水中花の魔法。水鏡と水鏡を、想いで繋いで道を開く魔法。前に使った時には見えて来なかった、向こう側の水面と光がすぐに見えて来た。
「ぶはぁっ!」
思いっきり顔を出した瞬間、冷たさが襲い掛かって来る。
びちゃびちゃになりながら、なんとか岸に泳ぎ着いて……ボクは頭を振り、息を切らして周りを見渡した。見覚えのある四角い枠と、四角い建物……どこかの学校のプールサイドか?
「成功、した……」
水を吸って重いマントに、すぐさま乾燥機魔法を掛ける。あの愛理の家で乾燥機に入った洗濯物を見て、考え付いた魔法だった。体の内側から温風が噴き出して、即座に水濡れの体と服を乾かしていく。
どうせなら、綺麗になる魔法も習っておけばよかった……と藻の匂いがするマントに鼻を近づけつつも、ボクはプールサイドから辺りを見回す。フェンスの向こう側に広がる、田舎っぽい住宅地と道には、幸いにして人影はない。
この時期だから、プールにも当然人はいないし……っていうか、コロナだから最初から閉鎖中なんじゃ?
とりあえず、誰かに見つからないうちにずらかった方が良さそうだと、ボクは透明魔法を掛けてからフェンスを乗り越えた。
(ここは……)
来たことはなくても、ストリートビューで何度も目にしてきた。サキの家の近くの学校だ。ここからなら、歩いてでも彼女の家は分かる。
ボクの家から脱走したベルが、どこへ向かったか。
あの時ベルはボクの話をちゃんと聞いていて、一匹で家を飛び出して行った。あれは、嫌気が差したんじゃなくて……まるで「しっかりしろ」と言っているみたいだった。動き出せないボクに、発破を掛けるみたいに。
だから、ベルは先に来ているんじゃないかと思ったんだけど。とりあえず、サキと家族の住んでいるアパートの方へ、ボクは足を向けた。
普段ボクが見ている、都会的なビルとかお店は全然ない。周りは全部山に囲まれていて、見渡す限り確認できるのは民家みたいなものばっかりだし、稲が植えられた田んぼの穂が風に流れている。このあたりの地面は平らだけど、随分山の高い場所にいるみたい。空気が寒く感じる。
飛び込んでくるものをすべて新鮮に感じながら、ついにアパートが見える交差点の角まで、ボクはやってきた。
ごくり、と唾を飲んでから、一歩を踏み出す。見上げた先に――愛しい人の住んでいる部屋。ここからじゃ、魔法を使わないといるのかいないのかは、確認できない。でも、植物が揺れているベランダの外から観察する限り、人の気配はないな。出掛けてるのかもしれない。
すると、不意に道を横断するようにして、黒い影がててっと動いた。
「ベル?」
思わず声を出した。けど、それは真っ黒な猫でベルじゃなかった。首輪がついているから、近所の猫みたいだ。放し飼いにされてるのかな。
「君、このぐらいの大きさのヒョウ柄の猫を見なかった? ……なんて。ベル以外の猫に、言葉が通じるワケないよね」
警戒しがちに遠くからボクを見つめる黒猫に話し掛けてから、肩を竦める。と、その時、提げたポーチの中からスマホが鳴り響いた。
「もしもし? 雀愛か?」
「よかった! 無事に着いたみたいだね!」
「あ、うん。今回はね……伽々未もいたし。けど、ベルはまだ見つかんなくて」
「だいじょーぶ、今そっちに連れてくって、あたしの使い魔から連絡がね」
「雀愛の使い魔?」
そういえば、雀愛がいつも何かを連れてるところって、見た事がないんだけど。
そう思っていたら、さっき逃げて行った黒猫が、塀の向こうからひょっこりと顔を出し、後からよく知っている鳴き声が聞こえてきた。
「みゃお」
「! ベル……!」
あれだけあっさりボクの傍を離れていったくせに、突進しそうな勢いでかがんだ懐に飛び込んでくる頭を、ボクは受け止めた。
思わず浮かんだ涙を、ざらりとした舌が舐める。ちょっと痛いけど、今は懐かしいぐらいに感じられるその感触を、ボクは甘んじて受け入れた。
「まったく……心配したんだぞ。無事でよかった」
「うにゃ」
「ふふ、よかったよかった。ちゃんと道案内してくれたみたいね」
安心したように言ってくれた雀愛の存在を思い出して、ボクはスマホを握りながら、塀を飛び越えていく黒猫を見送った。
「道案内って……じゃ、あの黒猫が雀愛の使い魔? ずいぶん離れたところに住んでるんだね」
「んーん、正確には違うんだけどね! 私、家で動物が飼えないから、方々に住んでる子達から情報収集しててさぁ。
最近公園で仲良くなった烏がいるんだけど、その子のおじいちゃんのお兄ちゃんが県外に住んでるらしくて、その烏の娘のいとこがそっちの街の雀ちゃんと親しくて、その子を餌付けしてくれてる叔父さんの孫が飼ってる猫ちゃんが、ベルちゃんっぽい子を見たって」
「な……なんだって????? 遠すぎて全然わかんないんだけど」
「え? こっちはよく聞こえるけど?」
「電話の話じゃなくて!!!」
よくそんな複雑な人間関係を、頭に叩き込めるもんだ。いや、この場合は動物関係なのか???
まぁ、とりあえず雀愛のおかげで助かった。そして、これからやるべき事もわかった。と思う。
「まったく。主人よりお前の方が、よっぽど勇敢だよ」
「みー」
足元にすり寄るベルの顎を撫でる。サキが出て来る、もしくは帰って来るのを待って……でも、アパートの玄関でずっと待ってたら、それこそ不審者だよな。いくら子供とはいえ。
「にゃあ」
「ん、どうした、ベル?」
ボクを呼んだベルが、すたすたと駐車場の方へ駆けていく。駐車場……そういえば、サキも旦那の車を運転できるんだっけ。白線に囲まれた枠の上で、ベルがぐるぐるしていた。
(車がないってことは……やっぱりどこか遠くへ出掛けてるってことだよね)
見上げてくるベルの黄金色の瞳を見上げながら、ボクはふと思いつく。
「お前、もしかしてさっきあの猫に、サキの行き先を聞いてたのか?」
肯定を示すように、ベルの尻尾が一回振られた。まったく、どこまでも主人より有能な使い魔だ。ボクよりもとっくの昔に、サキに会う覚悟を決めていたらしい猫を抱いて、ボクは双眼鏡に魔法を掛ける。ここまで近づいたんなら、「ちょっと遠くまでよく見える魔法」で十分サキの姿を捉えられる範囲内だ。それに、ベルが望む景色を見せてくれるはず。
ゆらぁと揺れたレンズの向こう側に、具体的な場所が見えた。広くて、昔っぽい建物がある公園みたいな場所……どこかの窓際で、旦那さんと向かい合って話しているサキが見えた。建物の看板……「PASTA」って書いてある!
「よし、わかった!」
お店の名前まで分かってしまえば、あとは文明の利器の出番だ。
GPS付きのスマホで地図アプリを検索すると、すぐ場所が出た。昔の城下っぽい白壁が続く隣町に、パスタ屋さんがある。
そこまで行くには……幸いにも、バス停はここのすぐ近くにあるみたい。時刻表を調べて、ボクはスマホの時計と見比べた。あと5分! ギリギリセーフだ。
顔を見合わせて、ベルと走り出す。
最寄りのバス停に、バスが来るまでは本当にすぐだった。ここ、一時間に一本単位でしかバスが通ってないから、これを逃したら本当に、ストーカーらしく待ってるしか出来ないところだった。自然な出逢いを目指すなら、やっぱり街中で声を掛けられた方が少しでもマシな気がする。
今から行って間に合うかは分からない。すれ違いになるかもしれない。会えたとしても、彼女の旦那さんだっているし。
でも、もうボクは足を止めないことにした。
一秒でも早く会いたい、って思っていた、天使になったばかりの時の気持ちを、止めないまま。
正直、こんなにも心の準備ができてない感じで、会いに行くことになるなんて、思ってなかった。……でも、本当に大切な出逢いって、出逢いたい人達の想いなんかとは裏腹に、いつだって突然なのかもしれない。
ずっと会いたかった人とはいくら願ってもなかなか会えなくて、その反面、会える時や機会なんかは、何の前触れもなく降って湧いたりする。
チャンスの女神は、前髪しかないって言うし。だったら、ベルが見つけ出してくれたその前髪を、ボクは離さないようにしっかり掴んでいるしかないんだ。
大きな神社の鳥居に、黒々としたトンネル。次々知らない景色が通過していく。山らしい急な坂道の振動で転がり落ちないよう、膝の上にしっかりとベルを抱いたまま、ボクはまっすぐに、窓の外を見つめ続けた。
***
「それでね、空飛ぶたい焼きに、猫が飛び付いちゃって……」
「たい焼きがなんだって?」
「はいはい、もういいですよ」
ごめんって、と苦笑する運転中の夫から、私は肩を竦めながら目を逸らす。
まあ、鯨氏が私の話を聞いてないのなんて、いつものことだしね。下手にべたべた粘着されて分かったフリをされるよりも、その方がずっといいけれど。
恋人っぽいロマンもドキドキも、憧れない訳ではないけれど、結婚という契約に結ばれた慌ただしい生活の中では、かえって不必要になってしまう。イチャイチャする暇があるなら向こうも仕事に勤しみたいだろうし、その労力や一人の趣味の時間を削らせてまで、恋人ごっこに付き合わせたいとも思わない。そもそも私自身体力がない方だし、貴重な生命力は互いに必要な生命および文化的活動にこそ使われるべきだ。
最低限の家事とか励ましとか相談事とかは、私やってると思うし。
急坂を下る車の中で、私は音楽に耳を澄ませながら目を閉じた。
とはいえ、どこかが何かが物足りない気持ちは、抱えていると思う。
ただそれを、満たせ察せよ理解せよと、今一生懸命生きてくれてる相手に求める方が思いっきり残酷だと思うから、口にしないだけ。恋とか愛という名の独りよがりの感傷に付き合ってもらうより、遥かに重要な事がこの世界にはあり過ぎると、生きていたら嫌でも気付いてしまった。それが年金であれ、老後の家族の介護であれ、収入や税金や保険であれ。夢を担保してくれる現実に向き合おうと思ったら、パートナーとの生活や関係に夢見る方が無謀では? ととっくに頭が冷静になっている。
それに、だからこそ鯨以外の人を傍に置くことを、異なる世界へ足を運ぶことを、私は許されている。面倒ごとを何も見なくていい、私だけのために、私と一緒に幸せになってくれる、そんな誰かを待ちながら。
いつも停めている市営の駐車場に着いて、袴の裾を挟まないようにしながら車から降りると、秋とは思えないほど眩い日差しが降り注いでくる青空を、私は見上げた。
こんな風に、車を運転してもらえるのも助かる。私は免許を持ってるけど、元々運転が苦手なので、いくらすぐ隣の町とはいえ、山道下るだけで結構神経使うし、近所であろうとも車に乗るくらいなら徒歩を選択してしまうレベルで、運転が面倒くさいのだ。ていうか怖い。もう性だから仕方ない。適材適所。
たまには運転しろよという鯨氏の言葉をそうあっさり受け流しながら、踵の高いブーツで街を歩くと、外出してるなぁって感じがする。コロナで滅多に外出出来なかったここ数年の間では、貴重な機会だ。お店に着くまでのほんの数分の間だけど、石畳をヒールが叩く感触が気持ちいい。
苦労して裾を直した袴を翻しながら、そんな事を考える。でも、さすが着物。いいお天気とはいえ、風はすっかり秋の冷たさだけれど、いつも洋服だと薄着し過ぎて風邪を引く私でも、和装は足元まであったかい。裾や襟から吹き込む上半身の寒さに耐えられなくなるまでは、やっぱり着物が最強だなぁ。
花が揺れる花壇に囲まれた、綺麗に舗装された道は、人通りが少ないとはいえ、観光客らしき家族連れの姿や犬を連れた人達の姿が見えて、のどかな雰囲気だ。
まつり会館、と呼ばれてる神輿の展示館があるこの辺は、昔ながらの蔵みたいな、白壁の和風建築と用水路や池に囲まれていて、なかなか趣がある。少し離れたところには、写真映えする赤い橋とか古そうなお寺もある。まだ入ったことのないお店もあるし、散策にはうってつけだ。
が、飯だけ食いに来た人間が、わざわざそんな他の用事に私を誘うはずもなく、この近くに一年以上住んでいるのに、大体は駐車場と店という最低限の往復でいつも終わる。
しかし、運転してくれてる鯨がそれ以上疲れたくないという気持ちも非常に分かるので、残念だけど仕方ない。平日一人で来ようと何百回も頭では思っているけど、へろへろになって帰った後に家事する自信がなくて、諦めてしまう。南無体力。
そんな祭り会館の隣には、広々とした小奇麗なパスタ屋さんが隣接していて、そこが本日のランチの目的地。
ここのパスタ屋さんは、量が多い上に味もそんなにくどくないので、鯨のお気に入りになったらしい。
なんだかんだ、喫茶店の新規開拓に関しては、鯨の方が長けてることが多い。たまたま、行ってみようかと選んだ店が当たりだったりする。
昼時を少し過ぎて、すっからかんの店内で注文を済ませてから、私はセルフサービスのコーヒーをドリンクコーナーから持って来た。ランチを頼んだ人は各種ドリンクが飲み放題で、おまけに暇つぶし用か、テーブルの上にはミッケの絵本が置いてある、ちょっと不思議な店。
一応、絵や執筆は出来るようにiPadを持って来たけど、結局鯨氏と、パスタを待つ間絵本の中で宝探しをするのに必死になって忘れてしまった。クソ問だと鯨に苦情を申し受けた青いイルカは、「物体」として写真に隠れている訳ではなく、少し離して見て、シルエットを捉えないと分かりづらい。
(……イルカかー)
ジャージ姿で、食後も躍起になって宝探しを続行する鯨氏を前に、空を見上げて進んでいない小説のことを考えた。パソコンを出さない間でも、少しでも想像はする。とはいえ、この後夕飯の買い出しをしたりしながら帰ったらやっぱり疲れてしまって、起き上がる気力ひとつないのだろうけど。ひとつでも考えなきゃと、気持ちだけがいつも焦る。
空飛ぶたい焼きじゃなくて、水族館の方がよかったかしら。でもたい焼きだろうとイルカだろうと、私以外の誰かにとっては、そのどちらでもどうでもいいし面白くないかもしれないな。
「どした?」
「いいや、なんでも」
かぶりを振って、トイレ行ってくるね、と私は席を立った。
きょろきょろ探して、レストランから外に出ると、そこは入って来た時に通った出入口ではなく、隣の施設に繋がる右側の自動ドアと、トイレへ向かう左側の通路の、両方に繋がっているみたいだった。
隣のまつり会館、やっぱりちょっと気になるな。
こういう時間も悪くはないけれど、空飛ぶ青いたい焼きを追った猫のその後は、やっぱり考えられないまま時間は過ぎていく。青い空からシルエットを切り取るみたいに、たい焼きを吊り上げた人でもいたのだろうか。
もしそんな芸当が出来る人がいれば、今の私みたいに、何に対してもじれったい思いを抱えたまま、何かのせいにしてくだらないしがらみに囚われたまま、動けずにいる人じゃなくて、もっともっと心の底から、自由でいる誰かに違いない。
(でも、自由に焦がれながら、臆病風に吹かれてる人っていうのもいいかもね)
まるで、私みたいだけど。
手を洗って着物を整えながら、こういう綺麗な場所の綺麗なトイレって、気持ちがいいしテンション上がるよな、と私は考えていた。
直接的な舞台にはならなくても、磨かれた広々とした鏡や汚れのない個室は、好きなだけ眺めながらぼーっとしていられるし、どんなに小さな日常の場面でも、旅行に行けなかったとしても、刺激を受けることに繋げられる。
何か、ほんの些細な出来事の中でも、ドキドキする事が起こらないかなって。
それが私の強みなんだから、生かして頑張るしかない。
こうやって、いちいち和服でテンション上げようっていう試みも、私の「ムラサキ」としての意識を高める一環だったりするし。
それにしても。
真新しい建物内を歩きながら、こんな誰もいない場所でドキドキを期待する自分自身に奇特な目を向けつつ、私は考えてしまう。
和装は自己満足でしてるだけだから夫に褒めてもらえなくてもいいけれど(褒めて欲しい時は強制的に褒めさせる)、一人くらい、可愛いね、よくお似合いですよって言ってくれる人が、誰かいないかな、と。
少なくともトイレの帰り道にする妄想じゃない気がするけど、止まらない。
できればそれは、天使だったらいい。天使と言うからには、下手したら子供と間違われてしまうぐらい年が離れているかもしれないけど、そんな事気にも掛けないぐらいに一途で、とってもいい子で、魔法が使えるから私より先に死んだりしない。
どんな場所にも一緒に連れて来ることが出来て、美味しいごはんを分け合ったり、いっぱい幸せそうな笑顔を見せてくれる。そう、きっと今日ここにいたら、絶対に私のことを見て、あなたが運命の人、って真ん丸な目が零れ落ちそうなくらいに、出逢えたことを驚いてくれるんだ。
……そんな子が、突然空から舞い降りて来たりしないかな。なんて。
(いやいや、都合いい妄想……)
「あ、あのっ! ま、待ってっ……!」
そう思って、レストランに戻ろうとした時、開いた自動ドアの真横から、微かに誰かを呼ぶ声が聞こえて。
中に入ることも忘れたまま、その場に立ち尽くす私と、走って来る「その子」の目があった。
純白の翼も、青く広がる空もないし、幸せは歩いて来る訳でも降って来る訳でもない。
普通に地面を走って来る、どこにでもいる男の子。
けれどまるで、運命の1ページが捲れる瞬間みたいに、その一瞬はひどくゆっくりと、でも明らかに、彼が待ち望んだ存在なのだと私に告げていた。