に解消してしまおうって言うことでこんなに長期間の合宿を組んだの」
「も、問題!? 私の!?」
マルゼンスキーは酷く狼狽えていたが、私も内心驚いていた。
自分で言うことでもないが、キリノは私の走りについて妄信的に褒め讃えている節がある。だからこそ私の走りの弱点、なんて言い出すとは思わなかった。
「そんなわけでわざわざ海まで来たのです! まあ、この2ヶ月弱でものにできるかはキミ達次第だから頑張ってね」
「それで、私達には何が足りてないんだ?」
「はいシンボリルドルフくん焦らない。まずは実践から!」
キリノはそう宣言するとホイッスルを取り出した。そして浜辺のポールを指さす。
「あのポールをゲートのスタートラインだと思って欲しい。今からキミ達にはいつもやってるようにスタートダッシュをしてもらいます」
首にかけたホイッスルがキリノの動きに合わせて揺れる。
「あたしが笛を鳴らしたらスタートね。砂浜だからいつもと少し勝手が違うけど、あくまでいつも通り」
私とマルゼンスキーは言われるがままに砂浜に作られたスタートラインに並んだ。
「準備OK? あ、ハナちゃんもう少し下がって……もう少し、もう少し、そこ! いいね。じゃあ始めようか」
ハナちゃ……東条トレーナーが携帯端末を構える。どうやら撮影をするつもりらしい。
「行くよ? よーい……」
ホイッスルの音が浜辺に鳴り響いた。
300mほどの道を小走りで戻る。マルゼンスキー、どんどん力をつけていっているな。純粋な最高速なら私以上だろうか。もし彼女が抱える弱点とやらを克服したなら、一体どうなるのか。
「お、戻ってきたね。早速これを見てよ」
携帯端末で撮影した映像、どうやら随分と離れたところから撮影していたらしい。これではフォームの確認どころか巻き上がって砂煙……もはや砂嵐と言って差し支えないそれで私たちの姿は見えないと思うのだが。
「どう? これ」
「どうと言われても……何も見えないな」
「私達の後ろってこんな風になってるのね~」
うんうんと満足気に頷くキリノ。
「何も見えないよね。なんでだと思う?」
「それは、砂煙が……」
「そう! こんなに砂煙を巻き起こして、すごいパワー……とでも言うと思った? 残念でした」
キリノが映像を止め、端末をロック状態にする。
「いつもは芝だから気にならないかもしれないけど、足場が砂になるとわかりやすいよね。キミ達のスタートは地面を蹴っているんじゃない、蹴り上げてるんだよ」
キリノが人差し指を立てた。
「蹴り上げてるってことは脚が滑ってるってこと。つまり2人はスタートでロスをしているのさ。言ってしまえば、出遅れている」
「そう、だったのか……」
「マルゼンスキーなんかは自分で気づいてたんじゃない? 先行するスタイルを取ってるのに、序盤は集団が追い抜いてるんだからおかしな話だよね」
「うっ……!」
逆に私は差しを意識していたからあまり気にならなかった、気づくことが出来なかったというわけだ。
「このスタートの悪癖を治すべく、この合宿ではスタートダッシュの練習に専念するよ! 名付けて、作戦名『コンセントレーション』! この夏でキミ達は最強の先行ウマ娘になるんだ」
キリノが高らかに宣言する。私たちの夏が始まろうとしていた。
夏合宿スタート!