学校に、行けない。行きたくない。
そう言ったボクを、サキは理由も聞かずに家に迎え入れて、好きなだけ一緒にいていいと言ってくれた。
実際、うまく説明なんてできそうもなかった。
最初は、ただムラサキの家と、通っている名古屋の家や学校との往復に、疲れているだけなんだと思ったけど。
朝、だんだん布団から起きれなくなって、目覚ましが何回鳴っても、エリスに起こされても、出られなくなった。
別に何か病気とかじゃないのに、体とか肩がずんと重くて。伽々未に調べてもらっても、別に何も憑いたりしてないって言うし。ただ、魔力が少し枯渇気味だと言われた。ムラサキほどじゃないけど、風邪も引きやすくなっていたから、あまり寒い中を遠出したりしないように、と彼女からも釘を刺されて、熱が出た日は週末も家のベッドで大人しくしていた。
会えない時は、ムラサキが恋しかった。
転勤の都合で、山奥に旦那さんと住んでいるサキの家は、ブリザードかというぐらい激しい雪の日が続く。普通の状態でさえ、箒で空を飛ぶのも危ういし、ましてや凍った池に向かって水中花魔法なんてもってのほかって感じなのに、風邪を引いてしまったら、余計に会いに行く術がない。
金曜日の夜になったら、ムラサキに会えるって。そう思いながらなんとか体を引き摺って、一生懸命学校に行こうとしたのに。天気や体調が悪いんだから仕方がないと思っても、それすらもできないと思ったら、心が沈んだ。
メールやLINEには必ず返事があったし、サキが依代の指輪を着けてくれてるから、ボクらはずっとつながってる。会って触れ合えないだけで、サキの存在はずっと近くに感じられたはずなのに、ボクは寂しかった。
冬休みの間、毎日傍にあったムラサキの温もりが、もうここにはない。家でたまに顔を合わせるのは、恵李朱と滅多に帰ってこない母親ぐらい。ベルや伽々未はいるけれど、それでも埋められない穴が、ぽかりと空いていた。布団を何重に被っても、冷たい風が心を吹き抜けていくようだった。
そうしていたら、前よりもちゃんと休んでいるはずなのに、ますます目を覚ますのが億劫になった。
ちゃんと、行かなきゃ。サキにも、冬休み明けから学校がんばるって、約束したのに。
こんな甘えん坊じゃ、サキに呆れられちゃう。
辛いけど、ついこの間も休んだばっかりだし、また休んだら親にも先生にも、変って思われるかも。
頭をぐるぐるする事はいっぱいあったけど、それらは何一つ、体を起こす役には立ってくれなかった。今日も休むと伝えると、不思議そうに首を傾げてうなずいてから、スクールバッグを背負い部屋を出ていく恵李朱の背を、見送る日が続く。
あいつなりに心配していることは、部屋をそーっと見に来る態度でわかっていたけれど、もうどうしようもなかった。
「……」
本当は、サキに学校に行きたくない、なんて言いたくなかった。
だって、サキはお母さんじゃないし。こう言って何かを解決してくれることを、ボクが期待なんかしちゃいけないんだ。
自分の力で、なんとかしなきゃいけなかった。
ボクさえもっと頑張れば、なんとか出来るかも知れなかった。
それでも辛くて、苦しくて、我慢出来たかもしれないのに漏らしてしまった言葉を、サキは真剣に受け止めてから、スマートフォンで色々調べた後に、なんとかして暫く長期的に学校は休めるか、とボクに聞いてきた。
……正直なところ、手段を選ばなければそれは可能だと思う。私利私欲のために使うのはアレだけど、一応ボクは魔法使いだし、伽々未や恵李朱たちだっているし。親の説得や学校への連絡や手続きなんかは、どうしても滞るなら彼らの力を借りればいい。
でも、それはいいように他人の心を操るみたいで、ボクはあまりしたくなかったのだけど……と迷う素振りを見せたら、サキはすぐにそうしてくれと言った。
むしろ、ボクよりも率先して、ベルを通じて伽々未にお願いしたり、恵李朱に連絡していたらしい。ボクが気がついた時には、これで明日から学校には行かなくて大丈夫、と言われた。
実際はちょっとぶりなのに、随分久しぶりに訪れた気がするサキの家のリビングで、ボクはまだ呆けたままサキの顔を見上げていた。
「……えっ。本当に、行かなくていいの?」
「うん。いいよ。三学期まで頑張れたら……って思ってたけど、ヨルくん辛そうだもん。
恵李朱くんもいるから、暫く家空けても大丈夫なように計らってもらうし。
夜羽くんは何も心配しないで、好きなだけこの家にいな」
「あ……で、でも、暫く休んだら、また良くなるかもしれないし。そしたら頑張って、なんとか終業式の日まで……」
「だーめ。まだ一月の半ばだよ? 三学期が終わるまで、あと二ヶ月近くあるのに。こんな酷い顔して、そんなに長い間無理しながら通う必要なんてどこにもないよ」
「でも……」
「すぐにでも休めるなら、休んだ方がいい。ヨルくんが行きたいならいいけど、今はそうじゃないんでしょ?」
「……」
ずっと休みたかったはずなのに、いざ自分の要望が通ると、なんだか不安になってしまう。
守護天使なのにこんなに弱くて、甘えていいのかな。
せめて、行けるようになったら、すぐ行かなきゃ。
そう思っていたから俯いてしまったボクの頬を、サキは屈託ない笑顔で撫でた。
「何も考えないで。大丈夫。私がなんとかするから。
ヨルくんは、しばらく一緒にゆっくりしようね」
「本当に、本当に、ここにいていい?」
「もちろん」
「夜になっても、一緒に寝てもいい……? 毎日泊まって、週末も家に帰らなくていいの……?」
「いいよ。向こうの友達が遠くなっちゃうのが、ちょっと不便だけど」
それこそ、行きたいと思った時に会いに行けばいい話だった。
今は、サキと一緒にいたい。
そう思って、ボクはサキの胸に顔を埋めたまま頷いた。
そうして、主と別居中の天使だったはずのボクは、図らずもサキと一緒に暮らすことになったのだけど、優しく抱き止めてくれた腕の中にいながら、この時のボクは気づかなかった。
終わりの見えない冬と何かに、サキの心が絶え間ない重荷を抱えて、限界を迎えていたことを。
***
なんとなくサキも元気がないことは知っていたし、だからこそ尚更心配を掛けられないと思っていたのだけれど、ボクが来てからのサキは、ボクがいることをすごく喜んでくれて、気丈に振る舞っていた。
まるで自分が落ち込んでいたことなんて忘れていたみたいに、ヨルくんがいるならと張り切って夕ご飯を作ってくれて、お風呂にも一緒に入れてくれる。
その言葉と笑顔は本物だったから、ボクも少し鈍感になっていたかもしれない。
雪に閉ざされ、当たり前のように出来ていた散歩や買い物ができなくなり、一週間に一度出かけられるか出かけられないか、そんな環境にいても、サキはネットに入ればいつも誰かに囲まれていたし、家族からもたくさんLINEがくる。
だから寂しくはないみたいで、よかった、と。
思ってしまっていたかもしれない。寂しいかどうかは、きっと大きな問題ではなかったのに。
「あ、そうだ。ヨルくんパジャマ持ってきた? なかったら私の貸すよ」
「それは魔法で出せるから大丈夫……てかいつもそうしてるでしょ」
「でも、それだけじゃ寒いよ。私のパーカー貸してあげるから……」
そう言ったサキの手元のスマホケースから、ぴろんと音が鳴った。
「LINE?」
「先輩だ」
そう言って、いつものように通知をタップするサキから、ボクはほんの数秒目を離していた。
たしか、その時には、向かい側の部屋で旦那さんが布団に入ってゲームをしていたと思う。日課のようにイヤホンをして、多分画面見ながら音を聞いてるから、サキのことは顔も様子も見えてはないと思うけど。
だから、しばらく静かになって、何の反応もないのを、ボクはふと訝りながら顔を上げた。
「サキ?」
ストーブの前で、サキが震えながら涙を落としていた。
拳を固め、誰にも聞こえないように、声を殺しながら。ぎゅっと目を瞑って背を丸めた拍子に、あとからあとから涙が伝い落ちた。
三秒くらい前まで、笑ってたのに。
どうしたんだろう。
でも、その様子から、どうしたのと聞くことも憚られて、ボクはそっと隣から画面を覗き込んだ。
そこには、前にサキが荷物を送ってあげた先輩からの、とても優しい言葉が書き連ねてあった。
サキの荷物や、サキが贈った手作りのクッキーを受け取って、とても幸せだったこと。
試練の年だったけれど、サキを始めとする多くの人のおかげで、乗り越えられたこと。
自分の他にも、サキがいてくれるだけで嬉しい人が、たくさんいると思うこと。サキの優しさがたくさんの人を救っていると、ツイッターを見ていて思うこと。
嫌なことがあっても、それを凌駕するくらい楽しくて穏やかな日を送ってほしいこと。
コロナが落ち着いたら、サキや友達を誘って、またユニバで遊びたいこと。
お礼の言葉と一緒に、そんなことがたくさん、たくさん書かれてあった。
何かの拍子に、薄氷が破れるようにして人の心がこわれる瞬間を、ボクは見ていた。
多分ずっと——サキが欲しかった言葉を、この人は渡してくれたんだろう。
普段はほとんど話す暇もないくらい忙しく、サキが案じていたこの先輩の言葉だからこそ滲む何かが、虚勢を張っていたサキの心の膜を溶かして、取り繕えないくらいに沁み入り、サキの中の荒んだ何かを、優しく癒したのだろう。
そんな風に推測するぐらいしか出来なかったけれど、ボクは蹲ったサキをそっと抱きしめた。
「サキ。……サキも、疲れてたんだよね」
「……」
「休もう。ボクら、二人とも」
ボクたち、とっくの昔にこわれてしまっていたのだと思う。
普通に生きてても、人はつかれてしまうのだから。
どんなに大丈夫と言い張っても、たった一言や小さい何かがきっかけで、不意に自分を支えていられなくなってしまうほど、ボクらは脆い。けれど、崩れ落ちそうな心でも、二人寄り添って拾い集めれば、もしかしたら硝子のように、綺麗な光になるかもしれないから。
心の傷に手を当てて、互いが互いの絆創膏になろう。
そんな風に、ボクは残りの冬を過ごしていこうと、サキに寄り添いながら思ったんだ。
ちょっと前のことなので、今はやや元気です。
(とはいえ一週間前だが)