「おい、もういい加減に泣き止めって」
「……」
「主人を守れるような、格好良い守護天使になりたいって、あんた言ってたじゃんか」
「……」
「あーもー! しっかりしてよね! 小学校3年生にもなって何なんだよ! 冬休みが終わるの嫌だから家に帰りたくないなんて!」
気まずさ全開の雰囲気に耐えられなくなったのか、ほろほろ涙を落とす夜羽の前で、恵李朱が両腕を突き上げながらカーペットにひっくり返る。
新年が明けて数日。
名古屋の藤家で留守番中だった恵李朱は、岐阜にあるムラサキのアパートまで遊びに来ていた。
無論、兄(ということに魔法でなっている)の夜羽はずっとムラサキのところへ泊まり込みなので、名古屋に戻っていきなり学校というのも何だし、そろそろ早めに帰宅したらどうかと他意もなく勧めたら、泣かせてしまったという次第である。
その前から、元気のない夜羽にどうしたのと尋ねたムラサキによって、既に半泣き状態だったのだが。
むー、と掌に乗せた使い魔のサソリ達と相談する恵李朱の隣で、ムラサキは狐姿の伽々未にこそっと声を掛けていた。
「ね、ねえ。いくら本当のこととはいえ、やっぱり夜羽くんには、こんな残酷な真実を伝えるのはちょっと早すぎたんじゃない……?」
「なんじゃ、魔法とこの世界の真実のことか?
言うも何も、夜羽が自身で気付いてしまったのじゃから仕方がなかろう。そもそも、教えたのは儂じゃなくおまんの方じゃし」
「そうなんだけどさ〜〜! なんか、自分じゃ何の力にもなれないからって、魔法使いとしての自信まで失くしてるみたいで……」
「まあ、本人の心の問題じゃし、折り合いがつくまで悩ませるしかなかろうが……しばらくは存在自体も、不安定になるかもしれんのぅ」
見上げた伽々未とベルの気遣わしげな視線が、支えてやってくれ、と訴えている。
あの夜、不安ならいくらでも不安になっていい、無理に心を切り替えなくていいとはムラサキは言ったが、それでも元気をなくしている夜羽が学校にまで行きたがらないとなると、向こうに戻ってからの生活が少し心配ではあった。
髪の中にサソリ達を戻してから、恵李朱がムラサキの肩をつっつく。
「ねえ、あれホントに大丈夫なの? お姉さんが夜羽のこと、甘やかしすぎたんじゃない?」
「あはは……それは、当たらずとも遠からずというか、否定はできないなぁ」
甘やかそうと思わなくても、そうしてしまうのだ。可愛くて可愛くて仕方がないから、冬休みの間しかこんな事できないという気持ちも手伝って、布団に好きなだけ潜り込ませたし、お風呂も一緒に入ったし、膝に乗るのもくっついてくるのもハグしてくるのも、時間の許す限り絶対に拒否しなかった。冬休みでなくとも、拒否しようもないが。
「わかった。じゃあ、ほろほろ夜羽くんのために、私が美味しいお菓子を作ってあげる」
褐色の柔らかな頬から指先で涙を拭い去って、ムラサキが微笑んだ。
顔を上げた夜羽が、気恥ずかしそうにちょっと目を逸らす。
「あの……あの……サキが、昔得意だって言ってたおかし、出来る……?」
「ああ、そういえば作りたいって言ってたねぇ」
スマートフォンで、ムラサキが作り方を調べたクッキーの名前は、スノーボール——その名の通り、雪玉のように粉砂糖を纏ったころんとした丸い形が特徴の焼き菓子だ。
「だいたい家にある材料で出来……おっと、これは」
「アーモンドプードル」「粉砂糖」と書いてあるところで、ムラサキは指を止めた。
「買いに行きたいけど、うーん……」
リビングの面々が、揃って窓の外を眺める。すりガラスのベランダへ続く窓を開けるまでもなく、外の白さでわかる。完璧な雪景色だ。今も絶え間なく、空から白い粉が降り続いている。
「弱まった瞬間に……歩くか、スーパーまで……」
「ダメダメ! サキ風邪引いちゃうよ! サキの体調を犠牲にしてまでお菓子作るなんて、絶対にダメだから。ボク大丈夫」
ぼそっと呟いたムラサキを、慌てて夜羽が止めていた。
怪訝そうな顔で、ムラサキが夜羽を振り返る。
「でも……夜羽くん、食べたいんでしょ」
「ちょっとだけ、雪みたいで可愛くて綺麗だなって思ってた。でもいいんだ。……こんな時、少しでも雪を止ませたり、体をあったかくしたり、道路の雪を溶かすことができたら、サキを外に行かせてあげられるのに」
窓の外を見つめたまま、肩を落とす夜羽を見て、ムラサキと恵李朱は顔を見合わせる。
「夜羽には可哀想だけど、でもお姉さんが出かけるのは、ボクも賛成できないかな。
いつも、雪かきした後や徒歩で買い物した後は具合悪くしてるし。それで疲れて寝込んだりしたら、アイツますます落ち込んじゃうよ。
かといって、さすがにこの材料は、スーパーまで行かないとないんでしょ」
「うう、だよねえ……一応、アーモンドパウダーは薄力粉で代用できるって書いてあるけど、多分これは、クッキーをサクサクにするために入れる材料なんだよね。これなしでも、ちゃんとほろっとした美味しいクッキーになるのかどうか……」
昔ムラサキが成功させたクッキーは、ほろほろの口当たりで、粉砂糖が優しくとろける絶品だった。
ただのクッキーになってもよいのなら作れるが、それだと意味がない気がするし……と、ムラサキはスマホの中のレシピを漁る。
(アーモンドプードル、代用、検索っと……。
コーンスターチ……へぇ、原料は違うけど効能的には同じなんだ。胡桃粉……これも買いに行かないとないよねぇ。きなこ……うーん、今は家にないなぁ)
あまり買わない製菓材料なので、安いもので如何に代用するか、調べれば出てくるものの家には持ち合わせがないものばかりだ。
唸りながらページを捲っていた時、ふと手が止まった。
(ん……すりごま?)
ごま、でピンときたムラサキが、調味料の棚を漁る。
昆布や乾物などがまとめて置かれた段から、期限のだいぶ切れた胡麻を発掘し、ムラサキは量りを探した。
(あった! 料理用に買ったけど、なかなか使わなくて余ってたんだ。
アーモンドプードル40gってことは、これが40g分あればいいってことだよね。えーと……)
袋ごと量りに乗せてみたものの、12gしかない。
(うわ、全然足りない……残り28gを薄力粉で誤魔化す……?
いやでも待てよ……胡麻をすり潰してすりごまにするってことは)
踏み台を持って来て、台所の上の棚から滅多に出さないすり鉢を出してきたムラサキは、今度は窓辺に行ってお菓子の置いてある籠を漁り出した。
その中から、スコーン用に買ってあった胡桃の残りを引っ張り出し、量りの上のカップに乗せてにんまりと口角を上げた。
(さすがにこれは足りるでしょ! よし全然余裕。あとは……)
「サキ……? 何してるの……?」
バターを切り始めたあたりで、先程まで窓辺でべそべそしていた夜羽が、不思議そうに近付いてきた。
まだちょっと目が赤いが、その瞳にもう涙はない。その顔を見て、ぐっと腰を屈めたムラサキは、とっておきの笑顔で言い放った。
「作れる! 作れるよ、ヨルくん!
魔法がなくても、ほろほろのクッキー!」
*****
「お菓子を作る覚悟を決めたら、まずはバターを室温に戻さないとね。これが何気に、一番時間掛かるから」
お菓子作りだって、ボクが現実世界のサキに手を出して手伝えるわけじゃない。
ボクのために、こんな大変な作業をさせるなんて……と思ったけど、サキは効率を考えて動いていた。
バターを切る時に、キッチンペーパーに包丁の刃を挟んで、バターの上から押すように切る。そうすると、ちゃんとバターは切れるし、バターにも包丁にも紙はくっつかない。キッチンペーパーのおかげで包丁が汚れないから、これだけで洗い物が減るし、油でべたべたの包丁を洗う手間もない。サキはこの方法だけで、バターを使うのがずっと楽になったって言っていた。
早く柔らかくなるようにと、バターを入れたボールをストーブの上にでんと置いてから、サキは台所に戻って腕まくりをし、とっても小さなすり鉢とすりこぎを握った。
「そんなの、この家にあったっけ……?」
「あるのよ〜。私がめっっったに胡麻和えしないし小さすぎて使いにくいから、ほとんど使ったことのないすり鉢が。でも、今日の日のために取っておいてよかったわ、これ。
アーモンドパウダーってね、お菓子をサクサクにしたり、風味を加えたりするために使うんだけど、アーモンドの油が入っているから、同じように油分を含んでいるすりごまでも、代用出来るんだって。
だから自作しようかな、と!」
そうなかなかに凄い事をのたまったサキは、胡麻を磨り潰し始めた。けど、掌サイズの小さなすりこぎでは、なかなか胡麻は細かくならない。このままじゃサキの方が先に疲れるんじゃないかとヒヤヒヤしていたら、サキは調理器具の入った引き出しをごそごそし始めた。
「やっぱり、これじゃ手間掛かるよね」
そう言って取り出してきたのは、よくクッキーを伸ばす時に使っている、木ののし棒。……その絵の具皿みたいなすり鉢と、全然サイズ感と比率が合ってない奴。
「おお、早い早い! ヨルくんも、しっかり押さえてて!」
言われて、ボクは慌ててしっかり鉢を押さえながら、力を込めた。
でも、胡麻だけじゃ少ないみたいだけど……と思っていたら、サキは擦ったゴマを容器にあけて、空になったすり鉢の中に、近くにあった胡桃を数粒、ころんころんと落とし入れる。
「……あの、まさか」
「せいっ」
勢いよく掛け声を掛けながら、胡桃を潰し始めるサキ。
胡桃とはいえ、刻まれているわけじゃないから、大きい奴は一粒がかなりでかい。しかもこのすり鉢はすごく小さいから、少しずつだとしても摩り下ろすのは大変だろうに、ごんごんと音を立てながら、サキは丁寧に胡桃をデカい棒で砕いて、さらに小さく磨り潰していく。
「あの……大丈夫……?」
「うん! 40gだったらこれで何とかなるよ! これ以上多かったら難儀しただろうけど、さすがにこのくらいならね! これを合わせて、アーモンドプードルの代わりに入れてみようと思うんだ」
そんなに手間暇掛けるくらいなら、やらなくていい、ボクは魔法も使って助けてあげることもできないのに……と思っていたのに、サキは顔を輝かせてすごく楽しそうにしていた。
かなり時間は掛かったけれど、あらかた磨り潰してから、今度はストーブの上のバターを練るために、様子を見に行く。
「う……まだヘラじゃ割れないか……んー、本当はレンチンしたら楽なんだけど、金属製のボウルにしちゃったしなぁ」
「プラスチックのボウルじゃないと、レンジに掛けられないもんね」
こんな時にも、汚さずボウルを移し替える魔法なんかが使えたらいいのに、ボクはそんな小さな手間の巻き戻しすらしてあげられない……と思わず肩を落としていたら。
サキは、ちっちっちとボクに向かって指を振ってみせる。
「夜羽くん。何のために私が金属のボウルを選んだと思っているのかな」
「……?」
そういえば、サキはお菓子作りの時に、これ選ぶことが多いけど。なんでだっけ。
するとサキは、潔く台所から引き返し——でん、と思いっきり石油ストーブの火の前に居座った。ボウルとヘラを抱えたまま。
「え、ええ……」
「金属は、熱伝導率がいいでしょ。普段これを使ってバター混ぜるのは、お湯で洗った時に油分が溶けて洗いやすいからだけど、こういう使い方もできます」
「あ、暑くないの……?」
「ぶっちゃけ混ぜながらだと暑いね! まぁでも今は冬だし! 大丈夫大丈夫! 多分じきに柔らかくなってくるからさー」
言っている間にボウルの温度はどんどん上がり、既にボウルに接しているバターの塊の表面は溶けてつるつるになってきて、ボクは目を見張った。
「す、すごい……」
「それに金属は、一度あったまると暫く熱を蓄えてくれるからね。この調子で、柔らかくなるまでどんどん溶かすよー」
どれだけ冷蔵庫で冷えたバターでも、さすがに直火の前に置かれたら耐えかねたらしい。
しばらくするとヘラを刺したり割ったりできる程度に柔らかくなり、そうなるとクリーム状に練られるようになるまでは、結構早かった。
すっかり柔らかくなってから、そこへ砂糖と余っていた胡桃を入れてすり混ぜたサキは、スマホのレシピを確認する。
「え〜っと、『粉類は併せて奮っておく』……これ奮えるのかな?」
そう言って、胡桃とごまの摺り下ろしの山をサキは眺めた。
確かに、木の実の皮とかも入っているから、うまくザルの目を通るだろうか……。
「まっ、いっか! やってみよ!」
そう言って、サキは小麦粉と混ぜたそれらを、ザルに入れてバターの上から篩い落としたけど、残念なことに、やっぱり細かい皮はザルの上に残ってしまうみたい。
人力だと、どうしても細かい粒も残ってしまうから、これを無視したらかなり材料が減るだろうな、ってくらいの量が、ザルの上に取り残されてしまった。
「ううぬ……よし」
もう一度肩を落とし掛けたボクに対して、サキはそう簡単に諦める人じゃなかった。
ザルに残った材料をざざーとすり鉢に戻して、もう一度摩り始める。
何度でも、何度でも。奮って、濾して、残った分をまた鉢に残して、磨り潰して。
延々とそれを繰り返すうちに、少しずつ網の目を通る粉の量が増え始めた。でもこれ、雪の中だとしても買いに行った方が楽だったんじゃないかってぐらい、ものすごい手間だよ。
思わず見かねて、ボクは冷たい台所でサキの袖を引っ張っていた。
「あ、あの、サキ。ちょっとぐらい粒が残ったって、大丈夫だよ。もうこんなに頑張ったんだし、そんなに一生懸命頑張らなくても」
「ダメだよ。だってこれは、願掛けみたいなもんだもん」
「……願掛け?」
「そ。夜羽くんの悩みが消えますように、夜羽くんの哀しみが消えますようにって、ヨルくんを苦しませるもの、全部が潰えますようにって思いを込めながら、磨り潰してるんだから。ちゃんと全部奮えるまで、しっかりやらないと。ほろほろのクッキーにしたいしね」
「サキ……」
そう言って、真剣な顔で右手を一生懸命振るう姿を、ボクはじーんとなって見つめた。
そんなこと……考えてくれてたんだ。ボクは落ち込んでばかりだったのに、サキはボクのことを励まそうとして、魔法がなくてもこんなに色んなことができるよって示そうとして、こんなことを。
思わずボクも、美味しくなりますようにと願いを込めて、微笑みながら添える手に力を入れていた。大丈夫。サキがこんなに一生懸命作ってくれたんだから、材料が多少違っても、たとえほろほろってならなかったとしても、きっと絶対に、おいしくなる。
そうやって頑張ってはいたんだけど、やはり完璧にとは、いかなかったみたいで。
「も……もう限界……信じらんないよぉ、こんなに潰してもまだ残ってるだなんて……。もう、残りの奴全部入れちゃっていいかな……?」
「十分すぎるくらいだよ。サキは頑張ったって。これも食感だから」
結局少しだけザルの上には残ってしまったけど、ぜえぜえ息を切らしながらそう聞いてきたサキに、ボクはもちろん苦笑しながらOKを出していた。
ほんと、十分だよね。材料を手作りしてくれたところから、もう十分すぎるくらい、ボクは気持ちをもらってる。ありがとう。
ようやく粉類の準備ができたところで、サキはバターの入ったボウルごと、それをヘラでざくざく切るように混ぜ始めた。空気を入れた方が膨らむから、べっちょり捏ねないよう、ボウルを左手でくるくる回したり、時々その方向を変えたりしながら、ざくざくと。
ほろほろさがウリのクッキーみたいだけど、この時点でもうかなり生地はぽろぽろと崩れやすくて、サキはそれを両手でしっかりと纏めてから、天板にオーブンシートを敷いた。
「えっと、30等分って書いてあるね。てことは、これを三つに分けて……」
「それをさらに半分に分けたのを、5つに分ければいいかな?」
「うん、そうそう。さすがヨルくん。でも、こんな少ない生地なのに五等分できるのかな……?」
サキが生地を割ると、もうそこからぼろぼろと崩れてしまう。
オーブンシートの上で作業をすると、細かく割れた生地の粉や破片が広がるのを、けれどサキは丁寧に生地にくっつけて拾い直して、1つ1つ小さく手で丸め始めた。
かなり難しそうだから、ボクは隣に立ってくっつきながら、その作業をじっと眺めている。
目を細めたサキが、優しそうな光をその目に湛えながら言った。
「ふふ。なんだかこれ、ヨルくんや私の心を触ってるみたいね」
「心……?」
「そう。すぐにひび割れちゃって、壊れやすくて、一度壊れるとなかなか元に戻らない、心」
サキは、ゆっくりそう言って、丁寧にひとつを掌で転がした。両の掌で挟んでぐるぐるするようなやり方じゃなくて、片方の掌に乗せて、もう片方の手の丸い丘の部分を押し付けるようにしながら、少しずつ、少しずつ。
今にもそこから蕾が開くようにぱっかり割れてしまいそうだったヒビが、絶妙な力加減で、丁寧に塞がっていく。
その表面をやさしく撫でて、天板の上にそっと置きながら、サキが微笑む。
「ね。でも、大丈夫。どんなに面倒くさくても、こうやって時間を掛けて、丁寧に扱ってあげれば、この通り。
完璧な形にはならないし、ちょっと歪だったり、小さかったりもするかもしれないけど。
壊れる度に、少しずつ少しずつ欠片を集めて、力を入れて潰れすぎないように、何度でも優しく握ってあげるんだよ」
「……」
こんなに意気地なしで、面倒くさくて、自信がない守護天使、サキにとっては必要なくなっちゃうんじゃないかって、思ってた。どんなに信じてもらっても、いつまでもどうにもならない事をうじうじ気にして、立ち直れないボクじゃ、サキも嫌になるんじゃないかって。
でも、サキの作るお菓子は、その仕草は、ボクの全部を安心させてくれる。
美味しくて、やさしくて、とっておきの魔法。
その言葉にほんの少し瞳を光らせたボクを、サキは優しい目で覗き込んで言った。
「ね、ヨルくん。こんな言葉知ってる?
『人生の豊かさは、その中から取り出すものではなく、その中に注ぎ込むものによって決まるのだ』って」
「……?」
「赤毛のアンに、出てくるんだけど。アンはさ、大学を受験しようと思ってたんだけど、同居してた家族のマシューが亡くなって、マリラも目の病気になって不自由になってしまったから、傍にいて支えないわけにはいかないって言って、一度は進学を諦めて地元で先生になることを選ぶのね」
台所に立ったまま、サキの語る言葉を、ボクは興味津々でじっと聞いている。
生地を千切って丸めるのを繰り返しながら、サキもボクと話していた。
「そのアンが、ひょんなことから進学できるチャンスが巡ってきて……その時に、教会の奥さんか誰かが、アンに言った言葉だったと思うんだけど」
「人生から……取り出すっていうのは、色んな事を学んだり、経験したりして自分の糧にする、って意味に解釈できるよね。普通はそうじゃない? でも、注ぐってことは……」
「ふふ。私はね、今これを作ってて、やっとその言葉の意味が、なんとなくわかった気がしたんだ。
何となく印象に残ってる言葉でさ。ヨルくんみたいに、どういう意味だろうって、事あるごとに思い出してはずっと考えてたんだ。宝箱から、小石を取り出して眺めるみたいにしてね。
でも、やっとわかった気がする。何となくだし、上手く説明はできないんだけど……」
できあがったひとつを、指先でサキが置く。惜しみなく、ただただ手間を注いで作ってくれた、サキのクッキーとその言葉を、ボクは重ねて眺めてみた。
(注ぐ……注ぐ、か)
人生に対して、取り出して得るのではなく、注ぎ込むものは何だろう。
惜しみない愛情? それとも、投資やお金のこと? 確かにその「何か」は、あるように見えるけど上手く表現出来ない。
愛理が前に、神社で結ぼうとしていたおみくじを、ボクにこっそり見せてくれた時のことを思い出した。前に引いてからずっと持ってたけど、吹っ切れたし気にしない事にしたから、もう置いていくんだ、って言ってたけど。
『愛注げど行きて帰らず』
そう書いてあったのを思い出して、ボクは小さく目を見開いた。
「わかった。……ボクにもわかった、気がする。
注いで、返ってくるかどうかじゃないんだ。たとえ、もし注いで返って来なかったとしても。
愛理のおみくじには、そう書いてあったけど、でもそうじゃない。帰って来てくれるから、注ぐんじゃないんだ。どんな結果に終わったとしても、注いだものは、きっと……」
いきなり要領を得ずにそう話し出したのに、一生懸命顔を上げて見上げるボクを、サキは優しい目で微笑んで見つめながら、頷いてくれる。
「……人生の豊かさ、ね」
最後の一粒を天板に転がしながら、小さく呟いて後を引き継いでくれた一言が、言葉にならない全部を表していた。
いいことも悪いことも、全部。
結果を顧みずに注ぎ込んだことは、無駄に見えても必ず、己を成してくれる。
サキはそんな風に、今の生活を生きているんだな、とその瞳を見て強く思った。
*****
「少し冷やした方がいいって書いてあるレシピもあったし、前回のマドレーヌはそれで上手くいったから、今回も冷やしてみようか」
オーブンが余熱できるまでの間、サキが天板ごと、生地を冷蔵庫に入れる。
少し休憩している間にオーブンが温まって、ボクらはクッキーを焼いている間に近所の神社まで初詣へ行ってから、戻ってきた。
「いい匂いがする。いい感じに焼けてるみたいだよ」
部屋に戻ると、リビング隅っこで雑誌を読んでいた恵李朱が顔を上げて告げる。その言葉とほぼ同時に、信じられないぐらい香ばしい香りが顔面を直撃して、ボクとサキは思わずにっこりと顔を見合わせた。
オーブンの蓋を開ければ、少し茶色くなったころころの丸いクッキーが、ずらりと並んでボクらを出迎えてくれる。
焼きたては生地が柔らかくて崩れやすいらしいから、サキはそ〜っと天板ごと炬燵の上へ運んだ。冷めるのも待ち遠しいぐらいだ。天板の隅に転がっちゃった球は、そのまま天板の溝の跡がついてちょっと潰れた感じになってるし、二つくっついて雪だるまみたいになってる奴もある。ボクたちは小さく笑ってしまった。
コーヒーを淹れてもらって、それを飲むより先に、サキは歪だった一個を選んで口に運ぶ。カリッと、それはそれはいい音がした。
「……どう?」
「う〜〜〜〜ん、頑張ったけど、ほろっ、ではないかなぁ。サクサクする」
そう言って、サキが破顔する。
サキの代わりに口に放り込んだクッキーは、焼き立てのサクサクした味わいで、胡麻とくるみを入れた事によるうんと香ばしい香りが、鼻の奥いっぱいに広がった。元々は粉砂糖を振って完成させるクッキーだから、甘さも控えめになっていて、それがまた素朴でいい感じ。すごく美味しい。
「美味しいよ」
「ふふ、でも、あんだけ格好つけたこと言いながら、結局普通のクッキーになっちゃったね。さすがに、きび砂糖を篩に掛けたところで、粉砂糖になるわけがないし」
そう言いながらも、満悦そうな顔でクッキーを齧るサキを見ながら、ボクは少し考えた。
「……ヨルくん?」
「ちょっと、待ってて」
今なら、魔法が使えるかも。
ボクは驚くサキを残しながら、窓の外に出て、向かいの家の屋根にたっぷり積もっていた白くて綺麗な雪を、ちょっとだけ拝借する。
袋に入れたそれを、サキの目の前に持ってくると、キラキラと輝く純白の粉砂糖がいっぱい出来上がった。雪原の雪景色が袋の中に生まれた様子を見て、サキが感嘆の声を上げる。
「わぁ……」
ボクは、クッキーの一つを摘むと、ちょんちょんとその粉砂糖をつけた。
あーん、と口元に差し出すと、クッキーを口に含んだサキは幸せそうに頬を緩ませる。
「どう?」
「うーん、美味しい」
「……やっぱり、見た目が綺麗なだけで、本物の砂糖の味はしないよね」
「でも、お砂糖なんて本当はいらないと思うんだけどなぁ」
「?」
不思議に思って首を傾げると、サキは炬燵に入ってきたボクの方に肩を寄せ、一緒の炬燵布団に入ってぎゅっと体をくっつけながら、くすぐったくてたまらないというように、悪戯な笑みを浮かべた。
「だって。粉砂糖なんかより、ヨルくんが私を想ってくれる気持ちの方が、うーんとうーんと甘いもの。
だから初めから、粉砂糖は要らないかもって思ってたよ。ヨルくんの愛が甘くて甘くて、これ以上砂糖があったら糖分の摂りすぎになっちゃう」
「……!」
炬燵が暑く感じるくらい、一気に顔にぶわっと血が昇るのを感じた。
隣から、ん? と覗き込んでくる嬉しそうなサキの顔が、まともに見られない。
もっとクッキーが食べたいのに、なんだか急に胸が詰まって、いっぱいになっちゃった。
「……じゃあ、こんな砂糖だったらいくらでも、摂りすぎになるぐらいもっと沢山摂ってよね」
そう小さな声で零しながら、隣の手を握るのが精一杯。
もうほんと、サキの言葉と魔法には、敵わないんだから。
魔法を取り戻してくれた、大好きな人の横顔を、ボクは熱い掌を感じながら見つめていた。
補足:
厳密には違うのですが、ムラサキの引用した言葉は、作中ではこんな風になっています。
「『わたしはあなたが大学へいけたらいいと思っているのよ、アン。でもね、もしいかれなくても、がっかりしてはだめよ。けっきょく、わたしたちは、どこにいても、自分の人生を築いていくことには変わりがないのですからね。……大学はただ、それをもっと、らくにしてくれるだけなのよ。その人生がはばの広いものになるか、せまいものになるかは、人生からとりだすものによるのではなくて、そのなかへつぎこむものによってきまるのよ。人生はここでは……ここにかぎらず、どこでもそうだけれど……ゆたかな、充実したものですよ。わたしたちが、そのゆたかさと、充実したものに向かって、どんなふうに、心をひらいたらいいかをおぼえさえすればね。』」
『赤毛のアン(2)アンの青春』作:モンゴメリ 訳:村岡花子 出版社:ポプラ社
145pより
私は昨年からはじめて赤毛のアンのシリーズを読み始めたのですが(まだ途中までしか読んでないけど)、この部分にはとても感銘を受けてページごと写メってました。
専業主婦になってから、何度も支えられてきた言葉です。