2021.11.ノベルバー企画「運命の人」   作:大野 紫咲

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Day16.水の 「湯けむりラプソディ」

「へえ~? じゃあ、ヨルくん今からその温泉に行くんだ!」

「う、うん。サキに、運転してもらってる……」

 

 電話で雀愛と話しながら、ボクは窓の外の紅葉に染まる木々を眺めた。

 前にサキの家に来た時、次の休みになったら一緒に温泉に行く約束をした。日帰りでサキが運転できる範囲内だけど、温泉は温泉。

 緑色の川が、石柱で作られたトンネルの壁越しに過ぎ去っていく。このあたりは水がすごく青々としていて、見習い天使のボクでも、自然の力をまざまざと感じられる場所だ。今はいいけど、もう少し寒くなって秋が深まれば雪が降るようになると、サキが言ってた。

 体調が悪かったらごめんね、って言ってたし、期待を掛けるつもりはなかったんだけど、今は隣でハンドルを握ってくれている。たった一人で車を操る横顔を、いつまでも見ていたい思いで、ボクは助手席を独占していた。

 

「んで? ヨルくんは、どっちのお風呂に入るの?」

「はぁ? どっちって……何が?」

「だからぁ、男湯に入るのか、サキちゃんと一緒にいちゃらぶしながら女湯に入るのか、って聞いてんの!」

「はあぁぁあああ!?」

 

 とんでもない事を奴が言い出したせいで、ボクは危うくスマホを放り投げそうになった。

 ん? と首を傾げるサキの隣で、大慌てで声を潜める。

 

「き、ききき、決まってるだろ!?」

「あ、やっぱり? そりゃそうだよね。いくら子供の見た目だからって、天使が邪なマネするわけにいかないもんねぇ。きしし、でも一緒に入っちゃえば、サキちゃんとラブラブするチャンスかもよ~? なんて、スズちゃん悪魔の囁きしてみちゃう」

「バカ言ってんじゃないよっ!!!」

 

 折角声を潜めたのに、結局ハイパー大声で怒鳴り返してしまった。

 ボクに構わず、雀愛は魔法でにやにやと画面を笑わせながら、ぺらぺら喋り続けている。

 

「折角なんだから、愛らしいヨルくんのパワーであざとくお願いしてみたらいいじゃん。一緒に入・れ・て?♡ って!

それでお膝に乗っちゃったりする? お湯の中で抱き合って密着すればぁ、ふくよかな体が背中に、愛しい人の太腿がお尻の下に、そいでもってすぐ傍にある体温と、二人の顔がだんだん近付いて……きゃーっっっ」

「おい、ちょっと! 何一人で盛り上がってんのさ、このバカ! んな事出来るワケないでしょ!? ボクはねぇ……!」

「はいはい、わかったってぇ。でも、チャンスは逃さないようにね。ヨルくん、まだ『契約』の話サキちゃんにできてないんでしょ。裸の付き合いで仲良くなっちゃった方が、色々喋りやすいと思うよ~」

 

 無責任なことを言いながら電話が切れて、ボクは頭を抱えた。

 

「雀愛の奴ぅ……!」

「スズちゃん、何て?」

「あああああ何でもない!!! 温泉うらやましいなって! それだけ!!!」

 

 盛大に大声で誤魔化してから、スマホを鞄の奥に突っ込む。リュックの蓋を開けた拍子に、替えの服やパンツが見えて、またどきどきしてしまった。本当に、余計なことを言ってくれる。

 

「次は、スズちゃんも一緒に来れるといいんだけどねぇ」

 

 前方から目を離さないまま、サキが楽し気に笑って言った。普段は裸眼だけど、運転中のサキは眼鏡だ。

 

「あいつを連れて来ると、絶ッ対に面倒なことになるからいい……」

「ふふ、でも仲良しじゃん、二人とも」

 

 これが仲良しに見えるんだろうか……?

 確かに雀愛は実力者だけど、友達として仲いいかって言われたら、ぐいぐい来すぎてボクは結構苦手なタイプだ。まあ、天使の後輩としてまだ彼女に頼らざるを得ないところもいっぱいあるから、そこが悔しい。

 早く、一人前になれたらいいのにな。一人前になって……

 ちらりと、信号待ちの間、ハンドルから離れたサキの左手に目をやった。

 この手を、さりげなく隣から握ることができたら。ボクみたいな子供が相手でも、サキはドキドキしてくれる?

 小さな子供が、甘えたがって手を繋ごうとしてるんじゃなくて。隣で、君が好きだよって、伝えられたらいい。愛理があやめさんにやるみたいに、スマートな、堂々とした仕草で。そう想いが募るほどに、一人前への憧れは燻るけれど。

 焦っちゃダメだ。ゆっくり深呼吸して、ボクは手を引っ込めた。

 

 でも、あと十数分後には、壁を隔てたおんなじ敷地の中とはいえ、サキが裸でお湯に入ってるんだって思ったら、なんだか落ち着かない。家の中でお風呂に入ってるのを待つ時さえ、どきどきするのに。心臓が爆発しそうだ。

 あの信号を過ぎたら、そろそろ川沿いの温泉が見えて来る。

 平常心、平常心……

 

「ねえ、ところで夜羽くんは、私と一緒にお風呂入る?」

「!!?!?!!?」

 

 平常心、ムリ、絶対。

 駐車場に車を停めて、ふと隣を見たサキがそう言った瞬間に、落ち着きかけた心臓が再び爆音で鳴り始めてしまった。

 どう言葉を捻り出していいか分からずに、あわあわと声にならない声を出し続けているボクの頬を、サキがつつく。

 

「ふふ、夜羽くんのほっぺた、紅葉みたいに真っ赤」

「あ、そ、そんな事言うなっっっ! も、もっと自分を大事にしなよ、あんた!!!」

「……はえ? なんでそんなに泣きそうな顔してるの?」

「するだろっ!? だ、だって、男とそんな、二人きりで、お風呂……っ」

 

 ていうか、サキに関わらず、ボクが女湯に入るのって、中の年齢だけ見たら普通に犯罪じゃない?

 必死で両手を動かすボクを見て、一瞬ぽかんとしたサキは、ちょっとだけ頬を赤らめてはにかんだ。

 

「あ……やだ、そんなジェントルマンな心配してくれてたの? ありがと。

でも大丈夫だよ。鯨に『何歳まで一緒にお風呂入っていいと思う?』って私聞いたら、『よくわからんけど3年生ぐらいじゃね?』って言ってたもん! ヨルくん、小柄で可愛いから、1年生くらいに見えててもおかしくないし」

 

 そう得意げに言って、サキが後部座席から荷物を下ろす。

 ……そうか、サキには成人した男と一緒に風呂に入るんじゃなくて、ただの子供と一緒だと思われてるのか……。

 確かに、二人で一緒に行きたいって言っても旦那さん何も言ってなかったし。それどころか、サキは絶対湯冷めするからしっかり見張っててやってくれって、頼まれちゃったんだよな。

 なんか……複雑な気分なんだけど。嬉しいような、残念なような。

 でも、そこまで言うんならとボクが覚悟を決めて一人で頷いた時。人気のない駐車場の端っこから、ばさりという聞き覚えのある音が聞こえてきた。

 

「あ……え、ひ、ヒバリ……?」

「あら、ヒバリちゃん。こんなところまでわざわざ? いらっしゃい」

 

 ふわり、と車の傍に舞い降りたヒバリが、羽根を畳んでぺこりとお辞儀をした。

 こっちでサキが実際に会うのは初めてのはずだけど、ボクと雀愛が天使仲間として紹介しておいたのと、元の世界でもヒバリとサキは仲がよかったのもあって、もうすっかり顔なじみみたいになっている。まあ、中身はサキの知るヒバリよりは、随分大人なはずだけどね。

 翼になっていた神様は、例のごとく鍵の中で休むことにしたらしい。一度も姿を現さないまま、煙のようになった神様を吸い込んだ鍵を、ヒバリが胸元にしまった。そのままじーっとボクの方を見てくるので、なんとなく居心地が悪い。

 

「な、なんでここに……」

「カガミさんが、ヨルハがえっちなことしないように、見張ってろって」

「!!!」

 

 無表情なままびっと親指を立てられたけど、びっじゃないんだよ。

 風呂に入る前からのぼせそうなぐらい頭に血が上ったボクを差し置いて、サキがころころと楽しそうに笑う。

 

「あらあら」

「な……っ、よ、余計なお世話だからッ! 第一ボクは、はじめっからそんな邪な気持ちなんて、少しもっ……!」

「カガミさんに、行先、言わずに、出てったのが、その証拠」

「~~~~!!!」

「ふふ、じゃあ三人で一緒に入ろっか。それならいいよね、ヒバリちゃん」

「うん。ヒバリ、むっちゃん、守る」

 

 ボクが付いて行けないうちに、何故かそういう風に話がまとまっていた。

 どうやらサキの前では子供のフリをすると決めたらしいヒバリが、駐車場の外に身を乗り出して、サキに話し掛けている。

 

「あの、水のいっぱい溜まってる、とこ、なに?」

「ん? あれはね、ダムって言うんだよ。夏になったら、カヌーとかもいっぱい川に浮かんでるんだ」

「ちょっとっ、置いてかないでってばッ!」

 

 やけくそのように追い掛けたボクは、結局ムラサキとヒバリに両脇を挟まれて、女湯に連行される羽目になってしまったのだった。

 

***

 

 脱衣所の中にある、木製の荷物棚の前で、ボクは突っ立っていた。籠の中の荷物を見て、ゴクリと唾を飲む。

 

(ほ、ほんとに、一緒に、入るのか……?)

 

 走り回っている子供達とか、他の女の人やおばあさん達のことはなんとか意識からシャットアウトできるんだとしても、隣にいるサキの事だけはどうにもならない。隣から、もこもこのパーカーワンピの裾に手を掛けて、脱ぎ始める衣擦れの音が聞こえてくるだけで、もう顔が上げられなくなる。

 もうサキの家には何度か泊まったことがあるけど、そのたんびに何回誘われてもお風呂は絶対に別だったし、着替えなんか覗いたこともないし、雀愛がいる時はサキの誘いを固辞して雀愛の布団で寝た。

 そ、それがいきなり一緒の温泉って、ちょっとハードルが高いっていうか……

 

「あれ、まだ脱いでなかったの? ほら、夜羽くんもバンザイして」

 

 だから、服が脱げなくて困ってるんじゃないってばッ!

 もう脱がせてもらうような年でもないのに、もぞもぞとセーターごとシャツを取り払われたボクは、顔を出した瞬間、目の前に広がった下着姿の胸元に硬直した。

 ……ムリだ。刺激が強すぎる。

 

「あっ、そうだ。これも置いとかないと。折角だし、盗まれないように付けとこうか」

 

 下着の中から取り出したネックレスの指輪を、革紐から外して指に嵌めるサキのうなじから、慌てて目を逸らした。お湯につかないように、髪の毛を上げてるせいで、首筋までよく見える。

 するっ、と脚から抜けるショーツの端が視界に映ったような気がして、ボクはもう強制的に目を瞑った。見ない。見ない見ない見ない見ない見ない……

 

「はい、ヨルくん」

 

 とはいえ、目を瞑ったままで風呂に入れるわけもない。 

 すぐ近くに聞こえる声に、覚悟しておそるおそる目を開けると――胸から下を細長いタオルで隠した、ちょっと困った笑顔のサキと目が合った。

 これでもボクの心情を慮ってくれたのだろうか、ときょとんとしていると、タオルを当てたまま、もう片方の手で同じ風呂用のタオルを、ボクへと差し出す。

 

「これ、気休めにしかならないかもしれないけど、隠すのに使ったらいいよ。

広げて使ったら、ヨルくんくらいの身長なら下まで隠れるから。そしたら、周りから見ても男の子かどうか、あんまり気にならないでしょ?」

「……」

 

 どうやら、ボクがよっぽど裸を見られるのを嫌がっているのだと、勘違いしたみたかった。

 いや、まあ、それもあるけど、正直サキの裸に動揺し過ぎて、全然自分の事なんか気に掛けてなかった……。大衆浴場に来るの自体、修学旅行とかを抜いたら、元の世界でもほぼ初めてに近いかもしれない。

 渡されたタオルを広げて、おずおずとサキの方を見上げると、ボクが想像していたよりもずっとやせっぽちな頼りない体が、タオルの後ろ側から覗いていた。

 

「ごめんね。本当はイヤだったかもしれないのに、夜羽くんの気持ち、あんまり考えてあげられてなくて。

でも、大丈夫だよ。何か嫌なこと言われたら、私が守るから。それに、ここ人めちゃくちゃ多いってわけでもないし、自分が思うほど、誰も他人のことなんて気にしてないものだよ。怖がらないで」

 

 そう言って、手を差し出してくれる。普段、冬の着膨れした服に包まれて見えない、驚くほど細くて折れてしまいそうな腕と手を、ボクは見比べた。

 

「ほら、手つないで。滑るから気を付けてね」

「う、うん」

「ヒバリちゃんも、走っちゃダメだよ。中に入ったら、まずかけ湯からするからね~」

「はぁい」

 

 ぎこちなく繋いだ手から、温もりが伝わってくる。おかげで足元しか見ていなくても歩けるけれど、サキがどんな顔をしているのか気になって、思わず顔を上げてしまった。そして。

 

「……」

 

 そ、そりゃ、そうだよね。いくらタオルを持って入ってても、体とか頭洗う時に、そんなのもう関係ないし。

 この目にしっかり焼き付いてしまった、水に濡れた肢体を洗い流そうと、ボクも椅子に座ったまま慌てて洗面器のお湯を被ったけれど、どう頑張ってももうそれは網膜から去ってくれそうになかった。

 もう、サキが悪い。サキが全部悪い。

 一緒に女湯入ろうとか言うんだから、ボクはもう知らない。ボクが、どんな気持ちになってるかも知らないで。

 

「うう……?」

「ヒバリちゃん、ここんとこまだ泡ついてないみたいよ。じっとしてて」

 

 もしゃもしゃと、泡立てた手でしゃがんでヒバリの頭を洗っているサキの体が、隠すものも隔たりもなくすっかり見えた。ぐっと目を閉じて自分の洗髪は済ませたけど、どうしても隣が気になって薄目のまま動きを追ってしまう。

 よくよく考えたら、元の世界にいる間に、サキの裸なんて色々あって見慣れてはいたんだから、こんなに動揺する必要はない。それなのにこんなに胸が苦しくなるなんて、ボクは体だけじゃなくて、精神まで子供に戻ってしまったんだろうか。

 

「むっちゃん。ヨルハ、こっち、見てる」

「!!!」

「んん? あれ、ほんとだ」

 

 やばっ、ヒバリがいること忘れてた!

 どうしよう変な勘違いされたら、と慌てて前を向いたけど、ヒバリの頭を洗い流しながら首を傾げたサキは、何を思ったのかこっちにやって来て――泡をいっぱい纏った腕を巻き付けると、後ろからきゅっと抱き着いて来た。

 思わず、反射で変な声が出た。

 

「あわひゃああああ!?!?」

「わかった。構ってもらえなくて寂しかったんでしょ。しょうがないなあ。じゃあヨルくんは、体流すの手伝ってあげる」

「い、っい、いいいいいいい! だ、だってっ、せ、なかっ、そのっ、」

「ん? 背中? わかった、いいよ。最後に流してあげるから。でもその前に、ちゃんと前も洗わないと」

 

 べたっとくっついたまま、ボクの言葉を勘違いしっぱなしで、腕を伸ばしたサキが、もにゅもにゅとボクの腕から指先を洗っている。ボディーソープでぬるぬるした素肌の感触が生々しいし、ほっぺたがくっついてるし、腕だけじゃなくてその……

 いくら本人が自虐で小さいって言ってたんだとしても、これだけくっつかれたらどう頑張っても意識せざるを得ないだろって膨らみが、頭の後ろ辺りにぽよぽよと押し付けられている。全体重を掛けられて、さすがに顔から火が出そうになった。

 

「サ、キっ、わかっ、たからっ、もうちょっと、離れ……っ!」

「こらー、暴れないで。大人しくしてくれないと、お腹までスポンジ届かないよ。そんなに慌てなくても、背中は最後にちゃんと擦ってあげるってば」

 

 そうじゃなくて! おっぱいが背中に当たってるんだってばッッッ!

 隣からすごい冷たい視線を感じるけど、ヒバリの奴、ボクがわざと言ってると勘違いしてるんじゃないだろうな。

 公衆の面前で叫ぶのはさすがに憚られたけど、ヒバリにはじとっと見られるし、いっそ本当にそう言ってやろうかと思うぐらい拷問に等しい時間だった。

 

(はあ、はあ、死ぬかと思った……)

 

 洗い場を抜けて、ようやく風呂の中へ。

 ガラス張りの窓の外には、大自然が広がっていた。

 ここならまだ、外の景色がある分、目のやり場に困らずに済む。

 

「ヨルハ、スケベ」

「しょーがないだろッッ!?!?」

 

 石段に座って足でお湯を跳ね除けていたら、鼻まで浸かってぶくぶく泡を吐き出したヒバリに言われたけど、これで何も反応するななんて、元の世界のボクでも無理な話だ。

 ボクだって、大人の体に慣れてるんだったら、もーちょっとくらい平気でいられるはずなのに……

 サキのところまでそのまま泳いでいったヒバリは、肩にお湯をかけて、つべつべとサキの背中を触りながら、楽しそうにしていた。そんな目でこっち見るな。別に羨ましくなんてない。

 

「ありがと、ヒバリちゃん。気持ちいいねえ」

「お湯、つるつる」

「んふふ、そだね。温泉はね、お肌にいい成分いっぱい入ってるから。ヒバリちゃんも、今よりもっと美人さんになれるよ」

 

 細い肩を並べたサキが、ヒバリと外の方を向いて、話をしている。傍にある木製の吐き出し口から出て来るお湯を触ってみると、入っているお湯よりちょっと熱い。ヒバリも、触ってびっくりしていた。

 

「これが、源泉の熱さかな。手で触れる程度なら、本物はもっと熱いかも」

「ふうん。だからここのお湯、ちょっと熱めに設定されてるのかな」

「あ、熱かった? それなら、のぼせないうちに露天に行って来ようか。あそこなら、外だから室内湯よりはぬるいと思うよ」

 

 そう言って、サキがボクらを連れ出してくれた。

 屋外へ続くガラス扉を開けると、途端に吹き込んで来た風が、あたたまった体のぬくみを一瞬で消し去っていく。慌ててばしゃばしゃと岩に囲まれた風呂に入ったヒバリが、ふうと息をついていた。そりゃ、これだけ寒かったら、走りたくもなるよな。

 ぬるめのお湯は丁度良かったみたいで、ヒバリはタオルを頭に乗せたまま、満足げに声を上げていた。

 

「気持ちいい」

「よかった。外が寒いから、丁度いいね」

 

 岩場に腰掛けて、竹が編まれた柵の外を覗くと、青々とした水の湛えられた川と、それを取り囲む山々が見える。今はどこも燃えるように、仄かに色づいていた。

 これを目当てにやって来る客もいそうだ。冬になったら、雪化粧をするようになるんだろうか、この森も。

 想像したらちょっと寒気がして、ボクはくしゅっ、とくしゃみを一つ吐き出した。

 

「ありゃ、寒過ぎたかな。あんまり肩出してると冷えちゃうよ。こっちおいで」

 

 それを聞き逃さなかったサキに、すかさず体を抱き締めて引っ張られる。

 じゃぶん、と浸かったお湯のあたたかさとは別に、ほっそりした体の温もりが、すぐ傍でボクを包むのが分かった。

 

「あ、あの……」

「恥ずかしがらなくても大丈夫。今、ここ人いなくて貸し切り状態みたいだし。折角だから、今のうちにのんびりしちゃおう」

 

 雫を垂らしたたおやかな指先が、背後から汗ばんだボクのおでこを撫でた。ちゃぽん、と水の跳ねる音がする。

 濡れた髪を上げたムラサキは、柔らかい笑みを浮かべると、岩に寄り掛かったままで、膝に乗せたボクをぎゅっと抱き締めた。体を洗われてる時ほどの緊張はしなかったけど、こっちの世界に来てから、ムラサキとこんなに肌と肌が触れ合うほど密着したことがなくて、やっぱりどっどっと心臓は煩いままだった。

 湯煙が、絶え間なく濁った温泉から立ち上り、空へ向かっていく。その様を、眺めるとはなしに、ボク達はぼんやりと眺めていた。

 

「……」

「ヨルくん、ちゃんと楽しめてる?」

「あ、ああ、うん! 大丈夫……」

「ならいいんだけど。なんか今日、ずっとカチコチだったみたいだから。そんなに緊張しないで。大丈夫大丈夫」

 

 そう言って、ふわりと腕の力を緩めながら、頬をくっつけてくる。

 ……サキが緊張を解そうとしてやってくることが、大体全部逆効果なんだけど。

 でも今は、監視でついて来たヒバリも、誰もいない広い温泉で泳ぐのに夢中になっていて、こっちを見ていない。

 それをいいことに、ボクは初めて肩の力を抜いて、そっと背をサキの体に預けた。

 

「……あったかい」

「うん。あったかいね」

「あんた、重くない?」

「平気だよ~。お湯の中だもん」

 

 目を閉じたまま話し掛けると、耳元の声が、すぐに答えてくれる。

 完全に開き直れた訳じゃないけど、子供の身の上も、悪くない。

 膝に横座りして、思い切ってでこぼこの背中にそっと手を回すと、少し驚いたサキが、くすぐったそうに笑いながら抱き返してくれる気配がした。

 

(……あれ? サキの鼓動……)

 

 なんか、胸元に耳をくっつけたら、骨を伝ってくる振動のペースが、ボクと同じくらい、速い気がする。

 その時は、お風呂のせいかな、と思いながら、ボク達は温泉を堪能し尽くした後に、大浴場を後にした。

 

***

 

「さて、入浴後のお楽しみタイムだね」

 

 髪もすっかりドライヤーで乾かしてから、暖房が効いた休憩場の椅子で、サキが取り出したがま口財布を、ヒバリがきらきらと見つめていた。

 ……本当に、中身は大人なんだよな? あんまり、ヒバリって成長しても雰囲気が変わってない気がする。

 同じように腰掛けた人たちが、テレビで放送されている大相撲に気を取られている中、サキが各方面をびっと指さした。

 

「あっちに、りんご酢の屋台。あっちに、牛乳を売ってる自動販売機。そしてその隣に、アイスの自動販売機がございます」

「アイス。アイスがいい」

「はいはい、わかった。じゃあ、これで好きなの選んで買っておいで」

 

 ムラサキから硬貨をもらったヒバリが、嬉しそうに飛んで行って、自販機の客の後ろに並び始める。

 ボクはそのすぐ隣で、瓶入りの牛乳を買ってから、サキの隣にすとんと腰を下ろした。

 

「おお、チョイスが渋いね。やっぱり腰に手を当てて一気飲みか?」

「んな事するわけないでしょ。あんたじゃなくてもお腹壊すよ」

 

 ぺろっ、と紙の蓋を剥がしてから、こくりと一口飲んで、サキに渡す。

 

「ん、もういいの?」

「一気に飲んだら冷えるし……交代で、飲めばいいかなって」

 

 頷いて笑ったサキが、牛乳瓶の透明な縁に唇をつける様を、薄着のTシャツから覗く鎖骨を、軽く逸らされる喉を、じっと目で追ってしまう。ほんのわずか、前の世界に置いて来たはずの記憶が、頭の片隅でフラッシュバックした。

 

(……い、いや!!! 他意はないから、他意は……)

 

 牛乳飲んでるとこを見て、なんて想像をしてるんだ、ボクは。

 およそ小学生に不似合いなそれを頭から追い出すようにぶんぶんと振ったら、ふう、と前髪を手で掻き上げたサキが、ふっと笑った。

 

「口。白いのついてるよ」

「え? あ……」

「そっちじゃなくて。ここ」

 

 そう言って、髪を拭いていたタオルで口元を拭ってくれる。こんなんじゃやっぱり子供にしか見えないよな……と落ち込んだその時だ。

 

「……ごめんね」

「……ん? 何が?」

「んーん。夜羽くんが、あんまりかわいいから」

 

 何に謝られたんだ? と首を傾げてみたけど、サキは笑ったまま教えてくれない。

 

「何だよ」

 

 むすっとしたまま、強請るように椅子についたままの腕を揺すると、サキは不安そうにちらっと周囲に視線を走らせてから、赤い顔でそっとボクの耳元に口を寄せた。

 

「夜羽くんの見た目と精神年齢が釣り合ってない事ぐらい、私ほんとは分かってたんだ。

でも、私は悪い大人だから、どうしても、一緒にお風呂に入りたくってね」

 

 意地悪しちゃった、と申し訳なさを織り交ぜつつも照れたように笑う顔を、ボクはぽかんと見上げる他ない。

 

「え……あ、え……? じゃあ……」

「だって、家で何回一緒に入ろうって誘っても、夜羽くんに断られちゃうんだもん。

温泉の大浴場だったら、人の目もあるんだし、健全ぽくていいかなぁって。

……で、でも、ごめんね! 強引なことして。

その、夜羽くんとくっつけるのがあんまり嬉しいからなのかな。私、一緒にいるとなんか……っ、あ、や、やだ私、何言ってんだろ」

 

 どんどん小声になったサキが、さっき風呂から上がったばかりなのに耳まで赤くなる。

 

(じゃあ、露天風呂に入った時に、サキの心臓がドキドキしてたのって……)

 

 バニラアイスを走って持って来たヒバリを見て、慌てて誤魔化すように立ち上がったサキにそれ以上は聞けなかったけど、やっぱり頬に赤みが残ってる分、期待をしてしまう。

 ボクはお風呂に入った時以上にぶわっと熱くなった顔を誤魔化そうと、間接キスを意識する間もないまま、残りの牛乳を一気飲みしたのだった。

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