「君が『一緒に頑張ろう』と手を差し伸べてくれた時、私は嬉しかった。こうして肩を並べ、共に歩もうとしてくれる存在がいるということが、私にとってはかけがえのないものだったんだ」
「………………」
「この2週間、私達はお互いに行き過ぎてすれ違いを起こしてしまっていたみたいだ。私も君も、相手のことをちゃんと理解していなかったのだろうな」
「…………」
「大丈夫、1度躓いただけじゃないか。また1歩新しく踏み出せばいいんだ」
返事はない。
「こんなところで終わらないさ、私達は」
返事はない。
あれからつられてマルゼンスキーまで大泣きしてしまい、収拾がつかないと判断した東条トレーナーは、結局私たちが泣き止むまで待つことにした。マルゼンスキーとキリノの2人は泣き疲れて眠ってしまい、それぞれを運ぶ形で帰りのバスに乗ることになった。
こうして話しかけても一向に起きる気配はない。色々な感情が表に出てきて疲れてしまったのだろう。
「意外と冷静なのね」
ふと横から声が聞こえた。斜め向かいに座る東条トレーナーだ。
「もっとショックを受けてるかと思ったけど」
「もちろんショックは受けているよ。敗けるつもりはなかったし、出し抜かれた時には歯が砕けてしまうかというくらい奥歯を噛み締めた」
「レースのことだけじゃないわ」
「そうだな、どちらかと言うと先程のキリノの言葉の方が聞いていて苦しかったよ」
あまり触れて欲しくはなかったが、そうもいかない。
「こうなってまで出たがった割には敗北はあっさり受け入れるのね。あんなに強く押し通そうとするものだから、てっきりジャパンカップにかける大きな思いみたいなものがあるのかと思ったわ」
「どのレースにも全力をかけて挑んでいるさ。ジャパンカップが特別だったわけじゃない」
なら何故、と言いたげに視線で私の言葉を促す。
「……強いて挙げるなら…………そうだな、ミスターシービーが出走するから、だろうか」
「貴方、そんなにシービーと戦いたかったの?」
東条トレーナーは驚いたように目を見開いた。
「ああ、おかしいだろうか?」
「否定はしないけれど……それだけのために? あれほどキリノと大喧嘩までして?」
少し考える。確かに、あれほどの言い合いの後にすれ違いもなくジャパンカップまで、とそんな上手いこと行くわけがない。結果的に私達はこうして互いに傷つけあう羽目になった。
「もちろん、それだけではないさ。ただ大きな理由の一つとして、というだけだ」
「…………」
「夏の合宿が終わってしばらくしたある日、彼女と話す機会があってね。そこで『私はジャパンカップに出るよ。キミとも是非戦いたいね』とラブコールを貰ったんだ」
私はペットボトルの中の麦茶を飲み干して話を続けた。
「昨年の三冠ウマ娘であるシービーと比較されることは多々あった。そんな中で絶好の機会を得たんだ、それはもう私だって熱くなるというものだ。だから言ったのさ、三冠ウマ娘となって君に勝負を挑む、とね」
「それは、ジャパンカップの日程を知っていて?」
「ああ、時間が無いことは知っていた。それでもよかった、むしろ好都合とさえ思った。もちろん、身体的な問題が発覚すれば辞退するつもりだったさ」
だからこそ、私は東条トレーナーに精密検査の条件付きで出走させて欲しいと願い出たのだ。
「シービーから合宿の間にあったことも聞いたよ。キリノが一生徒の身ながら優秀なトレーナーに頼られたことはとても誇らしかった」
だからこそ、その相手のシービーだったからこそ少しムキになった部分もあるのかもしれない。もっとも、それがなくても私はジャパンカップに出ようとしただろうが。
「好都合、というのは?」
「準備期間が無い分、私の地力が試されるレースになると思っていた。私の力でどこまで行けるか、という挑戦になる。しかも舞台は世界からウマ娘が集まるジャパンカップ、燃えないわけが無い。……実際そうなったんだが、そこに関しては浅慮だったと言わざるを得ないな」
「当日だけがレースじゃないわ。それまでにどうやって仕上げるか、出走するウマ娘のリサーチはどれくらい出来ているか、様々な要因が絡み合った上での結果なのよ」
「身に染みたよ」
しかし私にも聞きたいことがあった。
「てっきりトレーナーにも反対されると思ったんだが」
「私? ……うーん、そうねぇ。精密検査の結果見て大丈夫そうだったし、問題なければと思ってたわ」
「トレーナーは私が敗けると思っていたかい?」
「まさか、担当の勝利を信じて送り出すのがトレーナーよ。それに私の目はキリノみたいに色々見えるわけじゃないからね、どうなるかなんてわからないわよ」
「……そうか」
「トレーナーとウマ娘の関係は一方的じゃないわ。走りたい、勝ちたいというウマ娘を導くための存在がトレーナーよ。ウマ娘がどう在りたいか、そしてそれを叶えるために共に歩くのがトレーナーなの」
穏やかな笑顔で語る東条トレーナー。
「だから貴方が走りたいと言った以上、私はその願いに応えるわ。……まあ、人間の私とウマ娘のキリノでは価値観も違うでしょうけど」
それが理由だったというわけだ。
「だが、キリノも私に最後は合わせてくれた。結果的にキリノの存在を軽んじるようなことをしてしまったな」
その事については言い訳のしようがない。彼女の怒り、そして悲しみが全ての答えだった。地力で、というのはそれこそ私一人の力で、と言っているようなものだ。
「……それでも、今までの全てを否定するようなことは言ってほしくなかった。最低だな、私は」
俯くと、微かに震える自分の手が目に入った。
「……はぁ。貴方はキリノアメジストというウマ娘をどうにも美化してる気がするわね。それとも自分を責めることで満足しようとしてるのかしら」
「……そんなことは」
「あるわよ。このままじゃ気づかなそうだから言うけれどね」
そう前置きすると、東条トレーナーは口を開いた。
「この子は、貴方のためにレースに向けて頑張ってたわけじゃないわ。……いや、100%そうじゃないとは言わないけど、そんな純粋な気持ちじゃない」
「…………」
「端的に言えば自分のため……自分で自分のことを認められるようにするため、かしら」
どういう意味だ。何を言っている? 理解が追いつかない。
「それはもう妄信的に貴方を推していたし、きっとレースに勝っているのは他でもないシンボリルドルフの力でしかないと思っているでしょうね。だけれど、そこに至るまでの過程で貴方に関わることで、自分の存在意義を見出した」
「紛れもない事実だ。彼女の貢献があってこその勝利じゃないか」
「そうね、私もそう思うわ。けれど彼女自身がそれを認められない、そしてその存在意義を求めずにはいられない。そんなふたつの乖離した思考がキリノアメジストというウマ娘を苦しめていたんでしょうね」
一息置いて、東条トレーナーは再び口を開いた。
「最初はルドルフの隣で頑張りたいんだと、私もそう思ってたわ。ううん、実際そういう気持ちもあったんでしょう。けれど彼女は何よりも自分で自分が認められない。ストイックと言ってもいいけど、どちらかと言うとこうあらねばならないみたいな強迫観念って言うのかしら。出会った頃はそんなこと無かったと思うけど、いつからああなったのかしらね」
思い当たる節がある。彼女がトレーナーとして頑張り始めた時、休日にギターを弾きに出かけなくなったあの頃からだ。
彼女はきっと全てを捨てる覚悟でトレーナーというものに向き合ったのだろう。だがそこまでしても彼女は自らのことを評価出来ず、心の中で自分を傷つけていたのではないか。好きだったことを投げ打って目指したトレーナーという理想、その理想に届かない現実、自分を認められない歪んだフィルター、その全てが複雑に絡んでキリノは雁字搦めになっているのだ。
「そういうヤツなのよ、キリノは」
「……何故。そんなに……苦しいなら……」
言いかけた口を自らの意思で閉じる。それが出来ないから苦しんでいるのだろう。何よりそうさせた要因の一つが私なのだろうと言うことに気づいてしまった。
私が共に、と何度も言い続けたのがキリノの背中を押してしまった1本の腕になったのだ。
「自己肯定感が低いくせに自尊心とか承認欲求が高いからじゃない? 今どき珍しくないわよ、そういう子」
ズズ、と音がした。きっと東条トレーナーがなにか飲んでいるのだろう。私は顔を上げる気にはならなかった。
「他人からの評価でしか自分を測れない、けれど他人から褒められたら素直に受け止められない。若いわねぇ」
しみじみと呟く東条トレーナー。私は衝撃が強すぎて未だに思考がまとまらない。
「ならキリノは……こいつはどうすれば幸せになるんだ。何をしてあげれば救われるんだ?」
「そんなの、キリノ自身が変わるしかないでしょうに。貴方がどうにか出来ることじゃないわ」
「しかし!」
「言いたいことはわかるわ。でも自分の力でなんでも出来ると思ったら大間違いよ。貴方の善意が必ずしも人を救えるわけじゃない、貴方からの救いが必ずしもその人にとっての幸せであるとは限らないの」
「……っ!」
何も言い返せなかった。私だって気づいている。これは私の夢を語る上で避けて通れない大きな壁だ。私が願う幸せと皆が描く幸せ、その形が重なることはない。一人一人の幸せが違った形をしているのを、私は知っている。
「こういう喧嘩とか、色んな悩みや失敗を経験して人は変わっていくのよ。今はまだ時間が足りないけれど、貴方もキリノも、それこそこんなところで終わりじゃないんだから」
「だがキリノは今も苦しんでいるんだ。私に、何か私にできることはないのか?」
「心配するのも無理ないわね。下手したら人格が乖離するとか、洒落にならないことになるかもしれない」
「ならば!」
「でも、余計なことをしてもアウト。何よりもキリノが他人に対して心を閉ざしてしまうのが1番危険なのよ」
「……っ!」
だとしたら、私がしてしまったことは。このジャパンカップの2週間を通してキリノが抱えてしまった傷は。
「何思い詰めた顔してるのよ。言ったでしょ、喧嘩して成長していくって」
はぁ、とため息を吐く東条トレーナー。
「本当によくないのは、彼女が何も言えない状態のまま静かに押しつぶされていく状況。さっきみたいに感情をぶつけられるってことは、キリノは貴方に対して心を開いてるって考えてもいいんじゃない?」
「そう、だろうか」
「ええ、大人を信じなさい」
ふふ、と笑う東条トレーナー。その笑顔がとても頼もしく感じられた。
「まずは帰ったらちゃんと仲直りして、今後のことを2人で話し合いなさい」
「……ああ」
少し心が落ち着いたように思える。瞼が重い。安心したら眠気に耐えきれなくなってきた。どうやら私の心は酷く張りつめていたらしい。
「……キリノ」
返事はない。半分閉じた目で隣に座るキリノの手を探し、握る。ピクリと小指が動き、再び動かなくなった。