弥生賞まであと一月、トレセン学園全体もいよいよと言った雰囲気に染まりつつある。私も同じように弥生賞に向けてトレーニングを調整している……といっても私のトレーニングを考えてくれたのはキリノなのだが。
「あたしは原案を出しただけで、調整するのは君自身だよ? いくらこの目があっても百見は一体験に如かずだからね」
とは彼女の弁だが、原案がなければ改良することも出来ないのだ。素直に受け取ればいいものを、どこかひねくれた性格をしたキリノはやたらとそれを否定する。賞賛を受けることに何の抵抗があるのやら。
「現状がわかるんだから、そりゃ予測もできるよ。未来が見えるなんてそんなおおげさな」
これは昨日のキリノのセリフだ。なんでも私は半月後に足に違和感を感じるらしいが、それは成長に伴うものなので走っていれば慣れるらしい。こんなことを言われた私は未来視でもしたのかと軽い冗談のつもりで言ったのだが、当の本人からはこんな言葉が返ってきたというわけだ。
私からすれば突然、君の足は違和感を覚えるだろう、などと言われてそんな感想を抱いても当然だろう。彼女の目に何が映っているのかとても気になるところだ。……もしかしてスリーサイズや体重もわかるのだろうか。流石に恥ずかしい。
まずい、変なことを考えてトレーニングに集中出来ないのは良くない。時間は有限なのだ、弥生賞までの一日一日をしっかりとものにしなければ。
「油断大敵だな」
メイクデビューでは余裕のある勝利を掴んだが、弥生賞でも同じようにとはいかないだろう。しっかりと仕上げてくるウマ娘もたくさんいるはずだ。キリノは心配し過ぎだと言っていたが、その言葉の上に胡座をかくほど怠け者でもない。
……まあ、多少オーバーワーク気味なのかもしれないが。最近トレーニングから帰ると私を一瞥したキリノがため息をつくことが増えた。説教がないのはまだ許せるラインだからなのだろう。
「ただいま」
いつも通り寮にある部屋の扉を開ける。いつもと違うのはキリノの姿が見えないことだった。いや、正確にはいつもの位置に居ないと言った方が正しいか。
「……おかえり」
「すまない、起こしてしまったか?」
私のベッドがある位置の対極、つまり部屋を二分割した端の方にあるもうひとつのベッドの上で横たわるキリノの姿が見える。掛布団に包まっていたその姿は寝ていたようにしか見えない。
「あ、近寄らないでね。感染すといけないから」
「……風邪か?」
「まあそんなとこ」
相当参っているのか、声は震えて弱々しい。マスク越しだからかくぐもった声なのが余計に拍車をかけている。
「ごめんねこんな時期に」
「謝ることはないさ。私に出来ることはあるか?」
「感染しないこと」
予想通りの返事だ。キリノは何か悩みがあっても1人で抱え込もうとする節がある。人に頼ることを極端に嫌うのだ。例えば今日何かあったな、と傍から見てわかる時でも決して私には何も言わない。もしかしたら他に相談相手がいるのかもしれないが、解決しているとしたら中々表に感情を出さないこのウマ娘が、わかりやすく調子が悪く見えることはないはずだ。
気持ちはわからなくもないが……それとも私では信頼に足る友人とは言えないという事だろうか。いいや、それでも流石に目の前に病人がいるのにはいそうですかと引き下がることは出来ない。ならどうするか、論理的に言い負かせばいい。
「そう思うなら素直に私に看病を頼むといい。早く治ってくれた方が感染のリスクが少なくなるからな」
「…………」
「それに看病と言っても色んなやり方があるだろう? 何か買ってきて欲しいものはないのか?」
「……ない」
「はぁ……じゃあ食べたいものは? 何か必要なものは?」
「…………ない」
「よーしわかったじゃあ勝手に色々買ってくるからそこで寝ていろ。これは私のお節介でお前は何も頼んでないのに余計なお世話をされただけだ。それでいいな?」
「…………勝手にすれば」
「そうするさ。熱はあるのか?」
「……多分、ある」
「じゃあ冷えピタも買ってこよう」
早口で捲したてると私は部屋を出た。仮に本当に余計なお世話だったとしても、結果的に彼女の助けになればそれでいい。買ってくるものは冷えピタと食べやすいもの……ゼリーでいいか。栄養は足りないが今無理して食べさせても仕方がない。全く、素直に欲しいものを言ってくれればよかったものを。かえって手間がかかるじゃないか……いや、これは私が勝手にやってるだけだった。
急いで帰ってくると彼女は変わらずベッドの上で横たわっていた。ただいま、と声をかけるとおかえりと返ってくるところに彼女の律儀さを感じる。さぞ不機嫌だろうに、挨拶は返してくれるらしい。
「冷えピタ、貼るぞ」
「……自分でやる」
「病人は大人しくしていろ。マスクをしているから大丈夫だ」
「……ん」
観念したのか、キリノはこちらに顔を向けマスクの上から手で抑えた。そこまでするか、とは言うまい。
「ゼリーも買ってきたぞ、食べるか?」
「……うん」
「そうだ、あーんしてあげよう」
「そっ……れはいい……!」
「そんなに嫌がられるとさすがに傷つくんだが」
「恥ずかしいでしょ……」
「なんだ、可愛いことを言うじゃないか」
「うるさい……」
余り喋らせるのは可哀想なのでこんなところにしておこう。結局キリノは体を起こしてゼリーを口に入れた。
「美味しいか?」
「うん……ありがと」
「ふふ、どういたしまして」
折れたのはキリノの方だった。私の意地っ張りが功を奏したようで、良い方向に傾いたと言っていいだろう。
しかしこんなに弱っているキリノを見るのは初めてだ。いや、弱みを見せるキリノを初めて見たと言った方がいいか。今回のは不可抗力だろうが、私だって彼女の力になりたいのだ。いつも助けて貰っている恩返しくらいさせてほしい。
「別にね、信頼してないとかじゃないよ。ただ、あたしの悪い癖なんだ。コミュ障っていうか、なんか上手く人に頼ることが出来ないっていうか……うん、ホントにそうなんだ。だから気にしないで、きっとこの先も変わらないからさ」
「じゃあその時は私が勝手に世話を焼くことにしよう。それなら文句ないだろう?」
「……そうだね」
キリノは力尽きたのか、ぐったりとベッドに体を沈めた。
「苦しい……」
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないよ。だから……手握っててくれない? あたしが寝るまで」
「……ああ、いいよ」
よほど苦しかったのか、あろうことか甘えてくるとは。苦しんでいる彼女には申し訳ないが、これは珍しいものを見たと思ってしまった。
それからキリノが寝息を立て始めるまで、私は彼女の右手を握り続けた。
「じゃあいってくるよ、キリノ」
「……いってらっしゃい」
翌日、体調は相変わらず優れないのか、ベッドの中からくぐもった声が聞こえた。体を起こすのすらしんどいのなら、昨日も無理をしなければよかったのに。
今日は少し早めに切り上げよう。丁度オーバーワーク気味だと白い目で見られていたところだ、たまには良いだろう。なんなら『私がいないとダメなんだから』くらい言ってやってもいい。なんなら若干依存気味でもいい。
「……ルドルフさん? 大丈夫?」
そう思っていたんだがなぁ……。どうにも色んなことが手につかない。どうやら私も私でダメらしい。結局キリノの他に親友と呼べるほどの友人も今のところできていないし、なんだか私の思い描いていた学園生活から遠のいている気がする。
いやいや、まだ始まったばかりじゃないか。ここから何年もこの学園で生活するのだから今を嘆いても仕方ない。…………キリノに見てもらえば私に友達ができるかどうかもわかるかなぁ。
キリノとの親密度が上がった!
中等部ルドルフは原作からちょっと幼さが残るイメージです