2021.11.ノベルバー企画「運命の人」   作:大野 紫咲

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ルナと思われる人形の少女の記憶を追っていく夜羽。
そんな夜羽を引き止める、謎の人物が現れて…?


Day29.地下一階 「Sacrifice」紫紺之巻(第三巻)

「ダメだよ」

 

 暗い小道を歩いていく、小さな女の子の姿を追い掛けようと足を踏み出したその時。

 誰かに後ろからぎゅっと手を引っ張られて、ボクは我に返った。

 はっとしながら振り返ったら、いつの間にかボクの後ろに、少し背の高い銀髪の人が立っている。その人はエメラルドグリーンの瞳を閉じながら、ゆっくりとボクに首を振った。

 

「それ以上は、行っちゃダメだよ。

あまり深いところまで潜ると、これ以上は、君の心が耐え切れなくなってしまう」

 

 そう言われて顔に触れられてから、初めて自分の頬を、とめどない涙が伝っていることに気が付いた。

 自分が泣いていることにも、ボクは気付いていなかった。

 あまりに辛くて、悲しくて。

 目をぐしっと拭いながら、ボクは改めて、ボクを優しい瞳で見下ろす、その人のことを見つめた。こんな人、さっきまでのお話の中に、出てきたかな。まるで自分のことみたいに、目の前でページが捲れて、彼女の思い出の内容を追っていたから、登場人物が目の前に現れるのも割と普通のことかなと思ったけど、向こうから話しかけられたのは、よく考えたら初めてだ。

 

「えっと……あの……」

「迷子かな。可哀相に。強い魔力に引っ張られて、こんなところまで迷い込んでくるなんて。

でも見た感じ、君のその姿にはあまり見覚えがないね……ってことは、ルナの奴、また髪留めを落としたな?

はぁ……まったく。時空を移動する時はチェックしろって、常日頃から僕は言ってるのに」

 

 呆れたようにその人は困り顔でちょっと笑って、やれやれと腕を組んで首を振る。

 どこからどう見ても外国の人だけど、ボクの言葉が、ちゃんと分かるみたい。

 けれど、次々話すその人の言葉の意味は、なんだか難しすぎてよく分からない。

 突如、ビデオテープの再生が止められたみたいなその世界で、ボクはぐるぐる混乱しながら、なんとか会話を断片的に拾ってみた。

 

「……あのお話に出て来たのは、やっぱりルナのことで、合ってるんですか」

「そう。君が見ていたのは正真正銘、あの子の『記憶の書』だよ。ここは、その記憶が離れないように、あの子がしていた髪飾りに宿る、お話の世界。

なんたって、あれを書いたのはこの僕だからね」

 

 そう言って穏やかに微笑む、銀の髪を揺らす顔を、ボクは驚いて見つめた。

 黒いフード付きのローブのようなものを羽織った、男なのか女なのかもよく分からない、中性的な雰囲気を纏った不思議な人は、僕と同じ魔法使いみたいだ。

 

「あれは、お話の中での出来事なんですか……?」

「いいや。ルナは実在するし、あの悲惨な出来事も……残念ながら、実際に起こったことだよ。

けれど、君が見た通り、あの子は人形で、呪いが解けるまでの間は、君が今見てきた一通りの記憶も全て封じられていた。体からほとんど消えかけていたそれを、なんとか断片を繋ぎ合わせて、修復して、あの形まで編纂するのは、本当に骨が折れたよ」

 

 まるで見知っている事のように、力が抜けたあどけない顔で話す。

 ボクを……ここまで引っ張り込むほどの魔力を持つ、強い人。得体の知れない人。

 それなのに、どうしてだか、危険な感じは全然しなかった。そんなにボクと歳は離れているように見えないし……背が高いといっても子供だ。せいぜいが、中学生か高校生ぐらい。よくあるぴったりした細い黒ズボンと白シャツを着て、すらりとした見た目はかっこいいはずなのに、かっこいいというよりは、なぜかちょっとかわいい。

 今更のように、ボクは尋ねていた。

 

「えっと……あなたは、誰……ですか」

「丁寧語じゃなくていいよ。うーん……何て答えるのがいいのかな」

 

 その人は、わかりやすい答えを探すのにちょっと悩んだようだった。

 ローブの黒い袖を垂らし、顎の下に手を置いて考え考え、その人は独り言のように口を開く。

 

「……妖精、みたいなものかな」

「妖精?」

「いや。これに宿ってるわけではないんだから、妖精はおかしいな。

強いて言うなら、この本の記憶の番人……守り人みたいなものかな」

 

 守り人さんは、ちょっと僕の方へ向けて、微笑んで顔を傾けてみせた。

 

「さあ。いい子だから、あんまり遠くへ行かないうちに、元の世界に帰ろう。君の世界の人が、きっと心配している。僕は、君のことを起こしに来たんだよ」

「でも、まだ……本のページは、残ってるんだよね」

 

 ボクは、今はルナと呼ばれている人形が歩いていった、森の先を指差した。

 これで終わりじゃない。だってボクが見た限り、ルナはまだ「ルナ」という名前じゃなかったからだ。物語には、まだ続きがある。

 うーん、と少し困ったように、その人は仄暗い道の先とボクとを見比べて、微笑んだまま眉を下げた。

 

「それはそうだけど……見てもあまり、楽しい話じゃないよ。君にはもう、十分だと思うけど」

「愉快な話じゃないことぐらい、ボクにももうわかってるよ。

ただ……ルナのこと、ちゃんと知りたいんだ。ボクはたまたまこの世界に吸い込まれて、たまたまルナの記憶を覗いちゃった。

髪留めのパーツを拾ってたのは偶然だと思うけど、でも目を閉じることだって出来たのに、ボクは自分の意志で、許されてもないのに、彼女の人生を勝手に見たんだ。

それって、気持ちのいいことじゃないよね。

だから……中途半端な気持ちじゃなくて、責任もって最後まで読み切って……それで、ルナのことを受け止めてから、ちゃんと謝りたい」

 

 自分なりの言葉でうまく伝わるだろうか……と思っていたら、その人は驚いた顔をした。

 そして……目線が合うよう屈んでから、ボクの頭に優しく手を降ろして微笑んだ。

 

「ありがとう。君は優しい子だね」

 

 どうして、この人がお礼を言うんだろう。

 それも不思議だったけど、花緑青の鮮やかで綺麗な瞳に見つめられて、あったかい手の感触にどきどきしながら不意に俯いた時、何かがぴっと頭の中を過ぎった。

 ——ボク、この手を知ってる。でも、一体どこで?

 胸の高鳴りを覚えたボクに向かって、その人は手を差し出した。

 

「それじゃあ、僕と一緒に行こうか。こうしておけば、君が迷うことはないからね。

それに、僕がいれば危ない目に遭うこともない。間違いなく君を、帰してあげられる」

 

 その言葉を、ボクは素直に信じることが出来た。

 信じるしかない、という状況のせいもあったけれど、それだけじゃなくて、心から——なぜかこの人の手のぬくもりを、信じたいと思った。

 隣に立って、頼り甲斐のある温かくて大きな手を、ボクはぎゅっと握る。そして、一緒に歩き出してくれたその守り人さんについて、次のページへの一歩を踏み出した。

 

*6

 

 長い年月が経ち、その人形は一人でも、それなりに旅をする処世術を身につけました。

 ある街では、ハーメルンの笛吹き男のように、次々と街の女性や子供たちがごっそりいなくなるという事件が、一時期話題になったことがありました。

 でも実際は、誰かが笛を吹いたりしたわけではなく……人形を慕った者たちが、その後をついて街から出て行っただけのことでした。

 人形は、試していたのです。ただ、自分が本当に愛されないのかどうかを。

 街の下水溝や橋のたもとで、親に愛されない、居場所がないと泣いている子供たちがいると、人形は必ず声を掛けました。そして、子供と交渉してキスで魂を交換すると、子供の体で家へ戻り、あの手この手で愛されるよう振る舞ってみせました。

 もちろんその時代、そういう子供の親は大抵がどうしようもない薬物中毒か暴力親でしたから、人形が入れ替わって行っても結果は同じことです。処置なしと判断すると、人形はうつろな目で、

 

「アナタもワタシを愛してくれないのね」

 

 と捨て台詞を残し、親を殺して、なけなしの酒や食べ物を拝借して家を出ました。わずかながらでも、精力を補給するために。もちろん、金遣いの荒い貧しい親たちから、謂れもなく虐げられていた子供たちにとっては、この行動は影のヒーローとして映りました。

 そして、親の言いつけで好きでもない相手と結婚させられ逃げられない女性や、金蔓にされ恋人に暴力を振るわれていた女性にとっても、それは同じことでした。大人だろうと子供だろうと、人形は入れ替わることができましたので、そうやって身代わりになることで様子を伺い、相手の男が浮気をしたり愛が潰えたり、そもそも最初から金目当てや遊びのつもりで愛していなかったなどとなると、やっぱりとばかりに落胆して殺しました。

 人形本人には、全然正義の味方になったつもりはなかったのですが、少なくとも間接的に彼女の恩恵を受けた人物は、かなりいたようでした。なぜあえて幸せの絶頂にあるような家ではなく、不幸な人ばかり狙って横取りしたのか——もしかしたら、自分と似た境遇を彼らと重ね合わせ、知らず同情していたのかもしれませんが、こればかりは人形にも自覚がないことでした。

 けれど、そうやって崇め、慕ってくれる者たちも、いつまでも傍にいるわけではありません。

 一つの街を越え、一つの野を越える度に、人々は離れていき、最後にはいつも、人形は一人になるのでした。

 

 こんな捨て身の方法で精力や魔力の補給をするにも限界があり、人形はついに、ある時ただの「人形」になって、珍し物好きの好事家たちの間を、転々とすることになりました。

 その間も、不可思議で不気味は噂は絶えなかったといいます。

 曰く、ある所有者の好事家は、発狂し、屋敷に自ら火を放って自殺したのに、その人形だけは燃え残って無事だったとか。

 曰く、ある好事家の屋敷からは、いるはずのない幼女が犯される声と物音が、ずっと聞こえてきたとか。

 曰く、ある好事家が持っている間は、屋敷を人形がうろつき回っているという目撃者や、屋敷の周辺での殺人事件が絶えなかったとか。

 人形自身はとっくに忘れていましたが、彼女を蝕んだあの両親の呪いは、世代を越え人形自身の意図の範疇さえ超えて、多くの人に不幸をもたらしていたのでした。

 月の光を吸い込んで、グリーンだった瞳は元の色をとっくに失って黄金に輝き、ルナティック・ドール(狂った人形)とさえ呼ばれました。髪は、持ち主の趣味で様々な色に染められましたが、血を浴び続けた影響で、どんなに魔法で綺麗に染めても、最後にはどす黒い色になるのでした。

 

 ところが、その不気味さや得体の知れない魔力がますます評判を呼び、アンティークドールとしての人形の値段は、どんどん跳ね上がっていきました。多くの人が、オークションで値を釣り上げてこぞって欲しがり、所有者が死んでは、次から次へと貴族の間にも回されるようになりました。

 人形はもう、あきらめて物事のなりゆきを見ているだけでした。

 ニナとの最後の出来事は、時々ぼんやり思い出すようにして頭を掠めるようになりましたが、自分がどのようにして生み出されたかという過去なんてとっくに忘れていましたから、自分は人を不幸にすることしかできない呪いの人形なのだと、この時には頭から信じて疑っていませんでした。

 こんな自分を、愛してくれる人など結局現れない。どこへ行っても、何をしても、それは数百年の間絶え間なく人形の前で繰り返されてきた、ルーチンワークに他なりません。

 どうして自分はここにいるのだろう、とガラスケースの中でうとうと眠り、気が向けば周囲をうろついて適当な獲物を探し、人々や魔法使いを震え上がらせる日々が続きました。

 

 そして、もう何百回、何千回と家々の間をたらい回しにされ、転々とし、豪奢な品物の数々にも、立派な作りの家具や屋敷にも、舶来の品で埋め尽くされたコレクションルームにも、驚かなくなって幾年も経った頃。

 その呪われた人形は、出逢ったのです。

 後に血と名を分けることになる、はじめての「親友」と呼ぶべき相手に。

 

*7

 

 ある時、とある古い城のコレクションルームに、人形は貰われて行きました。

 一応、番人らしい召使いの老人がいつも中にいて、駄賃相応に申し訳程度の掃除や整理をしてから、ずっと趣味の絵を描いているという、そんな部屋でした。

 王侯貴族の屋敷らしく、時々老人に連れられて部屋の中を時々物珍しそうに出入りする尊大な大人の足音がしましたが、他にも山のように珍しい品がある中、人形は埋もれたガラクタも同然で、よく分からないオルゴールや観葉植物の間に挟まったり、変な匂いのする薬品と一緒に窓の脇へ追いやられたりしながら、長らく埃を被っていました。

 出ようと思えば部屋から出ることもできたのですが、外へ出ても貴族がつまらない会話をしているか、見飽きた豪奢なだけの敷地が延々と続くのみで、どうせ面白いことはないと人形は熟知していました。もう何かを楽しむだけの興味も、好奇心も、錆び付いてしまっていたのです。

 

 明かり取りの窓から差し込んだ一条の陽が物の表面を撫で、きらきら塵の舞うだけの、雑多な物の他には生活感も何もない、寂しい部屋でした。大きな振り子時計のかちこち鳴る音と、老人が筆を動かす音だけが響いていました。数多の絵画や芸術品を目にしたことはあっても、実際に絵を描いている現場を見たことはなかった人形は、暇つぶしにそれを眺めたり、物音を子守唄がわりにうつらうつらしたりしながら、過ごしていました。

 そんなある日。部屋の戸が軋み、ばたんと開け放たれる大きな音がしました。いつもならば、また来客かと眠ってやり過ごすのですが、人形は物珍しさから、おや、と耳をそば立てました。ぱたぱたとカーペットの上を歩いてくる足音が、どうも子供のようなのです。

 

「お嬢様! いけません。ここは一流の貴族の方が、自ら足を踏み入れるような場所では……」

「うるさいわね。貴族だろうと何だろうと、私が行きたい場所は私が自分で決めるわ」

 

 小柄な体からは、見た目より遥かに大人っぽく、上品で張りのある声が通りました。

 お付きのものや老人が慌てて止めるのにも関わらず、イライラした調子で足音を踏み鳴らして歩いてきたその人影は——ぴたりと人形の前で足を止めました。

 人形とは対照的な、溢れんばかりの黄金の髪の毛が、輝いています。けれどもその体躯は、人形とほとんど同じか、ほんの少し大きいくらいなのです。どこからどう見ても子供でした。にも関わらず、こちらを睨み付ける明るい紫の瞳は、成熟した落ち着きを湛えていました。

 

「この子、ここにあるということは、他に誰も引き取り主はいないわね?」

「ええ。しかし、『呪われた人形』とか何とか有名で、お嬢様が不用意にお手を触れますと、どうなりますことやら……」

「私は、宮廷魔法画家の卵である人間よ。魔女が呪いを恐れてどうするの。……ああ、それとも。貴方達にとっては、私に呪いが降り掛かった方が都合がいいのかもね」

 

 薄ら笑いをその唇に浮かべながら言い放たれた言葉に、何故か少女の後ろの召使いと老人たちは、ばつが悪そうに顔を逸らしました。

 異様な空気感を気にすることもなく、少女はあっけにとられている人形をガラクタの山から引っ張り出し、床に立たせました。

 

「貴女、歩けるわね。来なさい。そのみっともない髪と服を直してあげる」

 

 相変わらず目つきは鋭く、高圧的でしたが——こんな風に、人形本人のことを気遣って話し掛けてもらえたのは、長らく気味悪がられてきた人形にとっては、随分と久しぶりのことでした。

 ふらふらと導かれるように歩き出し、思わず身を引いてあとずさった使用人たちの間を抜けると、先に立っていた少女は、人形の手をぐいと引っ張って歩き出しました。

 白くて柔らかい、自分と同じ子供の手でした。

 

「生まれつき、暑さも寒さもあまり感じないのよ」

 

 貴族にしてはシンプル極まりないノースリーブのドレスを身に纏った少女は、物珍しげな人形の視線を受けて、心を読んだかのようにそう答えると、まっすぐ風呂場に連れて行きました。そして、真っ黒い泡でドレスや足元が汚れるのを意にも介さず、熱いお湯を掛けて、黙々と人形の体を擦り始めました。

 自分は口が聞けますが、はて何と呼び掛けるべきだろうかと、人形は考えました。身分の高い人間には生意気だと殴り飛ばされたこともあったので、ここは敬語の方が無難なのかもしれないと考えて、おずおずと口を開きました。

 

「お嬢様の服が、汚れてしまいます」

「一点の模様もない白って、なんで便利なのか知ってる? 汚れた時に、何も気にせず白くすることだけ考えて洗濯できるからよ。全部白なら、漂白剤も色移りも気にしなくていいでしょう。

あと、『お嬢様』なんて気持ちが悪い呼び方は結構よ。貴女は使用人じゃないもの」

「でも、アナタはお嬢様では? さっきそう呼ばれていましたし」

「私が何者かより、貴女が何者かの方が気になるわね。……この髪の毛、絡まりすぎてて洗剤だけではダメだわ。元は何色だったのかしら」

 

 澄んだ瞳で、裸足のままお嬢様は具に人形のことを観察しました。どこから出したのか、時にはルーペを翳したり、杖を振ったりしながら、まるで人形を医療用の機械にでも掛けるみたいにして、しげしげと分析しているようでした。

 

「そうね……」

 

 やがて、何かを考えていたそのお嬢様は、風呂場の外から入浴には一切関係のなさそうな木の箱を引っ張って来ました。キャリーケースほどの車輪がついた大きなそれは、蝶番を開けてぱかっと開くと、中にぎっしり絵の具や液体、パレットや画材が入っていました。

 

「これは……?」

「入浴用のシャンプーやボディーソープに混ぜるのは初めてだけど、多分うまくいくと思うわ」

 

 そう言いながら、ぽいぽいと何種類かの薬品を傍の浴槽へ放り込み始めました。それも瓶ごと。あっと思って人形が見ているうちに、浴槽の水は瞬く間に色を変えて、紫になったり赤になったり、魔女の窯のようにぼこぼこと泡を立てながら、七色に光って渦を巻き始めました。別にどうなったっていいけれど、これに漬けられたらどんなことになるのだろうと、人形はぼんやり考えていました。

 でも結果として、それは大成功だったのです。

 お嬢様に魔法を使って洗い上げられた人形は、肌も本来の艶と柔らかさを取り戻し、瞳は澱みが消えてシャンパンのような金色になり、それに何より、あれほど頑固に汚れがこびり付いていたゴワゴワの髪から、墨が水に溶け出るようにして色が出て行ったのです。

 お嬢様が、大変な魔法の使い手であることがうかがえました。何しろ、人形にとってこびりついた色というのは、今までの呪いや咎の象徴です。それを受け入れ、何も聞かずに綺麗に全部洗い流してしまったのですから。

 そして色が落ちて真っ白になった髪を、まっすぐに櫛で整えながら、お嬢様は言いました。

 

「これ、どうしたらいいかしら。何か染めて欲しい色はある?」

「……」

 

 人形は、首を傾げることしかできませんでした。

 自分の意思を聞かれたことが、あまりに長い間ありませんでしたので、ぱっと何色がいいかと聞かれても、すぐには思いつかなかったのです。

 体を拭き、自分と同じそっくり揃いのワンピースを当てがいながら、お嬢様はあちこち服を捲って言いました。

 

「あとは、繕いで目立つ破れや傷を直さないとね。でもそうすれば、表に出て走り回っても問題ないくらい、まあまあ綺麗になると思うわ」

「……」

「貴女がどういう経緯でここへ来たのかは知らないけれど、私は貴女自身の物語に興味があるの。

貴女、『自分』というものを持っていて?」

「……よく、わかりません。人から人に移される度、目も髪も体も、持ち主の好み通りに変えられ、『誰か』として望み通りの振る舞いを求められてきました。でも、ワタシは誰からも愛してもらえないのです。だから、それが正解じゃなかったかもしれないのです」

「そうなる前に、なりたかった貴女がいるんじゃないのかしら。私は、貴女になにも求めはしないわ。助けたのは興味本位だけれど、だからって何をして欲しいってわけでもないから、好きに振る舞っていてくれていいのよ。

あるでしょう、一つぐらい。自分が好きなものとか、趣味とか」

 

 記憶がない人形には、答えられません。

 いえ、正確には幾らかあるのですが、悲しい出来事に記憶が塗り潰されてしまった今では、呪いの人形としての自分に、そんなことが許されるとは思っていなかったのです。

 「愛されたい」という思いの他に興味はなく、その為なら何でも簡単に捨て、何にでも取り入って生きてきたのが、この人形なのでした。

 

「たとえパーツを全部外され入れ替えられたとしても、人形にだって自己同一性というものはあるはずでしょう。

あなたは一体何者なの?」

「ワタシは……何者……」

 

 ふっと緩んだ薄紫の瞳が、まっすぐに見つめていました。

 他の誰のためでもなく、自分自身に向き合わせようとする、その少女の言葉は闇に差し込む光のように輝き、人形のことを照らしました。そして、確かに人形の心を変えたのです。

 

「まあ、答えられないならいいわ。今がないなら、これから先作っていけばいいだけの話だもの。過去がないのは大した問題にならないわね。

ところであなた、どうする? 私は自己満足で汚れた人形の手入れをしただけだから、戻りたければあの部屋に戻ろうと、この屋敷を出ようと、好きにしてくれて構わないのだけど」

「あの……アナタは、この屋敷の人間なのですかっ」

「ええ。だから、あなたの意志は尊重するけれど、できれば残ってくれたら助かるわね。

私、退屈していたの。遊び相手がいないのよ。誰も私に、近寄ろうとしないんですもの」

 

 見た目にそぐわぬひどく大人びた少女に、人形は何か似たものを覚えました。

 人形ではないけれど同い年くらいで、美しいのにどこか陰のある、そして何より、気まぐれであっても自分を助けて手を差し伸べてくれた存在に、懐かずにはいられなかったのです。

 

「ワタシ、ここにっ! ここに残ります! それで、お嬢様のお世話をさせてくださいっ!」

「お嬢様じゃなくていいって言ってるじゃない。

私はルナ。ルナ・プリムローズ。このプリムローズ家の次期当主で……将来、宮廷魔法画家になる者よ」

 

 不敵に放たれた聞き覚えのない言葉に、人形は首を傾げました。

 

「宮廷……画家……?」

「まあ、それはおいおい。うちは絵描きの家系なのよ。

それより貴女。名前がないなら、貴女の名前を決めないとね」

「名前なんていいです。恐れ多いですし」

「いいから、言うことを聞きなさい。貴女、今日から私の側仕え兼友人になるのよ」

 

 人形はびっくりしました。いきなり何の素性もわからない者を、位の高そうなお嬢様の側仕えに召し上げて、文句は言われないのでしょうか。

 何がいいかとぶつぶつ言い始めるお嬢様に向かって、人形はふと、小さく唇を動かしました。

 

「……ルーナ」

「え?」

「ワタシ、お嬢様と同じ名前がいいですっ! でも、同じだとどっちがどっちだか、わからなくなっちゃうので……お嬢様のわかるように、分けて貰えれば……」

 

 もぞもぞと小さくなる人形の前で 、お嬢様はあっけに取られてから、楽しそうに声を上げて笑い始めました。

 

「あはは……うふふふふっ! それ、いいわ。私はルナで、貴女はルーナ。まるで双子みたいじゃない? 使用人達にもそう紹介することにするわ。

これからよろしくね、ルーナ。私のことは、ルナと呼びなさい」

「はいっ、ルナ!」

 

 並んでいる二人の姿は、まるで金色の月と銀色の月のように見えたかもしれません。

 こうして、新しい居場所でルナに作法を叩き込まれ、育て上げられた人形ことルーナは、やがてどこへ出しても恥ずかしくないルナ直近の側仕えとなり、立ち居振る舞いもますますルナに似ていきました。

 けれどそれは、相手の為や自分の為に似せようというつもりではなく、ただただ仲の良い者同士が、傍にいてなんとなく波長が合ったり、互いに好みが同じだったり、癖が一緒だったり……互いに蝕むことも奪い合うこともない、そんな穏やかな同化でした。

 あの家を出て以来、ほとんど初めて、ルーナは幸せと呼べる時間を手に入れたのです。

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