2021.11.ノベルバー企画「運命の人」   作:大野 紫咲

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長らくお待たせいたしました。
Day28.の後に色々と番外編の短編を挟んだのですが、こちらは時系列的にはDay28.「大人にも、子供にもなれない」と「もえるこころ」の続きに当たる(つまり、ヨルくんがこっちの家に来てムラサキと一緒に住み始める前くらいの)出来事のつもりで書いております。
大雑把には、
・藤之巻
・葡萄之巻
・紫紺之巻
・菫之巻
の四部構成でDay29.のお題を回収する9万字弱をお届けの予定です。
長々しいですが、どのへんが「地下一階」なのかは個人の解釈に任されるところが多いと思うので、ご自由にお楽しみいただけると幸いです。
それではよろしくお願いします。


Day29.地下一階 「Sacrifice」藤之巻(前編)

 それは、ボクが学校をやめて、サキの家に住み始める少し前のこと。

 

 休みの日になっても、相変わらずベッドから起き上がる気になれないまま、ボクは布団にくるまって微睡んでいた。

 親がほとんど帰って来ない家庭、こういう時に楽だと思うけど、誰にも構われないのは、本当は少し寂しい。心配されたいわけじゃない。傍にいて、頭を撫でてくれるだけでいい。

 広い窓から降り注ぐ、休日にふさわしいぴっかりした太陽の光を浴びながら、そんなことを考えていた時のことだった。

 

「くんくん……すんすん……」

(……ん?)

 

 何かに、顔の周りを嗅ぎ回られている。

 最初は、ベルだろうかと思った。でも、ほとんど重さを感じないとはいえ、のしかかってくる面積的に、どう考えてもベルより大きいような……

 

「ふんふんっ。すんすんすん……」

(……なんだ?)

 

 遠慮なしのそれは、ボクの体の上でくるりと向きを変えながら、布団越しでも漏らさず匂いを嗅ぎ取らんとばかりに、激しく息を吸い込んでいる。顔にぱさりとかかった、髪の先がくすぐったい……髪?

 髪の毛の感触がある、ということは、人間。

 朝からまた恵李朱のイタズラかな。でも、恵李朱ってこんなに髪が長かったっけ?

 瞼の上をちくちく刺す金色が鬱陶しくなって薄目を開ければ、そこに——逆光になった小柄な影の中で、妖しく煌めく一対の紫紺が、ボクのことを見下ろしていた。

 

「ふふ……。美味しそうな方ですねぇ」

「ッ!?!?」

 

 その一言にたまらずがばっと起き上がると、ぴょこんと毛を立たせた金髪の女の子が、ボクのベッドに座ったまま首を傾げていた。さっきまでインクを浸したように見えた大きな瞳は、レース越しの光を浴びて、薄い紫に輝いている。

 腰までたっぷりとある、長い髪。でもその身長は……3歳児とか4歳児、いやもっと小さいかもしれない。とにかく幼稚園児くらいの子なのに、ものすごい美人だというのがよく分かる。

 言葉もなく、あっけに取られてその姿を見つめていたら、ボクが何か言う前に、広い子供部屋の入り口から声が掛かった。

 

「ルナ。それ(・・)は食べちゃダメ」

「むぅ……わかってますよぅ。恵李朱さんの大事なご家族を、食べちゃったりしません。

でも、ほんとーにほんとーにいい匂いがするんですぅ。きっと、ゼウスのところに連れて来られた、蜂蜜とミルクの香りがする男の子ってこんな匂いだったに違いないです……じゅる」

「そりゃ、天下一品の天使ならそんな匂いもするだろ。ほら、気持ちはわかったから離れて」

 

 引き気味で、ルナ、と呼ばれた女の子の夢見るような輝く瞳を見つめていたボクの前から、恵李朱が彼女の首根っこを引っ掴んで引き離した。

 改めてベッド脇に立たされた彼女は、装飾のない簡素な真っ白いワンピースの皺を伸ばし、絹糸みたいな金髪を整えると、優雅なお辞儀(カーテシー)をしてみせた。顔を上げて八重歯を見せながらにかっと笑う顔は、随分と無邪気でお転婆な子供らしく見えるのに、それとは不似合いなほど育ちの良さが伺える所作に、ボクは素直に驚いていた。

 

「お初にお目にかかります。ルナと申します。よろしくお願いしますね」

「えっと……よろしく。ボクは、藤夜羽。恵李朱の友達?」

 

 そう問うと、なぜか傍の恵李朱が首を傾げる。

 

「トモダチ……そう呼べるものかはわからないけど、とりあえず魔界での仲間というか、知り合いみたいな」

「えー。つれないですねぇ。何だかんだ色々濃ゆい付き合いじゃないですかぁ」

「ボクが付き合いたくて付き合ってるんじゃなくて、あんたが勝手にくっついてくるだけだ」

「恵李朱の知り合いということは、あんたも悪魔?」

「ええ。うーん、たぶん」

「多分???」

 

 ボクが思わず首を捻ると、軽い足音と共に寄って来たベルを撫でながら、恵李朱が肩をすくめた。丁度、下の階で餌を食べていたところだったらしい。最初は恵李朱に懐かなかったベルも、この頃は恵李朱の手からおやつを食べたり、腹が減った時に餌を強請るくらいには、慣れてきてくれたようだ。

 

「ルナの奴、記憶がないらしい。何ヶ月か前に、こっちの魔界でふらふらしてたところを見つけたから、何だかんだで、ボクと師範がこっちの人間界のこととかを教えたりしてる。誰と契約してる悪魔なのか、そもそも何者なのかよくわかんないから、弟子にはしてないけどね」

「そーいうわけなのです。頭からっぽちゃんなのです。

恵李朱さん達のおかげで苦労はしていませんが、どのみちこのままでは帰る場所も帰り方も分かりませんし、何か記憶の手がかりになることが見つかるまでは、こちらに居させてもらうことにしようと思いまして」

「こちらって……この家?」

「あーいえいえ。ルナの言い方が悪かったですね。ルナはほとんど頭空っぽちゃんなのですが、覚えていることが少しだけあるのです。

多分ルナは、この世界の人間ではありません。この世界の天界でも魔界でもない、別の世界軸からやってきています」

「……異世界、ってこと?」

 

 それは、元を辿ればボクらと同じということだ。

 でも、ルナは天使にも悪魔にも転生していない。いや、もしかして転生したのに覚えていないのかもしれないけど、本人の言い分をそのまま肯定するならば、別の世界にいる「悪魔」が、この世界にやって来ていることになる。

 

「はい。みなさんもご存知の通り、異世界間を移動するには、それぞれの文明や魔術で作られたゲートを経由する形になるのですが、どうやらそこを経過する時に、時間圧と空間圧に耐えかねて、ルナの記憶が剥がれてしまったみたいなんですよねぇ」

「そんなことあるんだ……」

「う〜〜……あまり覚えていないのですが、ルナなんだか、前もこんなことがあったような気がするのです。ルナの記憶は、とても剥がれ落ちやすい……だからそれ相応の工夫をするようにと、気をつけていたはずなのです……」

 

 頭を抱えてそう呟いたルナは、ふと自分が着ていたワンピースの裾を捲った。裏返した布地の上にあったものを、ボクと恵李朱は思わず並んで覗き込む。

 

「これ、刺繍?」

「そのようですね。この服はたぶん、こちらの世界で仕立てたモノだったはずなのですが……何故か、ルナが用意する服全部に、気がついたらこの刺繍があるのですよ。何かを思い出させようとして、ルナに掛かっている魔法の一つなんですかねぇ」

「だとしたら、相当高度なものだね。あんまりこんなのは、ボクの周りでも見たことない」

 

 すん、とスカートの端を持ち上げて近付けた恵李朱が、鼻先を鳴らしている。悪魔ってみんな、動物みたいに匂いで何かを判別できると思ってる節があるんだろうか。

 ボクたちはその刺繍をスマホのカメラに収めて、しげしげと眺めた。

 丸い、ボールみたいなもの。

 ギザギザの、葉っぱみたいなもの。

 五枚の花びらを持つ、花みたいなもの。

 その三つの絵が「+」で繋がれていて、「=」の先に女の子の絵がある。何かを頭につけて、にこにこ笑っているみたいだ。

 ふと、それを見ていて気付いたボクは言った。

 

「これ、ひょっとして髪飾りのことなんじゃ……?」

「はぅ。やはりそうですよねぇ。この女の子、ルナみたいです」

「問題は、そのパーツがどこにあるかだよな」

「似たようなもので作ってはみたんですけどぉ……やはりダメなんですよね。おそらくこれは、ルナ専用の魔具だったんじゃないかと思うです。それが、ゲートを渡る時にばらばらになってしまって……」

「なるほど。これを落としたから、ルナの記憶もどっかに行っちゃったんだね」

「そうなんですよぅ〜〜!!! 夜羽さんどこかで見ませんでした!?!?!?」

 

 涙目のルナが縋り付いてきたけど、残念ながら全然心当たりがない。

 ボクもアクセサリーには目がないから、道端で落ちてるのを交番に届けたりしたことぐらいあるし、雑貨屋やショーウインドウ越しに眺めていることはよくあるけど、直近の記憶の中に、似たデザインのものはなかったように思う。

 しょぼ、と肩を落としたルナを、恵李朱が慰めるように軽く叩いていた。

 

「今日ここにルナを連れて来たのは、夜羽にも何か協力してもらえないかと思って。ま、もちろん見舞いが一番の目的だけど」

「は。そうでした。お風邪のところを申し訳ありませんです!」

「あ、ううん。大丈夫だよ。熱はほとんど下がってるし……」

 

 慌ててテーブルの傍の花束を突き出して、ひょこんと頭を下げるルナに、ボクは慌てて手を振った。ほんとに、花束を持っただけで隠れてしまいそうなほどちっちゃい。恵李朱やボクと一緒で実年齢はちょっと違うのかもしれないけど、何にせよこんなに頭を下げさせるほど具合が悪いわけじゃない。

 それにボクが寝込んでるのは、風邪というよりは、精神的なものが主な原因だと思うし。

 何も言わないけど、恵李朱もそれを見越して、喋り相手になりそうな友人を連れて来てくれたんだろう。

 ヒバリや雀愛じゃなくて、全然関係のない人を連れて来たのは……その方が、喋りやすいと思ったのかもしれない。自分のことをよく知っている友人に、腫物のように扱われて優しくされるより、まったくボクを知らない赤の他人相手の方が、かえって振る舞いに気を遣う必要もなく、口が軽くなることだってある。

 ボクと愛理が、はじめて会った時のように。

 まあ、恵李朱にそこまでの考えがあったのかは分からないけれど、久々に恵李朱以外の人と言葉を交わして、少しばかり重く沈んでいた心は紛れたような気がする。話していた内容は、およそ友達とするようなものじゃなかったけどね。

 

 ルナから貰った花束と、空の花瓶を恵李朱が手に持った時、ぴんぽーんとインターホンの音が鳴って、ボクらは顔を見合わせた。

 

「忘れてた。もう一人お見舞いに来るって言ってたんだった」

 

 花瓶に水入れるついでに行ってくる、と恵李朱が立ち上がり、ボクは誰だろうと首を傾げながら、階段を降りていく後ろ姿を眺めていた。

 ちょん、と窓際の椅子に座ったルナは、揺らせるほど長くもない子供の足を、ぷらぷらと動かす。

 

「夜羽さんは、恵李朱さんと暮らし始めてもう長いのですか?」

「うーん……まだそれほどじゃないけどね。知り合ってから三ヶ月くらいは経ったかな。ボクと友達の天使が最終試験を受ける時に、勝手に首突っ込んできて、勝手にこっちまでついて来ちゃったんだ」

「ふふ。ルナも知り合ってそんなに長くはありませんが、恵李朱さんは好奇心旺盛そうな人ですからねぇ。それまでは、ずっとお一人で?」

「ママは、たまにしか帰って来ない。……まあ、仕方ないよ。元々子供がいなかった家庭に、無理やりボクの存在を魔法で割り込ませて作ったんだしね」

「こーんな広い家で、さびしくなかったですか?」

「……少しね。都合がいいといえば都合がいいけど。でも見たいところだけを見て、いつまでも偽物の家族の中にいたら……ボクのことも偽物になるんじゃないかって、思ってた」

 

 ルナは丸い瞳を開けたまま、月のように微笑みを浮かべている。

 不思議だ。

 初対面なのに、まるで枕元の人形に話し掛けるみたいにして、ルナが傍にいると、話しづらいことまで正直にすらすら喋ってしまう。

 ボクは思わず、薄紫の瞳に映り込んだ自分の顔を見つめた。

 

「夜羽さんたちは、たしか契約主さんとは別居ですもんね〜。不安になるのも無理はないです」

「まあ、恵李朱が押しかけて来て最初はどうなることかと思ったけど、ボクが心配してたほど問題は起きてないし。誰かと一緒に暮らすっていうのも、いいものだね。正直感謝してる」

「ふふ。それ聞いたら喜びますね、恵李朱さん」

「そうかなあ……? あいつが美味しそうな獲物やおやつを前にする以外にして、喜んでるところなんて想像がつかないんだけど」

「顔に表れないからといって、喜んでないとも限らないと思いますよ? 今まで恵李朱さんは、そういう相手がいなかっただけだと思うです」

「そういうルナは、家族は……って、そっか、思い出せないんだっけ」

 

 悪いことを聞いたかな、と思ったけど、ルナは日差しの中でふにゃ、と笑うと首を振った。

 色白な顔の横で、金色の髪がさらさらと揺れる。透き通った色素の薄い睫毛を、ルナは伏せた。

 

「でも……思い出せないだけで、ルナにもきっといたと思うです。思い出せない、だけで。

きっとルナのこと、家族みたいに大事に思ってくれる誰かが……いたと、思うです」

 

 そんな話をしているうちに、階段を上がってくる音がして、はっと顔を上げれば、花瓶に生けた花を持って歩く恵李朱の後ろから、見覚えのある背の高い姿が現れた。

 

「こちらです、マドモアゼル」

「よ。あれだけ生意気な口聞いてたくせに、最近風邪引いて寝込んでるんだって? 大丈夫かよ」

「あ、愛理……!?!?」

 

 思いもがけないゲストの登場に、ボクは目を白黒させながら声を裏返らせた。

 手にドーナツの包みをぶら下げた愛理は、ボクの方を向いてからかいがちに目を細めてみせる。

 たしかに愛理は、何度かこの家遊びに来たことあるけど……こんなパジャマのボサボサ頭で、みっともない姿のまま出迎えたのは初めてだ。

 思わず布団を被って鼻の上まで隠れながら、ボクは悲鳴を上げた。

 

「なっ……あ、うぇ、なんでここに……!」

「最近、あんまり遊びに誘われないなと思ってね。友達のバイト先の店にも、あんまり来てないって言うし。

この間下校途中の恵李朱くんを見掛けたから聞いてみたら、なんか弱り果ててるらしいとか言うから」

「恵李朱ぅ……! 大体、愛理のホテルって学校と全然反対方向だろッ! なんでそんなところお前がうろついてんだよ!?」

「学校にいる時間以外は全部下校だもん( ˙꒳˙)」

「こんの……!」

 

 絶対からかわれると思ったから愛理にはバレないようにしようと思ったのに、堂々と寄り道するという校則違反を犯し、ボクの容態をぺらぺらゲロってしまった恵李朱を、恨みを込めて一睨みした。

 けれど、そんなボクらの喧騒とはお構いなしで、椅子の上にふらふらと立ち上がったルナが呆然と愛理の方を見ていることに、ボクは気がついた。

 

「……ルナ?」

「あ……アイリ、さん……?」

 

 恵李朱にドーナツとコートを預けていた愛理が、不思議そうに声の源を振り返る。いつも通りの黒髪のショートボブの顔で、青みがかった黒の澄んだ瞳が、きょとんとルナの方を見つめ返した。

 

「えっと……君は……? どこかで会ったことあったっけ……?」

 

 知り合い……? いや、そんなはずは無い。知り合いなんだとしたら、この愛理の反応はおかしいし。

 でも、だったらどうして、違う世界から来たはずのルナが、愛理のことを知っている?

 

「アイリさんだ……アイリさあぁぁあんっ」

 

 愕然としていた瞳に、今度はいっぱいに涙を溜めて、ルナは思いっきり、部屋の真ん中あたりにいた愛理の方へ突進した。

 その見た目からは考えられない身体能力でジャンプして、胸元あたりに飛びついたせいで、愛理が床のクッションの上にぼふっと倒れ込む。

 

「うわあああ、どうしたどうした」

「うっうっ……嘘みたいです……まさか、まさかこっちでアイリさんに会えるなんて。運命です。奇跡なのですっ。ルナは今しあわせです……」

「何、ルナは愛理さんと知り合いなの?」

「ふぇ……?」

「そうじゃなきゃ、こんな熱烈な反応しないでしょ。どういうことなのさ。あんたの世界で、ルナと愛理さんは何か特別な関係だったの?」

 

 傍で見下ろした恵李朱に尋ねられ、訳のわからないながらもその金髪を撫でて宥めてくれていた愛理の掌の下で、ルナは不思議そうに、涙に濡れた顔を傾けた。

 

「はて……? どういうことなんでしょう……???」

 

 それはこっちが聞きたい。

 タイミングを合わせて、ボクと恵李朱がずっこける番だった。

 倒れてしまった愛理を助け起こしながら、ルナがぐしぐしと涙を拭い、ワンピースの裾を払う。

 

「ただ、アイリさんの姿を見たら、わーーーーって抱き着いてしまいまして……アナタは、アイリさんですよね? アイリ・スズキさん」

「うん、そう。僕の名前は愛理だけど……これ、もしかしてアレ? 夜羽の時みたいに、この世界の僕は君のことを知らないけど、君は一方的に僕のことを知ってるってやつかな」

「わからないのです。ごめんなさい。ルナには記憶がないのです。

ただ……ただ、ルナのいる世界で、アイリさんはルナのとても大切な人だった気がするのです。

だからこの世界でも、ルナはアイリさんと仲良くしたいのですっ」

 

 小さくつんと立った鼻をふんふん鳴らしながら、必死で頷くルナの姿を見て、愛理は呆れたように、途方に暮れた表情を緩めた。

 

「転生してきた天使に悪魔に、今度は記憶喪失の女の子ねえ……。

まあ、不思議なことにはもうとっくに慣れてるから、別にいいよ。全然知らない人間に、会った時から好かれてるっていうのは、なんだか変な感じだけど」

「わーい! やったです!」

 

 とびっきりの笑顔を浮かべて、愛理の手に抱きつくルナ。

 なんだかポカンとして、ボクはその様を見守っていた。頭の中になくても、もしかしたら魂や肉体に刻まれているかもしれない、その記憶。

 でも、全部を解き明かしてルナの帰り道を示すためには、やっぱりこの刺繍の謎を解くしかなさそうだ。

 

「これがルナの魔具だったら、少なくとも魔力を放ってるわけだよね」

「ああ。一応、手当たり次第に使われてそうなゲートや魔界に範囲を広げて、師範に占いで調べてもらったんだけど、どうもこの街の近くにあるらしいんだよね」

「本当!?」

「そ。だから、外を出歩くことがあれば、あんたにもちょっと気をつけて欲しいって思ったわけ。天使や悪魔で魔法使いになった奴は、魔力の気配を感じることはできるだろ。

どういう代物か知らないけど、もしこの世界に落っこちてるんだったら、他の魔族に狙われたり、人間に拾われる可能性もあるからね。そうなる前に見つけないと」

「何、探し物?」

 

 ベッドでボクと恵李朱が喋っていると、ルナをおんぶした愛理が、ひょいと後ろからスマホを覗き込んだ。愛理相手に隠す必要もないので、ボクらは軽く経緯を説明する。

 

「今日は休みだし、これからボクも手伝おうと思って……」

「や、手伝うったって、病人がふらふら街歩くのはマズいだろ」

「う、でも……」

 

 これだけ話を聞いておきながら、ボクだけ恵李朱とルナに任せっきりにして、大人しく休んでろなんて。

 思わず身を乗り出したら、愛理がボクの額にひやりとした大きな掌を当てた。

 

「ハイ。病人は寝てて」

「た、体温計で測ったら6.9だもん」

「そんな熱出るか出てないか瀬戸際みたいな人間を外に行かせられるか。僕が代わりに行く。魔法の道具っていっても、別に人間の目に見えないわけじゃないんだろ。

僕は君たちみたいに魔法を使うことはできないけど、探し物なら手伝える。今日は一日休みだし」

 

 休んでろまではまだ想像が出来たけど、その先は思いもよらない提案だった。

 てっきり、愛理はボクと一緒に残るだろうと思っていたらしき恵李朱は、珍しくそのハシバミ色の目をぱちぱちとさせて、愛理の方を見ている。

 

「……たしかに、ボクが魔力を感知する方向へ、マドモアゼルを誘導することはできますが」

「じゃあ決まりね。一緒に行こう」

「ほんとですか!? アイリさんも、ルナの記憶の欠片を一緒に探してくれるです!?」

「ここで知り合ったのも、何かの縁だろうからね。あ……でも、夜羽は一人で大丈夫?」

 

 ボクが返事をする前に、ベンガル猫のベルが膝に上がってきて、にゃーんと鳴いた。

 まあ、正直みんなが来て騒いだせいで、特に付き添いがなくてももう一眠りくらいはできそうな気分だった。

 お見舞いというのなら今までので十分だし、そんなに遅くならないうちに戻って来るなら、寂しいということもない。

 そんなボクの心を読んだかのように、顔を見合わせた恵李朱と愛理が、次々とボクの頭を撫でる。

 

「だいじょーぶ、どのみち一発で見つかるとは思ってない。近くの散策をするだけだし、夕方になる前に戻って来っから」

「夜羽には、その箱の中のドーナツを一番に選んで好きなだけ食せる権利をやろう。何か美味いもの買ってくるから、あんまり寂しがるなよ」

「そんなんわかってるからッ! 子供扱いしないでよ二人とも!!!」

 

 邪険に振り払っても、愛理の奴はまだにやにやしている。

 まったく。愛理の構い方っていつも、ボクを子供扱いするだけなんだから。

 そんな愛理と嬉しそうに手を繋いで出ていくルナの姿を、ボクはまるで親子みたいだなと思いながら、ベルを抱いたベッドの上で見守っていた。




メモ:
恵李朱がルナの前で、夜羽のことを「それ」と呼んだのは、単なる物質的な「魂」としての夜羽と、人格を持った「人間」としての夜羽を、別個に考えていることの証左。
己の人生を持ち、現在を生きている「人間」そのもののことを、悪魔である恵李朱は軽くしか考えていなかったが、ヒバリや夜羽達との関わりによって、少しずつ変化が訪れている。
ルナの前で敢えて物体的な呼び方をしたのは、悪魔の間で価値あるとされている「魂」を食うなと言った方が、「人間」を襲うなという情に訴えかけた命令より、通じやすいと判断したため。
別に夜羽のことをモノだと思っているわけではない。むしろ逆。
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