ある日寮に戻ると、いつも部屋で先に帰っているキリノがいなかった。土曜日だからどこかに出かけているのだろうか、初めてのことなので少し戸惑った。しかしそんな事もあって然るべき、私が決めることではない。さて、今から何をしようか。
手持ち無沙汰なせいか部屋を一周する、そして気づく。いつも綺麗なキリノの机の上に何枚かのプリントが置きっぱなしになっている。A4サイズに統一されたそれらは左上に空いた穴から紐を通して括られており、その全てが関連づけられた資料であることを表している。私はその表紙を興味本位で覗き込んだ。
『ウマソウル(仮称)についての研究』
タイトルのウマソウルという単語に下線が引いてある。これはキリノ自身が引いたものだろう。なにかの論文だろうか、日付は最近のものになっており比較的新しい資料であることがわかる。ちなみに日付の横に書かれていた名前に見覚えはなかった。
読み進めていくとこれはウマ娘そのものに関する研究資料であることが窺える。人間から見て驚異的とも思える身体能力の数々、そしてレース中に稀に見せる爆発的で科学だけでは証明できない現象。それらには全てこのウマソウルというものが関係していると仮定した論文だ。ウマソウルというのはタイトルにある通り仮称に過ぎず、そういった非科学的なものが関係しているのではないか、という内容になっている。専門的な用語は理解できないが、どうやらこの世界には進化の過程で生まれていたはずの生物が欠けており、それが本来ウマ娘の枠にあるはずだった生物なのではないかということらしい。その生物は走ることを得意としており草食動物であったはずだが、そこにヒトの遺伝子が紛れ込んだか何かが原因で繁栄したのはウマ娘という生物種となったと考察されている。
或いはこれが存在した平行世界があって、その異世界の魂が今のウマ娘に呼応しているのではという意見も記されている。この意見にキリノは下線を二重に引いてあり、彼女はこの意見を支持していることがわかる。
「なんともロマンチックな話だ」
現実味がない、そう思った。だけど嫌いじゃない。現実的ではないというのは現時点での話であり、未来においてそれが証明される可能性は無限にあるのだから。
……私にはいつか叶えたい夢がある。それは非現実的で現時点では到底不可能だが、それでも未来はわからないのだから諦める理由にはならない。その為にはまず私自身がウマ娘の可能性、その先へと到達しなければならない。私ができないことなどないと証明するんだ。
結局その日は門限ギリギリになるまでキリノは帰ってこなかった。キリノは部屋に戻るとやたらと縦に長い荷物を自分のクローゼットに押し込んでいたが、特に言及はしなかった。
「ああ、そうだ。お前が机に置いたままにしていた論文を読んでみたんだが……」
「ああ、あれ? どうだった?」
「いやなに、トレーナーの卵として頑張っているのだなと改めて思ったよ。内容は随分と非現実的だったが」
「まあね。これは変数みたいなもんだよ」
キリノはちゃんと内容を理解できているらしい。
「変数?」
「数学で求める数字をxとかyみたいな記号に置き換えることがあるでしょ? あれと一緒」
キリノは人差し指を立てた。
「ウマソウルっていうのは、あくまで今証明できてない現象の原因を一時的にこいつのせいにしてるだけで、実際に存在するかどうかはわからない。ただそういうものがあるってことにしておくと、頓挫している研究がウマソウルのおかげで一旦問題を先送りにして進められるのさ」
「ふむ……?」
「現時点で解明できない部分はウマソウルのせいにして、他の部分の研究を進めようってことだね」
「ああ、なるほど」
ようやく合点がいった。
「キリノはどう思うんだ?」
「どう、とは?」
「ウマソウルはあると思うか?」
キリノは私の問いに少し考え、曖昧に微笑んだ。
「あったらいいな、と思うよ。その方が都合がいいしね」
その言葉の意味は私にはわからなかった。
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弥生賞当日、G1レースでもないのにやたらと多くの観客が集まるレース会場の一角であたしはぼーっとしていた。片手にはピンク色の缶のエナジードリンク、そこにストローをぶっ刺してお上品に飲むのがあたしのスタイルだ。隣を通った人がぎょっとした表情で足早に通り過ぎていく。はいはい、どうせやべー女ですよ。
そんなことはどうでもいいのだ、何せ今日は我が友人様の大事なレースなのだから。準備のできたウマ娘からどんどんとゲートに入っていく様を見ながら、空になったエナジードリンクをビニール袋の中に突っ込んだ。
「F、E、Eちょい、E、F……」
ゲートに入っていくウマ娘を勝手にランク付けしていく。ダメダメ、君たちじゃ勝てない。そんな中一際目を惹くウマ娘。
「C……ちょい?」
我が友人様だ。メイクデビューからいくつかレースを走っただけでこれほどまでに仕上がっているウマ娘が他にいるだろうか。いやいない……と、言いたいところだが今日あたしが見に来たのはそれだけではないのだ。
「C」
シンボリルドルフに勝るとも劣らない能力を持ったウマ娘がいるのだ。今回一番人気にしてデビューからここまで無敗の2人目のウマ娘、その名はビゼンニシキ。この弥生賞で唯一ルドルフに勝てる可能性があるウマ娘。
「頑張れ~」
私の声と共にレースがスタートする。このスタートの時点である程度レース展開が読めてくる。2人とも大外を回らされる事になるだろう。どちらかが、だったら話は違ったが2人ともなら結果は変わらない。
大外から回る2人のウマ娘に他の子達は追いつけない。シンボリルドルフとビゼンニシキの一騎打ち、こうなればどっちが勝つかは目に見えている。ぐんとスピードを上げたシンボリルドルフには誰も追いつけない。追い縋るビゼンニシキもその影を踏むに至らない。これは格付け完了かぁ。
『勝ったのはシンボリルドルフ!』
実況が会場に鳴り響く。うんうん、いい走りだったよ。きっちりロスを取り返すレースプランはお見事。最後まで冷静で焦らずに走りきった君の勝ちだ。
「ま、そうなるよねー」
席を立つ。インタビューの終わった友人様を迎えに行かないとね。あ、そうだハナちゃんに送っとこ。
『ルドルフ勝ったよ』
メッセージを送ってから数分、返信が届く。
『予想通りだった?』
『そこそこ。ビゼンニシキが思ったより善戦した』
『そう、良かったわね』
『うん』
あたしのメッセージに既読がつき、そこで会話は終わった。つれないなぁ。
暇になったので関係者以外立ち入り禁止の看板に背中を預ける。警備員にじろりと睨まれたがトレセン学園の制服を見てすぐに視線を外した。そして暫くすると見覚えのある三日月が横を通り過ぎた。きっと前髪のあれだけで彼女を見分けていると知られたら怒られるだろうなぁ。
「お疲れ、ルドルフ」
「!? っああ、キリノじゃないか」
急に声をかけられビックリしたのか、肩が跳ねたような挙動の後に飛び退くように振り向いたルドルフ。普段なら匂いやらで近くにいることがわかるはずだが、やはりレースの後ということもあってそこまで気が回らないのだろう。
「おめでと」
「ありがとう。良い走りが出来たよ」
「だね。中盤からの加速力は目を見張るものがあったよ」
そういうとルドルフがああ、と噛み締めるように返した。
「一段と深く自分の走りを理解できたような、そんな感じがするよ」
「へぇ……それは興味深いね」
彼女の言葉を聞き、先日読んだ論文を思い出した。案外ウマソウルとは、そういうものなのかもしれない。
汝、皇帝の神威を見よのレベルが上がった!
少し設定の話をするとキリノアメジストには元になった馬がない(ウマソウルが存在しない)ので競走馬としての能力が皆無だったりします。それ以外は普通の怪力ウマ娘だよ。